今月、鹿屋市の南部にある南町、獅子目町、大姶良町、横山町の史跡巡りをしました。
戦乱の室町時代(南北朝時代、戦国時代)の五輪塔、供養塔、生前に作る逆襲供養塔など、特に武士の死に関連する石塔がたくさんあるのが驚きでした。しかもそれらは土に埋もれていた物を、後世の郷土史家などが掘り出して寺跡などに並べているケースが多いのです。実際はまだ野山に埋もれている各種の石塔が無数にあるものと思われます。
私が関東にいた時に、五輪塔、供養塔、逆襲供養塔などの石塔を見た記憶がありません。関心がなかったためかも知れませんが、祈りの対象としての羅漢像や観音像は見た記憶があります。
中世の大隅に、私には異常と思えるほど石塔が多いのは、関東に比べて極めて戦いが多かったためと思っています。私には覚えきれないほどの領主や山城が多いことからも、戦乱の地であったことがうかがえます。
では、例として鹿屋市南東部に位置する南町、獅子目町、横山町にある五輪塔、供養塔、逆襲供養塔、墓など史跡の一部をご紹介します。
1 獅子目町の清水(しみず)石塔群
獅子目町にある「清水の石塔群」は、通称『三河どん』と称され、この地区では毎年清浄の地として清掃されています。大姶良地方の中世、近世の歴史を知る上からも、信仰、石塔の持つ意義を知る上からも文化財として高い価値を持つ石塔群です。
鎌倉時代からこの付近一帯を支配した①志々目氏一族(冨山氏の出)の供養塔群と、南北朝期この地方に進出して来た②建部姓称寝氏の逆修供養塔群、亨禄三年(1530年)大姶良地方に進出した③肝付氏一族の橋口但馬守(肝付兼成の次男の子孫)等の供養塔群、分禄元年(1592年)梅北事件に連座して、誅殺された大姶良地頭の④伊集院久光の百三十三回忌の追善供養塔、ならびにここの正面にあった⑤大恵寺(正応寺ともいう)の歴代住職の供養塔群に大別される所の鎌倉から江戸時代にわたる長期間の一大供養塔群です。
付近一帯に散乱、埋没していた石塔を復元したもので、まだ周囲の林の中に埋もれたものもあるはずです。石塔の形から氏が分かるので、ここには氏別に石塔が配列されています。
この地域で、名前を覚えられないほど多くの領主が戦を繰り返していたことが分かります。
志々目氏は冨山氏の出です。冨山氏は宮崎に下向し、島津荘(都城)の荘園管理者として都城に来ます。その後、高山の宮下そして、ここ大姶良に来ました。そして、一族は大姶良氏、志々目氏、横山氏、浜田氏と分かれて其々が繁栄しました。そして今も地名として残っています。
平姓称寝氏の逆修供養塔群の「逆修」とは、生前にあらかじめ自分のために仏事を修めて、死後の冥福を祈ることです。逆襲供養塔は、本人が生前に戦などに出かける前に仏事をしてから作る供養塔で、亡くなったら墓石にするものです。戦乱に明け暮れ、明日の運命すら分からなかった時代、宗教的な信仰こそが唯一の支えであったのでしょう。
ここには、文禄元年(1592年)の「梅北の乱」に連座した咎で一族、家臣63名と共に断罪(斬殺)されたという大姶良地頭の伊集院三河守久光の追善供養塔があります。享保9年に建てられ、久光と息子(兼丸または倭子)の戒名が彫られております。この供養塔は大恵寺の僧が伊集院三河守久光とその息子の133回忌に建てました。
「梅北の乱」は梅北国兼(肝付一族で、戦国時代に至り島津氏に従った)が豊臣秀吉に謀反を起こした事件です(文禄元年、1592年 )。当時、梅北国兼は帖佐地頭(重富)の職にありました。秀吉が朝鮮征伐のため佐賀の名護屋城に居る時、秀吉を暗殺しようと企て失敗します。その時の一味に伊集院三河守久光(大姶良地頭)の家臣も大勢いたため、伊集院三河守一族にも類が及び秀吉の命令で、三河守久光以下、女、子供赤子を問はず、一族64名が上田原で誅殺されたのです。
幼い息子(兼丸または倭子)だけは助けたいと思った伊集院久光は、家宝の刀を倭子(わこ)に託し、護衛の家臣を一人付けて浜田の呑海庵(玉山玄堤和尚が建立)に逃がします。しかし、家宝の刀に目がくらんだ家臣に倭子は殺されてしまいます。その殺された場所が、大姶良町の県道73号線の横の「倭子の下」という所です。林の中の高さ10メートルほどの傾斜が急な丘の端に、少し傾いた石碑があります。案内もなく、場所が分かりにくいので、訪れる人は極めて希でしょう。
なお、伊集院三河守久光の墓と伝わる目立たない四角形の天然石(写真の右側の石)が、大姶良町の道路脇にあります。秀吉の逆賊として立派な墓を立てられなかったためでしょうか。
2 南町の含粒寺跡
含粒寺はもともと吾平町門前にあった寺で、南北朝時代の正長2年(1429年)に、島津7代元久の子仲翁守邦が開山しました。曹洞宗・福昌寺の末寺です。忠翁の尽力もあり、含粒寺は大隅中部における仏教文化の拠点となりました。永享4(1432)年には総持寺(横浜市鶴見区)の76世に出世し、朝廷から紫衣を勅許されました。明治2年廃寺となった後、南の玄朗寺と合体させて含粒禅寺としたものです。
ここの参道横には、もと南町山下(やまげ)にあった石塔群を、この地に移転したものがあります。これは、天正元年(1573年)に18代肝付兼亮(かねあき、兼続の次男)が日向国の伊東氏とともに、陣ケ岡を超えて大隅半島南部の禰寝氏領に攻め入るに当たって建立した逆修供養塔です。ここには禰寝氏の逆修供養塔もあります。
この寺の石造群は見事で、仁王像2対、地蔵、観音、薬師などが残っています。特に門の前にある六地蔵塔〔主に戦国時代に盛んに造られた石塔で、側面に6体の地蔵像が彫られているという特徴がある〕は永禄8年(1565年)の庚申供養に結集した人々の氏名が墨書きで記されています。六地蔵信仰と庚申信仰〔庚申の日に徹夜して眠らず,身を慎めば長生できるという信仰〕の習合体としては県下で一番古いものとされます。信仰による精神の安らぎと信仰集団の結束を目的にしていたと思われます。
3 領主の墓
① 将監塚(しょうげんつか、しょげどん)
冨山将監(しょうげん)は横山将監・岡元将監ともいい、大姶良一族の一人です。南北朝対立の真っただ中の観応2年(1351年、南北朝期)、郷士諸侯が入り乱れて戦乱に明け暮れていたとき、本格的に大隅に侵入しようとした島津軍と、これを防ごうとした肝付軍との戦いがありました。
当時、肝付氏の支配下にあった大姶良一族(大姶良氏、横山氏、志々目氏、浜田氏)が、肝付氏を見限り島津6代氏久に付き、横山城に立てこもりました。
南の内城(ないじょう)にいた肝付兼成(8代・兼重の弟)は、この報せを聞き、兵を率いて横山城を攻めました。これを「横山の合戦」と呼びます。
戦いは一日足らずで終わり、浜田氏は戦死、大姶良・横山・志々目の諸氏は逃亡しました。横山将監は、逃亡の途中、肝付氏の兵に囲まれ、逃げるに術もなく、「冨山将監これにあり、いでや肝付の奴輩、我が死に様を見よ」とばかりに仁王立ちに突っ立ったまま鎧の革ずりを引き上げ、見事に立腹を切ったといわれています。そこが「将監塚」である。
横山城の東側近くの畑にある、ずいぶん大きな塚でありましたが、現在は周囲が削られて、10分の1くらいになっています。
② 兼成の墓
上記の「横山の合戦」で一日で城を落とした肝付兼成(8代・兼重の弟)は裸馬に跨り南への帰途につきます。しかし、帰る城の近くの南の山下(やまげ)という所で、路傍の竹藪の中に隠れて帰りを待ち伏せていた志々目藤三義貞(志々目一族の残党)に刺されて絶命します。肝付兵が犯人探しを探したが、志々目氏は逃亡しました。殺された場所(現在は畑)には「肝付兼成戦死之地」と彫られた石碑が立ててあります。昔はかなり大きな塚であったそうですが、次第に侵食されて、今は石碑があるだけです。この事件後、これを好機と志布志に拠点を持つ楡井頼仲が大姶良、鹿屋に進出してきました。
以上、大隅の狭い地域のわずかな史跡の紹介でしたが、南北朝時代と戦国時代の大隅は、戦乱に明け暮れた場所であり、武士も農民も明日の命も知れず、神の御加護にすがるしかなかった様子がうかがえます。当時と比べれば、現在の生活は夢のように思えます。