ラッダイト運動と現代
画像: wikipediaより
昨日の記事で、テクノロジーが人間を置き換える過程についてやや悲観的な妄想を広げてみました。一言でいうと、「人間が単純作業を機械に任せているのではなく、機械が人間をより高度な作業へと追いやっているのだと考えたらどうか」というアイデアだったのですが、その根拠として、機械が人間を置換する過程に人間が抗うことは難しく、一度置換され始めると後戻りできないという点を挙げました。
歴史を第一次産業革命まで遡ると、これを象徴する出来事に出会えます。19世紀のイギリスで、織機の機械化に脅威を感じた手工業者・労働者が起こした一連の機械破壊運動である、ラッダイト運動がそれです。職人芸を自動化してしまう機械に対し、究極の「物理で殴る」戦法に打って出たこの運動は、それなりの民衆支持を得て1811年から1817年頃まで長期にわたって存続しました。とはいえ、機械をいくら壊しても産業革命の社会的な流れは止められるはずもなく、機械の導入もまた、止まることはありませんでした。
ラッダイト運動が現在もなお議論の俎上にあがるのは、上記の過程が、「AIが人間の職を奪うのではないか」という今の私たちの不安とピッタリ重なるからでしょう。ラッダイト運動からの類推で、現代のこのような文脈を表すときには、ネオ・ラッダイトという言葉が使われたりするようです。
しかしネオラッダイトと言っても、今や「AIを壊せ」と言われたって何を壊せばいいのか分からない。ペッパー君でも殴ればいいのか、でもそれはちょっと可哀そうじゃないか、っていやいや、そんな話はどうでもいいんですが。ともかく過去のラッダイト運動の示唆するように、これからも技術の進化を受け入れない選択をすることは極めて困難であると想像がつきます。それを受け入れた上で、どのように技術と付き合っていくのかを考えるべきなのでしょう。