レビュー
今回の主演は、道鏡です。非常にやる気に満ち溢れた感じの人物像です。
(『まんが日本史』より、弓削道鏡)
助演は、その道鏡を気に入って引き上げていく孝謙上皇、のちに重祚して称徳天皇です。
(『まんが日本史』より孝謙上皇=称徳天皇)
聖武天皇と光明皇后により、平和をもたらすための文教を取り入れた国政として、国分寺の建立や奈良の大仏建立などが進められましたが、二人の子で女帝の孝謙天皇と次の代の淳仁天皇時代でも各地で不作が続き、餓死者が出るなど庶民の生活は疲弊していました。
そのような中で現れたのが、弓削道鏡で、先祖は弓を制作する豪族の弓削氏でした。若き頃から僧としての勉学と修行に励み、庶民からも慕われる僧として名を馳せることになり、ついには内道場(宮中の仏殿)に入ることを許されます。
(『まんが日本史』より、庶民に慕われる道鏡と、内道場入りした道鏡)
ここで、道鏡が大きく飛躍していくきっかけが登場します。
761(天平宝字5)年、近江国保良宮にて、病に臥せっていた孝謙上皇の看病のために付き添うことになり、祈祷に薬の配合に対応して、孝謙上皇が回復して、その信頼を勝ち得ます。
※当時、平城京が都でしたが改修工事のために、一時的に近江国保良宮に移っていました。
(『まんが日本史』より、孝謙上皇と道鏡)
淳仁天皇と藤原仲麻呂は、孝謙上皇が道鏡を重く用いることに意見します。
(『まんが日本史』より、淳仁天皇と藤原仲麻呂、怒って政治の実権を奪う孝謙上皇)
度重なる淳仁天皇の道鏡に関する批判的な意見に、怒った孝謙上皇は政治の実権を淳仁天皇と藤原仲麻呂から奪います。道鏡はさらに重用されて、一族も用いられ始めます。
764(天平宝字8)年、この状況に業を煮やした藤原仲麻呂(恵美押勝)は、反乱を企てますが、孝謙上皇に命じられた吉備真備率いる朝廷軍にあっさりと鎮圧されてしまいます。
(『まんが日本史』より、反乱を計画する藤原仲麻呂と重祚した称徳天皇)
淳仁天皇は廃位されて淡路島に流されます。
退位して上皇となっていた孝謙上皇は、再び天皇に即位(重祚)して、称徳天皇となります。
765(天平神護元)年、道鏡は太政大臣禅師に、翌年には法王になります。
ここで驚きの話が持ち上がります。のちに「宇佐八幡宮信託事件」です。
称徳天皇は独身なので、次の天皇は誰というのが課題としてありました。
宇佐八幡宮から、道鏡を皇位に即位させれば天下泰平となるという神託が届けられます。
(『まんが日本史』より、和気広虫(姉)を介しての道鏡を即位させる神託話と、宇佐八幡宮に派遣される弟の和気清麻呂)
称徳天皇も道鏡を即位させたい気持ちを抱いていましたが、とはいえ皇族でもないので悩み、もう一度、宇佐八幡宮に神託を得るための使者を派遣することにし、和気広虫に依頼しますが、和気広虫は弟の和気清麻呂を提案して彼が派遣されます。
和気清麻呂は、道鏡からは自分を即位させる神託を、藤原百川からは道鏡の即位を認めない神託をとそれぞれから圧力をかけられます。道鏡(僧)と藤原一族(貴族)の対立が激化している状況が分かります。
宇佐八幡宮で和気清麻呂が得た信託は、道鏡を即位させるなという内容で、和気清麻呂は称徳天皇、道鏡、藤原百川らの前でそれを報告します。このことに激怒した道鏡は、称徳天皇を通じて和気広虫・和気清麻呂を遠流にします。
その後、病に倒れた称徳天皇は、770(宝亀元)年に崩御、後ろ盾を失った道鏡もこの状況に野心をあきらめます。
光仁天皇が即位し、道鏡は下野国の薬師寺に左遷されます。
(『まんが日本史』より、左遷される道鏡)
左遷される道鏡を見送りながら、残念がる庶民ですが、一方で誰が天皇になろうとも自分たちの生活が楽になることなどないから働こうと、冷めた見方も描かれていました。
同時代頃の世界史
中国では唐王朝の時代で、安禄山と史思明の二人が755年に反乱(安史の乱)を起こし、二人とも暗殺されて、763年と7年以上に及ぶ反乱が終わったとのことです。
ヨーロッパでは、フランク王国が現在のフランスくらいの領域から、さらに国土を広げていく状況であることが説明されました。