2012/04/19 - 2012/04/19
4位(同エリア96件中)
chiaki-kさん
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今日はマイバス社の半日ツアーでバルビゾン村→フォンテーヌブロー城へ。パリに戻ってからは開館時間・夜間延長のオルセー美術館へ行く。今日もハードな一日が始まった。
表紙の写真はバルビゾン村にあるミレーのアトリエ。内部はミレーの博物館となっているが本物のミレーの画は残念ながら無い。
2024/02/25 表紙写真変更
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- その他
- 利用旅行会社
- 日本旅行
-
4/19
4:30 起床。今朝のパン屋前はこんな感じ。7:50 朝食後徒歩にてマイバス社へ。 -
08:35 フォンテーヌブローへ向けてパリ出発。バスはノートルダム寺院の前を通過。なお、このツアーはマイバス社主催の「フォンテーヌブロー城とバルビゾン村」ツアー(1人E65)で、13人の参加者と日本人女性ガイドが一緒。
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モンパルナス地区にあった牡蠣の店。
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公衆トイレ発見。これがあるということは、ここは夜の町なのね。
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バスは環状線からA(オートルート)10号線、リヨン方面の高速道路へ入る。
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A10に入ってしばらくは混み混みだったが・・・
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30分も走るとこんな感じに。これがイル・ド・フランス。時節柄、高圧線の終点には原発があるのではと考えてしまう。
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遠くに見える教会はミレーの「晩鐘」に描かれた教会。
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9:30 バルビゾン到着、村内見学を開始。
バルビゾン は、イル=ド=フランス地域圏、セーヌ=エ=マルヌ県の村。フォンテヌブローの森に隣接している。19世紀にはジャン=フランソワ・ミレーに代表される風景画家たちが集まり、バルビゾン派と称された。このため、小さな村ではあるが、世界中から観光客が訪れており、村は「画家たちの村バルビゾン」と名乗っている。 -
これがグラン・リュー(大通り)なのだが、田舎の村なのでこんな感じ。
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ちなみに村にミレーの絵は1枚も無く、あるのはこんなモザイク画のみ。なお、画の説明をしている方が今日の日本人ガイドさん。
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現在、村は観光地となっており、こんなこじゃれた食料雑貨店とか、
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ジャム&ワイン屋さんとか、
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ギャラリーとか、
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レストランとか、
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不動産屋さんなどがある。ちなみに1区画6000万円〜1億円位するそうだ。
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MAISON ATELIER とはミレーのアトリエのことで現在は博物館となっている。ここはツアー料金外なので希望者は1人E5(たしか)で入場。
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外観はこんな感じ。(再掲)
1849年6月、パリではコレラが大流行し、上下水道の不備や不潔な安宿のため、貧困地区を中心に2万人近くの死者が出た。これはパリの不衛生な環境のせいだと考えたミレーは、シャルル・ジャックの誘いを受けて、一緒にバルビゾンに移住する。 -
もともと民家だったので、入り口は狭い。
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内部はこんな感じ。
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バルビゾン派と呼ばれた画家達。一番上の真ん中がミレー。その下はテオドール・ルソー、ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、あれ、ドービニーもいる。
*ドービニーはパリ生まれだが、若い頃はフォンテーヌブローの森などで作品を制作している。1860年以降はパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズに住んだ。 -
左はミレーの「晩鐘」、右はゴッホの「晩鐘」。ゴッホはミレーの絵が大好きだったのね。
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左がミレーの「種蒔く人」、右はゴッホの「種蒔く人」。なお、ミレーの「種蒔く人」の一枚は山梨県立美術館に、もう一枚はボストン美術館にある。
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知らなかったが左はミレーの「星月夜」。右はゴッホの「星月夜」だね。
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バルビゾン村は昭和天皇も訪れたことがあり、そのとき立ち寄ったレストランがここ。
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HIRO-HITO とは昭和天皇のお名前。
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日本に帰ってから、ミレーのTV番組を見ていたら、バルビゾン村にあった有名な画家の家の紹介があった。もしかしたらと思い、当日撮影した写真をチェックすると、何とディアズ・ド・ラ・ペーニャの家の写真を発見! ガイドさんは素通りしてしまったが、他にもルソー、デュプレ、ドービニーなどの家があったのだ。
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これが門の隙間から撮影したディアズ・ド・ラ・ペーニャの家の庭園。ミロのビーナス像のレプリカがある。
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バルビゾン村役場。ミレーのおかげでリッチな村になった。なお、手前に花壇があるが、バルビゾン村の紋章であるパレットと5本の絵筆が表現されている。
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こんな、こじゃれたホテルもあった。
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バルビゾンを後にフォンテーヌブローを目指す。道の左右はフォンテーヌブローの森。かつてのフランス王の狩猟地で現在も自然が残されている広大な森であり、パリジャン達が週末を楽しむ場所になっている。
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ナポレオンの戴冠式の為、ローマ教皇ピウス7世が呼ばれたが、この辺りでナポレオンは泥靴のまま、法王を出迎えたらしい。
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10:45 フォンテーヌブロー城(宮殿)入場。門柱にはナポレオンのNの文字が見える。
フォンテーヌブロー宮殿はフランスで最も大きな宮殿のひとつ。フォンテーヌブロー城とも呼ばれる。宮殿の現在の姿は多くのフランス王による築城の結実であり、基本的な建築構造はフランソワ1世による。建物は中庭を囲むように広がり、フォンテーヌブローの街がかつての王の狩猟場(フォンテーヌブローの森)跡を取り囲むように発展している。(Wikipediaより抜粋) -
もともとここは庭園なのだが、ナポレオンが入り口に改装してしまった。なお、中央に馬蹄形をした階段が見えるが、1814年に失脚したナポレオンが親衛隊と別れた場所。
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ナポレオンが着用した服。ここでナポレオン・ボナパルト(1769-1821)のスタディ。まるで透明ナポレオンだね。
ナポレオン・ボナパルトはフランス領・コルシカ島生まれ。1784年にパリの陸軍士官学校に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。
1785年に砲兵士官として任官。1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなる。ナポレオンはフランス軍の中でもおもに王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征。前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、少佐に昇格する。
市街地で一般市民に対して大砲を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功したナポレオンは師団陸将に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れる。 -
絶頂期のナポレオン・ボナパルト
1805年12月、フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、アウステルリッツ郊外で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝。このあと絶頂期を迎える。
1796年、貴族の未亡人ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。1804年5月、皇帝の地位についたナポレオンは子供が生まれないジョゼフィーヌと離婚、オーストリア帝国の皇女マリ・ルイーズと再婚した。 -
この女性が2番目の妻マリ・ルイーズ。
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マリ・ルイーズは1811年に男の子(ナポレオン2世)を産むが、1812年、ナポレオンはロシア遠征に失敗、1814年に地中海コルシカ島とイタリア本土の間にあるエルバ島へ追放されてしまう。その少し前にフランツ1世の使者を名乗る人物が突然マリー=ルイーズのところにやってきて、半ば強制的に彼女とナポレオン2世を連れていってしまった。
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに戻って復位を成し遂げる。しかし、イギリス・プロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオン百日天下は幕を閉じることとなる。
ナポレオンは再び退位に追い込まれ、南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉され、1821年5月5日に死去した。死因としては公式には胃癌と発表されたが、ヒ素による暗殺の可能性も指摘された。その遺体は1840年にフランスに返還され、現在はパリのアンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。最期の言葉は「フランス!…軍隊!…軍隊のかしらに…ジョゼフィーヌ!」だった。 -
ナポレオン2世は人生の殆どをウィーンの宮殿で過ごすが、21歳で結核をわずらい亡くなってしまう。写真はナポレオン二世のデスマスク。なお、ナポレオン二世の墓はパリのアンヴァリッド(廃兵院)に父のナポレオン一世と共にに葬られている。
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まるでヴェルサイユ宮殿・鏡の間のような部屋。
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この宮殿を造ったのはこの人、レオナルド・ダ・ヴィンチの庇護者でもあるフランソワ1世。
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宮殿の一部1 大きい暖炉だね。
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宮殿の一部2
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宮殿の一部3 水色が綺麗。
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宮殿の一部4 まるでバチカン美術館の天井のよう。
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玉座
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会議室
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寝室 この頃のVIPさんは横になっては寝ない。
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宮殿の一部5
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外階段から見た玄関、ナポレオン以前は中庭だった。
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フォンテーヌブロー宮殿と庭園は1981年、世界遺産に登録される。
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12:00 フォンテーヌブロー出発。バスの車窓には菜の花畑が。
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13:00 パリ、マイバス社到着。モノプリで食料品を中心に買い物。(91E)
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これだけ購入。持参したショッピングバックが大活躍。ホテルに一旦戻り、買い物を置いてから近くのRestaurant-Salon de Tea という店で昼食。日本語メニューが置いてあったが、日本語はもちろん英語が通ぜず難儀した。(E80.3)
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15:00 マドレーヌ寺院を見学後、メトロ12号線でオルセー美術館を目指す。寺院では何かミサのようなものをやっており、祭壇まで近づけなかった。(写真撮影禁止)
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アサンブレ・ナソナル駅で降りるが、夕立のような雨にしばし雨宿り。
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16:00 ミュゼ・オルセー到着。写真は帰りに撮影したもの。今日は夜間開館日。
オルセー美術館の建物は、1900年のパリ万国博覧会に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。駅としての役目を終えてから、取り壊しの話もあったが、1970年代からフランス政府によって保存活用策が検討されはじめ、19世紀美術を展示する美術館として生まれ変わることとなった。
こうして1986年、オルセー美術館が開館、美術館の中央ホールは地下ホームの吹き抜け構造をそのまま活用し以前、鉄道駅であった面影が随所に残る。現在ではパリの観光名所としてすっかり定着した感がある。
館の方針としては、原則として2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥー・センターという役割分担がなされている。(Wikipediaより抜粋) -
ここもミュージアムパス所有者はすんなり入場。行列はチケットを購入する人々。(かなり優越感)
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レストラン・オルセー。ここは最初からホテルのレストランだった場所。オルセー美術館は撮影禁止(*)なのでこの程度の写真しか無い。
(*) 2020年現在は写真撮影OKです。 -
大時計の隙間からはモンマルトル方面が見える。でも、オルセーにどんな有名な絵画があるのか知らない方の為に作品の一部をネットから拝借した画像で、ご披露します。
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「草上の昼食」 エドゥアール・マネ 1862年–1863年
マネはこの作品を1863年のサロン(官展)に出品したが、「現実の裸体の女性」を描いたことが「不道徳」とされ落選する。当時主流であったアカデミック絵画及びそれ以前の西洋絵画史において、裸体の女性は神話や歴史上の出来事を描いた作品において登場するものであったため、マネが当作品で描いた「現実の裸体の女性」は画期的なものであり、同時に批判の対象となった。 -
「サン・ラザール駅」 クロード・モネ 1877年
モネは、1877年1月、一時的にアルジャントゥイユを離れてパリにやってきて、サン=ラザール駅の構内やその周辺で絵を描く許可を得るために奮闘し、また駅の付近に、絵を描くための部屋を借り、4月まで同駅の連作の製作に取り組んでいる。 -
「日傘の女」 クロード・モネ 1886年
正式な題名は『散歩、日傘をさす女』。1878年に亡くなった妻カミーユに替わってモデルを務めたオシュデ夫妻の三女シュザンヌの表情は判然としない。 -
「田舎のダンス」 ピエール=オーギュスト・ルノワール 1883年
この作品は、栗の木の下で踊る男女を描いている。 男性は画家の友人ポール・ロートで、女性はのちにルノアールの妻となるアリーヌ・シャリゴである。 二人の人物像は等身大で描かれ、絵の大部分を占めているが、背景には右手にテーブルと地面の帽子が見えている。 女性は右手に扇子を持っており、鑑賞者に向かって微笑んでいる。 作品は明るく陽気な雰囲気に溢れており、女性の衣服にも黄色い手袋、赤い帽子など温かい色彩が使われている。 -
「自画像」 フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年
サン=レミ=ド=プロヴァンス時代の自画像。表情は不動で、強固な意志を内在させているかの様。ひげの朱と衝突するような顔の緑は、抑制が効いた表情の下にある激しい情熱を伝えている。背景は不穏な渦巻き模様で、ゴッホの心がきわめて不安定であることを暗示している。 -
「オーヴェールの教会」 フィンセント・ファン・ゴッホ 1890年
ゴッホは1890年5月16日、サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院を出た後、南フランスを去り北へと旅に出た。彼はパリにいた弟テオを訪れてから、オーヴェル=シュル=オワーズへと移動して、医師ポール・ガシェの患者となった。彼はここで人生最後の10週間を過ごし、その短い期間に『オーヴェルの教会』を含む作品100点以上を制作した。 -
「自画像」 ポール・セザンヌ 1875年
近寄りがたいオーラを感じる。 -
「リンゴとオレンジ」 ポール・セザンヌ 1899年
一枚のキャンバスの上に、多角度から見たリンゴやオレンジをちりばめる技法は、後のシュールレアリズムに繋がって行く。 -
20:00 もう、だめ〜。
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20:30 完璧に足に来たので美術鑑賞は強制終了し、メロトでマドレーヌ下車。モノップ(コンビニ)でサンドイッチ等を購入、今日も部屋食とした。22:00 就寝。疲れた~。でも、体は疲れたが気持ちは充実感で満ちていた。
これで「2012年 パリ旅行記 3:イルドフランス逍遙」は終了です。本日も最後まで、ご覧頂きありがとうございます。
2020/7/2 一部修正、2024/02/25 一部修正
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