「いくつになっても新しい事に挑戦したり、やりたい事をやって行くのが夢」神奈川県のかおるさん

「いくつになっても新しい事に挑戦したり、やりたい事をやって行くのが夢」神奈川県のかおるさん

和装家 かおる

神奈川県にお住まいのかおるさんは昭和47年(1972)生まれのアラフィフ世代。

お子さんも結婚されて、これからは「いくつになっても新しい事に挑戦したり、やりたい事をやって行くのが夢」というかおるさんに、「まじめだけどユーモアもある父と手作りの洋服をたくさん作ってくれて料理も得意な母に育てられた」という幼少時代も含めて、ご自身の半生を手記にまとめていただくことが叶いましたので、ぜひご一読ください。

和装家 かおる

昭和47年(1972)埼玉県与野市(現在さいたま市)生まれ。

正確には2歳上の姉がまだ小さくて、母親の実家の岩手県東磐井郡(現在一関市)で生まれて、そこに半年いたらしい。

2歳になる前に弟が生まれて、たぶん私はお母さんをとられちゃって、面白くない気分だったと思う。

国家公務員の父は転勤が多く、たくさん引っ越しをして、小6から宮城県に落ち着いた。そこからは父が単身赴任。

内弁慶で、家ではおふざけしたりするのに、外では緊張したり恥ずかしがったり、よく母には「ちゃんとあいさつしなさい」と言われた。

幼稚園の入園試験では緊張で「左右の手足を同時に出して歩いてた」と母が笑って何回も話していた。

人見知りだから、転校先に慣れるのに時間がかかり、慣れたと思うとまた転校で、高学年に位になると、やさぐれた気持ちになった。

慣れ問題もあるけど、ピアノを習っていて発表会に向けて一生懸命に練習していたら転校で無駄になったり、書道も習っていて頑張って少しずつ昇段していたのが、転校で振り出しに戻ってまた10級から、みたいな事が続いて、何か頑張る事が嫌になった。

親の教育方針が独特で、テレビをあまり見せてくれない、お小遣いを人並みにくれない、あれはダメこれはダメが多く、友達付き合いに支障があって、大きくなる程辛くなった。そして勉強が苦手で、算数は小2位でつまずいて苦労した。

勉強が苦手だから大学は行かないことにして、工業高校のインテリア科に入ったけど、工業高校は数字を使う事が多くて、間違ったと思った。

高卒で就職して、同期がたくさんいて、職場の人も優しいし割と楽しく働いていた。

入社2年後に、まだ20歳なのに社内の人と結婚した。

結婚したのは、相手が結構歳上だったこともあるけど、門限とかいろいろうるさい母親から離れたい気持ち、でも一人暮らしする自信はない、だから結婚したら幸せになれると希望を持って結婚した。

そしたら結婚相手も親と似ていて、あれもダメこれもダメというような人だった。結婚前はいろいろ話して楽しい人だと思っていたら、結婚したら「俺は仕事で疲れてる。話しかけないで。」と言われた。

私は20歳なのに、「仕事は辞めて」と言われ、言いなりで仕事を辞めて、専業主婦をしていた。

仕事は楽しくて辞めたくなかったのに、辞めて、家にぽつんと一人でいた。20歳だから友達はまだ大学生だったり、仕事していたり。ものすごく孤独だった。

夫が仕事から帰って来ても、会話はないし、土日休みの夫は、一人でパチンコなどに出かけてしまう。

そんな生活にどうしても耐えられなくて、働くことに。

不器用なので慣れるのに時間がかかったけど、やっと慣れてきた頃妊娠して、自分では産後も保育園を利用して働くつもりだったが、夫から「自分で育てないなら、子どもは俺の母親(他県に住んでいる)にみてもらう」と言った。

今考えれば、本気ではなくて、働かないで家にいてほしくての脅しだったと思う。でも私はそれは嫌だと思い、仕事を辞めた。

22歳で出産。それからは、結構ママ友ができて、楽しく過ごせた。でも大変なこともあったけど。

子どもは一人。私と違って、自己主張ができる子で、すごいと思うけど、例えば幼稚園に行きたくないとか、病院行きたくないとなったら、ものすごい抵抗してくるから、私は結構ヘトヘトになった。

子どもが小2、私が30歳の時に、宮城から神奈川へ引っ越し。夫の転勤のため。

宮城でマンションを買ったばかりだったのと、転勤ばかりだった親がやっと宮城で落ち着いたタイミングだったのと、私は相変わらず人見知りで慣れない場所に行くのが嫌だったけれど、私の気持ちなんてお構いなしに、神奈川へ。

でも、2年くらいで宮城へ戻るのかな?と勝手に予想していたら、全くそうならなかった。初めは戻りたかったけど、今となっては、ここにすっかり慣れて、もう一生ここで暮らしたい。

実家の母も、夫も、私のことを自分が思うようにコントロールしようとした。外に遊びや仕事にに行かせず、家にばかりいるように言ってきた。私が自分の気持ちを恐る恐る伝えても、聞いてくれない。仕方なく泣いたり、諦めたりだった。こんなことが人生の前半。

さて、人生の後半。子どもはすっかり大きくなった。

もう、誰か(親や夫)の言いなりにばかりなって、自分の気持ちを大切にしないことは辞めた。あれはダメこれはダメなんて、人に言わせないぞ!と思った。

まず、ずっと年収103万円以内で働いていたけど、勤務日数を増やしてもらい、扶養を抜けたのが6年前くらい。清々しい気持ちだった。

しかし、それだと、わかっていたけど働き損なので転職することにした。ずっとほとんど家にいる方が多かった人間が、正社員になんてなれるわけないと思っていたけど、挑戦したら、正社員の仕事が見つかった!

本当に嬉しかった!…のも束の間で、そこはブラックだった。帰りは遅くなり夕飯が作れず、疲労困憊な私に夫は、夕飯も作らないことをネチネチ責める。辞めたいと思ったら、相手からほとんどクビみたいなことを言われた。

実際には、クビではないけど、パートで週に何回か来てという話。

今思えば、次の仕事が見つかるまではパートで働くとか、求人情報と実際の内容が違うことをおかしいのではないかと言うなり、どこかに相談するなり、しても良かったのに、「じゃあ辞めます」と、辞めてしまった。

せっかくの正社員だったのに。それからまた仕事探し。やっぱり正社員がいいなと思った。
案の定、そんな簡単には仕事が見つからず、無職という状況に焦る。扶養を外れているから、収入がないのに保険料や年金の支払いがあるし。

そして苦しんで、やっと派遣だけど1年後には正社員になれるという仕事が決まる。良かった!と思ったら、仕事内容が私には合わなくて(半年すれば慣れるよ!と周りには言われた)、しかも、早々に1年後に正社員というのはウソみたいな事を知った。

無職状態での求職は、気持ちが焦ってダメだと学んだから、辛くても次が決まるまで辞めないと決めて、就活。

そして、新しい仕事が決まった! 初めての仕事で、慣れるのにやっぱり時間がかかったけど、迷惑かけながらも、なんとか周りに助けてもらい、今に至る。

週5フルタイムで働き、休みの日は、結構やりたい事やれている。2022年は、着物のミセスコンテスト「ミセスなでしこ関東大会」に出場し、埼玉県(生まれた県!)ファイナリストに選ばれた。

きっかけは、その前の年、友達がミセスグローバルアースというコンテストに出たのを、応援に行き、刺激を受けて。そこに出場していた方々は、今までの自分の周りにはいなかったような、すごい人がたくさんで、びっくり!

その中でも、仲良くして下さる方がいて、本当に嬉しいし、出場して良かった。この経験は、自分にとって結構大きな出来事。

やりたい事は次から次にあって、1~数回やって満足する事もあるし、続ける事もある。3日坊主と笑う人もいるけど全然気にしない。

今まで挑戦したことは、ポールダンス、マーメイドスイム、オペラ、芝居の稽古、ドレス撮影などなど。

いくつになっても新しい事に挑戦したり、やりたい事をやって行くのが夢。

そうはいっても、まだ結婚生活は続いていて、家事が疎かになり過ぎるといろいろ言われる(夫も家事はしますが)し、家をあけ過ぎないように、出かけてもだいたいいつも帰る時間を気にしている。

完全に自由ではないけど、例えば離婚したら、それはそれで別のストレスがあるんだろうなという心配がある。

これから結婚をする女性には、仕事は辞めない方がいいと伝えたい。出産したら、仕事と子育ての両立が大変な時があると思うけど。大変じゃない世の中になるといいですね! 今はパパもだいぶ育児に参加する時代になって、いいと思う。

今までで1番嬉しかったことは、子どもが良い人と結婚して幸せに暮らしていること(私たち夫婦は会話がゼロに近いが、子ども夫婦はいっつも2人でいろんなことしゃべってる!仲良し!)


かおるさん、お忙しい中ありがとうございました。

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50代主婦のリアルな家庭事情を赤裸々に書いていただいたかおるさんに心から感謝するとともに、これからもかおるさんの動向に注目していきたいと思います(50s.online編集部)。

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