熊代亨(id:p_shirokuma)氏が、ブログで「週刊金曜日」に、サブカルチャー作品における「努力の位相の変化」について寄稿したという記事を見ました。
『週刊金曜日』の特集「若者に広がる“新しい宿命観”」に参加しました - シロクマの屑籠
それで、今回特集のタイトルが、「若者に広がる“新しい宿命観”」という面白そうなテーマで、しかも斎藤環氏や内藤朝雄氏に土井隆義氏といった、自分が大好きな方々が寄稿しているということで、さっそく買って読んでみました。
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というわけで、特集を読んだ感想を書いていきます。
「努力によって自由な選択ができる個人」v.s.「努力できるかどうかも宿命によって左右される個人」
今回の特集は、斎藤環氏が30代の友人から「努力は才能のうちです」という言葉を聞いて、驚いたことがきっかけで組まれた特集だそうです。で、内容の構成としては
- 斎藤環氏による大学生へのグループインタビュー
- 熊代亨氏による、近年のマンガやゲームといったサブカルチャー領域における「努力」の描かれ方の分析
- 内藤朝雄氏による、「スクールカースト」的な空気に支配され、前近代化していく日本の人格形成についての考察
- 土井隆義氏による、「努力したって報われない」けど「幸せ」という、現代の若者たちに刷り込まれつつある、「新たな宿命観」という概念の提示
- 斎藤環氏による「一部の特権階級にのみ努力することが認められなくなっていっているのではないか」という、これまでの記事のまとめと、それを修正するために、「努力」を認めるコミュニケーションをしようという提言
という風に、5つの記事から、若者の「努力」についての考え方と、その背後にある「新たな宿命観」という人生観を見ていく、という特集でした。
そして、どうやらいずれの記事においても、それぞれ微妙なずれはありながらも
- 近代的な「努力によって自由な選択ができる個人」
- 現代的な「努力できるかどうかも宿命によって左右される個人」
という二項対立が想定され、そしてその内前者のような近代的自己は衰退し、後者の現代的自己が台頭しつつあるのではないか、そんな認識が、根底にはあると、僕は読解しました。
その認識自体は、僕も同意できます。自分が普段付き合う人たちの人生観や、あるいはサブカルチャーに描かれる世界観においても、「何が何でも自分がなりたい自分になれて、そしてみんながそういうなりたい自分になれる社会」という理想や思いはほとんど語られたり描かれたりすことはなくて、「みんな周りの状況を見ながら、求められるよううまく適応し、そしてその決められた立ち位置で社会を支えていく」、ということが、自分のライフスタイルや、社会全体の幸せな形であると、そんな風に語られたり描かれたりすることが多いと、感じるんですね。
前者のような自由な社会は、でも自由であるがゆえに、自分で決めて、責任も取らなきゃいけないという点でしんどいし、もしそれで失敗したら何も救ってくれない。それに対して、後者のような生き方とそれに基づく社会は、周囲にある程度適応さえすれば安定も保証されるし、失敗する可能性も少ない*1のだから、多少我慢してでも、後者のような生き方・社会を目指すべきだ、そんな価値観が、現代の日本には、広がっている気がするのです。
「周囲に合わせて生きていくしかない」という宿命感は、もはや受け入れたほうが幸せになれるのでは
そして僕も、前者のような「近代的自己と社会」と後者のような「現代的自己と社会」のどちらがいいかと言えば―意外に思われるかもしれませんが―後者のほうが好きなのです。そもそも「なりたい自分」と言うけれど、なりたい自分なんてものを首尾一貫して持つってしんどすぎるし、ましてやそのために苦しい「努力」なんかするのは大嫌いですから。周りに流されてれば努力しなくても楽に生きられる方が、断然幸せじゃないかと、思うわけです。
その点は、後者の「宿命観に縛られる若者」を憂慮する、論説を寄稿した四者とは大きく意見が違うところかもしれません。でも、熊代氏も自戒していることですが、「宿命に縛られず努力しよう!」なんて考えは、結局その努力が報われるだろうというのがリアリティある現実だった、前期近代、日本でいう高度経済成長期だからこそ通用した考えじゃないかと思うんですね。今は、ある一方向に努力して技術を習得したり、資本を備蓄しても、その技術や資本がすぐ無意味になってしまうかもしれないくらい、進歩の方向が不透明で、流動化している時代なわけです。
例えば先日、イギリスの大学の研究で、現在の職業の半分が、ロボットや人工知能に取って代わられるかもしれないという報告が、注目を集めました。
ロボットは人から仕事を惜しみなく奪い、20年後にこの職業はなくなる
この予測がどれだけ当たるかわかりません。ですが、仮にこの予測が仮に当たって、しかもその職業が、「自分がなりたいと思って必死で努力してきた職業」だったら、もう悲惨極まりないですし、その後の人生一体どうするのさ、ということにもなるわけです。
(実は、こういうことは、それこそ既に「石炭から石油へのエネルギー転換」という形で、日本を含めた先進国で起きてきたことなんですね。それによって生じた炭鉱労働者の悲哀なんかは、それこそ普段の「週刊金曜日」読んでればいっぱい出てくるわけで……)
だとしたら、そういう社会の状況に合わせ、「『なりたい自分』なんていう、曖昧で根拠の無いものに固執するのではなく、周囲の状況・空気を読みながら、それに適応していく」という生存戦略を採用するというのは、極めて理にかなった効率的なやり方であり、人がより幸せになれる生き方なんじゃないかと、そう思うわけです。
例えそれが「宿命論」と呼ばれるものであっても。
ただ出来れば、「宿命の乗り換え」が出来るようにはなりたいよね
ただ、じゃあ完全に「宿命論」を受け入れれば、人と社会は幸福になるのかというと、そうも思えないというのも、また事実なわけです。
例えば、ワタミやすき家などに代表される長時間労働や、それによる過労死・過労自殺。あるいはそれこそ内藤朝雄氏の専門である「いじめ」の問題など、これらはまさに「そこにいることが自分の『宿命』なんだから、そこから逃げ出すことはできない」と、個人が思ってしまうことによって生じうる、「宿命論」の負の側面であるといえるでしょう。
また、そこまで悲惨でなくても、人は今いる場所から抜け出したくなることがどうしたって生じてしまう生き物なのです。この様に。
「生きることは変わることだ 王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう 腐海も共に生きるだろう」
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僕は、「宿命の乗り換え」という選択肢が示されることが、このアンビバレンツを解消する、重要な方策ではないのかと考えるのです。
つまりこういうことです。人には確かに「宿命」が存在する。だけれど、その「宿命」はたった一つだけあるのではなく、いくつも並行して存在しているのかもしれないのです。「地元で小中高ずっと同級生だった仲間と過ごす」という宿命もあれば、「大学デビューで東京に行って、毎日クラブ通いする」という宿命もあるかもしれないし、「引きこもってサイバースペースの神になる」という宿命もあるかもしれない。そして、それらの宿命の間の垣根は、そんなに高いものではなく、ふとした時に偶発的に飛び越えてしまうかもしれない、そんな、「柔らかい宿命論」なら、前述したような「狭い世界から抜け出せない」という問題もなく、かつ、「『なりたい自分』になろうと日々努力する〈強い自己〉」でなくても大丈夫になるのではないかと、そんなことを考えるのです。
サブカルチャーから見る、二つの「ル―プについての想像力」
例えば、ぼくはいわゆる「サザエさん時空」な作品が大好きなんです(ただ、「サザエさん」自体は余り好きではない)。うる星やつら、ドラえもん、クレヨンしんちゃん、ケロロ軍曹、銀魂……なぜこれらの作品が好きなのかといえば、それは「ループしているからこそ、その一回一回の中でハチャメチャに面白いことが起きて、世界の豊かさを垣間見ることが出来る」からです。
一方、近年ギャルゲーとかノベルゲーム、ライトノベル原作作品によくある「ループを繰り返すことによって何かを達成する知識や経験値を得ていく」というループものは、あまり好きではないんです。だってそこでは、「ループ」というものが、その上位の目的のためにクリアされる、道具的存在になってる気がするのです。それこそ「作業」のようにループを淡々とこなして公開CGを埋めていって、で最後にこの世の真実に到達出来ましためでたしめでたしって……一体何が面白いと言うのか!?世界の真実とかそんなことどーでもいいでしょうが!あなたがその何百回、何千回と繰り返したループは、全てそんな、くーーーーーーーーーだらない目的のためになされたのですか!それなら、きちんと友だちと遊んだりしたほうがよっぽど大事だよ!と、こう叫びたくなるのです。
多分、同じループを前提としたゲームでも、そのループ周回ごとにきちんと別の楽しさがあるなら、楽しめると思うんですよ。例えば僕は、「Fallout 3」というゲームが大好きで、ほんと今でも、一旦プレイし始めると朝までかならずプレイして徹夜になってしまうのですが
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このように、「ループもの」と言われる様な作品も、「ループ自体に楽しみがある」か「ループを繰り返すという手段によって、最終目的が達成される」という二つの類型があるのではないかと、僕は考えるわけです。なぜかゼロ年代には両者一緒に「ループもの」と同一視されてきたわけですが、しかし「ループを手段とするか目的とするか」で、「ループもの」は全く二つに分かれるのです。
そして僕は、「ループ自体を目的とする作品」に、「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」を持つための、重要なヒントがあるのではないかと、そう考えるのです。
「きっと何者にもなれない」でいいじゃんと言える、自分になりたいし、社会でありたい
僕の提示するこの「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」は、人によってはほんと甘っちょろい考え方に映るのでしょう。どんな職業(=Beruf(宿命))も、一生かけて苦労してやっと一人前になれるようなものであって、そんなにほいほい乗り換えるような奴は、きっと「何者にもなれない」まま一生を終えてしまうだろうと。そうなれば他者からの承認も得られず、貧しい一生を送ることになるだろうと。
ですが、「何者にもなれない」でいることってそんなに悪いことなのか?むしろ、「何者」かにならあければ、基本的な承認からも疎外されてしまう社会のほうがおかしいのではないんでしょうか。
そして更に言うなら、実は社会ってもっと優しくて、「何者にもなれない」ままでも、肩肘張らずに周囲に流されてゆるく生きてれば、結構承認もしてくれるんじゃないかなと、そうも思うのです。
これは、僕が、両親共に健在であり、貧困にも喘いでおらず、学歴もそこそこあるという、何重にも恵まれたセーフティネットがあるから、そう楽観的になれるだけなのかもしれません。
でも、だとしたら、そういうセーフティネットが万人にあって、そしてその結果、がむしゃらに頑張りたい人はがむしゃらに頑張ればいいけど、そうでない人は「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」の元で、「何者にもなれない」自分を謳歌できる、そんな社会を目指すべきいじゃないかなーと、僕は思うのです。
*1:かどうかは、実は怪しかったりするのだけれど