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上記の記事では「新海誠好きの元彼」という同人誌を企画したが、その後批判を受けて企画を延期した三宅香帆氏
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への、批判とも愚痴ともつかないような文章が書かれているわけですが、 正直全く同意できませんでした。
なぜなら、小島氏の上記の記事には「表現とは自分が覚悟さえすればどんなに人を傷つけてもいいものであり、そこで他者に配慮なんかしたら負け」という、特権性に由来したマッチョイズムがあるように思えてならないからです・
「新海誠好きの元彼」同人誌騒動への考え
まず、僕が「新海誠好きの元彼」同人誌騒動についてどういう考えを持っているか述べると
「なるほど確かにその企画によって傷つく人がいることへの配慮が足りなかったかもしれない。でも、それを企画者はきちんと理解した上で、発行を延期したんでしょ。だったら、それでいいじゃん」
ということに尽きます。
まあ、強いて言うなら、企画自体はとても面白そうなんだから、もうすこし、どう配慮すれば、傷つかない形で企画を進められるか議論してみても良かったんじゃないかと思いますが、企画者が「そういう配慮をしても結局無駄に人を傷つけてしまう」と思ったなら、部外者である僕は何も言うことがありません。
「加害の上に成り立っている」からこそ、その加害を最小化する配慮が求められる
ところがこの至極真っ当なプロセスに小島アジコ(id:orangestar)氏は疑義を呈すわけです。小島氏はこう記しています。
別に同人誌出せばいいと思うし、モノを描く、作る、というのは何をしても常に加害性が付きまとう。殆どの表現物は加害の上に成り立っている。特にそれが批評性をまとうものならばなおさらだ。だから、モノを作るときは、必ず、「自分は加害者である」という自覚と「人殺しの顔」をみられる覚悟が必要で、それが嫌で(人殺しをすることが嫌なのではなく加害者だと思われることがイヤ)(それは、中止文の中にある『自虐~』云々の言葉からも読み取れる)中止、というのは、なんか、(結局自分の加害性に対して責任を示さないので)表現をするものとして、ダサいな、と思う。
殆どの表現物は加害の上に成り立っている。特にそれが批評性をまとうものならばなおさらだ。というのはまさにそうです。それは小島氏が書いていた『となりの801ちゃん』についても言えるでしょう。僕はあれを面白く読みましたが、BLを好きな女性がネットで「ああいうマンガでBL好きに対するステレオタイプがなされるのは嫌だ」と言っているのは何度も目にしました。
ですが、表現というものが加害性を含むからこそ、表現者には。それをできる限り最小化する倫理的義務があるわけです。
表現をする自分の頭の中で「こういう表現をすると不必要に誰かを傷つけてしまうから、もうちょっと別の表現はないだろうか」と探るのもそうですし、時には自分の表現によって傷つくかもしれない人や集団に、「こういう表現をしようと思ってるんですけど、どう思いますか?」と意見を聞くことも必要でしょう。さらに言えば、表現をしたあとも、その表現によって傷つくと異議申し立てをする人たちと対話をし、場合によっては注釈を入れたり、表現自体を修正・削除することもあるでしょう。
実際、今回話題となっている企画のように、ある種の属性を持つ人々について、その様子をおもしろおかしく紹介する企画というのは。世の中には数多あるわけです。僕が好きなVTuber界隈でも、それこそBL好きや性依存、あるいは女性が男性と絡んでいるのを見ると幻滅してしまう「ユニコーン」と呼ばれる人々を紹介する配信があったりするのですが、しかしそういう配信は、例えば「これはあくまで一部のケースであり、これには当てはまらない場合もある」とか注釈を入れたり、あるいは「こういう人たちのやることって一見おかしく見えるけど、でも実は普通の人がやっているこういうことに近いんじゃないか」というふうに、単なるフリークスとして描くのではなく、理解できる存在として描くという形で、配慮を行っているわけです。
「覚悟」とは人を傷つけることへの免罪符ではない
ところが、そういった表現者が社会の中で表現をするなら当たり前のようにやっていることに対し。小島氏は「覚悟が足りない気がする」というわけです。小島氏の主義においては
- 「表現物は加害の上に成り立っている」という覚悟を持った上で、どんどん人を傷つける表現をする
- その覚悟を持てないのなら。表現自体をしない
という二者択一に問題が収斂してしまうわけです。
しかしこれは問題です。もしこういう二者択一で、すべての人が「表現をしない」を選択するなら、それはとても寂しい社会ではあるけれど、まあ倫理的には真っ当です。
ところが、多くの人はそれでも「表現をしたい」と思う。そういうときに、上記の二者択一的考え方では、そのまま「『覚悟』さえあればいくら人を傷つけても許される」ということになってしまうわけです。
ですが実際はそうではないでしょう。表現者がいくら自分の中で「覚悟」をしようが、その表現によって傷つけられる人にとっては関係ありません。覚悟があろうがなかろうが、傷つけられるのは嫌だし、できれば避けてほしい。
そのために「配慮」があるんです。表現は誰かを傷つける。それを自覚した上で、ではその傷をより少なく。浅くすることはできないか、必死に考えて、話し合う。今の時代、表現者に求められる「配慮」とは、こういうことなんです。
「傷つけたり傷ついたりするのが、まっとう」というのは、結局自分が傷つけられない場所にいる特権によるものじゃないの?
ところがそういう今の時代の「配慮」に対し小島氏は、以下のように不満を述べるわけです。
それは女性界隈だけの話ではなく、今のインターネットを含む現実の社会でも同じだ。他人に不快にされない権利というものに(そんなものはないのに)個人の意思表明、表現というものをキャンセルさせられるという方向に世の中が流れて言ってると思う。
なんか嫌だな、と思う。もっと、こう、それぞれの責任において、人を傷つけたり傷ついたりするのが、まっとうな社会や世界だと思う。
ですが、そうやって小島氏の言うように、それぞれが他者に配慮なんてせず、「覚悟」さえあれば自由に人を傷つけて良い社会は、本当に「まっとうな社会」でしょうか?
ここで重要なのは、「傷つけたり傷ついたりする」ということは、しかし実際は公平なものではなく、不均衡なものであるということです。弱者やマイノリティ、「異常とされるもの」ものに対して、加害は多く発生します。逆に言えば、強者やマジョリティ、「普通とされるもの」に対しては、加害はそれほど発生しません。
そして現代においては、僕や小島氏を含めた男性オタクなんてものは、ほぼマジョリティであり「普通とされるもの」なわけです。一昔前だったらオタクというのは「異常」とスティグマを貼られていたかもしれませんが、少なくとも現代においてはそんなことはなく、マスメディアできらびやかに活躍する男性アイドルまでが「オタク」を自称する時代なわけです。
そして、ネット上でオタクが盛んに「他人を不快にしたり傷つける表現も自由なはずだ!」と叫び始めたのは。まさしくその、男性オタクがマジョリティになり始めた頃なわけです。それ以前、オタクが「異常」として差別されていた時代には、ステレオタイプにオタクを描写するような表現がたくさんありましたが。ではそういう時代にオタクは「そういう、人を不快にさせる表現も自由だ!」と叫んでいたか?
実際はむしろ逆です。例えば『漫画ブリッコ』という雑誌で、中森明夫氏が「おたくの研究」と称し、おたくのことをおもしろおかしく、しかし侮蔑的に紹介する文章を書いたとき
www.burikko.net
オタクはどう反応したか。「中森氏の表現も、表現の自由の範疇だ」と納得?いいえ、むしろ、現在のキャンセルカルチャーと同じように、「中森なんてキャンセルしろ!」と叫んだわけですよ。
www.burikko.net
ところが、そこから時を経て、オタクがマジョリティであり「普通」とされる時代になると、途端に「キャンセルカルチャーなんて良くない。傷つけたり傷ついたりするのが真っ当な社会だ」と言い出す。
だとしたら、それは、結局「自分が傷つけられない立場に立つようになったから」、そう言えるようになったとしか、思えないのです。
女性オタク界隈の風習は、傷つけられる「弱者」の立場から編み出された知恵である
一方で、そうやって男性オタクが普通のものとされる中で、女性オタク、とくにBLや夢女子と言われるような人々は、いまだ「異常」とされることが多く、社会からより傷つけられやすい立場にあるわけです。
そして、そういう立場にいる人々は「傷つけたり傷ついたりするのが、まっとう」なんて呑気なことを言ってられない(そんなことを言っていたらとにかく一方的に傷つけられてしまうのだから)から、さまざまな「配慮」をして、せめて自らが自らの表現で自傷することのないようにしてきたわけです。
「検索避け」もその一例でしょう。また、小島氏が揶揄する「お気持ち表明」もその中には含まれます。ある行為に不満を持ったとき、「そのような行為は不快だし、そういう行為をするあなたも嫌いだ」とはっきり言うと、行為をした対象をより傷つけてしまうから、「そのような行為は嫌だと。私は心のなかで思う(けどそれをあなたに責めたりはしない)」という形で、婉曲した形で表現する。これらは全て、「傷つけられやすい立場にいる私達が、せめて自分たちの表現で自傷してしまわないように」生み出された知恵なわけです。
もちろんだからといって、その知恵がそのまま一般社会に敷衍されるべきものだとは思いません。「検索避け」なんかは、明らかにその文化への新規参入者を減らすものですし、「お気持ち表明」も、「私はこう思ってる」から「相手が自分に期待すること」を読み取り、その期待通りに行動することが長けている定型発達者にはわかりやすいものかもしれませんが、それこそ僕のような発達障害者からすると「うんあなたは心のなかでそう思ってるのね。で、僕はどうすればいいの?」と困惑することが多く、「もっとはっきり言ってくれないとわかんないよ!」と思うことも多々あります。
ただそれでも、これらの知恵は、傷つけられやすい弱者が、それでも傷つけられず生きるために生まれた生活の知恵で、傷つけられることが少ない強者の側に立つ僕らが一方的に断罪するのは、おかしいと思うのです。
小島氏の言っていることは「イジメる覚悟があったらイジメていい」ということにほかならないのでは?
小島氏は三宅氏の同人企画に対し、イジメと同じ構造があったと指摘します。
芦原さんの事件の発端の、脚本家周辺の行動。それは“身内”の外へのリスペクトのなさ、なさというよりも『自分より下にいると思える人間はいくらでも馬鹿にしてもいい』という態度による。そしてそれは三宅香帆さんの同人誌の「新海誠好きの彼氏と付き合った体験談を持ち合って笑う」という行動にも通じるものだ。とても良くない。そしてこれはみんな自覚なくやってしまう。自分もそうだ。多分やってる。やっている側には、『悪いことをしている自覚はない』からだ。学校や会社で行われるイジメだってそうだ。イジメてる側にはイジメてる自覚はない。だから、アンケートを取ると「イジメなんてなかった」ってみんないう。これも、本当にクソだと思っていて、これに対しても本当に死ぬほどつらい気持ちにいつもなってる。これにも天罰が下ればいい。みんな死ねばいいと思う。
みんな自覚するべきだ。ちゃんと、人を殺す覚悟をするべきだ。
ですが、じゃあ「人を殺す覚悟」があったら、人を殺して良いのか?「イジメる覚悟」があったら、イジメを行っていいのか?
答えは否です。その加害者が心中でどういうふうに思おうが、人を殺すことは悪だし、イジメも同様に悪なんです。「これはイジメではなくいじりだと思った」と加害者が言っても、それがなんの言い訳にもならないように。「自分はイジメる覚悟があった」と加害者が述べたとしても、その行為はやってはいけないことなんです。
だから、表現者は「自分が心のなかでどう思っているか」ではなく、その表現が他人にどう捉えられるか、誰かを傷つけたりしないかこそを重視し、「配慮」しなくてはならない。もし「あなたの表現はある特定の属性へのイジメなんじゃないか?」と異議申し立てされたら、自分の中でそう思っていなかったとしても。その異議申し立てに真摯に向き合い、場合によっては表現を修正・取り下げすることがあるわけです。
ところが、そういうプロセスを取った三宅氏の企画に対し、小島氏は「ダサい」と言い、覚悟云々のことを言う。それってつまり、自分の中で「覚悟」さえ出来ていれば。相手がそれでどんなに傷つけられようが、無視すべきと思っているということに、他ならないのでは、ないですか。
「配慮したら負け」というねじれたマッチョイズムこそが、嫌な社会を作っている
これまで僕は繰り返し「覚悟があったら何をしても良いのか?」ということを述べてきました。しかしその一方で、表現にはどうしても「覚悟」が必要な部分があることも理解しています。
例えどんなに「誰かを傷つけることが少ない表現にしよう」と配慮をしても、どうしても誰かを傷つける部分は残ることがあります。多くの場合、それは「この部分を削ったら、表現する意味そのものがなくなる」という表現のコアの部分であるわけで、そういう場合には、「最大限頑張ったけど、でも自分がこの表現を出すことで、誰かは傷ついてしまうだろうな。その罪はしっかりと受けなくてはならない」というふうに。覚悟をする必要はあります。
しかしそれはあくまで、最大限他者を傷つけることを避ける配慮をしたことを前提にした上で、それでもどうしても他者を傷つけてしまう部分が残る場合にされるべきことなのです。他者を傷つけることへの配慮をほとんどしないまま「自分は覚悟をしたからね」という風に、怠惰を免罪するために、なされるべきことではないんです。
そして、世の多くの表現者は、わざわざ僕にこんなことを言われなくても、最初から上記のようなことを理解し、「自分は本当にできる範囲まで配慮ができているか」ということをギリギリまで突き詰めた上で、表現を行っています。それは、一見「配慮なんてしたら負け、覚悟が足りないね」とうそぶきながら、過激な表現をする人たちの表現と比べたら穏当で、薄味なものに思えるかもしれませんが、しかし今の時代に真に人々に訴えかけるのは。まさにそういう努力が垣間見える表現なのです。
そして、なぜ多くの人が、そんなギリギリの配慮をしながら、それでも表現をしたいと思っているかといえば、その表現によって、世界・社会が少しでも楽しく、いいものになると信じているからなわけです。より傷つきが少なく、みんなが楽しく暮らせる社会。不正義が不正義として否定され、正しいことが認められる社会。
ですが、そのようなことを目指すには。まず自分の心の中から「人を傷つけてしまう悪」を見出し、どうすればその悪をなくせるか、考えねばなりません。「人間は性悪な存在なんだから、悪が存在するのはしょうがない」と居直るのではなく、人間社会に存在する悪を、我がものとして受け止めながら、それを少しでもなくそうと試行錯誤する。それこそが、表現の存在意義なのです。
小島氏は
本当に嫌だ。それによってしか制裁がなされない社会と、そして時間が経ってほとぼりが冷めるとみんな忘れてしまう社会と(ジャニーズのことも、宝塚のことも、統一教会のことも、すでに風化し始めてる、なんの責任もまだとっていないのに)
本当に嫌だ。何もかも嫌だ。
という風に、「社会」に問題を他責化し、自分はひたすらそこから脅かされる無垢な存在であるように、記事中で描いています。
しかし実際は、まさしく小島氏こそが、自分が傷つけられないことが多い特権性を利用して、「配慮したら負け」というねじれたマッチョイズムを内包し、それによって「強者が弱者を傷つける社会」を擁護し、嫌な社会が再生産している存在なのです。
「本当に嫌だ」と嘆くなら。まずはその自分自身のなかにこそある嫌な部分を、改善しようともがくべきだと、思います。