第2次ウィーン包囲戦。作者不明「ウィーンの包囲と解放 1683年9月」、

ウィーン軍事史博物館。©Wikimedia.

 

 

 

 

 


【24】 《帝国》と「近代化」――オスマン帝国

 

 

『1800年を境に顕著になってきたのは、「世界=帝国」が衰退し、それまで亜周辺にあった「世界=経済」がそこにも深く浸透するようになったということです。〔…〕19世紀になると、西洋の列強は世界帝国の周辺部に入りこみ、それを植民地化するようになった。〔…〕世界帝国は、世界=経済から生じた世界資本主義によって内からも外からも破られて衰退していきました。そして「民族自決」、つまり国民国家への分解の道をたどった。しかし、帝国は最後まで、さまざまなかたちで抵抗しました。〔…〕そこには、近代西洋の資本主義と国民国家の観念を疑い、それらを超えようとする志向があったのです。私はそのなかで、オスマン清朝、そしてロシアのケースを取りあげます。

 

 オスマン帝国〔1299-1922〕は 1683年、第2次ウィーン包囲に失敗した〔↑トップ画参照――ギトン註〕のを境に衰退しはじめました。〔…〕1718年、セルビアやボスニアの北部を失い、18世紀後半にはロシア帝国の南下によって黒海の北岸を喪失した。〔…〕

 

 オスマン王朝はそのような趨勢に対して手を拱 こまね いていただけではありません。1808年に即位したマフムトⅡ世は、旧来の軍事システム(イェニチェリ)を廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して、中央政府を近代化させ、留学生を派遣して人材を育成しました。〔…〕次の皇帝アブデュルメジドⅠ世も、行政から軍事,文化にいたるまで西欧的体制への転換をはかった。

 

 帝国が「近代化」するのは簡単ではありません。「近代国家」はそもそも帝国が存在しなかったところに形成されたシステムであり、その諸原理を帝国に適用することに無理があるのです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.176-178.  

 

 

 以下、オスマン帝国(中心部および周辺諸地域)の解体と「近代化」の過程を、6つのフェイズ(局面)に分けて概観します。最後の局面は、現代の中東戦争と「イスラム主義」です。

 

 「近代化」の最初のいくつかの局面は、世界のどの《帝国》にも共通します。第1フェイズは、↑上のような・政府主導の「近代化」「西欧化」の動きです。中央行政機構の改編、西洋式軍隊の創設、留学生の派遣などを押し進めますが、いずれも、西欧ですでに出来上がったものの輸入・移植であり、“外面的” 模倣が優先されて、“なかみ” の理解・摂取は後回しにされます。東アジアでは、中国朝の「洋務運動」,朝鮮王朝の「開化運動」、日本の「文明開化」、みな同じ特徴をもっています。

 

 第2の局面は、「分離独立」。「帝国の弱体の結果、多くの民族が独立を要求するようにな」ったことです。オスマン帝国の場合には、ギリシャ人の独立運動→ギリシャ王国の独立〔1830年〕が嚆矢で、その後「エジプトやバルカンの諸民族が〔…〕つぎつぎと自治ないし独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア〔現トルコ本土〕,アラブ地域だけになりました。」

 

 

ギリシャ独立戦争。ゲオルク・ペルルベルク「アクロポリス包囲戦」©Wikimedia. 

1822年オスマン帝国海軍を撃破したギリシャ火船軍は、6月アテネの

アクロポリスを占領した。

 

 

 第3の局面は「再統合」です。‥「このような帝国衰退の下で、オスマン帝国を国民国家として統合することが課題となったわけです。」「多民族を一つの国民(ネーション)にするには、どうすればよいのか。それを考えたのが、」オスマン帝国「近代化」の使命を帯びて西欧に留学した官僚たち、「ナームク・ケマルズィヤー・パシャらです。彼らは自らを[新オスマン人]と呼びはじめました。」この「新オスマン人」というのは、トルコ人,イラン人,アラブ人といったエスニシティ〔国家・国籍と無関係な意味での血統的・文化的「民族」〕を超える概念です。つまり、彼らは「オスマン帝国」民という一つのネーション、諸民族を包摂する「国民」を創出しようとしたのです。

 

 しかし、彼らがめざしたのは、《帝国》を否定して西欧的な「国民国家」になってしまうことではなかった。この段階になると、たんなる西欧の模倣ではない局面が現れてくるのです。「彼らが考えたのは、〔…〕近代化をめざす一方で、同時に西洋の近代国家と資本主義を超克することです。」(p.178.)

 


『たとえば彼らは、オスマン帝国の改革の鍵を議会制に求めました。しかし、それは西洋の借り物ではない。イスラム国家はその最初期では議会制をとっていたのだから、それを取り戻せばよいと考えたのです。また、彼らは近代西洋の思想に対抗する原理をイスラム法(シャリーヤ)に求めようとしました。現在、イスラム圏で支配的な「イスラム主義」は昔からあるように見えますが、近代の資本=国家に対抗する理念としてのそれは、この時期に形成されたものです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.178-179.  

 

 

 このように、西欧に倣った「近代化」が求められる一方で、伝統的な制度・思想の再評価、いわば西欧化に対する反発と抵抗の動きが強く起きてくる背景には、西欧諸国との貿易を通じて進行する「半植民地化」の事態がありました。「オスマン帝国では、貿易拡大とともに経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業のモノカルチャー化が進んだため、経済面で半植民地化していった。ゆえに、外からの軍事的・外交的な圧力によってではなく、内部において帝国の経済的基盤が解体されたのである。」(p.314(4).)

 


『[新オスマン人]が考えたのは、憲政を実現するとともに同時に、帝国にあった原理を再活用することです。しかし現実には、事態は彼らが考えたのとは逆の方向に進行しました。


 たとえば、1876年に発布された帝国憲法〔「ミドハト憲法」。アジア最初の憲法として著名――ギトン註〕では、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等〔※〕が定められました。しかし、それ以前』の状態でも、『たんに不平等に扱われていたわけではない。いわば、不平等を前提にした上での平等と寛容〔※〕があったのです。〔…〕ところが、近代国家のように万人を形式的に平等にすると、かえって不平等が生じ、宗教的寛容も無くなってしまった。こうして、憲法で法的平等が規定されたあとに、民族・宗教間の差別や対立が激化したのです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,p.179.  

 註※「臣民としての完全な平等」と、イスラム法の「不平等を前提とした平等」: イスラム法の下では、非ムスリムは、ムスリムにはない人頭税の支払義務を負っていたが、人頭税さえ支払えば宗教は自由で、しかもムスリムが負う兵役は課せられなかった。これは、「交換様式B(服従と保護)にもとづく帝国の原理です」。ウェーバー/大塚久雄によれば、前者の「近代法の下の平等」は「形式的平等」原理であり、後者はアジア的「実質的平等」原理。

 

 

ミドハト憲法。第1回オスマン帝国議会の開会を宣言するアブデュルハミドⅡ世

「絵入りロンドンニュース」1877年4月。©Wikimedia.

 

 


【25】 《帝国》と「近代化」――

オスマン帝国の崩壊とアラブ,パレスティナ

 

 

 第3の局面は「ナショナリズム」の抬頭です。第2局面の「新オスマン人」は、「トルコ民族」といった種族的なまとまりを主張しませんでした。西欧模倣の「近代化」と「立憲」政治を進める以外は、目標とするのはもっぱら伝統的・民族横断的な「イスラム法」秩序だったのです。

 

 ところが、19世紀末から活動する「青年トルコ党」は、みずから「青年トルコ」を名乗り、トルコ人ナショナリズムを前面に打ち出しました。そのかわりに、イスラムに関わらない非宗教的運動です。彼らもまた「立憲」政治を主張しましたが、帝権の反動化に対応して、より激しく “下から” の運動として闘われました。東アジアで言えば、日本の「自由民権運動」、朝鮮の金玉均朝の康有為らの「変法」運動が想起されます。


 

 1876年の『憲法は、2年後にロシアとの戦争に敗れたため、アブデュルハミトⅡ世によって停止されました。その後は皇帝の専制政治に対して憲政を要求する運動が続いた。〔…〕それを進めたのは〔…〕「青年トルコ」を名乗る者たちで〔…〕非宗教的な運動であった。そこにナショナリズムが成立します。ただしそれはトルコ人としてのナショナリズムであり』他方ではそれに対抗して『アラブのナショナリズムが生まれた。アラブ人という意識は、それまで存在しなかったのです。また、この時期、アラブのナショナリズムはオスマン帝国の枠組みを前提としていました。つまり、帝国を解体することなど考えていなかったのです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.179-180.  

 

 

 第4の局面は、第1次大戦後に西欧の主導で起きた「民族自決」です。そのなかでトルコは共和国となり、オスマン帝国は解体されます。しかし、西アジアでの「民族自決」は、不徹底で、しかも本来の趣旨とは懸け離れた結果をもたらしたのです。

 

 

『アナトリア地域ではムスタファ・ケマル・アタテュルクを初代大統領とするトルコ共和国が成立した、しかし、その他の地域は、民族自決と言いながら英仏の委任統治の下にありました。英仏は、オスマンの版図を好きなように分割しただけです。その結果、人口の多いクルド人が国を持たないことになった。第2次大戦後には諸民族は独立しましたが、実質的に英・仏・米の支配下にあります。

 

 オスマン帝国にいた多数の民族は、民族自決によって分断され、かえって自律性をなくしたのです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,p180.  

 

 

 第5の局面は、第2次大戦後の「アラブ連盟」です。それは、オスマン帝国の解体によって消滅した「帝国の原理」を回復する試みであったと言えます。ところが、「資本=ネーション=国家」を至上の “価値” としてこれを世界に押し付けようとする米国とその同盟諸国(田中政権以前の日本をふくむ)の策動によって、この企図は挫折しました。



「第三世界」。1963年12月、中国を訪問したエジプト・ナセル大統領。迎える

周恩来首相(左)と王毅中央軍事委員(右)。©『人民画報』/Wikimedia.



『アラブの諸民族は、帝国時代にあった連合性を別の形で求めるようになりました。それを示すのが、エジプトの大統領ナセルをリーダーとするアラブ連盟です。これはたんにアラブ人を連合するだけではなく、さらに「第三世界」というグローバルな連合体をめざすものです。〔…〕

 

 しかし、アラブ連盟もまったく新たなものではありません。ある意味で、「新オスマン人」がそのようなものを考えていたからです。つまりアラブ連盟とは、諸国家連合という形で帝国を回復する企画だということができます。


 第1次大戦後パレスティナを信託統治したイギリスは、それをユダヤ人の国家とするつもりはありませんでした。また、旧オスマンの地域では、基本的にユダヤ人とアラブ人の対立は無かったのです。それに対して、第2次大戦後は米国が中東に介入し、シオニストを支援し、イスラエルを中東における橋頭堡としました。これは、ヨーロッパに固有であり且つ責任のある「ユダヤ人問題」を、何もなかった中東に “転移” することです。同時に、それによって、旧オスマン地域の(ユダヤ人をふくむ)諸民族の連合を阻止することです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.180-181.  

 

 

 こうして、現在につながる第6の局面は「イスラム主義」となります。

 


『非宗教的な連合体であったアラブ連盟は、1967年第3次中東戦争でイスラエルに敗北し、以後「イスラム主義」に依拠するようになりました。それによって「第三世界」というプロジェクトは終ったと言えるでしょう。さらに 1979年イランでシーア派によるイスラム革命があって』以来、『アラブの世俗的〔非宗教的――ギトン註〕なナショナリズムはイスラム主義に取って代わられた。

 

 しかし、これも〔…〕新しいものではありません。近代西洋の国家と資本主義に対抗するものとしてイスラム主義を考えたのは、新オスマン人でした。ただ、それは現在のような宗教的原理主義ではなく、「帝国の原理」であるようなイスラム主義でした。

 

 オスマン帝国の崩壊が示すのは、帝国は近代世界システムの中では存在できないということです。しかし、〔…〕そこ〔《帝国》――ギトン註〕には、近代世界システムに欠けた何かがある。従って、近代の国民国家資本主義を超える原理は、何らかの形で帝国を回復することになるのです。むろん、〔…〕古い社会・慣習とつながる帝国、あるいは帝国主義とつながる帝国を否定しなければ、帝国は回復しない。〔…〕帝国を否定しかつそれを回復すること〔…〕が必要なのです。

 

 結局、旧オスマン帝国の諸民族は、あらためてオスマン帝国に遡って考え直す必要があります。旧オスマン帝国の問題は、諸国に分散されたクルド人の問題に集約されます。たんなる民族自決によってそれを解決することはできない。解決は、旧オスマン諸民族の関係を根本的に変容することによってのみ可能です。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.181-182.  

 

 

 

1913年、「辛亥革命」(1911-12)援助の謝礼のため、熊本県荒尾村の

宮崎民蔵宅を訪れた孫文(A)と民蔵の弟宮崎滔天(B)。©荒尾市公式.

 

 


【26】 《帝国》と「近代化」――

清帝国から中華民国へ

 


 帝国の場合も、《帝国》の崩壊と「近代化」の過程は、いくつかのフェイズに分かれます。しかし、ここではとりあえず、1911年の「辛亥革命」まで、すなわち朝の崩壊までが、4つの局面として語られます。

 

 第1のフェイズは「洋務運動」、第2のフェイズは「変法自強運動」で、オスマン帝国の第1(マフムトⅡ世の西欧化政策),第3(「新オスマン人」運動)に、それぞれ相当します。

 


『1840年〔1842年の誤り――ギトン註〕アヘン戦争での敗北のあと朝は改革を開始し、洋務運動と呼ばれる西洋技術を取り入れた近代化を進めたが、法や政治制度などはそのままでした。

 

 しかし 1894年〔…〕日本との戦争で敗れたため、朝は本格的な改革に乗り出しました。その一つとして、大量の留学生を西洋ではなく日本に送りこんだのです。西洋化=近代化を、日本の経験を通して学ぼうとしたわけです。

 

 1898年には、朝の光緒帝康有為を登用し、政治改革を断行しようとしました。康有為を中心に梁啓超らが「変法自強運動」と呼ばれる改革に取り組んだのですが、〔…〕西太后のクーデターによって粉砕されました。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.182-183.  

 

 

 オスマン帝国で、「新オスマン人」の立憲改革が、わずか2年で守旧派の抬頭,憲法停止によって頓挫したのとよく似ています。西太后は光緒帝の母方の叔母でしたが、自分と親族関係の近い光緒帝を強引に帝位に就けてしまうほどの実力者でした。クーデター(戊戌の政変)後は光緒帝を幽閉して自分が守旧政治を執りました。折から西洋人にテロルを敢行した宗教団体「義和団」を支持して列強に宣戦布告し敗北、莫大な賠償金を課せられるという大失態を演じています。

 

 「義和団」は、法華仏教の流れを汲むカンフー武闘組織で、「扶清滅洋」――日本の「尊王攘夷」にあたる――を掲げて外交官・外国人・キリスト教徒を襲撃し、鉄道・電線・街灯を破壊する排斥運動を行ないました。結果として、列強の軍事介入を招いたわけですが、「義和団」の活動は、中国民衆からは支持されていたと言ってよいのです。彼らのテロルが民衆の支持を集めるほど、列強による経済侵略と「半植民地化」は、当時もはや誰の眼にも明らかになっていたと言えます。

 

 しかし、結果として朝が列強に屈服したことは、中国国内的に、王朝の権威を失墜させる効果をもったと思われます。この頃から、人口の大部分を占める漢人の・王朝に対する革命運動が活発になります。すなわち、第3フェイズ:ナショナリズムの抬頭です。

 

 もっとも、革命がいちおう成功して朝が倒れた「辛亥革命」において、革命指導者孫文は、ナショナリズムを離れて「五族共和」を唱えるにいたっています。これが、第4のフェイズです。

 

 中国では、トルコとは異なって、狭いエスニシティの枠を超えて「中華」ネーションを形成する方向に、途中から転換してゆくのです。その結果、中国は、チベット,満州,内モンゴル,ウイグルなどの多様な住民を包摂し、広大な領域を維持しつつ近代国家を建設するという・たいへん厄介な課題を背負いこむことになったとも言えます。

 

 

義和団事件。「義和団」の兵士。1900年頃。©Wikimedia.

刀剣と小銃で武装しているが、彼らの本領は手拳(カンフー)だった。

 

 

孫文も、最初は反満州族ナショナリズムに訴えていたのですが、やがて考えを改めた。一つには、朝を全体として受け継ぐのでなければ、中国における「革命」の正統性が無いからです。


 1911年の辛亥革命において、孫文は「五族共和」を訴えました。さらに、〔…〕1924年の「三民主義」では、「一つの中華民族」を言うようになった。それまで〔…〕民族と訳されて』いたネーションを、孫文〔…〕「国族」と訳し変えた。漢族でも、満州族でも、ウイグル族でもない・国族は、ちょうど「新オスマン人」に対応するものです。』

柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.183-184.  

 

 

 ところで、以上の4つの局面のなかで、《帝国》の原理に注目する柄谷氏が特に取り上げるのは、ナショナリズム(第3局面)や・拡張された国民国家の形成(第4局面)よりも、それ以前のフェイズ2:すなわち、異民族王朝朝の支配を肯定したうえで、《帝国》のもとでの変革をめざした「変法自強」の思想家たちなのです。具体的には、康有為,厳復,梁啓超,章炳麟らです。

 

 

『彼らはたんに「西洋化」をはかったわけではありません。たとえば、康有為朝を立憲君主制にすることを提唱しましたが、単に西洋の思想や制度を導入するのではなく、それを中国の伝統を読み変えることによってなそうとしました。〔…〕孔子を先駆的な進歩主義者と解し、帝国を基礎づけた董仲舒の儒学を再評価するものです。また、康有為はとりあえず立憲君主制を提唱したけれども、はるかその先を考えていました。すなわち、諸国家・諸民族が消滅するような「大同世界」を考えたのです。〔…〕

 

 康有為は、国境が廃され、中国と夷狄の区別がなくなり、人類同胞の世界が実現される世界を、大同世界と呼んだ。「大同」は儒教の概念である。それは、「大道が行なわれ、天下を公とし、万人平等にして争いなき地」(『礼記』)である。その反対が「小康」=「大道が隠れ、天下を私せんと争い、礼儀を立て君権の行われる世」である。〔…〕康有為は、儒教にもとづいたというより、儒教を普遍化しようとしたと言える。〔…〕

 

 康有為朝末期の思想家の仕事は、現にある帝国を否定しつつ、〔…〕その可能性を高次元で回復しようとするものだったと言えます。康有為の「大同世界」というヴィジョンもそのようなものです。それはいわば、帝国を “揚棄” するものです。〔…〕

 

 もしこのような理念がなければ、朝を倒す革命運動は、民族自決、したがって多民族の分解に帰結したでしょう。』

柄谷行人『帝国の構造』,岩波現代文庫,pp.184-185,314-315(7).  



 つまり、康有為らの思想は、「近代国家」すなわち「資本=ネーション=国家」をめざすものではなく、むしろその対極にある《帝国》の原理を理想化・普遍化しようとするものであったと言えます。近代的国民国家を目標とする代わりに、《帝国》の原理を高次元で回復しようとした場合、その究極理念は、カントの「永遠平和」「世界共和国」に非常に近いものとなる‥‥これは、たいへんに興味深いことです。

 

 しかし、それ以上に興味深いのは、じつはカントの「永遠平和」の思想は、中国から宣教師を通じて西洋に伝えられた「帝国の原理」に基いている‥‥具体的には、中国に滞在するイエズス会士と文通していたライプニッツを通じて、カントに伝えられたことです。


 次回は、そこから始めます。

 

 

 

 

 

 

こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

 

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