例のフランスの新聞社襲撃事件。まず、犠牲者の人には心より哀悼の意を表します。
また、暴力によって表現を抑圧しようということは絶対に許されてはならないと、僕も思います。そしてその一方で、これを気にイスラム教徒全体が過激なテロリストと思われることも、あってはならないと思います。
ただ、その一方で、襲撃を受けた新聞社が英雄視され、その新聞社が発行していた新聞の名を取って「私はシャルリ」という大合唱が繰り広げられる、マスメディアやネットに、どうも違和感を覚えてしまうのも、率直なところなんですよね。
自分は、あの標的となった「シャルリ・エブド」という新聞がどういう立ち位置にあった新聞なのかは、テレビのニュースで見てるぐらいの内容しか知りません。
ただ、報道されたり、ネット上で見る風刺画を見る限り、イスラム教の預言者であるムハンマドをひどくこき下ろす内容の漫画を掲載していたのは、事実のようです。
もちろん、そういった表現も認めることが、「表現の自由」なのだということは、頭では理解できますし、これに表現の自由を認めなかったら、やがて他の表現にも規制がかかってしまう、だからこういう表現であっても、きちんと守らなくてはならないというのも、論理としては、理解できるのです。
でも、その一方でやっぱりこうも思ってしまうのです。「これは、この宗教を大事にしている人からしたら、耐えようのないほど屈辱的なのだろうな」と。
敢えて、「日本人」的に例えてみる
自分は、多くの「日本人」と同じように、普段生きていく中で宗教を意識なんてしていないです。だから、この絵がどれだけの屈辱をイスラム教徒にもたらすのか、ほんとうの意味では理解できないでしょう。
ただそれでも、なんとか自分の身に置き換えて考えてみると、要するにこれは、「自分が大切に思っている人(家族でもいいし恋人や親友でもいい)が、公然と揶揄され、そのことに何も抵抗できない」という状況なんじゃないかと、思うわけです。
これから示す比喩が適切かどうかわからないですが、とりあえず僕は、こういう比喩をすることで、今回の事件を何とか解釈しようとしています。
……
止むに止まれぬ事情で、単身別の国に引っ越すことになったあなた。
その別の国では、表面上はみんな平等ということになっているけど、実際は明らかに「外国人」ということで差別され、周囲とうまくコミュニケーションも取れず、まともな職業にもつけないで、貧しい生活を送っています。
そんなあなたの唯一の心の支えは、祖国に残してきた「大切な人」です。大切な人を思うことによって、あなたは何とかその辛い生活を耐えてきました。
しかしそんなある日、その国の新聞にでかでかと、その「大切な人」を揶揄するような漫画が載るようになりました。ある日はその「大切な人」の顔をとことん見難く描いた絵。また別の日はその「大切な人」が殺される絵、更にまた別の日には、その「大切な人」が誰かに犯されている絵が、掲載されます。
あなたは驚き、怒りを覚え、新聞社に抗議します。しかし新聞社は「この国は、誰もがこういう風に『風刺』されるのが当たり前の国なんですよ。ほら別の日には、全然違う人をひどく描いてるでしょ。でもこの人の家族も恋人も、笑ってこれを許します。だからあなたも、この国に住むなら、こういう絵を認めるユーモアを持ちなさいね」と言い、講義を無視して、あなたの大切な人を揶揄する漫画を掲載し続けます。
あなたは何とかそれを止めようとして、裁判所に訴えたり、新聞社の前で座り込みをしたりします。でも裁判所は「この国では表現の自由があるから、そういう表現も規制することが出来ない」と言うし、座り込みをしたって周りから笑われるか、「表現の自由を認められない野蛮人」として罵られ、馬鹿にされるだけ。一方、新聞社の方は「不当な圧力に屈せず表現の自由を守った英雄」として、その国の人々の殆どから賞賛され、そして新聞の編集者と、漫画を描いている漫画家は鼻高々にこう宣言するわけです。「私達はこれからも、こういう漫画を載せ続けますと!」。
あなたの味方をしてくれたり、あなたの気持ちをわかったり、同情してくれる人は、その国には誰もいません。
……
こういう状況で、絶望に陥り、その新聞をつくっている編集長や漫画家に、殺意を抱いてしまうことは、それを行動に移すかどうかを別にすれば、当然であるように、僕は思えてならないのです。
さらに言えば、そうやって「大事な人」を馬鹿にし続けた、「シャルリ」という新聞社を英雄視し、「自分はシャルリだ!自分もシャルリと同じようなことをし続ける!」なんてことは、どうも言う気になれないのですね。
むしろ、「私はシャルリではない」と言うことが必要なのでは?
というか、むしろ僕が思うに、そういう「シャルリみたいな風刺は無条件に社会で認められなければならない」みたいな雰囲気こそが、今回の事件の原因であるように、思えてならないのです。
例えば、今回の風刺画が風刺画ではなく、真正面から、「ムハンマドは実はひどいことをしていたんですよ」と書く文章の記事だったら、おそらく「それは事実誤認だ」という批判や、あるいは「当時の時代のことを今の倫理でさばくのはおかしい」みたいな、反論もできたし、それで溜飲が下がるということも、もしかしたらあったかもしれません。
ただ、風刺って、むしろ「真面目に反応した方が負け」みたいな、そういう雰囲気があるじゃないですか。風刺を認められない人は、頭の固い、ユーモアセンスのない人だとされてしまい、一向に相手にされない。風刺というものに欧米と比べれば不寛容である日本でさえ、そういう風潮を感じる時もあるんですから、「ユーモア大国」であるフランスなら、もっとそういう風潮は強いと思うのです。
そして、「相手にされない」ということは、おそらく「真正面から批判される」ことよりずっと、その人の心を傷つけると、思うんですよね。
そう考えると、「私はシャルリ」という言葉は、そういう「風刺は無条件に認められるべき」みたいな空気をむしろ強め、そして、今回のようなテロを起こしてしまう心情を作り出すことにしか、ならないのではないかと、僕は思うのです。
むしろ今必要なのは、表現の自由は大事であり、暴力に屈するようなことはあってはならないということを大前提においた上で「でも自分は、シャルリのような風刺画はよくないと思うし、自分が仕様とは思わない。その点で、私はシャルリじゃない。」と言い、別にシャルリのような風刺画が無条件に賞賛されているわけではないんだ、あれはダメじゃないかと思ってくれる人もいるんだという、共感されているという安心を、テロリスト予備軍になってしまいそうな、絶望している人々に、与えることなんじゃないかと、僕は思うのです。
先ほど無理やり例えた例でも、あれが苦しい原因の殆どは、「自分の声がその国では誰にも相手にされない」からだと思うんですね。自分の大切な人がこき下ろされる漫画があって、それに抗議の声を上げた時、例え少数でも、「君の怒りはよく分かる。自分もあの漫画はひどいと思う」と、共感している人がいれば。そして、その新聞も、無条件に賞賛されるのではなく、賛否両論といった扱いを受ければ、その新聞に感じる絶望や怒りも、和らぐと思うのです。
「表現の自由」が暴力によって脅かされ、それに対し「表現の自由」を守る側は、一致団結してそれを守るために戦わなければならないという時に、何寝言を言っているのかと、思われるかもしれません。ですが、むしろ僕は、こういうやり方でしか「表現の自由に対する暴力」を根本的に止めることは、出来ないように、思えてならないのです。