シン・エヴァンゲリオンのおかげで学生時代の友達に連絡を○年ぶりに入れた
シン・エヴァンゲリオンを見ました。エヴァに関してはアニメ、旧劇を後から見たタイプの人間です。一応アニメを一通り見て、貞本義行先生の漫画、鋼鉄のガールフレンドやエヴァ2もやったりしました。二次創作系に関しても片足突っ込んでたのでLASとかLRSとかの単語を知っています。
「リアタイ」ではないけれど――という条件がつくのと、熱量がすごくあるのかって言われるとそういうわけでもないような、「すごい作品だと思う」のと、それと同時に「自分がずっと考えながら組み立てて自分なりの答えを探す作品」としてこの作品について思いを抱えていました。
そんなシリーズが、ついに完結を迎える。なんだか感慨深いですね。
映画に足を運んだ感想と、自分語りをそれぞれ交えながらつらつらと。
なお、ネタバレはバリバリしているのでご注意ください。
映画の感想
「うまくまとめたなぁ」という気持ちが一番にやってきたのと、同時にじわじわと侵食していく「ああ、そうか終わるのか」というなんとも言えぬ気持ちで染まりました。
破で「なんかすごい違う展開がくるぞ!」のワクワクがあって、Qで「こっちがQだよ!!!!!!!!!」となるほど分からないって頭を抱えていて(まあまあ自分の中でトラウマになった)そんな中で、シンという形で再三待たされながらも形になるとは思っていませんでした。何年も要していたし、正直本当にやるのか、月姫リメイクのようにやるとはいったよ方式ではないだろうか――なんても思ってました。
そうしたら月姫もちゃんと展開があって驚いています。メルブラも出るって聞いてゲーセン通ってた時代が懐かしく感じます。
映像としてとても美しかったのはもちろんなんですが、他の考察サイトなどを見て回りながら「ああそうか」となったりしつつも、自分の中ではやっぱりエヴァって「人間讃歌」みたいな部分があるのかなって印象でした。どんなことをしてもどういう結論になっても最終的に「あなたが生きた証」みたいに自分では感じました。
人は選択していくからこその成長するものなのかもしれない
今回第三村として「一般人」がよりしっかり出てきました。トウジ、ケンスケ、ヒカリ。嘗ての同級生たちが成長しながら、「成長せざるを得なくなった」選択肢の中で自分だけが守られている、自分がしてしまったことの重さを抱えながらうずくまるシンジに対して見守る形でそばにいます。ヒカリの義父が納得行かない態度を撮っているのも分かるし、それでも待てるトウジたちの状況は(この状況がどういう流れなのかを、全く知らないわけではない)という前提がはいってくるのだと思います。言えない、言わない。
ヒカリとアヤナミレイの会話「おはよう」「おやすみ」「さようなら」「ありがとう」という言葉のおまじないが本当に暖かくて、また、第三村の人々とのコミュニケーションを取り、だんだんアヤナミレイが”綾波レイ”だけどそうではない彼女だから経験したことが増えていくのが愛しくてたまりませんでした。
柔らかく笑って、当初からインプットされていたという「好意を抱く」ものがあったとして、それをも肯定した上で「自らの考え」を持っていくというのは優しくてほろ苦かったです。二番目のレイ(破)とも違う、彼女だからこその部分ではないでしょうか。その上でシンジが「綾波は綾波だから」という肯定的な言葉をあげているのがとても彼女にとっての救いにも感じられました。
ネルフで生きていなくても、自分は自分。自己肯定になったし、それでLCLで解けてしまっても、の流れは儚くも美しいものがありました。そういえば破で「今日の日はさようなら」を林原めぐみさんが歌っていましたね。「明日はもっとよくなりますように、のおまじない」として今一度みたらきっと考えが少し変わりそうだな――なんて考えています。
ケンスケとアスカのくだりの「ただ頭をなでてほしかった」のイマジナリーケンスケが「アスカ」と呼んでいて(それまでずっと「式波」と言っていたのを指摘されている方がいてこれもヒエッとなった)、彼女が一人だったからこその救済としていてくれて、それは嘗て惣流アスカが加持さんに向けていたものとも「ちょっと」違うなにかなんですよね。恋愛じゃないかもしれない、でも「大切」な気持ちであったらいいなと思うし、ケンスケもほどよい関係で彼女とのやり取りをしているのが好きでした。
ケンスケはエヴァ2の内容では加持さんと同じように真実に近くなっていくお話でしたし……(そしてその上でとてつもなくやるせない、彼が「父と子」であるのにも関わらず蚊帳の外であるという「一般人」であることが切ない)だからこその、トウジのくだりと、シンジとの関係がアニメで変わっていったことにも心苦しいものがいっぱいでした。考えてみれば、だからこそ「式波」というアスカでありながら惣流アスカではない彼女が、「加持リョウジ」ではなく”一人で生きていける”がゆえの「母親」でもなく「父親」でもなく――「落ち着くもの」としてケンスケになったのは類する部分もあったところもありますし(なんとなく話し方や、穏やかさなど見ててちょっと似てる部分がありますよね。ケンスケ、加持さん師事してる部分あります)でも、「惣流アスカ」ではない、式波だから選んだものでもあってほしいなあと思います。
エヴァ2エンディングだとゲンドウプレーの「釣りエンド」が好きです。まさか本当に釣りするとか……思わないじゃん……。
そこにあるのは、アヤナミレイと同じようにたくさんのアスカの可能性。最終的にクローンタイプだったとしても、そこに生まれた感情は「彼女一人ひとりのもの」であってくれたらな~~なんていうように思います。
ループ世界の自分が捉えた印象
ループしている、という点に関しては序の頃から言われていた部分もあったのですが、個人的に本当に本当に本当に驚いたのは旧劇のあのアスカのこともシンジが「好きだった」と肯定して、あの二人しかいない(ただ、みんながだんだんとゆっくり目覚めるであろう世界)でのラストの台詞からも含めて「好き」という感情について認め合うところにびっくりしました。
いやもう完全にある種別物だったと思っていたので……だからこその渚カヲルという存在についての救済も嬉しかったですね。最後の最後まで心に傷を与えたまま逝くな君は!!と思っていたから……そうすることで「自ら」が救われたかったんだ、という言葉がシンジではなく加持さんが言うというのも「大人」だからこその目線としての距離感が生まれているがゆえの言葉だったんだろうな。
そして、繰り返す――というと派生とは承知の上ですがパチンコのエヴァンゲリオンの曲で集結の運命をふと思い出しました。「繰り返す」からこそのパチンコや派生もまた“可能性”の一つだったのかな~とか、そんなことを思います。
誰か僕に優しくしてよ、の頃から「どうしてみんな僕に優しくするんだ」の対比も思い出す部分でもあり、「好きだから」という言葉が、ただただ抱えるのに苦しすぎるものを背負ったシンジにとっての柔らかいなにかになったんだろう――とも。
一人ひとりが手を伸ばして、その上で、自分から立とうとするシンジは破のときの真っ直ぐさを持っているし、その上で式波アスカ(あの段階では惣流アスカになっているという指摘もあったのが興味深いですね)との言葉とか。でも同時にアスカがアスカとして「いつかのお弁当」のお礼をいうのも「そうだね言えてなかったもんね」みたいなあったかさを感じます。
ヤマアラシのジレンマという言葉をこの作品で覚えましたが、ヤマアラシではなく、彼らは人間で、手を取り合えるし距離も自ら図れるようになってきているのだなぁと温かい気持ちになりましたね!!
マリの描写に関して、「安野モヨコ氏」という指摘も多く見られますし、また実際にエヴァの世界観にもともと「いた」(貞エヴァの中での描写)けれどもここまでがっつりかんで変わっていく人間として手を「差し出してくれた」というのが庵野さんご自身の変化なのかなとも思いました。生きていることを肯定するというか、進んでいくことも悪くない、というか――……。
なにかに「な」ること
一番印象が変わったのはミサトさんですかね。根本的なゴリ押し脳筋スタイルが変わっていなくて安心もしたんですが(笑)父親の背中を見て、その上で自分が母親になった中で「何も子どもにしてやれない」というジレンマを抱えながら、最終的にああいう決断をとれたこと、また、シンジを守るために選択がとれたこともかっこよかったです。
加持さんとのやり取りに関しては完全にピンキーとキラーズの「恋の季節」の通りになったなとも思います(笑)時期的にあの居酒屋さんの後だったんでしょうか。
ミサトさんと加持さんに関しては「一緒に死にたかった」というのは、加持さんがある意味アニメでも一人で勝手に真相を追求して、そして死んでいったし、今回の場合は「自ら」死ぬことでミサトさんやまだ見ぬ自分の子、そして周りを助けていったのがまたなんとも…。
あの段階で加持さんは自らの命をわけた存在がいることを知っていたのかなぁとか考えさせられます。知っていたのだとしたらとことん「このひとはよぉ~~~~~~~~~」ってなるんですが(それでも選択を曲げないところもらしいとは思いますが)守りたかったのは誰もが同じなのだろうな……とも考えます。
息子であるリョウジは、彼らの遺伝子がっつり受け継いでいますの上でのたくましく生きていく姿は加持さんから残されたものを抱えながら、会うことができないなかでミサトさんの「生きていく理由」の一つになっていったんだろうな~っていう意味ではエヴァンゲリオンにおける「父と子」そして「母と子」の流れを思い出しました。
冬月先生とゲンドウとユイ。この三人の流れってミサトさんとリツコさんと加持さんにもちょっと似ていて、ミサトさんにしろゲンドウにしろ一歩間違えると本当にどうなるかわからないというものがあり――そりゃほっとけないよな~~!!!と見直しても思うばかりでした。リッちゃんといえば最後の銃向けるくだりは旧劇のオマージュですかね。「いいぞ!!!やったれ!!!!」とか思ったのは内緒(笑)
諸々のオマージュが出てくる作品だからこそ(巨大綾波の下りとかですね)過去の自分が抱えていた色んなものも含めてひっくるめて救済しようというか、受け止めようとしていくように見えました。
シンジくんのあのくだり、見終わった後に「まどマギのラストでまどかが色んな所に救済にいくところと近しいものを感じた」と話していたのですが、言われてみれば確かに、だし(それがパクリとかじゃなくて「そのもの」がなくなる、という流れではお互いにしっくりきますよね。魔女という概念がなくなるまどかと、エヴァや使徒というものがなくなるシンジ。受け止め方の違いかなとも)「エヴァ」「使徒」がない世界の中で生きる彼らの世界って別の意味で大変だろうし、それでも「そうしたい」となれるの良いな~って思いました。
「英雄」と「恨む相手」の紙一重さ
作中、クルーの人々のシンジに向ける感情も昨今、Osloという舞台を見て改めて色々考えさせられていたからこその気持ちの重なりもありました。
この人がいなかったら、どうにもならなかった、けれどこの人がいたから、あの出来事がおきた。そのジレンマの象徴として、トウジの妹であるサクラっていうのも考えさせられます。一緒のクルーの子は周りの「知り合い」ではないからこその感情っていうのも絶対あるし。Osloで描かれていた中で、そこの「枠組み」ではない人々が勝手に決められたことに「納得ができるか、この怒りは、悲しみは消えないんだ」という慟哭は絶対ついてまわるだろうことも分かるし、そういう意味でエヴァを見ながら「そうだよね」「そうだよな」とうなずく箇所も多かったです。
サクラの場合、トウジはシンジをある意味見守り、そばにいてくれた第三村にて生きる存在、そして親友でもあります。旧劇と異なって彼が身体に傷なく生き延びたことといういのも大きいですし(貞エヴァだと死んでるし)……トウジがパイロットになった先の未来のことを考えるとやるせないですね。
そういう恨みつらみってどうしたって消えないし、どうしようもないってわかってる、わかっているからこその「行き場のない答え」や矛盾を人は抱えずにはいられないのだろうと思いますし、だからこを身を挺して守ったミサトのくだりに彼女の覚悟をみた気がしました。その上の「力こそパワー!!!!!!!!」でいくスタイルも好きです。届けていくのかっこよすぎる。
下車して、そして進むという考え
終わり方について真っ先に思い出したのが貞エヴァのラストでした。
アスカの立ち位置(ずっと加持さんしか見ない)がゆえの距離感、ミサトとの約束からのくだりやカヲルの立ち位置、諸々「同じキャラクター」でありつつも独自路線をいっていることは間違いないのですが、ラストが電車で、そこから歩きだしている姿の一致等も含めてポジティヴな形で終わって良かったなあとも思っています。あの世界ではないのかもしれないけれど、確実に受け止めて、歩みだしている世界というのは決して悪いものばかりではない、というような。
電車というのはエヴァにおける重要なものですし、心理描写としても描かれているからわかる部分もあるのですが……マリの描写*1といい、何かとヒントが散りばめられている(別物としては見ているのですが…)のかなとも感じました。
マリが「貞エヴァ」の世界にいて、また同時に冬月先生の持つ写真に写っていること、破での「大人を巻き込むなんて~」というくだり(ここは加持さんとの言葉の対比ですが)も含めてループしてる世界におけるイレギュラーな立ち位置として、だからこそ「迎えにいく」とシンジが選んだ先にいたというのはなかなか感慨深いものでした。
だーっと挙げていくと終わりないのですが、なぐり書きながら色んなことを考えます。
委員長(ヒカリ)は新劇場版だとアスカとは親友ではないし、その分綾波(アヤナミ)とも関わりがどんどん出来てくる。アヤナミレイが「ツグミ、もっと抱っこしたかった」という言葉にはユイの残渣みたいな”子どもを愛おしいと思う母性”があったんじゃないか、とか(と同時に「自分」がわからないという戸惑い、自分自身が子どもみたいなものですし)色々ぐるぐる周っているのですが……。
過去のエヴァについて、よくネットで見かける「こんなことしてないで現実見たほうがいい」みたいなことを伝えたいんじゃないかっていう旧劇に対する言葉があって。確かに、「なんでこんな苦しい思いをアニメで与えられながら見なくてはならないんだ?!」とか思ってた時間もあったんですが(笑)(結果、スパロボの関わる人が変わることによってシンジがどんどん考え方が変わっているというのも興味深い。これはガンダムSEED DESTINYでもあったけれど、「そこにいる世界観」「人」だからこそ生まれるものがあるからこその描写に思えます)
そういう考えでいくと、「あの頃はこうだったかもしれない。でも、自分はこれからも生きていく。そういうのも悪くないかも」という外への飛び出しとしての描写として見ていくのもよいのかなぁと。
答えがない――というか、作者の意図とかそういうのって、世に出たときに片方だけが独り歩きしていくものです。ああじゃないこうじゃない?っていうのって「受け手」の経験とか、視野とか、考え方とか色んなものが違っているから誰一人として同調はしないし「徹頭徹尾全部同じ」にはならない。重なり合うことはなくて当然なのかなあ……と(ゲンドウ風に言うと他人が怖いってなるのもわかります。人と違うことが怖いっていうのについて、私も思わないわけではないので……)ということで、作り手側のこうでこうでこういう気持ちで作っているというお話をパンフレットを読みながら考える前に自分でぶわーっと書き散らし、その上で「自分はこういうように噛み砕いたけど、こういうつもりで作ってたんだなあ」とさらに答え合わせではないですが解釈を広げていけたらいいな~~なんても思います。
で、次からが本題になります。
学生時代の友人に連絡を取りました
学生生活の頃、私がエヴァ2をプレイし直したり鋼鉄のガールフレンドについて教えてもらったり、ぷちえう゛ぁ読んだり、貞本エヴァを一緒に追ったりに至るきっかけをくれた友人がいます。新劇場版の「破」の上映期間ちょうど夏休みだったのもあって3日に一度行く、何なら一日3回見るという暴挙を学生時代一緒にやった存在です。あまり何度も何度も同じ映画をみる傾向に自分はないのですが(スパンがあければ……というかんじなんですが)恐ろしく見に行きました。
エヴァ朝一番いく→ファミレスであーでもないこーでもないと言い合いながらお昼食べる→エヴァ2回めいく→スタバでお茶しながらあーでもないこーでもない以下略→エヴァ3回目見る→ファミレスいってあーでもないこーでもないと言い合いながら夕飯食べる
こんなことをしていました。本当に何してたんだろうって自分でも思うのですが、それぐらいリアルタイムで見たことを話して「ああ~~そういう考えいいね!!」と考察にまでいかなかったとしてもぶわーっと感情をぶちまけあって「いいよねあそこのシーン」「めっちゃいい」とフラペチーノ崩して飲んでました。
そんな友人、最後に会ったのは結婚式だったのですがQが上映された頃は私も日常が忙しく(そして内容があれだったので)連絡もとれていなかったんですが。
エヴァ見終えた後の私の一番最初の行動は、このブログに書き連ねるためのふせったーを書くわけでもなく、感想ノートに感情を書きなぐるでもなく、その友人に連絡を取ることでした。
ちなみに友人はこの連絡の後に見に行ったらしく、そこから流れる流れる長文の感想合戦。完全に学生時代にファミレスで、スタバで、わーわー話していたあの頃のようなノスタルジックさと、互いに大人になったからこそのツールの活用と、日常を生きているがゆえの少しのレスポンスの遅さなども含めて「おとなになったのだなあ」と感じるものが多々ありました。
「紙一重のバッドエンドとグッドエンドが旧劇と新劇ってかんじ」という感想にうなずくばかりで、「落とし前をつける、みんなを救いたいを選択することで変わること」についてや、また、自分たちが同時学生の時分に考えていた大人と「今」おとなになっていることで見える他者(ミサトやリツコ、加持)の目線というものもまた考えるようになりました。特にミサトは母親であり司令というギリギリラインで生きていて身勝手は許されない、でも母親らしいこともできない、ただ、子どもには幸せでいて欲しいというジレンマを象徴的に描いているからこそ、お互いに「かっこよかったよね」という言葉が昔よりほんのちょっとだけ重みができたように感じます。それこそ破のときに「行きなさい」といったミサトさんの言葉が私はそりゃ~~~もう好きでして。あの展開あの台詞をぱっと言えるミサトさんの「お姉さん」としての部分、そして、今回の大事だからこその「母親」としての部分「艦長」としての部分 。諸々に挟まれながら生きようとする(その上で、加持さんが残したものを見つめる感情の部分)というのは本当になんというか…!!という気持ちになりました。
書きなぐっているうちに懐かしさを覚えて、じゃあ久しぶりに会おうよとはこのご時世柄言えないし、それぞれにそれぞれの生活がある中で、エヴァがまたつないだ縁というものはやっぱり大事にしていきたいなと思います。
ノスタルジーに浸るにはまだ速い、でいたいし、「こういう前を向くこと」も悪いことではないと思っています。ノスタルジーに浸るっていうのは月日を経て、ウイスキーやブランデーのようにどんどん美しく丸くなっていくのかなとも思うし(実際学生時代がゆえの青さみたいなのは、とっくにまろやかになっているのかもしれないけれど)自分も、友人も、またいつでも(お互いレスポンスは遅いけれど)気楽にもっと連絡が取れたら良いなぁ。そんなことを思いながらエヴァという作品に感謝するばかりです。
だんだんフェードアウトしてしまいがちな「学生時代の友人」という関係を(もちろんそうではないこともたくさんあるけれど)また結びつけてくれてありがとう。
とりあえず貞エヴァ愛蔵版購入しなおしたいし、もう一度映画も見に行きたいしオールナイトでコロナ落ち着いてからでいいからやってくれないかな~っても思ってます。4巻の表紙に諸々の意味でこのタイミングだと崩れ落ちてしまう……新しい場所でリョウジくんと一緒にすいか作っててほしいしカヲルくんがたまにひょっこり現れたって良い(あの感じだと彼自身のやりたいこと見つけてそうだけど)
予告編でシン・ウルトラマンとシン・仮面ライダーの告知あったし、まだまだ見たいことやりたいこと頑張りたいこともたくさんあるのが嬉しいですね!!エンディングで、スタッフロールとともに流れる宇多田ヒカルさんのOne Last Kiss聞きながら感慨深くなってました。
キングダムハーツといいエヴァといいどれもこれも良いですよね!!!
最後の終劇という言葉に終わってしみじみとさせられたというか、どう切り取っても100点満点!望んでたエヴァでした!!というのかどうかって人によって違うと思うし、自分にとっては「ああ、そうか、終わるのか」みたいななんとも言えぬ気持ちが未だにあるのですが(悪いとか良いとかにすら行き着いていないふわっとしているかんじ)そういう感情も含めて、エヴァに対する「今」の時分の気持ちをまた大事にしていきたいです。
*1:最終巻に新劇場版にあわせて描きおろし「夏色のエデン」が描かれている。あそこでマリという人物=ユイに好意を抱くゲンドウたちと同世代って描写になっているわけですが……