前回の記事 amamako.hateblo.jp で書くの忘れていたことをあとで思い出したんで。
千田有紀氏が次のようなツイートをしたことによって、「市民的公共性」についての議論が盛んになっています。
私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。 あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない
https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504
まず、基本的に言うと、僕もこの意見には賛成。というか、ずっと以前に、僕も「表現の自由は、むしろその表現について、批判的な意見も言えるような市民的公共性の中でこそ保たれる」というような主張をしたことがあります。 amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp (今見たらこれ9年前の記事なのね……)
というか、逆に聞きたいんですけど、「万人が、その立場に関わらず自由に議論を提起し、そしてその議論が尽くされないとならない」という「市民的公共性」を、それが実際に実現しているかではなく、そもそも「そんなことは必要ない!」という規範として*1否定している人達は、いったいそれでどうやって今のこの、言論の自由を保証する自由民主主義制度を支えられると考えてるんでしょうかね?
「議論すれば社会は変えられる」とみんな信じているからこそ、人々は社会を変える際に、暴力ではなく議論を選択するわけで、もし「議論なんかしても社会は変わらない」とみんなが考えるようになったら、行き着く先は万人の万人による、暴力を用いた闘争、そして勝者による独裁なわけです。そうなれば、今のこの言論・表現の自由なんて消し飛びますよ。勝者による、「不快なものを規制する」表現規制を妨げるものなんて何もなくなるんですから。もしかしたら、「そうなったとしても自分は勝者の立場に立つから、自分の表現は守られる」とか考えてるんですかね?だとしたら、おめでてーなーとしか言いようがありませんが。
(実はここ、市民的公共性を批判しがちな社会学者に対する愚痴だったりもして。そう、実は社会学自身の内部でも最近は「市民的公共性とか古いっしょ」みたいな話がよく出るのだ。おそらく、今回の議論でもそういう連中が市民的公共性を揶揄する文章を増田とかtwitterとかに書いているんだと思うんですよ。いや確かに、市民的公共性は「事実」として実現してないし、それが実際は公共性の外のマイノリティを不可視なものとしてしまうという批判はあると思うよ。しかしだとしても、少なくとも今の自由民主主義体制は、「市民的公共性」を前提として動いているわけで、市民的公共性を規範としても否定するんなら、じゃあそれとは違う「公共性」のあり様を提起できるのかと。もしそれができないでただ「否定」を叫んでるだけなら、それはワイマール共和国時代に「今の政治ってクソだよねー」と文句ばっか言ってナチスの台頭をまねいた、当時のインテリたちの態度と何が違うんですかと。)
インターネットに「市民的公共性」は存在しない……少なくとも現在は
ただ、その一方で、じゃあ今のこの社会、特に今の日本のインターネット空間で、無邪気に「議論が活発になされること」=市民的公共性の発露とみなせるかといえば、まあ、僕が言うまでもありませんが、それは違うわけです。
そもそも、市民的公共性を成り立たせるためには、まず「立場や身分の違いのかかわらず、議論の相手を一人の人間として尊重し、相手の意見を真摯に聞き、自分の意見を真面目に言う」ということがその公共性の参加者に求められるわけですが、前回の記事で述べたように、そんなの価値観だれも持ってないわけです。更に言うなら、市民的公共性は基本的に、メディアによって歪められることのない直接的な対話を想定したものなわけで、そのためにハーバマスはそのような公共性が芽生えた場所として「サロン」のような場所を想定したわけです。が、現在のインターネット環境は「サロン」と呼ぶにはあまりに広大でフラットすぎます。人間どんなに頑張ったって、一度に同時に対話できる人数はせいぜい十人程度が限界でしょう。ところが、インターネット空間で「誰でも参加できる自由な議論」なんてものを行おうとすれば、それこそ一度に数百人を相手にしなくならなきゃならなくなるわけです(前回の記事も数百ブクマぐらいでしたしね)。そんなものをいちいち誠実に行っていたら、そりゃ疲弊して、それこそ今回の千田氏のように議論から撤退せざるを得なくなるわけです。それか、そのようなインターネットに過剰適応して、メンタルに失調をきたすか。
だから人々は当然、インターネット上においても、というかインターネット空間だからこそ、そういう「開かれた空間」から撤退して「閉じた空間」に移行しようとします。ところがそこにも罠がある。「閉じた空間」を作ろうとすれば、そこには当然、どんな人間を閉じた空間に入れるか選別が行われます。そうすれば人間、やっぱ自分と同じような価値観の人とつるみたくなるんですね。そして、同じような人と「閉じた空間」にこもって、コミュニケーションをしていると、どんどん先鋭化して、違う立場の人の意見を聞かなくなっちゃうわけです(ここで「自分もそうかもしれない」と思った人はまだ大丈夫、「あーあいつらのことね。」とか、自分と敵対する側を思い浮かべてる人ほど危険ですよ)。
つまり、インターネット上で議論をしようとすると、頭の良い・悪い、ウヨサヨとかに関係なく、他人の意見は聞かなくなるものなんです。これは、個人の性格とかではなく、インターネットというアーキテクチャの特性です。まあ、それが必ずしも悪いとは言えない(趣味のつながりを作る際は今まで述べた特徴はむしろ好都合だったりするしね)んですが、少なくとも市民的公共性に基づく討議との相性は、最悪であると言わざるをえなくなるわけです。
市民的公共性は「難しい」、だからこそそれを実現する「仕組み」が必要
ただ、前に述べたことの繰り返しとなりますが、市民的公共性は、確かにそういうふうに、今の社会で実現するものとしては極めて「難しい」ものなわけです、が、それでもこの、曲がりなりにも自由な社会を守るためには「目指さなければならないもの」なんです。
だからこそ、私たちはその難しい課題をいかに実現するかを、考えなくてはならないのです。例えば、「閉じた空間」であっても、同質性ばかりではなく、意見の異なる人々をマッチングさせることができないかとか、「炎上」のように、一度に少数の人に多数がわっと押しかける構図を防ぐことはできないかとか。
実は、そのような「社会」を制御する方法を考えるツールを蓄積したものが、社会学という学問だったりするわけで、僕が今回の騒動を通じて思ったのは、おそらく多くの人と正反対なのでしょうが、「だからこそ、社会学的な考え方が重要なんだよな」ということだったりするのです。
もっと考えを進めるために
最後に今回の問題について考える参考文献。
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