1 38年前の論文中に新発見!
最近、古い『大隅』誌をめくっていたら、珍しい年号がたくさん書かれた論文がありました。それは、昭和63年の『大隅』第31号に掲載された、篠原 亮氏の「田代之宝光寺古年代記の研究」です。
この篠原氏の論文中に31の「九州年号」が記録されていました。ただし、一般的な九州年号の最後にある「大長」は無く、一般的な九州年号には少ない「聖徳」と、まだ見出されていない「白頭」があります。また年号には転記ミスと思われる誤字が多いです。
篠原氏はこれらの年号を「当時仏教界に於て用いられた私年号」としていますが、現在では、九州年号の使用例が全国で約四百件も発見されているので、それらと照合することで、「田代之宝光寺古年代記」に記載されている「善記」から「朱鳥」(「朱鳥元」は誤記であろう)までの年号が、九州年号であることが容易に分かります。念のために、古代史研究科の内倉武久氏に、「田代之宝光寺古年代記」に記載されている年号が、九州年号であることを確認していただきました。
2 九州年号とは何か
内倉武久氏の『大隅』誌の第64号の論考によると、「大和政権」は奈良時代、701年に発足した新しい政権であり、それ以前は福岡県朝倉市に都していた「九州倭(いい)政権」(「九州王朝」と呼ぶこともある)が全国を支配していました。九州倭政権が制定していた「九州年号」には、継体天皇16年(522年)の「善記」から始まり、「大長」で終わる31の年号があります。九州年号の使用例は、鹿児島から青森まで全国で約400件も発見されています。なお、「大和政権」が初めて建てた年号は701年の「大化」です。このことは『日本書紀』の次に作られた『続日本紀』に書かれています。
なお、海外では『海東諸国紀: 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』 (岩波文庫)にも、九州年号の記録があります。 古いデータですが、九州年号が見つかった全国の分布図を以下に示します。
内倉武久氏のブログ『うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」』には以下のように書かれています。
”「九州年号」を創始したとされる「継体天皇」(袁本杼)は、筆者の調べで後に、九州は宮崎、鹿児島に本来の根拠地を持っていた「熊曾於族」の出身であったことが判明している。”
3 大隅半島は「熊曾於族」活躍の出発地
さらに、ブログ『うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」』には、以下のように書かれています。
”『古事記』によれば「継体天皇」は、本名を「袁本杼」という。国史学者らは名前を「おほど」と読み、『日本書紀』の「継体」と同一人物だとする。
だが「袁氏」は、その名を中国・紹興の鏡作り工人、そして日本で作られた「三角縁鏡」などに「袁氏作鏡真好」と、その名を残している。中国の名門一族の一人だ。
袁氏は『古事記』に前代の天皇「顕宗、仁賢天皇」(袁礽)としても名を遺す。おそらく二世紀前後に南九州、志布志湾などに漂着した中国からの「難民」だ。火山島・九州の鉄や銅など豊富な鉱物資源を利用して勢力を増大させ、最後は九州一円から全国に勢力を伸ばした。
そして「姫(紀)氏」勢力の「最後の天皇」であったろう「磐井」天皇を急襲してその地位を確実にしたと考えられる。”
なお、継体天皇の跡を継いだのが安閑天皇であり、その足跡の肝等屯倉(かとうのみやけ)跡が南九州の大隅半島にあることを、本ブログで以前に報告しました。
”『日本書紀』に息子の「安閑天皇」は、「犬養部」を全国に設置したと記録される。熊曾於族の「犬祖伝説」に基づいた施策だろう。「犬祖伝説」は生活に欠かせない飼い犬と結婚したお姫様を「民族の始祖」とする。中国の少数民族を始め、多くのチベット系族が持っていた説話である。
また「継体」を担いでいたのは同じ熊曾於族の「三島氏」だった(京都大学・日本地理志料)。さらに熊曾於族の墓である「地下式横穴墓」や「横穴墓」とまったく同じ墓が、中国各地で「偏室墓」や「崖墓」などと称して今、数多く発見されている。”
なお、下図のように、大隅半島を中心にピンクで囲った地域に地下式横穴墓が沢山確認されています。これも中国南部から逃れてきた熊曾於族が、この地域に住んでいた証拠の一つでとされています。
内倉武久氏によると、鹿児島県内の九州年号・発見例は、従来の「開聞古事縁起」に記載されているものを含めて70個近くとなり、全国一となりました。
鹿児島県の大隅半島が、大和政権の前の「九州倭(いい)政権」を作った「熊曾於族」の出身地であれば、当然のことです。