2014/07/18 - 2014/07/28
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ニヤゾフ伝説(Regend of Niyyazov(偉大なるニヤゾフストーリー)
皆さんはニヤゾフという、当時世界で最も「独裁者」といわしめたトルクメニスタンの大統領をご存じだろうか。
トルクメニスタンの初代大統で、2006年に逝去するまで15年もの間、トルクメニスタンの終身大統領としてに君臨したニヤゾフ。私のように旧東欧を頻繁に旅する旅人には、彼ほど政治家の中で善かれ悪しかれ知名度が高い者はいない。いわば昔のスターリンや毛沢東のような絶大なる力を持つ指導者で、彼の思い付きの言葉が、法律として制定され、トルクメニスタンを時に混乱い貶めたこともあった。今回はそんなニヤゾフの名言から生まれた、日本では考えられない伝説を紹介したい。
1.年金制度の廃止。
「親が働けんようになったら、そりゃ子供が面倒を見んにゃいけまーが(いけないだろう)。子供が親の面倒を見んでどがいするんじゃ(どうするんじゃ)!!」
→子供がいない老人たちは一体どうやって生活のだろうか…
2.テレビ局のニュースキャスターの化粧を禁止
「我が国の女性は小麦色の奇麗な肌をしとる。じゃけー化粧なんてせんで、えかろう!(化粧なんてとんでもない!)」
→ニヤゾフが「トルクメン人の女性の肌は、小麦色の肌で美しいといってたのは事実らしい」
3.国内の喫煙禁止令
「わしはがんの手術をして禁煙をしとるのに、国民がタバコを吸うなんてけしからん!!!」
→ひょっとしてトルクメニスタンは世界初の禁煙国家!?
4.閣僚に36キロ走らせる。
「おのれら(お前ら)、マラソンは健康に良いんじゃけー、ちーと(ちょっと)走ってこいや。政治家は体力勝負じゃ。」
→マラソンは健康に良いと、思いつきで閣僚に36キロ走をさせた。普段運動していない閣僚にとってきっと地獄だったに違いない。
5.首都の主要道路50メートルごとにニヤゾフ自身の肖像画を張らせ、町には黄金のニヤゾフ像を建立。
「国民よ、わしは建国の父じゃ。わしを崇めーや。わしの肖像画を毎日見て敬え!!」
→そういえば私の祖父は大正生まれだがその頃の人にして、宗教心がなく「わしを拝んでいればえーことが起こる。仏壇を拝んでも、しょーがない」と、祖父が口癖のように言っていたことを思い出した。
6.金歯禁止令
「我が国の教員たちの給料は安い。よって金歯は廃止する。」
→全く理解不能の理由!!
7.トルクメン人女性と外国人が結婚する場合はお金を上納させる法律
「我が国の女性の肌はとても美しい。この美しい小麦色の肌の女性を外人が奪うんじゃけー、当然360万円を国に支払え。小麦色の肌は相応の価値がある。」
→まぁ実際には最高額が360万円で人によって値段が違うらしい。「人によって」違うのは男性の収入によって?それとも女性の容姿??
8.ニヤゾフ自叙伝の本は必読
「自動車免許を取るなら、わしの武勇伝の本を読め。これを読まねば、車の免許はやらん!もちろん教員を目指す奴もわしの本を読め。」
→自動車免許を取るためにはニヤゾフの著書は必読となっていた。もちろん自動車の免許だけでなく、学校での授業でも当然必読。教員になる際にもニヤゾフ自叙伝は必読。
9.口パクの禁止
「歌手が口パクなんて、そもそもおかしいじゃろ。」
→・・・確かに間違っていないが、大統領が決めることか!?そんなものものを。。。
10メロン記念日の制定
「わしがメロンを大好きなんじゃけー、国民全員がメロンを大好きに決まっとる。よって、メロンの日を作って祝日とする。」
→きっと祝日に「メロンの日」があるのは世界広しといえど、トルクメニスタンだけだろう
11.首都以外の病院をすべて廃止
「はぁ??地方に病院じゃと??大体親が病気になれば子供が見ればええし、首都に病院がありゃえかろう??そこまで病人を持ち運べば、それで十分じゃ。」
→2代目の大統領になり流石に地方にも病院が置かれることとなった。
12.カツラのタブー
ニヤゾフはカツラをかぶっていたらしいが、その話に触れるのは、絶対にタブーとされていた。
→触れてしまおうものなら逮捕後、砂漠で強制労働の刑!?
13.国民のインターネット禁止令
「インターネットは、ろくでもない情報を国民につかませ、あほになった挙句、国家転覆にもつながるやもしれん。」
→言論統制は非常に厳しかった。
14外国人の入国の禁止
「外国人はわしを2002年に殺そうとしたろくでもないやつばかりが、我が国に入国をもくろんでいる。」
→後に開放はされるも、非常に制限をされている。私自身の2003年のウズベキスタンからトルクメニスタンへの旅行では、この施策の影響をもろに受けた
15首都以外の図書館の廃止
「どっせ田舎もんはわしの著書以外の本は読まんじゃろ。図書館は首都にあるだけで十分じゃ。」
→かなり強引!!
16若者の髭と男性のロンゲの禁止
「髭とロンゲは見た目が暑苦しくて見苦しいわ!!」
→言わんとしていることはわからんでもないが・・・。でも前職では私もひげを生やしていたな…。
17特別祝日の制定
「2002年、わしも62歳になった。よって62歳以上の国民は全員わしの誕生日に休暇をとらせるものとする。仕事をすることは許さん!!また羊を買えるように手当を支給する。」
→かなりムチャ振りな、ありがた迷惑な祝日、そして首都で羊を買っても仕方ない老人たちはどうしたのだろうか。。。
多少は誇張しているが、いずれにしても世界でここまで大統領の思いつくで突拍子もない法律が制定されているのは、なかなかないだろう。秘密警察を張り巡らせ、言論の自由を大幅に規制し、数々の「伝説的な偉業」を成し遂げたニヤゾフだが、そんじょそこらの独裁者とは違った。大きく異なるのは、ほかの独裁国は親族に世襲することが多々あるが、ニヤゾフは世襲体制を取らなかった。また、国民にもある程度国の利益を還元し、国民にガソリン券を配布するなど、「建国の父」として国民の事をある程度は考えていた。またこれだけ無茶苦茶な法律を制定しておきながらも、すべての閣僚、地方行政府長官、軍人などには新車のベンツが支給された。
そんなニヤゾフも年には勝てず、66歳で2006年に逝去すると、ベルディムハメドフがその後継者となった。かれも独裁体制をしている反面、インターネットは利用できるようになり(フェイスブックは規制され閲覧不可)、規制は多少緩やかになったのだという。
そして現在、ホテルや役所に遭ったニヤゾフの肖像画は撤去され、ベルディムハメドフの肖像画に変わっていった。更に首都で50m毎に掲げられた笑顔のニヤゾフの肖像画も撤去されてしまった。その理由は「ニヤゾフの笑顔は美しい首都の景観を損なうから」なのだそうだ。
また、トルクメナバードという町に中国人が増え、トルクメン人の女性と結婚することが多くなったので、ベルディムハメドフは中国人たちを町から60キロ離れた砂漠の村に住むように命じ、町から隔離させ強制移住させたのだという。この他の町でも都市部に朝鮮人や住み着いた中国人が増加すると、これも砂漠地帯の村に強制移住をさせている。う〜〜ん独裁!!
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 2.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- 中国国際航空 ウズベキスタン航空 JAL ANA アエロフロート・ロシア航空 ターキッシュ エアラインズ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
- 利用旅行会社
- ブッキングドットコム
-
トルクメニスタンの入国要件は非常に厳しい。日本にトルクメニスタンの在外公館がないので、第三国でビザを取得するのが基本。しかしトランジットですらビザを取得するのに二週間近く時間がかかり、観光ビザは一か月以上時間がかかる上、ガイドを必ずつけなければならなかったり、トルクメニスタン政府から入国許可を事前にとらなければならない。旅行社を通じて事前にすべての手続きを済ませていれば、入国許可書のようなものを見せれば、国境でビザを発給してくれるが、時間とお金は相当要する。
日本の旅行社でも手続きをしてくれるが、今回のようにウズベキスタンから一日日帰りするだけでも数万円かかる。安く済ませようとトルクメニスタンやウズベキスタンの旅行社を調べ、選んだのがウズベキスタンのadvantour。一日の日帰りで四万円近くするが、それでもかなり安いほう。七月に訪れるのに四月から旅行会社とメールでコンタクトし、五月に海外送金でを支払い(クレジット決済できる旅行社を見つけることができなかった)、六月に入国許可が下りて、許可証がメール添付で届いた。これを持参してトルクメニスタンの国境に行かなければならない。
ウズベキスタンからトルクメニスタン間の往復もadvantourのドライバーがつくので、楽といえば楽に移動ができる。しかし国境での手続きはすべて自分で行わなければならないので、税関トラブルが発生した場合はすべて自分で解決しなければならない。なぜなら国境にはガイドは来ず、ウズベキスタン側とトルクメニスタン側で入れ替わるからだ。
観光をするのにおそらく世界で最も入国にお金を要する国、トルクメニスタン。こんなにお金を払っても歴史や文化に興味がなければきっと面白くないと思う。
私の場合、幸運にもよいガイドにも恵まれ、エンジョイできた。もっと時間がほしいくらいだ。きっとトルクメニスタンには入国制限が緩和されれば、再び訪れるだろう。
ということで、朝7時半にAdvantourのウズベキスタン側のドライバーがホテルまで迎えにきた。トルクメニスタンの国境まではヒヴァから一時間弱で到着する。 -
かつて約400年に渡って栄えたヒヴァハン国の主要産業は、砂漠地帯にあるにも関わらず、アムダリア川の恩恵を受け、農業だったという。
それにしても驚いたのはこの水田風景。稲作は水が豊富になければ難しいにも関わらず、ヒヴァ周辺でも作られていたとは。 -
農村地帯ではロバの馬車がまだまだ活躍する。ヒヴァ周辺は緑が多く驚かされる
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マルシュルートカを待つ人たち。公共交通機関の本数が多いわけではないので、ヒッチハイクをしながらバスを待つ。
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ヒヴァとトルクメニスタン国境との丁度中間地点の町シャヴァト。
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町を直ぐに通り過ぎ、再び農村地帯を走る。
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ヒヴァやウルゲンチ近郊では見かけなかったが、田舎では自転車もよく利用されているようだ。
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羊飼いもよく見かける。
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8時半前、トルクメニスタン国境に到着した。先に見えるのが、ウズベキスタン側のゲート。トルクメニスタンとの国境は9時から18時までしかあいていないので、それまでにこの場所に戻ってこなければならない。因みに国境は8時半には既に開門していたが、越境者は私とカナダ人旅行者の二人だけだ。因みにカナダ人はトルクメニスタンをトランジットで通過し、首都のアシュハバートに抜け、イスタンブールへ飛び、帰国するのだとか。
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ウズベキスタン側のドライバーとはここで一旦お別れ。五時半にこの場所で待ち合わせし、バックパックは国境で荷物検査があると手間取るので彼のトランクにおかせてもらい、身軽になっていよいよ越境。ウズベキスタン、トルクメニスタンの出入国には約二時間見ておく必要があるとAdvantourからアドバイスを頂いていたが、憂鬱なのが税関申告。
まずウズベキスタン側で出国審査。難癖をつけられるかと思いきや以外とスムーズ。しかし税関で引っ掛かってしまった! この時80ドル分のウズベキスタンスムを持っていたが、ウズベキスタンスムの持ち出し額が多すぎだとのこと。たどたどしいロシア語で今日の夕方にはウズベキスタンに戻るので、何とかし欲しいというと、渋々の顔で持ち出しはOK、但しデクララーツィア(税関申告用紙)に過剰な持ち出しのところにチェックをされてしまった。まぁなんとかしてもらったのでホッ -
そしてウズベキスタン側で手続きを終えると、いよいよトルクメニスタンへ。イミグレを出たところは門扉があり、トルクメニスタンの兵士がいる。私が近づくと門扉の鍵を開け、パスポートと招待状を確認し、中に入れてくれた。トルクメニスタンのイミグレーションはウズベキスタン側のイミグレーションから1.5km離れた場所にある。門扉の前には「タクシー」が止まっており、入国者はこの「タクシー」に乗ってトルクメニスタンのイミグレーションまで行かなければならない。「タクシー」は有料で1ドル。
国境でパスポートと招待状を提出し、20分ほど待たされ、イミグレにあるカッサで72ドル払うように指示される。支払後、領収書を持って再びイミグレへ行きようやくビザが発行され、入国。
入国手続きを終え、次に税関申告を行う。税関申告はウズベキスタンと異なり、そこまで厳しくないようで、「適当に書いといて」みたいな雰囲気だった。実際に出国時は税関で荷物を金属探知機を通すだけで、特に出国時に税関申告をするように指示をされなかった。
税関申告を終えると最後のゲートをくぐり、やっとのことでトルクメニスタンに。ゲートの前でトルクメニスタン側のガイドと運転手が私を待っていて、いよいよトルクメニスタンの旅行が始まる。 -
国境から10分ほどで、ダシュホウズ州の州都、ダシュホウズに到着する。ダシュホウズはトルクメニスタンで第2の人口を抱える。第2といっても16万人。トルクメニスタンの人口が約520万人で、首都のアシュハバートが約70万人。トルクメン語ではダショグズと言われ、「石の泉」という意味だ。1999年にニヤゾフによりダシュホウズという町の名前がダショグスになったのだという。
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ウズベキスタンからトルクメニスタンに入ると、道路が整備され、街並みも整然とする。権威主義的な建物も、ウズベキスタンのそれを上回るもので、経済力の差を見せつける。ダシュホウズは旧ソ連時代、ウズベキスタン側のウルゲンチを含めたホレズム地方の中で最も大きな町でホレズム地方の中心の街でもあった。
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ダシュホウズの中心部にはこうした大きく、そして美しい白色と金色があしらわれた建物が多い。
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トルクメニスタンは豊富な天然ガスや油田もあり、天然資源を元に飛躍的な発展を遂げた。こうした大きな建物もトルクメニスタンの発展の象徴であろう。
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Ruyýet Köşgi ルイェト・ケシュギ、モスクかと思いきや政府庁舎。
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新しい建物が目につくダシュホウズだが、歴史は古くキャラバンサライたちが立ち寄る宿場町だったそうだ。町の規模は大きくなかったが、帝政ロシアに併合されて以後、発展を遂げた。
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ウズベキスタンのマンションと比べると少なくとも外観はかなり良い。トルクメニスタンは現在も大統領の独裁政治体制だが、ニヤゾフの頃から国が稼いだ財産については国が国民にある程度還元されていると聞く。こうしたことがこうしたアパートにも現れている、のだろうか?
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ダシュホウズの中心部にあるホテルウズボーイで一服。
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ホテルの外観が新しいが、2009年に改装されたのだそうだ。
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ホテルウズボーイのレストラン。清潔感はあるが、どことなく雰囲気が旧ソ連時代を継承している。
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グリーンティを頂く。しかしゆっくり飲んでいる暇はない。何故なら夕方五時半までに国境を跨ぎウズベキスタンに戻らなければならないのだから。時間がもったいないので、熱いお茶を慌てて飲んで、五分で出発。
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ホテルには現大統領、ベルディムハメドフの肖像画が。それ以前は前大統領のニヤゾフが飾られていたのだろう。
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ダシュホウズの中心部を過ぎると、すぐに砂漠地帯が広がる。
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こんな砂漠の中に人影が!?
一体なにをしてるのだろうか -
約40キロ北にある、ウズベキスタン側を流れるアムダリア川から農業用に引いた運河。このようにウズベキスタン側でもアムダリア川から灌漑用水路を引いたものが多くある。アムダリア川はアラル海に流れているが、こうした灌漑用水路を多く作ったせいで、河口流域になると水量も僅かとなり、アラル海に達する前に干上がってしまう。アムダリア川だけでなく、シルダリア川などの大河もアラル海に注がれるまでに干上がるなどしたため、アラル海もまた干上がり、アラル海はかつて世界第4位の湖の大きさだったが、現在は当時の1/5の規模に縮小した今後アラル海は消滅のおそれすらある。またアラル海が塩分を含んでいるため、干上がった土地は作物をこさえるのには適さない上、風に舞った塩害の拡散、そしてアラル海により雲が形成され、雨が降っていたが、雨が降らなくなり砂漠化が一層広がりつつある。
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ダシュホウズから約100キロ、目的地のクフナウルゲンチ(トルクメン語でキョネウルゲンチ)に到着。
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クフナウルゲンチの遺跡群。トルクメニスタンの数少ない世界遺産の一つ。かつては中央アジアで最も文化が発展した街でもあった。歴史は非常に古く紀元前5〜4世紀にはクフナウルゲンチはアムダリア川の恩恵を受けて繁栄していた。
トラベク・ハヌム廟。14世紀後半に建立。 -
遺跡の駐車場。トルクメニスタンは日本車率が高い。特に砂漠で悪路もあるので丈夫でラグジュアリー感のあるRVのレクサスは人気が高い。
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クフナウルゲンチに我々が到着した時、地元の団体観光客に遭遇
しかしクフナウルゲンチは712年にアラブ人の襲来に遭い、占領されてしまう。当時のアラブ人の遺跡としてはクルクモッラーの丘が挙げられる。
その後、ウズベキスタンのブハラを都とするイラン系の王朝、サーマーン朝(873-999年)の支配を受けた。サーマーン朝は、最盛期にはブハラやサマルカンドを中心に現在のウズベキスタン、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、イランの5割、パキスタンの西部、キルギスの大半、カザフスタンの一部まで治めた、中央アジアを中心とした広大な王国だった。 -
トルクメニスタンの女性は民族衣装を身に纏う。美しい装束に思わず目を奪われてしまう。
一大王国として栄えたサーマーン朝だが、キルギスのビシュケクとイシククルの間のベラサグンという街に都を置くテュルク系で中国のカシュガルやカザフスタンを統治するカラハン朝(840-1211年)に攻められキルギス、タジキスタン、ウズベキスタンとサーマーン朝の領土を奪取した。 -
トレベク・ハヌム廟はクフナウルゲンチの遺跡の中で最も保存状態が良い。
サーマーン朝はテュル系の将軍アルプテギーンによりアフガニスタンのガズナ(カンダハルとカブールの間)を都を置くガズナ朝(955-1187年)の勃興を許した。その結果、サーマーン朝はカラハン朝とガズナ朝に挟撃される形で滅亡した。
ガズナ朝はアフガニスタンやパキスタンの半分、イラン東部、トルクメニスタンを治め、クフナウルゲンチはガズナ朝の支配下に置かれる。
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ガズニ朝のクフナウルゲンチの支配は長く続かず、イランのイスファハーンやトルクメニスタンのメルヴを中心とするテュルク系のセルジューク朝(1038-1308年)の支配を受けた。
しかしテュルク系の軍人、アヌーシュテギーンはクフナウルゲンチを都にホラズム朝(1077年-1231年)を勃興させ、クフナウルゲンチは中央アジア随一の繁栄を築く。 -
ホラズム朝の全盛期にはトルクメニスタン、ウズベキスタン、イラン、アフガニスタン・タジキスタンの半分、キルギスやカザフスタンの一部を版図とした広大な王国でもあった。
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ホラズム朝は1221年にチンギス・ハーンに率いられたモンゴル軍に破壊された。そして落ち延びた王たちはカスピ海の小島に逃げ込み、最後の王ジャッラーッルディーンは1331年にイランで命を落としてホラズム朝は滅びる。
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モンゴル軍はクフナウルゲンチを破壊した。その後クフナウルゲンチは息を吹き返し、1361年から1379年の短期間のあいだにスーフィー朝が支配したが、サマルカンドのティムールに攻められ再び破壊された。
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その後クフナウルゲンチを都としてヒヴァ・ハン国が1512年に勃興するが、17世紀頃にアムダリア川の流れる場所が北部へと変わり、水源を失ったクフナウルゲンチは打ち捨てられ、都はウズベキスタンのヒヴァへと移ることとなった。
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現在のクフナウルゲンチはアムダリア川からの運河によりソ連時代に再び多くの人が移り住み、町となっている。
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このトラベク廟は1370年ごろに当時ウズベク人のハーンがこの地を治め、モンゴル人の后をもらっていたが、その后の廟として作ったのがこの建物だ。
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とりわけ天井のモザイクは宇宙を表しているようでとても美しい。天井は1年間の日数、月日、そして時間を表している。
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廟の内部の様子。
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天井や壁部の装飾はとても美しい。
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廟
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扉の装飾も丁寧に掘られ、素晴らしい
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真下から見上げるとその大きさがよくわかる。
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廟の横面
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上部が壊れているのは地震のせいだろうか?破壊されたのだろうか?それとも風化によるものなのだろうか?
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ウズベク人のお墓
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トルクメン人の墓
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保存状態が決して良いとは言えないが、それでも現在の姿から、非常に大きな廟であり、美しかったことは理解できる。
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セイト・アフメット廟
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クフナウルゲンチの移籍は広い範囲に点在する。
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クトゥルック・ティムールのミナレット。
周辺に植えられているのはセクサルの木という。シャシリクに利用したりパンを焼くときに利用すると味がついてよくなるのだとか。 -
ミナレットは11世紀から12世紀に建設されたものという。高さは60メートルあり、中央アジアで最も高いミナレットだという。ミナレットの横のモスクはティムールに破壊されたそうだ。
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モスクの文様は美しく、単調なものではない。
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ミナレット入口はこんな上にあり、現在観光で中に入ることができない。また上部が傾いている。
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堂々としている姿はとても美しい。
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ミナレットの近くにはトーチカのような不思議な建物がある。ここには「幸せの井戸」、「甘い井戸」とも呼ばれる井戸があり、今も水が湧き出ているという。
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井戸の水を汲み上げ、それを飲むと幸せになれるのだという、わたしも早速中に入ってみた♪。
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井戸は思ったより小ぶりで中にも井戸水が見える。すくい上げるバケツがなかったので、入口にあった既に取り上げたバケツを見てみると・・・
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こんなん飲むの無理、絶対に甘くもないし!!、泥水やん!Σ( ̄ロ ̄lll)
ガイドに聞くと井戸水はこんなもので、水を飲むと地元の人でもお腹を壊すそうだ。
それって全然幸せじゃないじゃん(@ ̄□ ̄@;)!!
水を飲んで苦悶に堪えられれば、「何でも幸せに感じる」ってこと!? -
13世紀前半に建立されたテキシュ廟。テュルク系のホラズム朝時代のもの。
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ホラズム朝の代表的な建築物、テキシュ廟。アラーウッディーン・テキシュはホラズム朝の第6代の王で、在位が1772-1200年。父親は第4代の王で、イル・アルスラン。
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テキシュの時代、ホラズム王朝はテキシュの異母弟、ジャラールッディーン・スルターン・シャーも即位し、テキシュは一時カラ・キタイ(西遼1132-1218年。都はキルギスのベラサグン)に亡命し、苦しい戦いを強いられた時期もあった。
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しかしテキシュはカラ・キタイの力を借りてクフナウルゲンチに戻り異母弟ジャラールッディーン・スルターンを追い出すことに成功した。
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テキシュ廟は残念ながら内部に入ることができない。
異母弟ジャラールッディーン・スルターンはその後アフガニスタンのヘラートに勃興したイラン系のゴール朝(1117-1215年)に亡命した。 -
内部には再建された跡があるが、シンプルな作りのようだ。
ジャラールッディーン・スルターンもまた再起をはかり、ゴール朝からテキシュとの関係が悪化したカラ・キタイに身を寄せカラ・キタイの軍と共にテキシュを攻撃した。 -
スルターンはクフナウルゲンチを落とすことはできなかったが、ホラズムの重要なとしの一つ、トルクメニスタンの南部に位置するメルヴを落とし、メルヴを中心に領土とした。これによりテキシュとスルターンにより、ホラズム朝は南北に分断されて統治される。
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その後スルターンの死後、テキシュによりホラズム朝は統一され、ホラズム朝はうトルクメニスタン、ウズベキスタン、イラン、キルギスとタジキスタンの半分、アフガニスタンの2/3、カザフスタンの一部、そしてアゼルバイジャンに至る地域までを治め勢力はホラズム朝で最も広かった。
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テキシュが死去し息子のアラーウッディーンが1200年に跡を次ぐと、東西に分裂したカラ・ハン朝のうち、サマルカンドを都とする西カラ・ハン朝を滅ぼし、ホラズム朝は都をクフナウルゲンチからサマルカンドに移す。しかし1219年、西進するモンゴル軍に属すことを望まずモンゴル軍と戦い、ホラズム朝はモンゴル軍により蹂躙された。
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テキシュの后の廟??
アラーウッディーンは病に伏しながらカスピ海の小島に逃げ込み、そこで1220年に死去する。アラーウッディーンは息子のジャラーッルディーン(在位1220-1231年)にホラズム再興を託した。 -
ジャッラーッルディーンは小島を抜け出し、クフナウルゲンチに戻った。クフナウルゲンチからアフガニスタンのガズニに逃れ、諸侯をまとめモンゴル軍と戦い見事勝利する(1221年パルワーンの戦い)。しかし諸侯は褒賞で対立し、再び現れたモンゴルンの前になす術なく敗れた。ジャッラーッルディーンはインダス川をわたり再起を図ろうとするが、モンゴル軍に追われ彼の家族や多くのホラズム軍を失ったが、彼は濁流のインダス川に飛び込んでなんとか難を逃れた(インダス河畔の戦い)。
-
廟がいったい誰のものかわからないが、この廟の内部の棺を7回まわるとメッカに行ったことと同じ価値があるのだとか。
その後彼は物資を得るために略奪を繰り返しながらモンゴル軍の追っ手を振り切りながらインドを逃れたあと、砂漠をわたりイランへと向かう。イランでは兵をまとめアッバース朝やカフカス連合軍などとの戦いに勝利するも、モンゴル軍の追撃に遭い、何とかイランの山岳部に逃れたが、ホラズム朝に怨恨を抱えるクルド人に1231年に殺され、ホラズム朝は終焉する。 -
クルクモッラーの丘。紀元前から3世紀にかけて既に要塞があったと言われている。その後襲来したアラブ人たちもここに要塞を築いたのだそうだ。
クルクモッラーの丘から女性が上手く転がり落ちると、子宝に恵まれるという伝説があり、少し前まで上から女性が転がってきてたのだとか。
ところが怪我をする女性も当然多く、酷い重傷を負った人もおり、現在は丘の上に登ることが禁止されている。 -
遺跡と離れたこの場所には女性だけで訪れることが多いのだという。
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丘の上に登ることが禁止されても、丘の下に訪れるのは女性が多い。お腹の中の赤ちゃんにトラブルがあったり、母親が何か病気にかかったりした時に、無事に赤ちゃんが産まれるように祈りに来るのだという。
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赤ちゃんが無事に産まれますように。お母さんたちの祈りが伝わってくる。
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丘の下にはもう一つの祈りが。ここには二つの祈りがある。一つは子宝に恵まれるように石を高く積み、もう一つは徴兵に行った子供や恋人が無事に帰還するように石を高く積む。トルクメニスタンはアフガニスタンと国境が面し、いつ何どき戦争になるか分からない。その為アフガニスタン方面に配備された兵士の家族や恋人は必ずと言って良いほど、ここに石を高く積みに来るのだそうだ。
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よくみると、沢山石が積まれている。それぞれの家族の思いや願いが込められた場所。
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クルクモッラーの麓から見たミナレット
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イル・アルスラン廟。イル・アルスランは1156-1172年、第4代の王としてホラズム王国の当主だった。ホラズム王国はセルジューク朝への臣従国だったが、イル・アルスランの代でセルジュークの束縛から解放された。
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イル・アルスランの息子がテキシュとスルターンであり、ホラズム王国は南北に分断されることとなる。
イル・アルスラン廟は内部には入れないので、扉の隙間からチラッと見えるくらい。 -
誰の廟か聞きそびれてしまった。丸っぽい廟やお墓はトルクメン人のもので、四角っぽいものがウズベキスタンのもの。
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ホラズム朝の時代の11世紀から12世紀にかけて建設されただろうといわれるキャラバンサライの門。なんの目的で作られたのか理由はわかってはいないが、おそらくキャラバンサライ(隊商)たちがクフナウルゲンチの町に入る際に、ここを通ったとも言われている。
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クフナウルゲンチはシルクロードのルートの町で、いにしえより多くのキャラバンサライが交易のために行き来したことは知られている。
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かつてはブルーでコーディネートされ門は美しく、町から町へと砂漠の中を交易のために旅したキャラバンサライは繁栄したホレズム王国の都で癒されたことだろう。
しかし現在のキャラバンサライの門はかつての栄華を推し量ることができない。 -
門の大半は破壊や風化で損傷が激しく、アーチ部分くらいしか残っていなかった。しかし1999年から2000年にかけて復元工事が行われ、現在の姿になった。
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アーチ部分は当時から残る場所になるが、所々に当時の装飾が残る。スカイブルー、マリンブルー、そしてホワイトと3色で彩られ、装飾が入ったレンガによって施されている。
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ダシュホウズ郊外にあるガイドさんのお宅に訪問。ダイニングが少し高くなって手すりがついており、チャイハネ風になっているのがオシャレ♪
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姪の子供が挨拶に。九歳だがトルクメン語とロシア語を使い分けることができる。自宅では家族はロシア語を話しているのだとか。ウズベキスタンやキルギス等中央アジアでは家族と話すときも母国語よりもロシア語で会話してる家の方が都市圏では特に多い。昔はロシア語教育だったので、母国語で話すよりもロシア語の方が話しやすく、よくわかるらしい。日本では考えられない感覚だ。
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頂いた食事はチキンのプロフ、ナン、サラダ、スイカ等々。どれも美味しく食べることができた。ガイドの奥さんはトルコに留学中に日本の文化や歴史に触れ、日本が好きになったそうだ。
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ジュースのようなものは、アプリコットのコンポート。ポーランドでもよく家庭で作られていたので、中央アジアからヨーロッパに至る広範囲で作られているみたいだ。ただ国によってアプリコットや苺、ベリー、リンゴなど季節や収穫物によって異なるのが特徴。アプリコットのコンポートは甘すぎず爽やかな感じで、食卓にマッチする
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一見辛そうに見えるサラダだが、トマトベースの為、全く辛くない。生トマトが苦手な私でも、めっちゃ美味しく食べることができた。
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皆さんロシア語で話されるので、ロシア語があまり得意でない私は彼に通訳してもらいながら話をしたが、ちゃんとロシア語も勉強しておけば良かった、と改めて悔い。家族の方は日本に憧れがある一方で、日本に出稼ぎで働くことはできないのか、どうすれば日本で働くことができるのか、と聞かれた。トルクメニスタンはガスや油田で得た利益を国民に還元しているというが、確かに周辺諸国と比べると国民にもお金が回っているのだとおもうが、現実は生活がかなり苦しいのだと思う。それに厳しい言論統制に独裁主義による非民主的政策。誰だってトルクメニスタンに住みたいとは思わないだろう。
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再び国境へと向かう。
トルクメニスタンは豊かな国だという国のイメージと、国民の生活水準は大きくかけ離れている事には「やっぱりそうだった」という印象だった。 -
ウズベキスタンに入国しホッ。復路はトルクメニスタンの出国手続きは簡素で、税関申告の提出もなかった。しかし検閲はあり、カメラの撮影したものはある程度チェックされ、国境付近の写真は削除されてしまった。いずれにしてもウズベキスタンに入国するまで30分程度で手続きを終えた。
待ち合わせ時間より30分以上早く入国できたので、イミグレーション前のお店でお茶でもしようかと入った。すると先客たちは私が日本人だとわかるとウォッカや炭酸水、ツマミを振る舞ってくれた。真ん中の男性は37歳、私は41歳だが日本でも若く見られる方で、驚愕されてしまった。私は彼が年下と言うことに驚愕し、話しは弾んだ。 -
国境前でドライバーと無事落ち合った。この日私はヒヴァに戻るのではなく、夜のフライトでタシュケントに飛ぶため、一路ウルゲンチに向かう。
その途中で見かけた凄まじい荷物を積んだ車と離合する。 -
フライトは20:00、その二時間前には順調にウルゲンチ国際空港に到着した。ウルゲンチ国際空港もターミナルは立派だが、設備は脆弱。一階のチェックインカウンターのあるホールには自販機ぐらいしかない。
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ウズベキスタン側のドライバーとはここでお別れ。無茶な運転もすることなく送迎してくれて感謝!!
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チェックインがおわると、二階に上がり搭乗待合室に。二階にはビュッフェがある。それだけでもタシュケント ユジュニ国際空港の第三ターミナル(第三ターミナル)よりまし。
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ウルゲンチからタシュケントまではウズベキスタン航空で1時間40分のフライト。サービスはソフトドリンクのみのサービス。夜のフライトだがほぼ満席に近い。
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この旅行記へのコメント (10)
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- 子連れ旅人さん 2015/02/16 09:25:10
- 私はもってけドロボー!!です。
- Worldspanさん
投票有難うございました。
トルクメニスタンの女性を外国人が娶る場合は350万!!すごいですね〜。
容姿で額が決まる??ううむ、もってけドロボー!!って言われちゃったらショックですね。500万くらいはらっていただかないと・・。
もしや?Worldspanさんは広島とか中国地方のご出身でしょうか?語尾を見てそう思っちゃいました。
これからもスリルとサスペンスに満ちた旅行記(??家族旅行はそんなのだめですよ。)お待ちしています。
子連れ
- worldspanさん からの返信 2015/02/16 20:38:42
- RE: 私はもってけドロボー!!です。
- 子連れ旅人さん
こんにちは。
今日、東ティモールの旅行から帰ってまいりました。
トルクメニスタンの話ですが、女性に値段がついているのか、男性側に値段がついているのか(収入による値段)、そこらへんは分かっていないのですが、逆に最安値とかになると嬉しいのか悲しんでいいのかわからなくなりますよね(笑)。
そうなんです。私は広島出身で、東京住んでいた8年間も、現在まで14年間住んでいる大阪でも広島弁を押し通しています(笑)。
夏はええ具合に娘と二人でネパール、バングラ、インドと回れればいいと考えてはいます。
worldspan
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- はじめのいっぽさん 2014/09/07 11:41:42
- ニヤゾフ伝説、最高です!!
- いつも、拙い旅行記への訪問と投票ありがとうございます。
トルクメニスタン、行きたいな、と思ってるのです。
が、まだ、気持ちも財布も満ちてきてません。
ニヤゾフ伝説、広島弁、味があって最高です!!
woldspanさんの突っ込みも「そうだ、そうだ。」
と大笑いしながら援護してしまいました。
後の大統領の「街の景観を損なう」っていう理由も結構笑えるんですが…。
そこで生活している人たちにとっては、本当にどうなのでしょうね。
民族間の問題もあるだろうし。
詳しい出入国の手続きや様子がわかりとても参考になりました。もう少し、観光が自由(?)にできるようになったら行きたい国です。
つづきのの旅行記も楽しませていただきます。
ありがとうございました。
はじめのいっぽ
- worldspanさん からの返信 2014/09/07 23:26:46
- RE: ニヤゾフ伝説、最高です!!
- はじめのいっぽさん
こちらこそありがとうございます。
トルクメニスタンは半分鎖国と変わらないような状況なので我々からしても未知なる部分が多いです。それにしてもあのニヤゾフの笑顔を「景観を損なう」と一蹴した現大統領はすごい強気ですよね(笑)。
私はガイドのお宅に訪問し、食事をご馳走になりましたが、決して豊かには感じませんでした。ガイドはドイツに留学経験があり、婦人もトルコに留学経験が有り、外の国のことをよく知っているだけに、トルクメニスタンでの生活はとても閉塞感が有り辛いようなことを言っていました。おそらく多くの国民がそのように思っているのかもしれません。
トルクメニスタンではトルクメン人とウズベク人が多く住んでいますが、彼らの民族問題はないんです。むしろ中国人の増加や戦後強制移住させられた朝鮮人の増加がトルクメニスタンでの問題のようです。
worldspan
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- ムロろ~んさん 2014/09/06 18:51:45
- その前に何弁\(◎o◎)/!?
- worldspanさん
こんばんは、ムロろ〜んです。
トルクメニスタンの旅行記を拝見しました。
私もウズベキスタンの国境越え、毎回本当にイヤになっちゃいましたよ。
入国はスッと抜けられますが、税関検査が本当にイヤでイヤで!
絶対お金が欲しいんだろうなって思うくらい私の荷物を散々探してあら捜しするのに参りました。
ですが、書類も所持品もすべて問題なかったのですが、職員さんが「ちぇっ」って感じでもうつまんなそうな顔で(笑)。今では良い思い出です。
逆にタシュケントの空港で出国も税関検査もスッと抜けられたことにビックリしたくらいです。
興味津々拝見して、とても面白かったです。
最初の説明分も笑えたのですが・・・、ところでどこのお国の言葉なんだろうって思っちゃいました。
ムロろ〜ん(-人-)
- worldspanさん からの返信 2014/09/06 23:47:46
- RE: その前に何弁\(◎o◎)/!?
- ムロろ〜んさん
こんにちは。
コメントありがとうございます。
ウズベキスタンの税関や警察、これでも一昔前と比べれば随分アマアマになっていると思います。例えば、トルクメニスタンへの出国の際にも持ち出し可能なウズベキスタンスムを持っていたにも拘らず、出国をさせてくれたり、ビシュケクに向かう際にタシュケントに向かう際に税関で引っかかったのですが、申告漏れがあったのですが、見逃してくれたり、タシュケントの街中には警察がたくさんいましたが、賄賂の強要も一度もなかったり・・・、驚かされることが多かったです。徐々にではありますが、旅行者も増え、カリモフ大統領が「外国人にあまり手を出すな」という「御布令」を出しているそうで、こうしたことが功を奏しているのかもしれません。今後も徐々にではありますが、税関でのトラブルは少なくなるのかもしれません。ただし、アフガニスタンとの国境のテルメズの出入国はチェックが厳しいのはもちろん、賄賂等の強要もあるようです。今回の旅行ではテルメズからアフガニスタンに入国し、ガイド付きでブルーモスクを見る予定にしていたのですが、大統領選挙の影響で治安が悪化し、ビザが発給されず結局行けず仕舞いになってしまいました。
あ、ちなみに言葉は私の母国語!?、広島語です(笑)。私は広島出身で東京で学生生活等を送り、今は大阪で生活していますが、どこに行っても広島弁で話すことは変えていない生粋の広島っ子なんです(笑)
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- ラムロールちゃんさん 2014/08/30 21:03:42
- 驚きです!
- worldspanさん
私の旅行記にご投票いただきまして、ありがとうございました!
・・・青空が眩しい写真たちですね!
それにしても、なんてツッコミどころ満載の独裁者なんでしょう・・・。
口パク禁止って。
メロン記念日って。
金歯禁止って。
カツラの話はタブー・・・
もう、シュールです!
笑いごとじゃないんですが、笑いそうになりました。
でもそういう国にも、残された美しい建物があって、美味しい料理があるなんて。
こういう、99.99%行かない国の旅行記って、何もかもが新しくて、とっても面白いです。
楽しませていただきました!(&勉強になりました)
ラムロール
- worldspanさん からの返信 2014/08/31 08:15:30
- RE: 驚きです!
- ラムロールさん
こんにちは
こちらこそコメントありがとうございます。
砂漠地帯なので、トルクメニスタンもウズベキスタンも澄んだ青空なので、建物や民族衣装のカラーリングが本当によく映えますよね!
トルクメニスタンの仰天の法律、第三者が聞くと笑い話になるのですが、絶対に住みたくないですよね。それに旅行もガイド付きって、昔のソ連に回帰したような感じです。その昔、ソ連もガイドなしでは旅行ができなかったんですよ〜。
逆にそういうところで、観光に力を入れてないおかげで、昔の素朴な雰囲気が残っているのかもしれませんね。とはいえ、20世紀初頭のクフナウルゲンチの写真を見ると、遺跡はもっと荒んでおり、ラピュタの世界のようでした。
worldspan
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- sunnyさん 2014/08/26 21:18:48
- ニヤゾフ伝説
- worldspanさん
ウズべキスタンから日帰りとはいえ、濃いトルクメ記ですね!
独裁あっぱれの法律、ほんと笑っちゃいますよね、でも嫌いじゃないです。
ニヤゾフさんの像がぞくぞくと撤去されてると知り、アシガバードにある、時間と共に回転する像はまだあるのかな、と気になりました。
ニヤゾフさん亡き後も、緩くなったとはいえ後継者が路線維持なんですね。
重いのにRuhnama買って帰りました。今どこにあるのやら、笑
sunny
- worldspanさん からの返信 2014/08/27 22:10:40
- RE: ニヤゾフ伝説
- sunnyさん
コメントありがとうございます。
住んでいる人はやはり大変だとは思いますが、我々旅人には相当のインパクトのある国ですよね。でもニヤゾフで唯一感心したのは、身内に大統領の職を譲らなかったことです。どんなできの悪い息子でも、独裁体制だと、世襲している国が多いじゃないですか。にもかかわらずそんなことをしなかったのはある意味感心しました。とはいえ、このベルディムハメドフもすごいです。ニヤゾフの笑顔の肖像画が「景観を損なう」と一蹴して、肖像画を次々と取り外すんですからすごいですよ〜〜!
しかも像もなくなっていくし・・・ってことはニヤゾフ派閥は左遷させらrているということなんでしょうか・・・。
町に中国人や朝鮮人が増えたからといって、60キロ離れた村に強制移住させたっていうくらいだから、ニヤゾフにも勝る強者なのかもしれませんん!?!? でも今後は日本人の入国については少し緩くなるかもしれないって、地元の人が言っていました。早くそんなときが来てほしいです
worldspan
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