note.com
前回の記事では、小島氏の記事に対し批判はしましたが、小島氏が参照する上記の記事については批判しませんでした。なぜかといえば、小島氏の記事についてはまだ一片の正しさがあり、そしてそれ故にきちんと論難しなくてはならないと思えるものでしたが、この「さいたま」氏の記事については、ただの下劣な、女性オタクに対する憎悪扇動であり、論ずるに値しない程度のものであると考えたからです。
ただそうやってこの記事をやり過ごせるのって、結局僕が上記の記事で憎悪の対象とされるような女性オタクではない、男性としての特権を持っているからなわけです。そう考えると、僕がこの記事をきちんと批判しないことも、特権性に対する居直りではないかと考えるので、今回はこの記事を批判します。
批判の要点は次の2つです。
- 「女性は論理より感情を優先するからお気持ちを喚く」「男性は論理的だからお気持ちなんて喚かない」という決めつけの性差別
- 社会と折り合いをつける中で表現をしようとする、まともな創作文化への蔑視
今回の記事では、これらの点において、「さいたま」氏の記事がいかに差別的で、破壊的であり、人々を不幸にする言説であるかを明らかにします。
そしてその上で、にも関わらず多くの創作者がこの「さいたま」氏の記事を肯定的に参照し、ミソジニーを垂れ流している現状こそが、創作の自由、さらにはその土台となる「表現の自由」を自壊に導くのだと、警鐘を鳴らします。
なぜ「さいたま」氏は「匿名ダイアリーの記事は女性が著者だ!」と言い連ねるのか
「さいたま」氏の記事では、まず、はてな匿名ダイアリーに投稿された
anond.hatelabo.jp
という記事に対して、記事の半分、およそ1800文字もかけて「この文章を書いた人間は、男性と主張してるけど本当は女性だ!」と証明しようとします。
ですが、記事をまともな頭で読めば分かる通り、その証明の仕方は稚拙としか言いようがありません。もし推理小説で探偵がこんな論拠で「性別を見破った」とか主張したら。その時点で本を窓からドブ川に投げ捨てたくなるでしょう。
例えば「さいたま」氏は以下のように「男性は『オエッとなる』『嫌になる』なんて言葉を使って作品を批判しない。だからこの文章は女性によるものだ」と主張します。
「オエッてなる」「嫌になる」は男性の口から出る時は体調報告やただの愚痴であるため、何かをシリアスに批判する場面でこういう語彙が出てくる場合、書き手はかなりの確率で女性です。
つまり「オエッてなる」「嫌になる」は男性世界では批判として成立しません。そのような体調報告やお気持ち表明だけで何か言ったような雰囲気を出している場合、書き手はかなりの確率で女性です。
へー、男性は「オエってなる」とかいう言葉を批判として使ったりはしないんだー……
www.cnn.co.jp
digital.asahi.com
www.sankei.com
(上記に挙げた記事は「吐き気がする 批判」で検索して出てきた記事を上から挙げただけです)
あのー、「さいたま」氏ってきちんとニュースを新聞で読んだりテレビで見てたりします?ネットで匿名掲示板のまとめサイトとかだけ見て「これが世界の真実なんだ!」とか思ってない?お父さん心配だよ。
というか、そもそも大前提として、「その人が書いた文章」から、その人が男性か女性か証明するなんて不可能なんですよ。もし「さいたま」氏がそれを本気でできると思っているとしたら、まさしく「さいたま」氏こそ、記事で散々言ってる「狂人」に他ならないでしょう。
あるいは、こんな稚拙な論拠で文章を書いても、ネット上の住民は「そうか、この文章を書いた人間は女性なんだな」と騙されてしまうと考えているのか。だとしたら、狂人ではなく単なる馬鹿であるとしか言いようがないでしょう。匿名ダイアリーを書いた人間が男性か女性かはわかりませんが、「自分は文章から性別がわかる」と主張する「さいたま」氏が、狂人か馬鹿か、あるいはその両方を兼ね備えた存在(まあ多分、それが一番可能性が高い)であることは、議論の余地がないでしょう。
そして、何より重要なのが、「この匿名ダイアリーを書いた人間の性別が男性か女性か」なんて、そもそも明らかにする意味が全くない。無意味な問いということです。書いたのが男性だろうが女性だろうが、批判するべき点があれば批判すればいい。「男性/女性がこれを書いたならいいけど、女性/男性がこれを書いたならダメ」なんてことは、まったくないわけです。
にも関わらず、「さいたま」氏はことさらに、この匿名ダイアリーを書いた人物が男性か女性かにこだわる。一体何故か?答えは単純、「この文章は女性が書いた文章で感情的だから、きちんと読まずに否定して良い」という風に、男性女性のステレオタイプを悪用して、文章を否定しようとしているからです。
もう一度「さいたま」氏の書いた文章に戻りましょう。
男性がある物を批判をする時はその「ある物」を主語として瑕疵や不具合を述べ立てますが、女性が何か批判する時は「自分の気持ち」を主語として被害の発生を申し立てるのです。
このように「さいたま」氏が書くとき、そこでは「男性の批判は論理的な批判だから真剣に聞くべきだが、女性の批判は感情的な批判だから無視して良い」ということが暗黙の前提として存在するわけです。
そしてこの「さいたま」氏の文章は、匿名ダイアリーの著者に「女性」というスティグマを押し付けています。
そして「女性の書いたものだから無視してよい」という風に、性差別を利用して、文章を否定するわけです。文章自体を真正面から批判するかわりに・
そして、このように「さいたま」氏が性差別を実践することで、「女性」というスティグマへの差別は更に強化されます。「女性の言う異議申し立ては全て感情論だから、無視して良い」という風に。
いやほんと、こう整理してみると古典的な性差別のやり方過ぎて、(かつてもっと巧妙なメディアにおける性差別について議論していた身としては)面白みがないわけですが、しかしここで恐怖なのが、ここまでありきたりで、あからさまな性差別に対し、多くのネットの創作者が支持しているという点です。
この点については、最後にまた改めて論じます。
そもそも匿名ダイアリーの文章は、「表現を批判する文章」では全くない
さて、このように稚拙な性差別を利用して「さいたま」氏は匿名ダイアリーの文章を否定した気になるわけです。「女性のお気持ちで表現を批判する匿名ダイアリーの文章は否定されるべきだ」という風に。
ですが、ここで一つ重要なことがあります。元々の匿名ダイアリーは、「私はこの作品が苦手だ」ということは言ってるけど、だからといって「この表現をやめろ」「この表現は批判されるべき」なんてことは一言も言ってないということです。
たとえばさ、僕ヤバとか
もっと小さくしてほしい…
あんな色気いらないんよ…
でも作者さんは好きでやってるんだし、仕方ないんだろうけどさ
個人的にはあの胸の大きさが雑音になってる
でも大きい方が読者も喜ぶし、Win-Winなんだろうなぁ
このように、匿名ダイアリーの文章を書いた人は、『僕の心のヤバイやつ』について、自分にとっては気持ち悪いけど、「作者さんは好きでやってるんだし、仕方ない」と言ってるわけです。正しく単なる「愚痴」なわけです。
ネットの片隅でこのようにひっそり愚痴を書く人間に対し、ギャーギャー「お気持ちで作品を批判する文章だ!許すべきではない!」と騒ぎ立てる「さいたま」氏。幼稚なのはどっちなんですかね?
「さいたま」氏の言葉によれば、作品に注意書きをすることは「知能や情緒や自己抑制力を退化させる」ものらしい……はあ?
そして「さいたま」氏は、記事の前半では差別や曲解を使いながら、匿名ダイアリーの著者を貶めたわけですが。後半では注意書きを「謎風習」と揶揄することで、創作文化全体を貶めるわけです。
これは女性オタク界の謎風習の数々を見ているとよくわかります。
例えば女性による女性向け二次創作にはしばしば「何でも許せる方向け」のようなくどくどしい注意書きが入っています。こんなに警告するのだからよほど猟奇的なグロ描写でも出てくるのかな、ゾロとサンジが人体欠損ファックでもするのかななんて思っていると、至って穏やかないちゃいちゃやハグしか描かれていなかったりします。
これはつまり、
女性オタクの世界ではただ自分の好みの解釈と違うとかただ自分の好みのカップリングと違うとかいうだけで被害者感情を燃え上がらせてクレーム突撃してくるキチガイがいかに多いかということなのです。
なるほど、「くどくどしい注意書き」をのせるのは女性向け二次創作なのかー……
www.oricon.co.jp
……はい。
当たり前ですが、「表現をする際に、その表現に苦手な人がいるかも知れないときは、適切な注意書きを載せる」というのは、現代の良識ある表現なら当然行われることです。もちろん、その注意書きをどこまでするか適切かという問題はあります。上記の『すずめの戸締まり』に対する注意書きも、出たときは「ネタバレになっちゃうからこういう注意書きしないでほしかったな」という声がありました。
上記の例でいうと「何でも許せる方向け」というのは注意書きの範囲が広すぎて、実質的に注意書きをする意味がないという問題はあります。もっと「ゾロ✕サンジ」「恋愛描写あり」「軽度の性的描写あり」という風にこまかく書いたほうがいいでしょう。*1
ですが、適切な注意書きをすることは、その注意書きを行う創作側、そしてそれを受け取る受け手側双方に対し良い影響を与えます。例えば、犬好きの人の中には「映画の中で犬が傷つけられるか心配で、ネタバレを踏めずに映画を見に行けない」という人が多くいました。そのことに着目したある映画の配給は、映画を宣伝するときに「人はばんばん殺されるけど、犬は無事ですよ」という風に宣伝を打ったわけです。
www.cinemacafe.net
こういう適切な注意書きをすることにより、受け手側は「犬が無事ならいっかー」という風に安心して映画を見にいけるし、創作側も「人が殺されるのは別に平気だけど犬は無理!」という人にも作品をリーチすることができるようになる、まさにWin-Winな関係が結べるわけです。
ところが、このように適切な注意書きをつけること、また観客がそれを求めることを「さいたま」氏は以下のように批判します。
このような攻撃側超有利のゲームバランスは創作女性を委縮させるでしょう。しかし環境に甘やかされたクレーマー女性側もただでは済みません。説得的な批判論陣を作る能力のようなものが全く育たなくなります。併せて自己洞察も必要なくなるために、知能や情緒や自己抑制力も退化します。
うわー、注意書きってそんなふうに人の脳を退化させるの!?まるでゲーム脳みたい!危険ですねぇー。
……一応確認しますが、「さいたま」氏ってギャグでこの文章書いてるんじゃないですよね?まあ、ギャグだとしても、笑えるところなんて一つもありませんが。
もし仮に、「さいたま」氏がこの国の絶対君主にでもなって、表現に絶対注意書きを載せてはいけないという掟を作ったとします。まあ、その時点で僕は北朝鮮にでも亡命しますが、そうなったとき一体表現の世界はどうなるか。
何も注意書きがないから。人々は常に「自分の地雷である表現」に遭わないか怯えながら、表現に触れなければならなくなります。そうすると、「そもそも地雷となる表現をできなくしてしまえ」ということになるでしょう。もちろん、少数の人が地雷とするような表現は規制されませんが、大多数の人が嫌だと思う表現。例えばグロ・ゴア表現なんかはまっさきに規制されるでしょうね。何しろ、規制しなければ、遭遇するかもしれないのですから。
そしてそうやって「大多数の人が嫌がる表現」を規制した結果生まれるのは、それこそ穏当な表現しか存在を許されない社会なわけです。そして、そんな社会では、人々の表現に対する感受性はどんどん劣化していきます。「自分が理解できない表現もたまには摂取してみよう」と思っても、そもそもそんな表現は規制されてこの世に存在しないのですから。
……僕から言わせれば、そんなディストピアの方がよっぽど「知能や情緒や自己抑制力を退化させる社会」なわけです。
「さいたま」氏がなぜここまで注意書きを偏執的に憎悪するのか、それは知りません(知ったこっちゃない)が、「作品に適切な注意書きを載せる」ということは、創作文化が社会の中で活動し、より人々との心に根ざすためにはどうすればいいか模索するなかで、実践されている知恵のひとつなのです。
それを「注意書きこそが人間を堕落させてるんだ」という妄想からお貶め、排除しようとする「さいたま」氏のほうが、僕から見ればよっぽど、「説得的な批判論陣を作る能力も、知能や情緒や自己抑制力も」退化してしまった人間に思えてなりません。
以上のように、「さいたま」氏の文章は、「女性は感情に惑わされる劣った存在だから、女性の異議申し立てなんてまともに聞かなくてもいい」、「女性の創作文化はおかしなものだから、そこに存在する注意書きという風習もおかしい」という、隠しもしない強烈なミソジニー(女性嫌悪)から構成されているわけです。というか、ミソジニーしかないと言ってもいいです。
にも関わらず、多くのネットの創作者が、この「さいたま」氏の文章を肯定し、ミソジニーに手助けをしています。それこそ前回の記事
amamako.hateblo.jp
で挙げた小島氏もそうですし、X(旧Twitter)を見ても、この「さいたま」氏の文章を肯定したり称賛する輩は、うようよいるわけです。しかも、男女問わず。
女性オタクの棲む暗い池について|さいたま #note
— ゲッタ☡ (@kokuyokugetter) 2024年2月13日
ボロクソに叩いてて草 https://t.co/Hxj8f6VYWL
ここ好き https://t.co/X4gUq37WYw pic.twitter.com/0rB0I1jebt
— ムー (@SuSuZu0501_) 2024年2月13日
女性オタクの棲む暗い池について|さいたま #note https://t.co/gkCOgrVqWR
— 珠鬼 橘 (@TamakiTachibana) 2024年2月14日
こういうのが嫌で女は嫌いなのです。だから女避けにと思ってプロフに「成人済み」とか書いてない。男だと思って接してくれるほうがいい。実際私はかなり男脳だと思いますし。
〈男性がある物を批判をする時はその「ある物」を主語として瑕疵や不具合を述べ立てますが、女性が何か批判する時は「自分の気持ち」を主語として被害の発生を申し立てる〉https://t.co/vfon2bklzA
— 千野 帽子 翻訳「小説列伝」準備中 (@chinoboshka) 2024年2月13日
女性オタク叩きの文章だからちょっと触れづらい感じではあるがそれはそれとして「『自分が嫌い』というだけの話なのに変な理屈つけて正当化しようとするな」
— シュピラー (@k11250922) 2024年2月14日
「過剰にルールを強いるクレーマーは結局作り手側にも消費者側にも不利益しかもたらさない」
という内容には頷かざるを得ないぜ https://t.co/UUulfx4QV5
これ熱い悪口偏見noteなんだけど、「女性オタク特有の性癖や解釈に関する『私はこれが好き』『私はこうは思わない、私は好きじゃない』というお気持ちを他人を攻撃する刃として振りかざしている」という話は分かりしかない https://t.co/JhIjkyUF1r
— 帰田/きだ🍿新刊既刊無料公開中❣️ (@mujunsiterana) 2024年2月14日
漫画に対して自分の倫理観とか常識とか押し付けてくる人は男女問わずいるから作品のリプ欄はヤフコメとして使ってるだけなんだろうな
— 紺 (@pluto_305) 2024年2月14日
なぜか?
そこには、まさしく前回の記事で上げた「『配慮したら負け』という表現者のマッチョイズム」が存在するわけです。「さいたま」氏の論法に乗っかれば、表現をするときに配慮の必要なんてないという免罪符を手に入れられる。そのためには女性蔑視や性差別など些細な問題だという傲、女性すら内包してるミソジニーこそが、創作者が「さいたま」氏の記事を支持する理由なのです。
しかし、先程も述べたように、配慮もゾーニングもタグ付けも注意書きもなく、ただ表現者が野放図に表現を垂れながせるような社会は、かならず「多数にとって不快にならない表現だけが許される」ディストピアにつながるでしょう。社会においては、表現の作り手より受け手のほうが多いのに、受け手がただひたすら作り手に傷つけられ、その傷つきを我慢しなければならないような社会が、続くはずがありません。
創作者が「さいたま」氏のミソジニーに乗っかって、野放図に表現を垂れ流す社会を目指すことは、結果として「表現の自由」自体を、自壊させていくのです。
*1:ちなみに僕が最近使っているBlueskyというサービスは、性的な描写については細かいラベリングが自分の投稿にできて便利です。みんな早く青空に来ようよ