ゲームから社会課題を考える
■太田和彦さんプロフィール
農学博士。専門は環境倫理学、食農倫理学、風土論。2012年東京農工大学大学院連合農学研究科修了。総合地球環境学研究所などを経て、21年4月より南山大学総合政策学部准教授。同年3月に訳書「食農倫理学の長い旅―〈食べる〉のどこに倫理はあるのか」(ポール・B・トンプソン著、勁草書房)を出したばかり。訳書にポール・B・トンプソン「〈土〉という精神―アメリカの環境倫理と農業」(農林統計出版、2017年)などがある。 |
──地球環境問題を倫理学の視点から考察する環境倫理学が、太田さんの専門ですね。中でも、土に注目しています。どんな研究をしているのか、できれば具体的に、分かりやすく教えてください。
たとえば、こういうボードゲームを作るイベントを開いてきました。
──?? 番号や作物が書かれた紙とサイコロ、牛やニワトリをかたどったブロックやおはじきみたいなもの、あとはカードもありますね。これが環境倫理学にどうリンクするんですか?
これは、社会課題をテーマにした「シリアスゲーム」です。プレーしながら、地球環境問題を考える仕組みになっています。このようなゲームを自分たちで作るイベント「シリアスボードゲームジャム」を催してきました。
今お見せしているのは、イベントでできたゲーム「コモンズ(共有地)の悲喜劇」です。プレーヤーは農地を開拓し、コメや麦、コーン、ポテトなどを育てつつ、牛や羊などを飼います。たくさん開拓するほど富を蓄積できますが、欲張りすぎると土壌流亡、つまり表面の土壌の流出が起こって荒れ地になってしまうんです。荒れ地が一定以上増えると、プレーヤー全員がゲームに負けてしまいます。
なので、プレーヤーは自分のお金から寄付をし合って、農地が荒れ地になるのを防がないといけません。ただ、寄付のしすぎでお金が減ってはゲームに負けてしまいますから「君はこの前コインを1枚しか出さなかったんだから、今回はもっと出して」とか、他のプレーヤーと相談し合って土地を維持しつつ、富を蓄えるわけです。
同じイベントで「サンタチャレンジ」というゲームも生まれました。サンタクロースたちが、ザ・サンタという称号を得るために世界飢餓に取り組むという設定のゲームです。プレーヤーはサンタクロースの一人となり、食料を増やす力や、良い政治をする力、環境に負荷をかけない農林水産業をする力といった「サンタパワー」を使うことができます。
たとえばアフリカのコンゴ民主共和国では、食料を増やす力と良い政治をする力を使うと飢餓問題を解決できる、中米のハイチ共和国だと、良い政治をする力と環境に負荷をかけない農林水産業をする力を使うと効果がある。こんなふうに、地域の抱える問題によって、効き目のあるサンタパワーは変わります。飢餓がより深刻な地域の問題を解消すると、多くの「サンタポイント」が与えられて、勝てる可能性が高まります。
ゲーム制作は「超学際研究」!?
──現実とリンクしたゲームで、農業者や政治家などの立場に成り代わってプレーできるのは、面白いですね。
ゲームを面白くするために単純化したり省略したところもあるので、専門知識のある人からすると、ツッコミどころは多いと思うんですよ。でも、むしろそれでいい。ゲームで一通り遊んでから「実は、このゲームで表現しきれないことがあるんだ」と言った方が、人は面白がって聞いてくれるはずなので。そういう“こぼれ話”を集めた小冊子も作っています。
専門知識やデータをより正確に反映したシミュレーションができるという点では、コンピューターゲームに強みがあります。最近だと、和風アクションRPG「天穂(てんすい)のサクナヒメ」が、田起こしから収穫までの稲作の過程をとてもリアルにゲーム化して話題になりました。
一方で、いろいろな立場の人がある社会問題について話すきっかけを作ったり、自分たちの問題に引き寄せてアレンジを加えたりできるという点では、ボードゲームに強みがあります。たとえばコモンズの悲喜劇の設定やコンポーネント(コマやゲームボードなどの総称)を、土壌の専門知識をもっと反映したバージョンに変えることも、ボードゲームなので比較的簡単にできます。
コモンズの悲喜劇も、サンタチャレンジも、研究者や学生、ゲームクリエイター、一般のゲームファンなどから成るチームが作りました。コモンズの悲喜劇は市販されていて、サンタチャレンジも近く発売される見込みです。
自分たちでゲームを作って、それを遊びながら、いわゆる専門知に触れられるようにする。こういう活動は日本ではまだまだ萌芽(ほうが)期ですが、今後広まっていくことを期待しています。これは「超学際研究」の一環でもあります。
──超学際研究?
よく耳にする学際研究は、学問の分野を超えた研究のことです。基本的に、分野の違う研究者と一緒にプロジェクトに従事しますが、研究者同士の連携です。超学際研究とは分野を超えて、研究者以外とも連携して行う取り組みです。環境問題や社会問題は超学際研究という手法をとらないと、議論が前に進みにくい面があります。
その理由は後でお話しするとして、じゃあ、超学際研究を進めていくには、どういう手順でどんなことに気を付けると、メンバー間の齟齬(そご)をやわらげ、摩擦を少なくすることができるのか。これが、2021年3月まで在籍した総合地球環境学研究所での研究テーマの一つでした。たとえば、研究者以外も学術成果にアクセスして議論するきっかけを作ろうとしたとき、さまざまな仕掛けが考えられます。
一つのアプローチとして、美術展などで土の作品を見ながら話をする方法があります。たとえば「Field to Palette: Dialogues on Soil and Art in the Anthropocene(土からパレットへ:人新世<※>における土とアートの対話)」(CRCプレス、2018年)というアメリカで出版された本が、まさにこの方法の実践例を集めています。アート作品をきっかけに、アーティストや科学者、非営利団体のメンバーや周囲の人々が土をはじめとする環境とその問題について対話するスタイルは魅力的です。
私が別のアプローチとして考えているのが、役割を交代しながら話す、ロールプレーイングです。つまりある種の演劇のように、他人の立場に立って状況を見ることで、現状認識や問題関心のずれを把握したり、アイデアを出したりすることに注目しています。その方法の一つとして、ゲームが考えられるわけです。
※ 新たに考案されている地質学の年代区分で、人が地球(地質)に大きな影響を及ぼすようになってからの時代を指す。
農業者と環境保護活動家らが話し合える場を
──なるほど。ゲームと環境倫理学のつながりが、見えてきました。そもそも環境問題はなぜ、超学際研究を必要とするのですか?
多くの環境問題は、「厄介な問題」であると言われます。つまり、利害関係者の現状認識や問題関心がばらばらで、全員が納得するような解決策がなく、さらに状況が流動的で問題を特定しづらい。しかも、問題を解決しようとしてある施策を行った結果、それがきっかけで別の問題が生じてしまうことがある、という性質を持つ問題です。
この厄介な問題に対処するためには、問題に関わる複数の立場の人たちが連携して、状況を分析したり、交渉して妥協点を探ったり、計画を練ったりする必要があります。これが、環境問題への取り組みが、超学際研究を必要とする理由です。
しかし、超学際研究を進めるのはとても骨が折れる仕事です。例えば、アメリカでは、環境保護運動をする人と、農業者、政策立案者が話し合うことができる共通のテーブルがほとんどありませんでした。この背景としては、農薬の悪影響を指摘したレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が出版されたことや、原生自然の保護を強く訴えた環境倫理学や環境保護運動と、穀物をはじめとする農業生産量の増加と農地の拡張を第一に目指していた農業とが、長らく対立していたことがあげられます。
アメリカを代表する食農倫理学者でミシガン州立大学教授のポール・B・トンプソンさんは、著書「〈土〉という精神―アメリカの環境倫理と農業」でこの環境保護運動と農業の断絶を詳しく述べています。
私が特に研究している、環境倫理学の第2世代、環境プラグマティズムと呼ばれる立場の人たちは、このような断絶を緩和することを課題としていました。ときに反目し合い、排他的に、ばらばらに活動している人たちは、どういうコンセプトであれば同じテーブルに着き、一緒に問題に取り組むことができるのか。それを考察したり、一緒に探究したりするのが環境倫理学者の仕事じゃないのか、というのが環境プラグマティズムの主張です。
先ほど紹介した「〈土〉という精神」でも、トンプソンさんは同じようなことを提起しています。この本の刊行から、さらに30年ほど続く彼の活動については、「食農倫理学の長い旅―〈食べる〉のどこに倫理はあるのか」で読むことができます。日本では2021年3月に刊行されました。
“土マニア”の声を普通の人にも届けたい
──この2冊でトンプソンさんは「土」を農業生産の象徴として扱っていると感じます。その点、太田さんは土そのものをテーマにしていますね。
土って、すごく詳しい人と、そうでもない人の差が激しい分野だと思うんですよ。“土マニア”と言っていいほど土が大好きな人がいる。たとえば、藤井一至さんの「土 地球最後のナゾ 100億人を養う土壌を求めて」(光文社、2018年)は、土に熱い関心を持つ人は世界をどのように見ているのかについて、楽しい紀行文とともに味わうことができる良書です。一方、そうでもない人にとって土は、ごくつまらないものです。
森林や水、生物多様性も、詳しい人とそんなに詳しくない人に分かれますが、それなりに中間層がいます。土は中間層がものすごく薄くて、二極化しているんです。「土のことなら俺に任せておけ」という人と、「お任せします」という全く関心のない二つの層に分かれてしまっている。この一因には、前に小﨑隆さんがインタビューでお話をされているように義務教育課程でほとんど土について学ぶ機会がないことがあげられます。土の声、そして土の声を聴ける人の声を聴けるようにするためには、基礎となる知識と経験が必要です。
「土の声が聴ける人の声を聴けるようにする」は、先にご紹介した「Field to Palette」のテーマなのですが、私も関心があります。土に関して、いろいろな語られ方があります。陶芸や建築物の材料としてどうかという切り口もあるし、農業生産の基盤としての見方もあれば、治水のための土という全然違う捉え方もあります。
研究室での土の語り方と、土壌モノリス(土壌標本)が掲げられた食堂でその土地からとれた収穫物を食べながらの土の語り方は、全然違うと思うんです。どっちがいいかという話ではなくて、たとえば研究室だと、土壌を科学的な対象として扱うことになりますが、美的な側面は見落とされがちです。食堂の場合は、その逆になるでしょう。こういう違った語り方をいくつも合わせると、ボヤッとではありますが土を相対化して、互いにどう見ているかが分かってくるはずです。
そうすると、いろいろな人たちの声を通じて土の声を聴ける場ができると思うんですよ。そういう視点の本も、書いてみたいですね。
土はヒューマンスケールじゃないから面白い
──土をさまざまな側面から切っていくと。太田さんはそもそも、土にどう出会ったんですか?
私は東京育ちで、農業と接点はなく、土について関心を持つようになったのは大学に入ってからですね。学部から博士課程まで過ごした東京農工大学で、たまたま土壌学者の村田智吉さんらと交流するようになって、その奥深さに引かれました。人文学から土を考えると、土の変化はヒューマンスケール、つまり人間の尺度から大きく外れているという点で、とても面白いです。人間にとって重大な土の性質の変化は、肉眼で見えないほど小さなサイズで生じたり、信じられないほど長いタイムスパンで生じたりします。
しかも、私たちは土の中に潜れないし、土の中を透視することもできません。人のスケールとは全く違うスケールで変化している、そしてその変化を簡単には知ることができない土。そんな土に頼らないと、私たちは生産活動をすることができません。
人間は特に産業革命以降、地球のさまざまな事象をヒューマンスケールのもとで対処し、管理しようとしてきました。それは確かに、ある程度成功しましたが、そのひずみがさまざまな環境問題として表出していることはご存じの通りです。どうすれば私たちは、ヒューマンスケールを超えた想像力を、育んでいくことができるのか。
ネイティブアメリカンのイロコイ族には、7世代後を考えて意思決定しようというルールがあると聞きます。今の自分たちの生というタイムスケールを超えて将来を考えようということを、象徴的に表した言葉です。7世代だと、だいたい200年。意思決定した人自身は誰も残っていません。
でも、表土を育てることを考えれば、200年はそれほど長い時間ではありません。200年後を考えたときに、たとえば農地や森林を削って、表土をコンクリートで覆って、太陽光パネルを設置するのが是なのか、非なのか。四半期のことだけを考えれば、太陽光パネルを設置した方が、電気を売ってハッピーになる人がいる。でも、200年後を考えたとき、その判断は適切といえるでしょうか。
まだ成立してはいませんが、日本の土壌保全を包括的に定める新法「土壌保全基本法」が起草されました。私もこの草案作成プロジェクトに加わっていたのですが、これは人のための法律案には違いないんですけど、人以外、ヒューマンスケールを超えたところまで射程に収めた法制度であると思っています。
──ふつうの法律よりも、もっと大きな視野に立つと。
やみくもに「ヒューマンスケールを超えた想像力を育みましょう」と言っても、「意識高いね」と一笑に付されて終わってしまいます。ですから、技術や、土壌保全基本法のような制度で、あるいはアートやゲームのようなメディア(媒体)を通して、ヒューマンスケールを超える想像を支える必要があるんですね。