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plagmaticjam.hatenablog.com
人がどういう風に学問や思想を学んできたかということを読むのは好きなので、1000円払って白饅頭氏の記事を読み、その後plagmaticjam氏の記事を読みました。
白饅頭氏の記事の要約
まず、白饅頭氏の記事を要約すると次のような内容になります。
- 最近、経営者やそれなりの役職に就いている人と話すことが多いのだが、彼らは異口同音に「昔は自分もリベラル派に親しみがあったが、今はそうではない」と言う
- 有名な哲学者である東浩紀氏も同じように言う
- 社会的責任を持つと、リベラル派の言説というのは、現実から遊離した物に感じるのだ
「自分で金を稼ぎ、社員を食わせ、顧客に価値を感じてもらう」という、俗世シャバの泥臭い営みのしんどさと尊さを知った東浩紀さんが、公金をジャブジャブつぎ込まれ、なおかつ子ども(の親)からの高い学費を受け取りながら「反権力」をやる人文アカデミアの人びとの、二重三重の意味で浮世離れした社会感覚に嫌気というか、ある種の「白け」を感じてしまっても無理はないだろう。
- リベラル派は実際は権力の側にいるのに、反権力を気取って、その権力にふさわしいふるまいや責任を取ることから逃げている
- リベラル派の論は、自分で社会の理不尽を経験せず、稼ぐ苦労もしらない「無責任」な立場だから言えるものなのだ
大学を出た若者たちのほとんどは、仕事をしながら「社会」の厳しさを知ることになる。苦労も理不尽もたくさん味わう。だがそうしているうちに、年齢では年下だが、大学の先生方よりもずっと「大人」になっていく。かれらが威勢よく展開してきた論は、自分で食っていく、自分で稼いでいくことを知らない、まさしく「無責任」な立場だからこそ言えたのだと気づくようになる。
- そしてそういうリベラル派に感化された若者は、実社会に適応できず、社会で何も為せない。
- 自分が論を寄稿した雑誌を買うなと言う北守氏も、同じようにそういう社会で生きる人々の苦労を無視していている。
一般的な社会通念においてはまず絶対にありえないことだ。会社員がそんなことをしでかせば、普通にクビになってしまうだろう。少なくとも、まともなメンバーとして見なされることはない。ところが、人文アカデミアにおいてはそれが平然とまかり通ってしまう(「キャンセル・カルチャー」を特集するにあたり、その実例を前もって例示するハイコンテクストな販促パフォーマンスの可能性もあるが、おそらくは「真顔」だろう)。
(中略)
出版社を経営し、雑誌ひとつ手掛けるのにも多くの人の労力があり、生活がかかっている。かれらの語る「正義」には、いつもそのような観点が欠落している。意図的にそうしているのではなくて、かれらは本当にそのようなレイヤーにある「名もなき人間の生活のリアル」を想像することができなくなっているのだ。
(ここは他者に対する批判だから、下手に要約して意図をねじ曲げるのは危険なことなので、長くなるが引用する)
- 実社会に生きていれば、自分の考えを曲げなければならないことも多々あり、それが現実を生きるということだが、リベラル派はそれができない
- 大衆はそういうリベラル派に愛想を尽かしているが故に、「常識」や「伝統」が再評価され復権しているのだ
- 私は単純な知力や学力ではそういうリベラル派に及ばないが、大衆感覚を身につけているという点で、彼らより優れており、だから寄稿依頼や出演依頼がひっきりなしに来る
そして、そのような白饅頭氏の記事を受けて、plagmaticjam氏は、そのような感覚を白饅頭氏が持つようになった背景には、「自由であれ」と「社会に適応しろ」という、矛盾する二つの要求に挟まれた「狭間の世代」だったからという経緯があるのではないかと述べているわけです*1。
白饅頭氏の記事を読んで覚えた既視感
読んだ最初の印象を語ると、「うわぁ、社二病だぁ」というものです。
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同率3位:「社会ってそういうもんだよ」と酸いも甘いも知っている感を出す(18人)
入社数年目では、まだまだ知らないことも多いはずですが、「自分はいろいろ知っています」と言った雰囲気を醸そうとするようです。
「社会の何を知っているのか実際の体験をもとに話してほしい」(28歳・男性・東京)
「社会の良し悪しを知っているし、それを受け入れられる自分カッコいいと思っていそう」(25歳・男性・東京)
大した苦労もしていない人が語る「社会ってそういうもんだよ」が後輩に響くはずないですよね。
ただ、馬鹿にできないのが、こういった社二病的心性こそが、1990年代から2000年代において、新しい歴史教科書を作る会に代表されるような新保守主義の流れを生み出してきたともいえるからです。
「現場の感覚を信じる」ことこそが、カルト化を生み出した
『脱正義論』という本があります。小林よしのりが1996年に出版した本なのですが
白饅頭氏が述べたようなリベラル批判は、まんまこの本にも書かれているわけです。曰く、リベラルは上から偉そうなことを言ってるだけの人間だが、実際に社会を運営し改善しているのは、市井に生きる大衆のプロフェッショナリズムである。若者たちよ、運動なんかやめて日常に帰れ!と、主張するわけ。まんま同じですね。
そして、そのようなことを主張する源流となったのが、1990年代に出版された『80年代の正体』という本に代表される、80年代のニューアカ・消費社会批判なんですね。
浅羽通明や大月隆寛といった、『脱正義論』にも寄稿し、編集にも関わった人たちが論を述べているこの本は、80年代の、浅田彰や中沢新一に代表されるようなニューアカや、上野千鶴子や新人類三人組(中森明夫、野々村文宏、田口賢司)に代表されるような消費社会擁護言説に対し、「大衆の身体感覚を無視している」と批判し、言葉や情報ではない自らの感覚こそを信用しろと主張したわけです。そして、これら批判は一面では正しかったです。例えば、「フェニミズムは何も答えてくれなかった」という『物語の海 揺れる島』という本に掲載されているルポタージュがあるんですが、この本では、上野千鶴子のような消費社会擁護のフェミニズムに感化された高学歴の女性が、しかしそのような思想と、自らの女性としての身体に矛盾を感じるようになるという過程が記されています。
でも、じゃあそういう風に、言葉や情報と、自分の感覚に矛盾を感じるような女性がどこに向かったかといえば、オウム真理教だったわけです。
そして、それと同じように、『脱正義論』で日常に返ったはずの小林よしのりや、その信者であるコヴァ信*2は、やがて『戦争論』
を経て、「新しい歴史教科書を作る会」のような新保守主義運動にのめりこんでいくわけです。一体、自分の日常における感覚を信じる人々が、なぜそのようなカルト宗教や新保守主義運動にのめり込んでいったは、1990年代から2000年代の社会学や現代思想における大問題で、下記のような様々な研究・分析が行われました。*3
それらの議論には、様々な違いがあるのですが、しかし共通して述べられているのが「『社会』というものが分断されつつあり、その中で『何が正しいか』ということも分断されつつある」という見解です。
高度経済成長期までの日本においては、会社に正規雇用されてきちんと働くことと、社会や日本という国全体を幸福にすることがイコールでした。白饅頭氏の記事や、浅羽通明・大月隆寛と言った人々が「市井に生きる大衆のプロフェッショナリズム」を賞賛するのも、基本的にそういう人たちが仕事を頑張れば、それこそが社会や国家をよくすることにつながるという社会観があるからなわけです。
ところが、バブルが生まれ、そしてはじける中で、日本経済全体が均衡・縮小していくと、「新しく富を生み出す」のではなく「他人の富を奪う」ゼロサムゲームこそが、仕事の大部分を占めるようになるわけですね。
例えばハゲタカファンドで働く人。彼らは、彼らの職業倫理に従ってがむしゃらに働くわけですが、しかしそうやって一生懸命に働いて、様々な企業をディスカウントし「買い叩く」ことは、むしろ不幸を生み出していくわけです。
あるいは「地方おこし」。一見「自分たちが生きる地方に観光客や移住者を募る」ということは、立派な社会貢献に思えますが、しかし当然の帰結として、ある地方が地方おこしに成功して移住者や観光客が多くなれば、その分他の地方に向かう移住者や観光客は減るわけで、結局同じパイを奪い合って自分たちに利益誘導しているだけなわけです。
しかし、言葉や情報を無視して、自分の「感覚」だけを信じていると、こういう現実は見えてきません。その結果として、自分の半径数十メートルに閉じこもり、その外からの声を聴かない蛸壺ができあがってしまうわけです。
そして、それこそがまさに、カルト宗教や新保守主義運動に人々がのめり込む理由なのです。
オウム真理教において人々がサリンが撒いたのは、自分たちの閉じた集団の中ではそれこそが本当に、来るべき終末から世界を救うすることにつながっていたからです。新保守主義運動において「歴史戦」や「排外主義」に人々がのめり込むのも、彼ら集団の内部ではそれこそが本気で日本を守るために必要なことで、それをしなければ日本は滅ぼされてしまうという危機感があるからなんですね。
「自分の感覚だけを信じる」人だからこそ、サリンを撒けてしまう
彼らは、外から見れば確かに、現実から遊離した言葉の世界に閉じこもっているように見えるかもしれません。しかし彼らは彼らなりに、自らの「感覚」に忠実になっているからこそ、サリンを撒いたり、在日外国人に罵声を浴びせかけたりしているわけです。
ここら辺の当事者経験を、著書に記しているのが、今はすっかりリベラル知識人となった雨宮処凛氏だったりします。
もう知らない人の方が多いかもしれませんが、彼女は最初「ミニスカ右翼」として登場して、一水会というゴリゴリの新右翼団体にいたわけです。
彼女は、イジメといった、現実における苦しみを沢山味わったからこそ、全然右翼の思想の内実とか知らないまま、「感覚」に従って右翼活動に踏み出していったとこの本で述べています。その点で言えば、知識無き身体感覚の称揚がどんな結果を生むか、体現していたと言えるでしょう。
このような流れを知っていると、白饅頭氏の記事を読んでも、特に新しい気づきがあるわけではなく、「ああ、1990年代から2000年代にあったあの流れを繰り返そうとしているのね」としか思えなかったりするわけです。
白饅頭氏やplagmaticjam氏には、是非これらの研究をきちんと学んで、彼らが陥った隘路に至らない道筋、1990年代から2000年代に間違った彼らと自分たちが、何が違うのかを、見つけて欲しいですね。
人文リベラルに対してのイメージと実像
ところで、白饅頭氏は北守氏に代表されるような人文リベラルに対して「現実を知らない余裕ある象牙のある塔から口出す裕福な人々」というイメージを持っていますが、これって本当なのでしょうか?
僕は、北守氏を含めて、リベラル的だったり左翼的思想を持つ人たちと、現実で十数人程度出会ったりしているのですが、かれらのなかで、中流以上の安定した職業を持つ人って、2人ぐらいしか知らないわけです。問題の北守氏だって、そんな安定した身分ではない。
大体は、大学院で奨学金という借金を積み重ねながら研究していたり、非正規雇用で食いつないでいたりしながら、合間を縫って勉強したりデモに参加したりしているわけです。*4
「現実の厳しさを知る」ということで言えば、キツいバイトをしたり貧困生活を送る中で、むしろ彼らこそ「現実の厳しさを知っている」と言えるでしょう。
「今ここの社会」を全てと思うことが、ホロコーストを引き起こす
にもかかわらず、彼らは「今生きている社会」にただ適応するのでは無く、それぞれ社会に批判的な意見を持っていたり、「理想の社会」を追い求めていたりする。一体なぜか?
簡単に言えば、「今の社会のありようを肯定すること」が、必ずしも人を幸せにしないということや、今の社会とは違う社会のありようもあるということを、知っているからです。
白饅頭氏は「現実の社会の中で、おのおのの持ち場に割り当てられた仕事をきちんとやる」ことこそ重要と言います。
しかし実は、そのように社会システムに対し順応するために頑張ることこそが、ナチスドイツのホロコーストや、旧ソ連の大粛清のような虐殺を引き起こしたと言うことが、まさしく人文知が教えてくれることなのですね。
toyokeizai.netアイヒマンという官僚は、まさしく白饅頭氏や、彼が仕事で付き合う経営者・管理者のように、「自らの仕事を頑張ることこそ、自分がやるべきことだ」という信条を持った人間でした。しかし、彼の場合、その仕事は、まさしくユダヤ人や様々なマイノリティを効率よく虐殺することだったわけです。
人文知なき「現場感覚」賞賛の行き着く先は、まさにこれなのです。
彼らが理想論を貫けるのは「今ここ」が全てではないということを知っているから
そのような悲劇を繰り返さないためにも。人文リベラルは、むしろ現実の社会に対し批判的となり、そうではない「新しい社会のあり方」を模索しているのです。
例えば、「人文リベラル」の代表格であり、白饅頭氏のような人が忌み嫌う社会学は、今の社会を「前近代」や「(初期)近代」と対比し「後期近代社会」と呼びます。
つまり、今ある社会というのは、たまたま今という時代状況に生まれたありようであり、決して永遠不変のものも唯一無二の者でもないわけというのが、社会学という学問の基本認識なんですね。先日逝去した見田宗介という社会学者は、真木悠介という筆名で、『時間の比較社会学』という本を出していますが
社会学者にとっては「時間」という概念ですら、時代・場所が違えば異なるという認識なのです。(しかし昨今は、見田宗介氏のように、社会調査の一方で、巨視的に社会を捉え、その二つを結びつけるのでは無く、コマゴマとして計量調査だけやる社会学者の方がむしろ多かったりするんですがね。そんな中で見田宗介氏のような人がなくなったのは本当に惜しい。ご冥福をお祈りします)
あるいは、「経験」「感覚」という面に着目すれば、現代の「仕事を頑張って、その日暮らしではない、きちんとまともな職業につく人こそ偉い」という感覚すら、実は特殊なものだったりすることが、下記のような社会学や文化人類学の調査で明らかになるわけです。
文化人類学や社会学の人文知は、まさしくフィールドワークによって人々の「現場」に直に赴き、仕事や生活を体験したりするわけですが、しかしそうやって調査をすればするほど、「今の日本社会」を相対化する視座を得ていくわけです。そして、僕を含めた人文リベラルや、自身でこういう研究をしたり、研究書を読むことによって、「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知っているわけです。
白饅頭氏や、彼が付き合う経営者・管理者は「今ここの社会の厳しさ」を、人文リベラルが知らないと言いますが、人文リベラルの多くは、プレカリアートと呼ばれるような不安定な身分なわけで、「今ここの社会の厳しさ」は十分知っているわけです。
しかし一方で、それが世界の全てではないことを知っている。だから、それに縛られない。それだけなのです。
「今自分が生きる現実」が全てと思わないために、人文知やサブカルチャー、インターネットはある
plagmaticjam氏は、自分や白饅頭のような人が、失われた30年を生きる厳しい状況の中で、社会適応の重要性を知った「狭間の世代」だと言います。
しかし、一応僕も1987年に生まれ、失われた30年に成人した人間ですが、「社会適応」なんてクソ食らえと思っています。
ロスジェネの人たちはよく「自分たちが自己責任信者になったのは、社会がそれを強いてきただからだ!」と言います。それは一面では確かに事実なのですが、しかし僕や、僕以外にも、失われた30年を生きる人たちにも、そういう「社会適応なんてクソ食らえ」と思うことができる人は数多く居ます。
例えば、先日『NEEDY GIRL OVERDOSE』という大ヒットゲームを生み出したにゃるら氏、彼は、エッセイの中で述べられているとおり、親と対立したり、大学を中退して引きこもったりと、かなり厳しい人生を経験してきました。
しかし彼は、むしろ社会に適応しないのも「あり」だと言うわけです。その背景にあるのは、彼が人生の中で体験してきた、幾多のアニメ・マンガ・ゲームや、その他サブカルチャーです。
文化というものは、まさしく人文知と同じように「今ここの現実」が全てではないということを教えてくれます。しかも人文知と違い、楽しくそれが学べるわけです。
また、僕は最近VTuberという存在にはまっているのですが、VTuberの多くは、自らを「社会不適合者」と自嘲し、「VTuberにならなきゃただのダメ人間」と言ったりします。実際、遅刻常習犯だったり、コンプラ無視の配信を繰り広げる彼・彼女らは、現実社会ではまともに生きていけないでしょう。
ですが、そんな彼・彼女だからこそ、その配信は無茶苦茶面白いわけです。少なくとも、どっかの動画サイトで偉そうな経営者の人生訓を聞くよりずっと。ここでは、「インターネット」を現実社会と切り離した場として活用することにより、「現実社会でダメ人間でもインターネットで輝ければいいじゃん」と思えているわけです。
今という時代ほど、様々なサブカルチャーに触れることができる高度な情報社会はないわけで、そして多くの若者はそれを利用して、「今自分が生きる現実」が全てではないことに気づいている。
そういう彼らを見ると、「社会が悪いから自分がこうなったんだ」と愚痴る、ロスジェネや白饅頭氏・plagmaticjam氏のような存在は、どうも「現実社会の厳しさ」に甘えているようにしか見えないのですね。
白饅頭氏・plagmaticjam氏のような人こそ、本気で人文知を勉強したり、あるいは病的なまでにサブカルチャーやインターネット文化のめり込むべきなんじゃないかと、僕は思うわけです。
追記(2022年4月12日 1:57)
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログb.hatena.ne.jpこの記事の前半の内容はまんま『ゼロ年代の想像力』に書かれていることで、そのことを知らないはずのない筆者が、参考文献としてまったく触れていないのは知的誠実さを欠くのではと思った…
2022/04/11 17:59
この指摘は全くそのとおりで、呉智英・浅羽通明・大月隆寛あたりのサブカル保守の思想が、いかに1990年代においてメルクマールとなったか。そして、その思想が隘路に陥ったかという話は、ほぼ宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』と北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』から学んだ話になります。それを書かなかったのは本当に知的誠実さにかける。申し訳ない。
言い訳になってない言い訳をさせてもらうと、このお二方の著作は、ほんと僕の血肉になりすぎているもので、この記事に限らず、僕が書く文章は多かれ少なかれお二方の影響下にあるんですね。それぐらい当たり前にありすぎるから、出典をついつい入れ忘れちゃうわけです。いやぁ本当に申し訳ない……
お詫びとして、特に『ゼロ年代の想像力』とかについてはまた改めて、この2022年から『ゼロ年代の想像力』を読むという記事を書きたいんだけど、それはそれとして、みんなもっと宇野氏の著作には注目したほうが良いと思うんだよな。東氏の論って、美少女ゲームとかの、たしかにはてなとかとは親和性を持つけど、結局狭い範囲の文化・クラスタを対象にしたものだったけど、宇野氏の著作はそれよりずっと射程が広かったし、より「はてなに親しむような私たち」を相対化してくれるものだったわけで。読んで気づきを得られるのは、圧倒的に東氏より宇野氏の本の方なわけでさ*5。