東京オリンピックが閉幕し、これからパラリンピックが始まるちょうど間の時間ではありますが、なかなか世の中的にも賛否両論がある今日このごろです。
そんな折、A.B.C-Z橋本良亮くん、篠井英介さんによる朗読劇が大阪・東京で公演されました。朗読劇というものが好きなので、これは…!と思い、観劇してきました。
橋本くんにとっては「蜜蜂と遠雷」「日本文学の旅」と3回目となる朗読劇になります。蜜蜂と遠雷は「リーディングオーケストラ」なのでちょっとジャンルも違う気もしますが…。(個人的にはステラコンサートと同じ類の印象)
ということでその観劇記録……と思ったのですが、想像以上にあれやこれやと考えたら長くなりました。
場所は紀伊國屋サザンシアター。
紀伊國屋というと以前「奇子」「ダニーと紺碧の海」などを見に行った紀伊国屋ホールをあげたくなりますが、それぞれ出口が全く違います。
サザンシアターのほうが気持ち広め?なのかな。
▽紀伊国屋ホールでみたもの
元々紀伊國屋書店が入っていたということですが現在はニトリと洋書専門店になっている様子。
舞台の概要
本作については脚本および演出を手掛ける鈴木勝秀氏によるオリジナル作品。
出演者は「日本文学の旅」から2度めの共演となる橋本良亮くん、そして舞台・ドラマで活躍の場を広げている篠井英介さん。
この作品の着想はベースとしてジョン・レノンとポール・マッカートニーのお話から得ているのだそうで。
ジョン・レノンがニューヨークで命を奪われることになる少し前に、ポール・マッカートニーがギターを担いで、突然ジョンのアパートメントを訪ねた。ジョンは『来るときは電話してくれ。こっちだって予定があるんだ』と言ったがポールを招き入れ、ふたりはギターを弾きながら歌を歌ったり、思い出話をしながら満ち足りた時間を過ごしたらしい。
僕はこのエピソードがとても好きだ。これは『疎遠になっていた旧友が訪ねてくる』という物語だと考えている。そしてこのテーマを用いて、これまで1996年『セルロイドレストラン』、2016年『喜びの歌』と二作舞台化している。
今回はその三回目である。
人は過去とどう折り合いをつけるのか?また誤解をどう解くのか?そして、個人と個人の和解は可能なのか?このあたりを深堀りしてみようと思っている。
(公式ホームページより引用)
ジョン・レノンの話というと暗殺のお話がどうしても先に来てしまいがちだけれど、メンバー同士の交流というのも面白くて、それぞれにそれぞれの考えがあったからこその人間ドラマが成立しているように思います。
THE BEATLESというグループが解散するとき、最後のアルバムとなったアビー・ロードを作るときにポールが最後一人になって四畳半のアパートでつなぎ合わせるために作っていた、という(絶対四畳半なわけないんだけど)伊坂幸太郎さんの「ゴールデンスランバー」という作品に描かれていてそれが非常に印象に残っていたのを思い出します。
しかもアルバムの最後がTHE ENDなあたりも含めて「ウッ……」となるわけですが。色々思うところがありますよね。何を考えてこの流れだったのだろうとか色々めぐります。
大阪で橋本くんのお誕生日を封切りに、広げられた朗読劇。
「初日スペシャルカーテンコール バースデー編」など、カーテンコールについてのキャストトークについても説明が設けられていました。ある/なしがはっきりしているのはこのご時世ということもあってかな、とも。
鈴木勝秀さんの演出だと、日本文学の旅、Mogutを見に行って諸々自分なりに舞台とはという意味で考えさせられたお人です。
橋本くんとのタッグだと日本文学の旅ぶり。ちょうど一年前ですね。
篠井英介さんのお芝居を生で拝見するのは初めてです。テレビや映像で素敵な俳優さんという印象だったのでとても楽しみです。鈴木勝秀さんの舞台だと様々な俳優さんと組むことが多く、それこそ戸塚さんのディファイルド、日本文学の旅でも第一線で様々なお芝居をされている方々と芝居で純粋にいいなぁ、勉強になるだろうなあ、と思うばかりだったので今回のご縁もいいなぁと素直に思ってました。篠井さんを生で見られる機会があったことが自分にとって本当にラッキーだなと。
あらすじ
見出しからわかるように二つの意味を込められたピース。
大変シリアスな作品かと構えていたのですが、あらすじを読むとどうやらそうとも言い切れないようなーー?
近未来。
全体主義的政治が市民を支配し、衛生的=正義という考え方が社会に蔓延している。
国家に忠誠を誓う人間は、「衛生的」の象徴である白い服を着た。健康でいることが奨励され、病原菌の撲滅は国家の目標であった。禁酒、禁煙が徹底され、ベジタリアンになることが求められた。
また、「犯罪者は社会の病原菌」とされ、犯罪者の排除、社会からの隔離が、徹底的に行われた。犯罪の告発は美徳とされ、さらに犯罪を報告すると、警察から報奨金が与えられた。防犯カメラはあらゆる場所に設置され、一般市民がおたがいを監視している。
そんなご時世のなか、ウォーター・バーを営む男がいた。オカモト(篠井英介)である。ウォーター・バーは、文字通り世界中の名水を愉しむバーである。まさにこの時代を象徴するようなクリーンな店。だが、店内は黒く塗られていた。そして黒い服を着るオカモトには、過去があった。
その店の常連になりかけの、白い服を着る若い男、レンジョウ(橋本良亮)との会話の中で、オカモトの過去が次第に明らかになってくる。
オカモトは、過去に政府転覆を狙う、革命運動に参加していた。とは言っても、革命グループのリーダーは無血革命を目指す学者。 市民の協力なくして、革命の成功はない、と説いていた。しかし、活動は頓挫。
グループのリーダーは逮捕され、獄中で自殺した。善良な市民は、革命より安定、そして支配されることを求めたのである。そしてオカモトは、その結果を受け入れ、はたから見ると世捨て人のように、日々を読書に費やし、漫然と暮らしていた。
一方レンジョウは、株のデイトレードで稼いでいるとうそぶき、その正体は不明。だが、ある日レンジョウは、自分が革命グループのリーダーの息子であることを明かすのだった──
「今の世の中、おかしいと思いませんか?ひっくり返してやりましょうよ」
だが、レンジョウの真意は、別のところにあった──
(公式ホームページより引用)
全体主義ということは夏目漱石もあげた「個人主義」とは相反するものですね。 昨年の「日本文学の旅」でも取り上げられていたことを思い出しました。
本作について橋本くんは「今の時代だからこそ*1」というようなことを挙げられていたことも記憶に新しいですが、はたしてどのような作品だったのか紐解きながら自分なりの考えをまとめていきます。
作品のざっくり感想
生きているのか、生かされているのか
まず最初に作品を通して見たときに、新型コロナウイルスの感染拡大からクリーンさを叫ぶ昨今の世の中を反映して作られている部分もきっとあるんだろうなあと感じました。が、25年前に作られた作品*2がベースというのはちょっと驚きました。「時代がそう変わらない」といえばそうなのかもしれませんが、いつの時代も提唱されること、考えること、受け止めるべきことはあるということかもしれません。
一度革命を起こした上で、頓挫した革命家のなかの一人と、そのお客の物語。謎の多いお客さん「レンジョウ」自身のことと、そのバーのマスターである「オカモト」の対話で繰り出される物語。
ただ、セルロイドレストランと喜びの歌を見ていないので、正直そこで鈴木勝秀さんが描きたかったものが感じられるのかな、とも。前作を見ていないからこそうまく感じ取れない部分も多いのではないかなあと自分は見ながらうなりながら考えていました。
喜びの歌は3人芝居で本作は2人になることでよりソリッドにシンプルになっているようなのですが、3人芝居だと登場人物の内面が分散化されて「キャラクター」がわかり易くなっているのかな?とも。あとはこちらは朗読劇ではないのかな、とも。
「諦めを飼いならす」ことでどんな状況におかれようと「自由」とするオカモト。ではなぜ革命をしようとしたのか?という疑問符もあります。
諦める⇔勝つまでやめないのオカモトとレンジョウの対比というのは若さや老いだけではないものとしてずっと対比的に描いてるようにも見えました。
前半はとかくコメディ要素も交えながら、死生観や「この人はなにかあるな」とひたひたと見え隠れするものがある作品でした。
橋本くんの「レンジョウ」そして篠井英介さんの「オカモト」がウォーターバーで織りなす話は淡々と、粛々と、けれど確実に動いていくお話。
ざっくりとして感じたのは「自由」と「革命」の立ち位置についてと「生きている」のか「生かされている」のかのニュアンスの違いみたいなものも感じました。
「自由」という意味合いについては過去の偉大なる哲学者がいろんな意見を交わしていていろんな理論として組み立てられているのですが、「規律があって、その柵があるからこその自由をより感じられる」という意見に類するようなことをオカモトは言っていました。心が自由であるのであれば、それは自由で、その規律の中にどういう立ち位置であろうと、心までは侵されていない。ウォーターバーという「その世界観における”そこならでは”要素を孕んだ場所」で生きる彼の処世術の凝縮ささえ感じられました。
自由なら平等にはなりえないわけで。そこで生まれる格差というのもまた「自由」の産物の要素の一つではないでしょうか。もちろんそれだけではないことも承知ですが「自分で切り開いたから、これだけ成功した」にもなる。
オカモトはそういった「戦うこと」への諦めがある中で生きているし、レンジョウは不屈の諦めの悪さで切り開いている。でも彼は彼で「考えていない」わけではない。難しいことはあまり得意ではなさそうですが、大きく息を吸い込んで、そして止めて、水の中を潜ろうとする。そこから生まれる「なにか」を探して。
見たときに考えた「自分が”生きたい”から”生きている”のか、はたまた”死ぬのは嫌だから生きている”のか」という部分。これはオカモトの「ではなぜ死なないか。生きることが”好き”だから」という結論は非常に詩的であり同時に自分の「なぜ生きているのか」ということを逆から見た視点だなとも感じました。
死生観というのは人によって違いますが、キリスト的なキーワードが出てきたことによって革命のリーダーが「キリスト」のように死ぬことによって人を引きつけようとしていたという話になってきます。キリスト教の教えを「知識」として学んできたのか「アイデンティティの構築」として思考の中に入っているのかで考え方は違うということが、本作の立ち位置でいうとどちらかといえば前者かなとも。「生きている」のか「生かされている」のか。人はなんで(何によって。”How”ですね)生きているのか。このことを考えながら、踏まえながら見ていたときにレフ・トルストイによる民話シリーズを思い出しました。
トルストイの晩年に訴えたかったことを考えるのですが彼の背景を聞いてまあまあ「おおう……」な生涯で、だからこその最終的には神に関する「愛」、他者への慈しみとか優しさ、自己犠牲などなども含めてのものであるんですが(それをなかなか実践しろ、というのも難しいとは思いますし)この根本のあり方みたいなものっていうのを踏まえると、「好き」で決めて生きているオカモトもまた考え方として一つのあり方ではありますね。
好きだからという「感情」によって生きている。それは最終的に行き着くところのトルストイ曰く「愛によって」に結びつくんじゃないかな、というのがオカモトを通しながら考えた点でした。
お芝居の感想
本作は朗読劇ということと、二人芝居ということも相まって登場人物はとてもシンプル。
オカモト、レンジョウ、そして名前だけ出てくる人物。彼らの世界はとても狭く、それでいてウォーターバーの外は確実に「こことは違う」空気を持っています。
バイプレーヤーではなく主役としての「オカモト」
篠井さんは下町ロケットの時の「こいつ…!!!!!!」というようなヒール役が似合うお人のイメージが先行してあっただけに、ゆったりとした話し方のキャラクターであるオカモトにイコール篠井さん、と言うイメージがあまりなかったです。良い意味で没入できて、視覚的イメージもメガネのオン・オフでの切り替わりぐらいのシンプルさであったように見えました。
バイプレーヤーとして一方で一言一言がやたらと印象に残っているキャラクターが多いような印象の中、オカモトは決してそういった類のキャラクターではなかったので自分自身も新鮮に、「ああこういうお芝居もされるんだ」という驚きもありました。
インタビューにて朗読劇がお好きというお話もされていらっしゃった通り、非常に聞き取りやすく、かつベーシックかつクラシックな「あまり動きがない朗読劇」としてその分の一挙一動に目が行くようなオカモトでした。
さらりとした身のこなし方はそれこそジャケットを椅子にかけるとき、ちょっとした歩く姿、それら一つひとつが年齢を感じさせない一方で品の良さみたいなものを醸し出していました。若くはなく、決して老人ではない。「年齢不詳」な静かさが篠井さんのオカモトと受け取りました。
「レンジョウ」の見せる明るさとほの暗さ
朗読劇なので、動きが少ないーーかと思いきや、レンジョウが突然歌いだしたり(唐突すぎてびっくりした)色んな所に右往左往していたので「朗読劇だけど朗読劇っぽくない」レンジョウに対し、動かず粛々とお話を繰り広げる篠井さんの「オカモト」。
作中で感情の起伏が激しいレンジョウに対して、オカモトは終始穏やかというか悟りと諦めの入り混じった声音で穏やかに繰り広げます。時間の経過でのオカモトの「変化」が見れたのが面白かったですね。
大きな水槽を前に、バーチャルのアプニアをしているレンジョウの様子は客席側からもよく見えました。てっきり最後は本当にするのかな……と思ったけれど、マイクの問題や色々でなかったのかな。(角度的にどちらかわからなかったけれど、マイクの音拾ってなかったからやってない?ように見えました)
レンジョウは本当にいわゆる普段のお芝居に近い朗読で、オカモトは淡々とした「イメージする朗読劇」でしたが、その一方でお互いの言葉の後ろにある音楽がリズムを刻んで一つの「音」になっていました。場面転換も含めて音楽を大きく使うのは日本文学の旅、Mogutでも感じられたので鈴木さんの特徴なのかなぁとも感じました。
橋本くんのお芝居は見に行ったタイミングが後半だったこともあり大分慣れているというか落ち着いているように見えました。慣れによって生じやすいブレは感じなかったです。音が大きかったこともあるのですが、冒頭の「神の手、鉛の心臓……」のくだりが何と言ってるのか把握できなかったのが残念。難しい文言であると同時に本作における重要なワードだったのでその違いが聞き取れなかったの、悔しい(笑)
本作は日本文学の旅のように作品を通し人間がコロコロ変わるものを演じる劇中劇、みたいなものではなく「今、そこにいるレンジョウ」を演じることもあり、とてもシンプルに感情を注いでいました。
最初はあっけらかんとした表情、そこから見え隠れする闇、続けて繰り返されるQ&Aでの少しずつのニュアンスの違い。声や仕草でもそれは感じられて、行き来したり一声の呼吸も含めて新しい試みをしようとしているように見えました。
前述した通り篠井英介さんのお芝居がゆっくりとした王道の朗読劇に対し、橋本くんのお芝居は往復したり、ホンではなくオカモトに視線を送っていたり、動きのある、「日本文学の旅」のキャラクターたちのやりとりに近しい、いわゆる一般的な演劇ぽいお芝居の方向でした。
橋本くんは言葉一つ一つ、表情をとるときに眉がぴょこぴょこ動くのですが、言葉の節々の不気味さの中で眉が動くたびにレンジョウという人間がどう言うことを探っているのか、という点も印象深かったです。
本作の芝居面について、共演者である篠井さんからは「スポンジのように吸収するとスズカツちゃんから言われていたが毎日異なる*3」というように挙げられており、その日ごとに一言一言が少しずつニュアンスを変えていて、同一性を持たないからこその新鮮みと「どうなるのだろう」というドキドキがあるんじゃないかなと。
初日で作ったものと、後半で見たときで印象がガラッと変わるのは、ファン同士が感想を語り合ったときにちょっと違う見方ができて面白いかもしれませんね。良い子で見たときに「喜劇」なのか「悲劇」なのかで意見が割れたように。
音楽について
本作は日本文学の旅と同じく生音楽が同時に進行しており、作品の流れに合わせて変わっていました。
朗読劇は音楽と通ずる部分があるという鈴木勝秀氏、篠井さんの意見の通り言葉に寄り添うように、時には突き放して独創するように音楽が響いているお芝居でした。
曲については近未来というとEDMというイメージが自分の中でありますが、そのへんに関しては「何が新しくて何が古いのか」というものを感じさせないような作りであるように感じました。
鈴木さんの演出面で場面転換などで大きな音を使うことが多いのかなという印象があり、これは別の演出家さんではありますがコインロッカー・ベイビーズ*4でもそうだったなあと思います。ある意味「転調」みたいなかんじで一つの音楽として見ていくのであれば、パッフェルベルのカノンのように繰り返しながらだんだん強くなっていく感じなのかもしれないですね。
ただ、音が大きくて(生音というのもあるのですが)朗読でのキャラクターたちの言葉が聞き取れないシーンがあったのがちょっと残念でした。戯曲どっかで出してくれないかな~~~!!!
音楽担当の方々にもセリフがあるのは鈴木さんの演出では「あるある」なのかな?とも。日本文学の旅でも少し茶々を入れるシーンがありましたが、本作でも然りでしたね。緩急としてシリアス要素が強い作品なのでコメディ要素として際立っていたように思います。
あれこれ考えまとめ
世界観における随所の”ほころび”
世界観的にはより徹底的に規律と統制がされたディストピア要素が強い世界ですね。
飲食に関しては「酒」などがあることは明確ですが、作中にて「ベジタリアンであることを求められる」という様子から”食を楽しむ”ということは禁じられているのかなとも感じ取れました。もちろん昨今の原料不足からの豆類を使った肉への代替(最近だとコオロギパウダーを用いての食材等も見かけます)などからもありうるのですが、ベジタリアン=正義という発想に至っているということはサプリメントでの摂取などではないのかな、とも伺えます。
「衛生的」という言葉から察するに、ベジタリアンであることを求められた人たちの主食である野菜はおそらく無農薬栽培をしているだろうし、一方で「虫」という存在を否定するという本来の生態系における全否定が入っているので「どうやって野菜作ってるんだ??」という疑問も生まれるのですが*5、そこは多分AIとかでなんかこう…やってるのかもしれませんね。
仮面ライダーゼロワンでもヒューマギアが野菜を育てているくだりありましたが、そのへんの徹底した温度管理の描写がありましたね。
しかしはちみつとか、生態系における必要不可欠なものはどうしているんだろう、とか世界観における背景的な部分を思いながら素朴な疑問を抱いていました。
そういった意味では随所随所での「あれ?」という矛盾というか、違和感が色々感じられていて「ディストピア/近未来」の中でありながら、ある程度の自由は作られているようにも見えました。一方で「軽口を叩いた連中が警察にしょっぴかれている」というレンジョウの言葉を鑑みると、あの世界における政府(国)に対しての矛盾やほころび、いびつさを感じました。統一性があるようでなく、主張に対して一貫性があるようで「それってここの部分はどうなの?」という疑問を投げかけられていそうだな、とも。
完璧で、清潔で、クリーン。そんな世界を目指しているのにその一方で足元をよく見ればどす黒いものがある。それがこの「ピース」という世界観なのかな、というようにも解釈しました。
「ウォーター・バー」という存在
水はクリアの象徴にも感じられます。無色透明、澄み切っている存在。
水の形の一つである「風呂」でいえば、「風呂は命の洗濯」とエヴァンゲリオンで葛城ミサトさんが口にしていた言葉があまりにも有名ですね。彼女の言葉は「風呂に入ることで羽を伸ばせる、落ち着ける」という意味でありましたが、実際水で洗うということは穢れを祓うことの一つとしても考えられています。
(アニメ本編でいうと2話「見知らぬ、天井」より)
神社に参拝する際、手水を使うこと*6も「水」だし、そういった意味で常に側でありながら清潔、という意味で横にあることも示されているわけです。
「世界の名水」というキーワード(作中で”世界の名水”といっていた覚えはないのですが)が自分は引っかかりました。前述したとおりクリーンにクリアにを求められている国でありながら、他国との交流がありその生命の源である「水」を得ることができることについてもそうですが、水ひとつにおいても成分はそれぞれに違うので、その「管理」は?とかいろんな疑問が浮かびます。
ウォーターバー、惜しみなく水が使われていて、あの世界観における「水」の立ち位置こそ不明瞭ではありますが、水槽を前にして対峙する彼らのコミュニケーションは同じ言葉を繰り返しながら何度も何度も泡沫の時のように刻みつけていきます。
クリーン、時代にあっているのに「中は黒い」というのは「六本木のバーみたいなかんじかな(偏見)」みたいないわゆる隠れ家の象徴じみた黒でもありますよね。作中でも穴のような場所に引きこもっているという描写がありましたし、お店の名前はそこから取られているとも言われていました。
ウォーターバーを検索してみたらサンフランシスコに本当にあるそうで。ただ、舞台とは全然雰囲気が異なりました。いろんなフレーバーがあるんですね。
舞台ではどちらかというとガブガブ飲むことでどこか「禊」のようにも見えました。水飲みまくることで体の中の毒素を落としているようにも見えるというか。
清潔と衛生
ミツカン水の文化センターにて面白い記事があったのですが、清潔感や衛生観念についての諸々の歴史について触れているものだったので、今作にも重要に絡んでくるものでした。
歴史的に見ても「風呂」とか禊における考えなどの変化というのは感じられますが、改て示唆されてみるとなるほど確かに、となりました。
そういう意味で「近未来」であるからこそのAI技術の進歩も含めて「クリア」「クリーン」における概念というのはより強くなっているのかもしれません。
白=きれいという考えについてもなるほどな、というか19世紀~のきれい=白という概念には驚きました。まぁでも確かに「ほどほどに落ちればよかった」から「完璧に落としたい」という考えに変わっていくのはライフスタイルが変わって、便利なものが増えたら増えるほどなのかもしれませんね。
時代の流れに合わせてどんどん人に余裕がなくなってきているなんていう言葉も聞きますし、そういった意味で「清潔」「クリーン」「衛生」という概念というのは近未来だからこその膨らみというのも感じられます。
レンジョウはなぜもらった水を水槽に入れたのか
「もう一本、頂いても?」と水をペットボトルでもらった上で、その水を水槽に戻すシーンがありました。大変不穏な空気が漂っていましたが、あれ店員だったら「お前に飲ませる水などねえ!!!!!!!!」と言いたくなるんじゃないと友人に指摘されて「確かに(笑)」と思ったんですが、ほんのり漂うレンジョウという人間のほの暗さが出ているようにも思いました。
水、と一言で言っても硬水と軟水などの違いや入っている成分などの違いもあります。
川魚にしろ海の魚にしろ育てるときに注意しなきゃいけないのは(勿論水を「すみか」としている部分もありますが)成分のこととかもあるわけで。
人間の体内にある「水」でもそこに味覚はあるわけで、そのへんサントリーが説明してくれているページを読むとわかりやすいです。あまり娯楽がない世界(多分)で、味を楽しむという意味で「水の違いを楽しめる」のがウォーターバーだとしたら、こういう”違い”は面白いでしょうね。
じゃあ話は戻ってその「水を入れる」「水槽に戻している(ただし入っている水は同じ”水”か、”水道水”かは分からない)」行為はどういう意味を指していたのだろうと考えました。
入れたものが例えばインクが入っていた水だったら、それはもう「飲むことはできない」ものになるわけで、入れた瞬間に水槽もだめになるんだよなあ…とも。
「朱に交われば赤くなる」という言葉があるように、異物が一個入ればその瞬間に変わる。同じ水だとしても先程のロケットニュースを読んだら「混ざりあったらなんか違う」というようなことを言っていましたし…絵の具で考えると全部混ぜるとなんとも言い難い色になるのと同じなのかもしれません。
個性を潰してクリーンにして統一化をしていこうという社会に対して、そうなったときに見えるものは余り良いものではない、という示唆にも見えるし、オカモトに対しての不信感のようにも見えるし、どういう意図があったのか、あのシーンについて教えてくれないかな~とも思っています。
オカモトが「好き」で決めるということと「共存」について
オカモトは前述した通り「好き」か「そうではないか」で自分の感情や考えをうまく飼いならす人物です。
「諦めを飼いならす」ということは諦めるということを「好き」ではないからこそ蓋をする、見なかったことにするようにも見えて、このへんは「自分が好きじゃないものを見たときにどういう反応を取るか」とか日常生活における出来事でもありますよね。好きじゃない作品・ヒト・モノを見たときにどうするか。
「好きじゃない」「それは違う」と反発し、言葉を紡ぐのか、はたまた「見なかったことにする」とスルーしていくのか。小さなことではありますが、自分自身も結構直面したときに「どうする」というのはメンタルの状況等にもよって左右されるので、常に「スルーするスタンス」を決め込んでいるオカモトのスタイルというのは「大人びている」もののそれであるように見えました。だからこそ「いくつ?」に対して「年齢は関係ない」になるのでしょうが。
スルーに関しては「苦手な人はブラウザバック」とかそういう文言と同じそれ。「自分の萎えは誰かの萌え*7」なんていうオタクワードもあります。昨今はSNSが交流のメインコンテンツになっているからこそ、余計に。
この「好きなものをメインに」というのは「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ! *8」というあれに近いのですが、人間関係をスムーズにするときにあるあるだなぁとつくづく思う次第。
一方で「自分と相手の関係だったら何を言ってもいい」というぐらいの深い仲だったらいいと思いますが、やっぱり相手が「好きかもなあ」という意味で探っていく難しさありますよね。SNSだとよりパブリックサーチしていると是非も賛否も称賛も批判もどちらもありうるのでいつもちょっと身構えてしまいます(笑)
レンジョウの父は何を望んだのか
レンジョウの父親は非暴力主義の、無血革命を目指す人でした。
だからこそ、オカモトと相容れない部分があり民衆の心を引きつけることもしきれず、志半ばで命を絶ちました。その最後の決断は自決であったというように描写されていますが、これに関し「他殺である」とオカモトは当時のモノローグで発しています。
非暴力、不服従といえばガンジーがおなじみで、レンジョウ、そしてオカモトが口にする「明日死ぬかのように生きろ、永遠に生きるかのように学べ*9」という言葉。これはガンジーの名言として挙げられることの多いものですね。ガンジーで調べたら彼はトルストイに大変影響を受けたということが分かって驚きました*10。全然知らないまま話をここまで書いていましたが……。
トルストイはベジタリアンで禁酒家であったともされているので、正直そのへん今作はある意味つながっていますね。
レンジョウの父はなぜ死ななければならなかったのか。
これに対してレンジョウは「彼はキリストのように、周りに意志を継いでほしかった」 とあげますが、そもそもキリスト教(や、ほかの宗教でもそうですが)は、自ら命を断つことを罪として見ていますし、下記のようにも記されています。
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。
なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
悪すぎてもいけない。
自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
(伝道者の書7章16~17節)
これを読んでいて思うのは「正しいと過信してはいけない」というものへの戒めであるのだとしたら。
では、レンジョウの父は「正しい」と思って突き進んできた。非暴力で無血革命を目指して。でもそれでは”だめ”なのだと、オカモトは力を見せることでも意味があるのだと言っています。これは革命グループがまた一枚岩ではないことを示唆しているわけで――最終的に「みんな」から見てみぬ形として、裏切られてしまったというように考えると実にやるせないですよね。
レンジョウの父とオカモトの関係はどこかレ・ミゼラブルのアンジョルラスとマリウスにも似ているような気がします。アンジョルラスといえばサン・ジュストがモデルというような風にも言われていますね。ベルばらでロベスピエールと一緒に出てきた印象が強いですが、アニメだと出番が違うとか(私は飛び飛びの知識なので知らないのですが…)
レ・ミゼラブルのアンジョルラスは煽動者として前に出るし、非暴力等ではないけれど、考える隙間を与えないように次々打ち出して、そして死ぬ。その死に様が壮絶なのは間違いないのですが、彼の死ぬ流れを考えると、あれだけ協力的だった民衆に手を離されてしまった形に近い。
民衆から背を押されて、信頼を得て次から次へと打ち出していくが最後は他の誰でもない民衆から手を離されてしまうという意味では、どこか彼らは似ているなぁ…と舞台を終えて真っ先に思ったことでした。
では、レンジョウの父は「自分が死ぬことで革命を成し遂げてほしい」と言ったのだろうか、という話になりますが、これについてはレンジョウしか言っていないのと「そうだったんですよ」という言葉なのでオカモトからすれば「知らんがな」かつ、「死人に口なし」に等しいんですよね。
絶望した先が民衆へなのか、仲間たちなのか、世の中なのか、それはわからないけれど「死んでしまった」ということは事実。ただ、それを惜しむにしては時間が経ちすぎているというのもポイントなのではないでしょうか。いつにしたって人が逝くのは決して良い気持ちにはなれないですけれどね……。
だからこそレンジョウの父は「どう」とは言わないし、何を願っていたかも、最後何を考えていたのかも分からない。事実の「死んだ」だけが横たわっていて、オカモトやレンジョウにこびりついて、剥がれることはなく彼らの日々に寄り添うのでしょう。
レンジョウの本来の目的とは何だったんだろうか
レンジョウにとっては「父を悼む人」はオカモトだけで、オカモトと話している中で父の面影を見ているようにも見えましたし、だからこその「父の悲願」であった革命を成し遂げたかった部分もあるでしょう。と、同時に動かないオカモトへのいらだちや「好き」で判断することでそうではないものへのスルースキル(言い方を変えれば「枯れている」「生命エネルギーがあまりあるようには見えない」)を磨いている。年齢がわからない)への不満もある。
愛憎とも似た、子供のワガママにも見える一方でオカモトを通じて「父の悲願を成し遂げること」で自分の心を金継ぎするようにも見えた。レンジョウの父がレンジョウを見ていたかどうかは触れられていないし、レンジョウは父に対して「政治犯」であることを挙げていました。それ以上でもそれ以下でもない。母親はおかしくなった、父親は捕まった、あれもこれも革命をしようとしたからだ。なのに革命は成し遂げられることなく、革命組織は分散化した。
公式のパンフレット等見ていると「レンジョウの目的は他にもあって」とあって、でも見ていると「革命を起こしたい」という言葉を言って断られると銃口をオカモトに向けている。
オカモトを暗殺することが彼の本来の目的だったのかどうなのか、という疑問が生じます。
作中、レンジョウが何をしているのかという問いかけに対して彼は「害虫駆除」という仕事を挙げています。そこで挙げている生き物たちは確かに害虫なのですが…。果たして、レンジョウが「本当に」単なる害虫駆除を行っているのかなぁという疑問もありました。クリーンで衛生で、というくだりであれば前述した通り害虫と呼ばれる無視たちは真っ先に排除されていそう(生態系崩れていそう)とも思うのですが…。
シロアリ駆除をしているということをレンジョウの言葉から出てきて「家を壊すシロアリ」という意味では”国家を揺るがす存在”への暗殺なのだろうかとも考えたりもしたわけですが――そこについては深く掘り下げられていませんでした。仮にそうだとしたらマークする相手(オカモト)を親しくなった上で政府からの依頼で始末していたのかもしれないですね。
それこそ昨今話題の「中抜け」関連でいうとジジイ・ババアから「あれしろこれしろ」というレンジョウの言葉を考えれば下請けの下請け的な立ち位置なのかもしれない。今までの分散化した反乱分子のうち、たまたま次のターゲットがオカモトだったのかもしれない。どれもこれも「ありえそう」な部分だな~と思います。
ちょうどジャンププラスで公開されていた漫画が考えていたことと似たことあったので紹介しておきます。
ピースの世界では、「お互いがお互いを監視しあい、告げ口することで報奨金を得られる」という意味では、レンジョウという政治犯の息子がデイトレードに手を出すための「根本的な金額」をどこで得ていたのか?という疑問に対して始末し続けていくことで得ていたとすればそうだろうなあという気にもなります。
”世話になっていた人の墓参り”というのは相手が政治犯でかつ自らがそういったものに加担していたのであれば証拠としては「怪しい」として通報されていてもおかしくないですし、オカモトの立ち位置はモノローグで見ていると参謀みたいにも見えましたが――その上で、レンジョウが向き合ったとき、彼は銃口を構え話をし、そして最後は激高しました。
オカモトは父ではないし、レンジョウもまた、父ではない。双方に対して「己の言葉」で返すなかで、オカモトは彼をいなすわけではなく向き合い、そのうえで「生きることが好き」だと言う。
レンジョウは果たして生きるのが「好き」なのかどうなのかはわかりませんが、刹那主義の一面を見せている一方でイマジナリー・潜水で「生きていること」を確かめるように繰り返しています。
自ら体を投げ込んだ太宰治とは違うけれど、その体を何度も何度も投げるのは「生きている証拠」であり、また同時に「死にきれなかった」という後悔なのかもしれないなとも思いました。
レンジョウの目的は、自らの救済でもあるように私は見ていて感じました。オカモトを焚き付けて、そこで「生きている」を再認識したかったようにも見えるし、また一方で彼を始末し過去を精算することで「今の自分への肯定」にもなりうる。
サイコパスというよりも子供の駄々っ子が色々マッシュポテトのように混ざり合って、隠しきれないまま向き合っている。
彼もまた、「思い出にとらわれている一人」にも見えました。そこに愛はあるんか、という疑問もありますが「隣人愛」ともするならば、それは最後の激昂でオカモトを撃つこともなくかつ己を終わらせることもできず水槽の中にある「何か」を見つけ出すことも出来ずにいる「今」を受け止めていくことでの「なにもない」ことへの帰結で彼の物語はページをようやくまた捲れるんじゃないかな、とも見ていて思いました。
”スタンド・バイ・ミー”
そういえば、幕が上がる前、スタンド・バイ・ミーが流れていたことが、また何ともいえない気持ちにさせられました。
拾い上げていけばこの楽曲は元々は黒人霊歌がベースになっているともいいますし、映画の「スタンド・バイ・ミー」がどういう作品なのかは言わずともがなですよね。死者は戻らない。そして、あのとき得たものも帰らない。その時だけのものだからこそ。青春映画であるとともに苦味や痛みを伴う作品ですよね。
この楽曲を開演のために客席が次々と埋まっていく中、流れているのを聞きながら「いいよねえ~」とホクホクしながら聞いていたのですが、最終的に「ピース」を振り返ったあとに見ると、結構つながっていく部分があって何ともいえぬ気持ちとなりました(笑)
I never had any friends later on like the ones I had whan I was twelve.
Jesus, does anyone
(映画「スタンド・バイ・ミー」ラストシーン)
仲間や友達は近づいて、でも双方の環境や考え方でどんどん変わっていく。同じ時間を共有したものたちって「思い出」としては残るけれど、久しぶりに会ったときになんかちょっと違うなってなったりするのと似ています。
オカモトから見た、レンジョウの父もまたそうなのかもしれないし、「戻らないからこその思い出」なのかもしれない。
なんなら「スタンド・バイ・ミー」って「そばにいて」(味方でいて)という意味でもあるわけで、この意味をどこに取るのかって考えてみたときに私はレンジョウから見たオカモト(自分を肯定して欲しい)なのかもしれないなあ……なんていうようにも考えました。
そういえばスタンド・バイ・ミーについてはジョンレノンも歌っているので、そのへん鈴木勝秀さんの趣味というか嗜好としても納得なポイントでもあります。
最終的に……
無事に大千秋楽まで走りきったということで本当に安堵するばかりです。無色透明なクリアな世界というと、PSYCHO-PASSの犯罪係数などの統治された世界を思い出しますが「近未来」すぎない近未来で、服装や動きの多さや声音、表情などすべて対比的だった二人が足の組み方が同じであったり、対峙したときに吐露された感情で融合しあって、「クリア」ではなくなっていく姿が興味深かったです。
朱に交われば赤くなる、青は藍より出でて藍より青しなんていう言葉も世の中にはありますが、慈しんだり大切にする「アガペー(好き、愛)」でのレンジョウの動揺と、それまで憎悪によって育まれてきた感情を向ける先がないがゆえの慟哭と、この上での【彼ら】をどう進ませるのか――という興味。色んなものが入り混じった舞台でした。
peaceとは平和、泰平、治安、秩序、平穏、無事、安心、平安、静けさ、沈黙。
本作では「秩序」と「平和」「安泰」といったあたりですかね。はたまた、pieceというひとかけらか。この2つをorにすることについて2つの意味は「個性か調和か」というわけでもない。じゃあどうしてorにしたのかって「このエンディングに対しての解釈をどうとでもとってくれ」なのかなと思いました。
オカモトとレンジョウは作中のくだりを得たことで得たものは「沈黙」はたまた「平和」それとも「秩序」か、それとも「社会の1ピースとなること」なのか。そこで得たものは何か。グルグルと自分の中で「ここまでいたり、その上で彼らが見据えるものはプラスかはたまたさらなる地獄か」とか、考えています。どっちにも見えるかな、とも。受け止め方次第。
無償の愛、隣人愛。喪った父の面影と、面影を知る男との対話。
この「誰を主軸で見るか」での解釈の異なりと「何が正義で何が悪とみなすのか」ということ。また「今の時代だからこそ」ということを出演者のみなさんが言葉にしていることを考えると”行き過ぎることへの是非”についての提唱とも取れるし、”担ぎ上げた人(父・革命家)に対しての変革ではなく安定を求めた罪”についての是非(これは政治的な部分についての意見にも言えるように見えました。)なのかなぁ……と。
作品において「何を伝えたいか」からの「どう受け取るか」の流れは作り手と受け手でうまく噛み合わないなんていうことはしょっちゅうです。だから受け手が深く読んで「こうでは?!」ってなったときに「おお…おお…」となるときもあると言いますし(これは中村やにおさんという方がおっしゃってた*11)そうじゃない場合もある。
千差万別汲み取り方が違って当たり前で1000%同じ形で汲み取ってくれたほうが嬉しいのかはたまた全く違う受け取り方を「斬新」と受け取るのかは勿論作り手サイドそれぞれ。
ただ、まぁ、見ている手前でどうだろうああだろうということを意見として挙げるのはこれもまた、「見たからこその意見」としてファンの楽しみ方の1ではないかなと思います。人生みんな価値観違うんだから違ってあたりまえの部分があってしかりかなと。
どういう意図で、どういう考えで、どういう解釈で、どんなふうに――前情報を今回はほぼ入れずに見に行ったからこそ、色々ぐるぐる考えながら、勢い任せに書いたのですが――最終的にやっぱりまとまりがないまま、腑に落ちたような落ちていないような……という気持ちのままではありますが、「こんなふうに感じたなあ」ということで筆を置きたいと思います。まとまりはない!(笑)
*1:A.B.C-Z・橋本良亮、1年ぶり舞台に「今やるべき、だと」 » Lmaga.jp
*2:「ピース」東京で開幕、鈴木勝秀が橋本良亮を絶賛「本番に入ってから伸びるタイプ」(会見レポート) - ステージナタリー
*3:橋本良亮(A.B.C-Z)主演の朗読劇『ピース』-peace or piece?-、東京公演7月28日開幕! - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)
*4:河合さん、橋本くんのW主演舞台
*5:ミミズの存在によって土は耕されるし、よく育つと言いますが、あの言い回しだとおそらく虫という虫は駆除されていそう
*6:参拝前に、手水舎の水で両手を清め、口をすすぎ身を清めること
*7:自分が嫌いだとしても、誰かにとっては大切な「好き」なものだから発言気をつけよう、みたいなニュアンスで使われることが多い
*9:Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever
*11:中村やにお on Twitter: "「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と言われたときに「考えとるわ」と思っていて、「すごい、これはつまりああでこうでこういうことなのだ!! 深い!!!」と言われてる時は「知らなかったそんなの……」ってなってる。"