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古い『大隅』誌に九州年号を発見!

 大隅史談会」が毎年発刊している『大隅』誌は、今年で第67号になります。先輩たちが約70年間も、郷土・大隅半島の歴史や文化を書き続けて残してくれました。このような事例は全国でも稀です。


 1 38年前論文中に新発見!

最近、古い『大隅』誌をめくっていたら、珍しい年号がたくさん書かれた論文がありました。それは、昭和63年『大隅』第31号に掲載された、篠原 亮氏「田代之宝光寺古年代記の研究」す。

田代之宝光寺古代年記の研究_篠原 亮_31号1988年

 
田代(現在の鹿児島県肝属郡錦江町田代麓)の宝光寺は南北朝時代に田代の領主であった田代肥前守以久が、鬼ヶ宇都に建立し、後に田代高等学校があった地に移転し、明治2年に廃仏毀釈で廃寺となりました。

この篠原氏の論文中に31の九州年号が記録されていました。ただし、一般的な九州年号の最後にある「大長」は無く、一般的な九州年号にはない「聖徳」と、まだ見出されていない「白頭」があります。また年号には転記ミスと思われる誤字が多いです。

篠原氏はこれらの年号を「当時仏教界に於て用いられた私年号」としていますが、現在では、九州年号の使用例が全国で約四百件も発見されているので、それらと照合することで、「田代之宝光寺古年代記」に記載されている「善記」から「朱鳥」(「朱鳥元」は誤記であろう)までの年号が、九州年号であることが容易に分かります念のために、古代史研究科の内倉武久氏に、「田代之宝光寺古年代記」に記載されている年号が、九州年号であることを確認していただきました。

大隅誌に記録された九州年号_改訂1

 2 九州年号とは何か

内倉武久氏の『大隅』誌の第64号の論考によると、「大和政権」は奈良時代、701年に発足した新しい政権であり、それ以前は福岡県朝倉市に都していた「九州倭(い)政権」(「九州王朝」と呼ぶこともある)が全国を支配していました。九州倭政権が制定していた「九州年号」には、継体天皇16年(522年)の「善記」から始まり、「大長」で終わる31の年号があります。九州年号の使用例は、鹿児島から青森まで全国で約400件も発見されています。なお、「大和政権」が初めて建てた年号は701年の「大化」です。このことは『日本書紀』の次に作られた『続日本紀』に書かれています。

なお、海外では『海東諸国紀: 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』 (岩波文庫)にも、九州年号の記録があります。 古いデータですが、九州年号が見つかった全国の分布図を以下に示します。


九州年号分布図と市民の古代第11集


内倉武久氏の
ブログ『うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」』には以下のように書かれています。
「九州年号」を創始したとされる「継体天皇」(袁本杼)は、筆者の調べで後に、九州は宮崎、鹿児島に本来の根拠地を持っていた「熊曾於族」の出身であったことが判明している。

 

3 大隅半島は「熊曾於族」活躍の出発地

さらに、ブログ『うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」』には、以下のように書かれています。

『古事記』によれば「継体天皇」は、本名を「袁本杼」という。国史学者らは名前を「おほど」と読み、『日本書紀』の「継体」と同一人物だとする。

だが「袁氏」は、その名を中国・紹興の鏡作り工人、そして日本で作られた「三角縁鏡」などに「袁氏作鏡真好」と、その名を残している。中国の名門一族の一人だ。

袁氏は『古事記』に前代の天皇「顕宗、仁賢天皇」(袁礽)としても名を遺す。おそらく二世紀前後に南九州、志布志湾などに漂着した中国からの「難民」だ。火山島・九州の鉄や銅など豊富な鉱物資源を利用して勢力を増大させ、最後は九州一円から全国に勢力を伸ばした。

そして「姫(紀)氏」勢力の「最後の天皇」であったろう「磐井」天皇を急襲してその地位を確実にしたと考えられる。

 

なお、継体天皇の跡を継いだのが安閑天皇であり、その足跡の肝等屯倉(かとうのみやけ)跡が南九州の大隅半島にあることを、本ブログで以前に報告しました。

『日本書紀』に息子の「安閑天皇」は、「犬養部」を全国に設置したと記録される。熊曾於族の「犬祖伝説」に基づいた施策だろう。「犬祖伝説」は生活に欠かせない飼い犬と結婚したお姫様を「民族の始祖」とする。中国の少数民族を始め、多くのチベット系族が持っていた説話である。

また「継体」を担いでいたのは同じ熊曾於族の「三島氏」だった(京都大学・日本地理志料)。さらに熊曾於族の墓である「地下式横穴墓」や「横穴墓」とまったく同じ墓が、中国各地で「偏室墓」や「崖墓」などと称して今、数多く発見されている。

なお、下図のように、大隅半島を中心にピンクで囲った地域に地下式横穴墓が沢山確認されています。これも中国南部から逃れてきた熊曾於族が、この地域に住んでいた証拠の一つでとされています。

地下式横穴墓3連結

 内倉武久氏によると、鹿児島県内の九州年号・発見例は、従来の「開聞古事縁起」に記載されているものを含めて70個近くとなり、全国一となりました。

鹿児島県の大隅半島が、大和政権の前の「九州倭(い)政権」を作った「熊曾於族」の出身であれば、当然のことです。

 

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太古の昔から日本本土の玄関であった南九州

 南九州、特に鹿児島は、太古の昔から、海外からの日本本土の玄関でした。今のように大型船や飛行機がない時代は特にそうでした。その具体例として、最近得た情報ですが、古代に日本を席巻した海外から南九州に漂着した民族や野菜についてお伝えします。

 

1 九州に漂着した三大族

内倉武久氏による説では、州に中国から三つの大族が漂着し、7世紀末まで日本の古代政権をになった勢力がありました。そのうちの二大族(熊襲於族と天族)は鹿児島に漂着しました。内倉武久氏のブログや書籍に書いてあるように、彼らが大和政権の前に、九州政権を確立し、全国に足跡を残しました。三大族は、漢民族に中国南部から追い出されたボートピープルと考えられます。

三大族の連結

 

その裏付けの一つとして、NHKのテレビ番組「私たちは何者か~DNAで迫る現代日本人への道」でも紹介していましたが、2021年の金沢大学の遺跡出土人骨のゲノムデータ解析から、古墳時代(3世紀中頃から7世紀末)から現代人に近い「東アジア」ルーツが急激に増えていることが示されました。

日本人ゲノムの変遷

 

2 鹿児島に伝来した野菜

① サツマイモ

最近、サツマイモが日本本土に最初に着いたのが鹿児島県の大隅半島の高須であったという本を読みました。右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』です。 
サツマイモ本土伝来の真相_連結

 通説では、サツマイモは今の鹿児島県指宿市山川の漁師・前田利右衛門が、宝永2年(1705年)に琉球から薩摩に持ち帰り普及したと言われています。

しかし著者によると、江戸時代に漁師が前田という姓を持つことはなく、また当時の漁師が山川から 約760キロ余り離れた遠方の琉球に出かけて漁をすることはありえず、さらに実像を示す決定的な資料もないなど、漁師の前田利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰ったことはありえないと主張しています。

著者は、右田家の家系図、時代背景、サツマイモのルーツを再検証して、実際は親・子・孫の3代に渡って官途俗名を世襲した、今の鹿児島県鹿屋市高須町の薩摩藩士・右田利右衛門が、琉球からサツマイモを持ち帰り、大隅、薩摩地方に普及させたとして、上記の通説を覆しました。

 

② 落花生

田中良八は文政6(1823)年、垂水の新城の大浜で浦人・田中善兵衛の長男として生まれました。明治12(1879)年立春のころ、漁業の先進地の鹿児島の山川に視察に行き、滞在した旅籠でお茶請けとして「琉球豆」という珍しい豆が出されました。旅籠の主人の話によると、それは中国から琉球へ伝わった「落花生」で、南京豆、地豆などと呼ばれ、琉球から戻ってきた人の土産にもらった豆だということでした。

良八はその豆に興味をもち、10粒をもらって帰りました。4月初め頃、持ち帰った種を試しに植えてみたところ、秋にみごとな収穫となりました。


当時、農漁民の社会的経済的な地位の向上を目指していた良八は、換金作物を主体とする農業経営が必要だと考えていました。
さらに、村ぐるみで増産計画を進めることが良策と考えた良八は、落花生栽培5ヶ年計画・栽培要項・指導要領を作成して戸長の中村思無邪氏を訪問し、説得に努めて実現しました。また明治16(1883)年には、花岡村の戸長を訪ねて落花生栽培を始めることを勧めた結果、花岡は落花生の一大生産地となりました。

(参考文献:上園正人「落花生翁田中良八について」―『七岳』第20号)

落花生翁_連結

 

③ ムクナ豆

前回のブログでも取り上げた豆です。

ムクナ豆はツル性の豆で、インドや東南アジアが原産と言われています。日本では八升豆と呼ばれ、江戸時代に鹿児島で食用に栽培されていたと聴きました。しかし硬い豆であるためか、その後に栽培されなくなりました。海外からの入手経路に関する資料は見つかりません。私は江戸時代に鹿児島では琉球から入手したと推測しています。

ムクナ豆_3連結

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大隅半島は「建国神話の始まりの聖地」(6)明治5年までは高屋山上陵であった国見権現

鹿児島県の大隅半島(県地図の東側)は、建国神話にまつわる伝承地が極めて多い所です。今回もその一つです。

1 国見権現まいり
内之浦の国見岳山頂(標高886.5m)にある国見権現(高屋山上陵)に誘われて登りました。
地図_連結

肝属町の高山から内之浦に行くトンネルの手前から車で山道を登りました。引率者が事前に許可を得て、2ヶ所の通行止めのロープを外し、鉄柵の鍵を開けて、頂上付近まで車で行きました。
そこから山頂に通じる山道に入ります。その山道の入口付近から狭い山道を覆った草と木を、ビーバーとチェーンソーで取り除いてから山頂を目指しました。
ビーバーと山道

山頂には山幸彦(彦火火出見尊:ひこほほでのみこと)を祀(まつ)る祠(ほこら)があり、文化14年(1817年)の銘がある石灯籠をはじめ、古石塔があります。
国見岳の高屋山陵_2B

頂上の彦火火出見尊(山幸彦)を祀る祠の前で、修験者でもある神主様から一人ずつお祓いをしていただきました。
国見岳山頂からは、内之浦や柏原、志布志、鹿屋方面の景色が見渡せました。
国見岳の高屋山陵_4文字入


2 神代三山陵の確定まで
明治5年(1879年)までは、宮内庁は高屋山上陵は国見岳にあるとしていましたが、それが霧島市溝辺町になった経緯を、窪壮一郎著『明治維新と神代三山陵』(法臧館)により以下に説明します。
まず、神代三山陵とは、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の陵墓の総称です。以下に神さまの系図を示します。
なお、神さまの名前の読み方は同じでも、漢字表記は色々とあります。

神さまの系図_山陵入

神代三山陵を考証した学者は多く、例えば古くは薩摩藩の国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)が、寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三陵がすべて薩摩藩に存在することを主張しました。
行政機関の筆頭の神祇事務局に命じられて、三雲藤一郎(鹿児島神宮の神職)と三島通庸(誠忠組の一員)が明治2年(1876年)10月に出した結果は次のとおりです。ただし、これは政府としての調査というよりも、薩摩閥内での調査と言ったほうがよさそうです。
・ 可愛山陵(瓊瓊杵尊)= 新田神社のある八幡山(現・薩摩川内市)
・ 高屋山上陵(彦火火出見尊)= 内之浦の北方村国見岳(現・肝付町)
・ 吾平山上陵(鸕鷀草葺不合尊)= 上名村鵜戸の窟(現・鹿屋市)

明治5年6月に明治天皇が鹿児島に巡幸された際には、鶴丸城から皇祖の眠る薩摩川内市の可愛山陵、内之浦の高屋山上陵(国見権現)、鹿屋市の吾平山陵の三山陵を遙拝されました。
ところが、明治7年(1881年)の神代三山陵治定の裁可では、高屋山上陵は姶良郡溝辺村神割岡に変更され、確定したのです。この変更の背景には、当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸(よりつね)の建白が容れられたためと伝わっています。
変更の理由は、『古事記』によれば御陵は「高千穂の山の西」にあるとされているので方向が合うということと、神割岡の近くには彦火火出見尊を祀る鷹屋神社があり、鷹屋=高屋であると考えられるということの二点です。
なお、田中頼庸は神代三山陵の調査を行い、明治4年には『神代三陵考』を著して、彦火火出見命の陵墓の一について考証し、これが建白に繋がったと考えられます。

現在の神代三山陵の場所と写真を以下に示します。
  神代三山陵の場所_文字入

神代三山陵_5文字入
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砂鉄の多い大隅半島と熊襲の活躍の背景

以前に本ブログで一部を紹介しましたが、古代史研究家の内倉武久氏によると、古代に中国南部から大隅半島に渡来した熊襲は、当初は大隅半島に住み着きました。出身地と同じ地下式横穴墓(以下の写真)やシンボルマーク(逆S字、鳥、蛇など)、各種の風習(犬祖伝説、相撲、流鏑馬など)、金属利用技術をもたらしました。その後、全国にその痕跡を残しました。
地下式横穴墓3連結


熊襲は紀氏などと一緒になって、日本初の政権である九州倭政権を作り、九州年号を制定しました。大和政権により、これらの事実は隠蔽されましたが、徐々に事実が明らかになってきました。

熊襲らがこのような大きな権力を持ったのは、内倉氏が言われるように、鉄を利用して武器や武具を作る技術があったためと考えられます。当然のことながら、農業生産の飛躍的向上にも鉄は役立ったはずです。また戦では、熊襲が得意であった馬の利用も有利に働いたはずです。

熊襲が最初に住み着いた大隅半島に、
鹿児島県地図_文字入


鉄の武器を作るための金属資源はあったのか調べてみたら、高隈を中心に金属鉱山が沢山ありました。
以下の写真は「広報かのや」に掲載された高隈山にあった鉱山の説明です。
高隈山に点在していた鉱山


大隅半島の海岸では、古くから砂鉄が採掘されていたそうです。
垂水市のまさかり海岸には、鎌倉時代からそこの砂鉄を使って刀が造られていたと書かれた説明板がありました。最近、台風でこの説明板が飛ばされて無くなっていました。この海岸にも川が流れ込んでいます。
まさかり海岸2連結_1


まさかり海岸で磁石で砂鉄を探したら、現在は極めて狭い砂地にあるだけでした。隣接の温泉経営者は、昔は黒い浜であったのが、白い浜になったと言っていました。
まさかり海岸2連結_2


南大隅町の坂之口遺跡は、砂鉄の採掘時に発見された弥生中期の祭祀遺構(神霊を祀った遺跡)です。
山之口遺跡の石碑文3連結


以前に鹿屋市の浜田海岸で砂鉄が採取されていたと古老から聴いたので、浜田海岸に行きました。海岸に川が流れ込み、砂鉄の黒い紋がたくさん見えました。そのような所に磁石を近づけると、砂鉄が良く付きました。
浜田海岸2連結


浜田海岸の隣りにある高須海岸では、砂鉄の黒い紋は少なく、磁石に付く砂鉄量は少なかったです。ここには川が流れ込んでいません。
高須海岸2連結


高須海岸から500mくらい北側に流れている高須川の河口に行きましたら、砂の上に砂鉄の紋がたくさんあり、磁石に多量の砂鉄が付着しました。
高須川河口の砂鉄2連結


以上の海岸地域での砂鉄の多寡から、海岸にある砂鉄の主な供給源は陸側にあり、川から供給されていると推測しました。


吾平山陵を流れる姶良川の土堤は散歩コースになっています。鹿屋市吾平町の「湯遊ランドあいら」近くにある更生橋から下流には、雑草がない冬場には、川岸に鉄錆色の地層が何か所かに見えます。更生橋近くのそのような場所の砂地に磁石を当ててみたら、沢山の砂鉄が採れました。
姶良川砂鉄2連結


以上の狭い地域での調査結果ですが、大隅半島には砂鉄などの金属資源が豊富にあり、古代には容易に手に入れることができたと考えられます。金属利用技術に長けた熊襲が大隅半島に住み着いてから、金属資源を使って武器を作って勢力を伸ばして、一時は全国を制覇したことはありうることであると思いました。


内倉武久氏の古代史説に興味がある方は、同氏の『熊襲は列島を席巻した』(ミネルヴァ書房)とブログ”うっちゃん先生の「古代史はおもろいぜ」”をご覧ください。

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昭和26年創立の「大隅史談会」

鹿児島県は、島を除くと鹿児島湾を挟んで薩摩地方と大隅地方に区分されます。東側にある大隅地方の歴史や文化を未来に伝えようと、史跡探訪、文化財保存、研究などの取り組みをしている民間団体の「大隅史談会」があります。

創立されたのが昭和26年(1951年)です。そして『大隅史談会誌』の名で史論集が創刊されたのが、昭和29年(1954年)です。第三号から『大隅』という名称になり、現在まで続いています。なお、第三号の「大隅」という楷書を揮毫されたのは、高名な歴史学者の平泉澄・東大名誉教授です。

大隅第1-3号連結

創刊の詞にもありますが、大隅地方は古代には繁栄した先進地でしたが、その後に景行天皇、大伴旅人、島津氏による三度の討伐で長期にわたり被征服地となりました。創刊には、その口惜しさをバネに、古代に栄えた文化の花をもう一度咲かせようとする強い意気込みが感じられます。

66年間一度も途絶えることなく、史論集『大隅』を発行してきたのには、会長をはじめとする役員の尋常ではないご苦労がありました。元会長の松下高明氏は、同氏のブログに以下のようなご苦労話を書かれています。

『では何を運営資金とするのかというと会誌『大隅』の売り上げなのである。俗に言う「自転車操業」というやつである。
しかし会員200名のすべての人が購入するわけではなく、年にもよるが100名から150名(100冊から150冊)であり、単純に計算すると年間売り上げは20万から30万であった。
「自分で原稿をパソコンで打ち込み、おたくに製本だけお願いしたら、安くなるのでは」と掛け合い、半額の840円(800円プラス消費税5パーセント)で可能となり、250部が20万で済むようになった。』

その後、更に、大隅史談会の広報と購読者の増加のために、『「月例会」を57号の頃(平成26年度)から始めた。月1回の日曜日の午後、主として会誌に投稿してもらった人の話を聴くという学習会だが、一回に二人の講師を頼み、それぞれ4000~5000円を謝礼として支払うことができた。』
歴代の会長を中心に、創刊時の決意を継承して、歯を食いしばるような努力が続けられてきたことがわかります。


昨年、ポータルサイト「ぐるっとおおすみ」内に、大隅史談会のホームページができました。

ホームページTOP

このホームページ内にあるページ『史論集「大隅」』には、各号に掲載された論考のタイトルと投稿者が載っています。それを見ると、古代から近現代までの大隅地方の歴史、文化、習俗などに関する広範な内容について、多くの投稿者が書いていることに驚かされます。

投稿者の多くは大隅の人ですが、鹿児島県以外の国内や海外の人もいます。また、九州大学名誉教授の秀村選造先生や、次々と新しい古代史像を提示されている内倉武久氏も投稿されています。

3年前からは、俳句と短歌も載るようになりました。

大隅3冊_700KB

来月の20日に発行予定の「『大隅』(第64号)2021年発行」のタイトルと投稿者は、以下の通りで、興味ある内容が多いです。


一  大隅半島遺跡における開聞岳起源の火山灰について   中 村 耕 治
二  前方後円墳の起源                        武 田 悦 孝
三  熊曽於族・継体は朝倉市に都していた             内 倉 武 久 
四  古代人の名前の付け方から歴史を推定する          大 野 文 明
五  『酒呑童子』と右田家蔵「絵巻物」の謎             右 田 守 男
六  「梅北の乱」の謎                          新 留 俊 幸
七  甑島の一向宗禁制史                        橋 口  滿     
      ―植村喜平太の叛乱―
八  神木                                 竹之井  敏  
九  石碑から見る大隅の歴史  ―その三―             瀬 角 龍 平
    一、疎水・開田の記録
     ・入部兼吉頌徳紀年碑(大崎町野方)
     ・水路紀年碑開渠來歴(南大隅町根占)
    二、鎮魂
     ・安庭貞温大人之墓(肝付町高山)
     ・正矢勝武斯男命之墓(肝付町高山)
     ・日高藪仙(正業)燈明台(肝付町高山)
     ・村上家先祖累代墓(南大隅町佐多)
     ・郡の禰寝氏四代の墓表(南大隅町佐多)
    三、顕彰碑
     ・謝恩記(東串良)
     ・東風泊漁港開拓之碑(肝付町高山)   
十  久光の影武者
     久木山泰藏行達列伝(前編)                  橋 口  滿  
十一 泊州和尚略伝                            上 園 正 人
十二 五代友厚公の銅像を巡りて                    渡 口 行 雄
十三 永田良吉の随想風回顧録について               朝 倉 悦 郎
十四 進駐軍管理下の日本軍爆弾集積所の爆発          小手川 清 隆                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 
十五 町指定文化財道隆寺の清掃について              福 谷  平 
十六 俳句                                   たるみず俳句講座 
十七 短歌(1)                                 肝付町短歌会
十八 短歌(2)  華                                                  短歌会鹿屋・曽於支部
十九 令和二年度「現地研修」の報告                   朝 倉 悦 郎
二十 郷土史家:故江口主計氏を惜しんで  追悼文          窪 田 照 夫
二十一 故江口主計先生へ                         松 下 高 明
二十二 大隅史談会からの御案内                    大隅史談会 
       『投馬国』と『神武東征』が出版    

史論集『大隅』の購入方法は、ホームページ内の「大隅史談会について」の「2 入会案内」をご覧ください。なお、在庫の有無は、前記のホームページ内にあるページ『史論集「大隅」』でご確認ください。



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大隅半島の奇岩

鹿屋市吾平町の南部にある木場に「立神(たてがみ)公園」があり、そこに大きな柱のような奇岩からなる珍しい光景が見られます。昨年(2019年)に、史跡巡りのグループを案内した折に、「立神公園」にも連れていきましたら、参加者が一番驚き、喜んでいただいた場所でした。参加者から「こんな場所があるとは知らなかった。」と口々に言われました。

ここは、平成4年に地元の人たちが中心となって整備して作った公園です。道路横の、少し下がったところにあります。奇岩には、「立神」、「不動岩」「親子岩」などの名前が付けられ、それぞれ家内安全、五穀豊穣、安産の御利益があるとされています。そのため、パワースポットでもあります。

立神公園奇岩の連結

この奇岩の成因を知りたくて、ネットで調べたら、鹿児島大学応用地質学講座が開設している鹿児島県の地質関連情報サイト「かだいおうち」に、「鹿児島県の奇岩・名石」のページがありました。残念ながら、当時、そこには大隅半島の奇岩の事例は載っていませんでした。しかし、そこに「他にご存知の石がありましたら、ご教示ください」と連絡先が書いてあったので、写真を付けて、この奇岩の成因を教えて下さいと、メールを出しました。

早速、鹿児島大学 応用地質学の岩松 暉(あきら)名誉教授からご返事をいただきました。現地の地質図からいくつかの成因に関する地質情報とともに、県内の知人の地質学者に「立神公園」の奇岩について尋ねてみたが、誰も知らなかった。自分は高齢で現地に行けないので、まずは地質学を専攻(最初のメールで報告)した貴殿が岩石の種類を判定してほしい。」と書いてありました。
そこで、現地に行って、奇岩の周囲にあった転石数個をハンマーで割って、破断面を見たら、溶結凝灰岩に特徴的なユータキシティック構造(横方向に平たくなった組織)が見られました。その結果、奇岩の岩質は溶結凝灰岩と判定しました。

その破断面の写真を岩松先生に送り、先生から溶結凝灰岩とのお墨付きをいただきました。その結果、立神公園の奇岩の成因は、約11万年前の阿多北部カルデラの大爆発に由来する阿多溶結凝灰岩(阿多火砕流により厚く積もった火山灰と石が熱と圧密で固まった岩)の柱状節理を持つ岩体(岩が冷えて固まる際に収縮して柱が集まったように岩が割れたもの)の中で、風化に耐えて残った岩柱であると、岩松先生が成因の仮説を教えて下さいました。

なお、柱状節理を示す溶結凝灰岩の岩柱は、溶岩からできたものよりも一般に太いそうです。私は玄武岩などの火山岩の柱状節理は知っていましたが、溶結凝灰岩のそれは知りませんでした。その後、鹿児島県には溶結凝灰岩の柱状節理は多く、私が良く行く吾平山陵にもあることも知りました。

吾平山陵柱状節理連結

以下に、阿多北部カルデラが大噴火してから、その火砕流が時速約300kmで海上を滑るようにして大隅半島に到達し、堆積して冷却過程で柱状節理を形成し、その後の風化に耐えて残った柱状の岩が現在の奇岩となった仮設の経過を、分かりやすくするために順を追って図と写真で示します。

阿多北部カルデラ噴火3連結1_文字入

阿多北部カルデラ噴火3連結2_数字入

その後、「かだいおうち」の「鹿児島県の奇岩・名石」に、立神公園の奇岩も入れていただきました。

最近、同様な形状の奇岩が、錦江町城元地区にあった旧立神(たちがみ)神社の近くにもあることを、ネットで知りました。地元の人に訪ねながら、現地に行きました。それは「立神(たちがみ)岩」とよばれ、高所恐怖症には足がすくむような、神之川にかかる永水大橋の下にありました。

立神岩連結

吾平の立神公園の奇岩と同じく、阿多北部カルデラが大噴火して大隅半島に到達した火砕流が、冷却過程で柱状節理を形成し、その後の風化に耐えて残った柱状の岩と考えられます。
この奇岩の近くにあった立神(たちがみ)神社で、旗山神社に伝承されている正月行事「柴祭り」の内、田打ち行事が1月2日に行われていましたが、神社が安水地区に移築されたのにともない、この行事は新しい神社で行われるようになりました。

大隅半島には、分け入りがたい山地が多いので、まだ未発見の奇岩があるような気がします。
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恐ろしすぎる「南九州での破局噴火」

私が住んでいる南九州、特に鹿児島県の過去の火山災害を調べてみたら、現在では予想もつかない破局噴火(超巨大噴火)が何回かあったことを知りました。これを知ったら、永く活動を続けている桜島の爆発は小さいと思いました。一回起きた破局噴火はまた起きる可能性があるので、恐ろしい所に住んでいることが分かりました。
以下に、過去の主要な破局噴火の概要を、なるべく分かりやすく書いてみます。

1  阿多カルデラの大噴火
阿多カルデラは、鹿児島湾の入口付近にある2つのカルデラで、南側のカルデラを阿多南部カルデラ、北側のカルデラを阿多北部カルデラと呼んでいます。
火砕流(
高温の火山灰や岩石、火山ガス、空気、水蒸気が一体となったもの)を伴う噴火と陥没を繰り返しており、最初の約11万年前の旧石器時代の大噴火においては、阿多北部カルデラから阿多テフラ(火山噴出物)が噴出した直後に阿多南部カルデラでも陥没が発生したと考えられています。
阿多北部カルデラから噴出した火砕流は、南九州広域に押し寄せてきたので、当時住んでいた旧石器時代人は絶滅したと考えられます。

1_阿多カルデラと火砕流分布図

この大噴火の後、阿多南部カルデラ内部に鷲尾岳、清見岳など新期指宿火山群と呼ばれる火山群が形成されました。
約5500年前には阿多南部カルデラ西北縁部で大噴火が起こり池田湖(池田カルデラ)が形成されました。これとほぼ同時に発生したマグマ水蒸気爆発により山川湾、成川盆地、鰻池、池底、松ヶ窪などの噴火口群が相次いで形成されました。その後、鍋島岳や開聞岳が形成され現在に至っています。
2_阿多派生カルデラ

水蒸気爆発の後で、花崗岩岩片を含むスコリア堆積物を噴いた後に、大規模な池田降下軽石堆積物を噴出しました。池田湖から直線距離で約30km離れた、私が住んでいる大隅半島中部に約1mの厚さの軽石が堆積しました。このように多量の火山岩が空から降ってきた時には、当時の人々を阿鼻叫喚の地獄にさらしたことでしょう。

阿多北部カルデラの噴出物は、現在、独特の景観も作って、我々を楽しませてくれています。
花瀬自然公園の石畳(千畳敷)、吾平の立神公園の奇岩なども阿多火砕流が堆積してできた溶結凝灰岩であり、珍しい景観をつくりました。吾平山陵では、高千穂峡の絶景スポットになっている「溶結凝灰岩の柱状節理」が小規模ながら見られます。
3_阿多火砕流の景観


2  姶良カルデラの超巨大噴火
姶良カルデラは、現在の桜島以北の鹿児島湾全体を噴火口とし、今でも火山ガスを海中にボコボコと吹き出す、「たぎり」とよばれる噴気活動が見られます。
4_姶良カルデラとたぎり_文字入

約3万年前に姶良カルデラは短期間(数ヶ月以内)に相次いで大噴火し、軽石の噴出から始まり、最後に超巨大噴火して大規模の火砕流「入戸火砕流」が発生しました。噴出源から半径約90kmにも及ぶ南九州本土の大半が厚く埋められ(下図左)、最大厚さで約150mの火砕流堆積物はシラス台地と呼ばれる広大で不毛な大地を形成しました。シラスは水の作用による構造が見られないことから,数日程度の期間に一気に堆積したと考えられています。
5_入戸火砕流分布とシラス崖_文字入


同時に上空に立ちのぼった火山灰は日本列島の広域に飛散して、当時の推定厚さは南九州 で30メートル、高知県宿毛市で 20 メートル、京都で 4 メートル、関東地方で10センチ、東北地方で数センチも積もりました(現在の地層厚さはその1/10)。
九州や中国地方の旧石器時代人は絶滅したと思われます。生態系の回復と人類の活動再開には、約1,000年を要したと推定されています。

3 鬼界カルデラの大噴火
鬼界カルデラは鹿児島県南方およそ50kmの硫黄島と竹島を含むカルデラで,大半が海底にあります。
6_鬼界カルデラ位置と海底図

約7,300年前(約6,300年前とする説もある)に生じた鬼界カルデラの一連の大噴火の際に、最後の大規模火砕流「幸屋火砕流」が推定時速300km位の高速で海上を走り、大隅半島や薩摩半島にまで上陸しました(下図左)。その時のアカホヤと呼ばれる火山灰は東北地方まで達しました(下図右)。
7_幸屋火砕流とアカホヤの分布図

噴火の順序は,軽石の噴出(大隅降下軽石)→横なぐりの爆風(ベースサージ)→火砕流の流出(妻屋火砕流)→火口の大爆発(亀割坂角レキ)→大規模な火砕流の流出(入戸火砕流)と一連につながっています。大隅降下軽石は大隅半島側で特徴的に見られることから,噴火は北西の季節風が卓越する冬に起こったと考えられています。
「幸屋火砕流」は当時住んでいた早期縄文時代の縄文人の生活に大打撃を与えたと考えられています。その後、1,000年近くは無人の地となったようです。
その後に住み着いた前期縄文時代の縄文人は以前とはルーツが異なり、土器の様式も変わりました。
また、大噴火の際に海中に突入した火砕流の一部は大津波を発生させました。津波の推定高さ(下図左)は大隅半島で30mです。津波の痕跡は長崎県や三重県でも確認されました(下図右)。
8_鬼界カルデラ噴火による津波


4 桜島の大噴火
破局噴火はしていないですが、姶良カルデラからマグマの供給を受けている桜島の大噴火も覗いてみます。
桜島観光ポータルサイト「みんなの桜島」の「噴火の歴史」によると、桜島は、約26,000年前の誕生以来17回の大噴火を繰り返してきました。
9_過去の噴火図_文字入

その噴火活動は、大きく2つの時期に分かれています。最初は北岳(御岳)の活動です。誕生以来たびたび噴火し、約5,000年前に活動を休止しました。なかでも、約12,800年前の噴火は規模が大きく、鹿児島市街地で約1ⅿ、鹿児島県のほぼ全域で約10cmの軽石が降り積もりました。
約4,500年前からは南岳の活動がはじまります。あとから誕生した南岳は、北岳に覆いかぶさるように成長し、現在まで活発な活動を続けています。
歴史時代に入ってからは、天平宝字(764年)、文明(1471年)、安永(1779年)、大正(1914年)と4回の大噴火を起こし、そのたびに島は形を変えてきました。大正噴火では大量の溶岩が流れ、それまで島だった桜島と大隅半島は陸続きとなりました。
桜島の大正噴火のすざましさを伝えるものとして、桜島の黒神地区にあった「腹五社(はらごしゃ)神社」の埋没鳥居が有名です。もともとは高さ3mあった鳥居が、今は上部の約1mを地上に見せています。その下の約2mは、噴火後1日で、軽石や火山灰に埋め尽くされたそうです。
もう一つ、大隅側にも埋没鳥居があります。垂水市にある牛根麓稲荷神社の埋没鳥居です。高さが約3.7mあった鳥居が、大正の大噴火で噴出した火山灰・軽石で完全に埋まったそうです。現在は約1.45mまで掘り出され、鳥居の上部を見ることができます。
10_2つの埋没鳥居

現在、火山噴火と同じく、カルデラの破局噴火は予測できません。カルデラ噴火が始まったら、初期の活動状況から判断して、遠地に逃げるしかありません。そのためにも、過去の破局噴火を知ることは大切であると思います。

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大隅にあった日本初の禅寺と献身的な発掘者!

日本で最初にできた禅寺「道隆寺」の跡が、大隅半島の肝付町高山(こうやま)の本城(ほんじょう)にあります。寺の全てが明治初期の廃仏毀釈で徹底的に破壊されたため、寺跡として残りました。江戸時代の三国名勝図会には、破壊される前の寺の姿が描かれています。

三国名所図絵の道隆寺_800KB
               写真1 三国名勝図会の道隆寺絵図

道隆寺は、鎌倉時代の1246年(寛元4年)、中国の南宋の禅僧である蘭渓道隆(大覚禅師)が開山し、

道隆寺跡入口と説明板の合体_850KB
                  写真2 道隆寺跡入口

7年後の1253年に、鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に請われて、蘭渓は鎌倉へ赴き、現在の臨済宗建長寺派の大本山である建長寺を開山しました。私は建長寺に行ったことがありますが、その広大な規模に驚きました。

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                 写真3 蘭渓道隆の像と事跡

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                 写真4 鎌倉の建長寺

土に埋もれていた道隆寺の遺物を、肝付町の元役場職員で地主の福谷平(ふくたに たいら)氏が、昭和59年から公務のかたわら寸陰を惜しんで一人で整備を始め、その献身的な活動に心を動かされた人々の協力もあり、ほぼ30年をかけて、現在のようなすばらしい環境にまで復元しました。
木や竹の根が絡んだ重い石塔などを掘り起こして組み立てる作業は、想像を絶するご苦労があったはずです。役場の休みの日には、福谷平氏が夕暮れになっても発掘を続けているので、母親が心配して、「たいら!たいら!」と息子の名前を呼びながら、よく探しに来られたそうです。

ご本人から聴いた話では、何代か前のご先祖が、「自宅前に日本初の禅寺があったので、土地が売りに出されたら購入して、大事に保存しなさい」と言い残し、その後に売りに出された寺跡の一部を子孫が購入していたそうです。そのご先祖も、廃仏毀釈を徹底した薩摩藩の方針に抗して、独自の信念を貫かれたのです。

「肝属観光協会」のホームページには、現在の寺跡の様子が以下のように書かれています。
「本堂などがあった場所は水田になっていますが、林の中には観音堂跡があり、仁王像、ヤグラに刻まれた磨崖五輪塔、宝塔、経塚、六地蔵塔、無縫塔(むほうとう)、灯龍、鎌倉時代から戦国時代に至る数多くの五輪塔が古い歴史を物語っています。」

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                 写真5 道隆寺跡の遺跡

2006年(平成18年)には、6代島津氏久と7代元久の逆修供養塔(本人が生前に建てた供養塔)が発見され、肝付氏と島津氏の関係が良好な時期があったことがうかがえます。

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                 写真6 島津氏の逆修供養塔

整備された道隆寺跡は、掘り出された無数の石塔などが整然と並べられ、説明用の石碑、看板、札などが充実しています。

秋には植えられた多くの紅葉が色づき、素晴らしい景観になります。

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                    写真7 紅葉

平成21年からは、鎌倉五山の中心的存在である建長寺の管長をはじめとする建長寺の関係者が毎年、道隆寺を訪れています。

福谷氏は、肝付町に沢山ある文化財の説明板を自費で立てたり、毎年秋には道隆寺跡の近くにある本城集落センター(本城小学校跡)でミニコンサートを開催されています。また、現在はお一人で道隆寺跡の近くの竹やぶを切り開き、ブラジルの国花であるイペーの林を作る作業を続けておられます。

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            写真8 福谷氏が作られた文化財の説明・案内板の例

イペー合体1
               写真9 色鮮やかな黄色のイペーの例

福谷平氏は、私が大隅に移住してから知った、数少ない行動力・実行力のある人の一人です。しかも、地域社会や後世の人々のためになる活動をいくつもされています。このような方が世の中を変え、お手本となって立派な人を育て、また人を元気づけるのです。

史跡としての「道隆寺跡」の価値は次第に大きくなってきましたが、その影に福谷平氏の献身的な長い活動があったことを広く知っていただきたくて、この文を書きました。

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史跡を説明されている福谷平氏
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賑わう!大隅にある3漁協の食堂

大隅半島には、漁業組合の食堂が三か所にあります。垂水漁協の味処「海の桜勘」、鹿屋市漁協の食堂「みなと食堂」およびねじめ漁協のおさかな天国「さかな館」内の食堂です。
いずれの食堂も、新鮮な魚を使った料理をお手頃の価格で食べられるので、昼食時には賑わっています。私も三か所の食堂をよく利用しています。

1 垂水漁協の味処「海の桜勘」
  住所:垂水市海潟643-14 ☎0994-32-03621
  開店時間:11:30~14:00
  休み:火曜日、年始年末

三つの食堂の中では一番新しい食堂で、昔は温泉客で賑わった海潟の海岸にあります。漁協の加工工場の二階です。目の前の鹿児島湾内は、カンパチの養殖場となっていて、多くの生け簀と漁船が見られます。目と鼻の先に桜島と江之島があります。食後に、海岸からこれらの景色を見るのもお勧めです。

食堂合体

鹿児島茶配合の餌で育った養殖カンパチ「海の桜勘」は、ビタミンEが多く、コレステロールが少なく、うま味があってさっぱりした美味しさが特徴だそうです。

メニューは多く、私はカンパチの漬け丼セット(下の右の写真)をよく注文します。料理と価格はホームページをご覧ください。
お土産にお勧めなのが冷凍の「ビンタ煮」(税込み500円)で、解凍するだけでカンパチの頭のあら煮が骨まで食べられる柔らかさです。

食堂とづけ丼の合体


2 鹿屋市漁協の食堂「みなと食堂」
  住所:鹿屋市古江町7468 ☎0994-46-3020
  開店時間:11:00~14:00
  休み:月曜日

バラのまち鹿屋らしく、魚の餌にバラの花びらの粉末を配合し、ポリフェノールが豊富で魚臭さがないと、魚料理が人気を集めています。カンパチをメインに、多くの料理があります。私はカンパチの漬け丼セット(下の左の写真、税込み700円)を注文することが多いです。私は土産にカンパチの南蛮(下の右の写真、税込み200円)を良く買います。

漬け丼と南蛮の合体

天気の良い日に、海が見える窓際に座ると、鹿児島湾の向こうに薩摩半島の開聞岳(下の右の写真)が見えます。

みなと食堂と開聞岳の合体


3 ねじめ漁協のおさかな天国「さかな館」内の食堂

住所:鹿屋市新川町683 ☎0994-45-7117
開店時間:11:00~14:00
休み:不定休

潮の流れが速い根占漁場は、カンパチの養殖に向いた海域だそうです。この「さかな館」は根占からは遠い鹿屋市の街中にあり、魚、寿司の他に、野菜、果実、菓子、花など、沢山の商品を売っています。

さかな館全景と売場合体

食堂はカンパチをメインにした魚の定食や丼など多種類があります。下の写真は「カンパチ丼アラ煮定食」(税込み950円)です。立地条件が良いこともあり、売店も食堂も賑わっています。

食堂と漬け丼あら煮定食合体  



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我が家のイヌマキが「キオビエダシャク」の被害を受けた

大隅半島の庭木には、関東に多い松とモッコクが少なく、イヌマキとクロガネモチが多いのが特徴です。イヌマキが生垣に使われていることを、関東の植木屋は驚きます。大隅を代表する庭木はイヌマキと言っていいでしょう。土地の人は、イヌマキをヒトツバ(一ツ葉)と呼んでいます。

関東では、イヌマキは玉散らし仕立てにします。イヌマキは風に強いので、台風が多かった大隅では生垣や防風林に好んで使われたのでしょう。


マキの玉散らし仕立てと生垣2_35
                                              他家の見事なイヌマキの生垣と玉散らし仕立て

今年の7月4日の朝、庭に出たら、イヌマキの害虫の「キオビエダジャク」が数匹飛んだり、木にとまっていました。この蛾は、羽に黄色の丸い帯があり、そこに黒い斑点があります。
蛾そのものはイヌマキに害はありませんが、主に樹皮や枝の付け根に1卵ずつ産卵します。孵化直後の幼虫が葉を食害し、イヌマキが枯死します。薬剤等で駆除することが効果的です。
イヌマキ等をよく観察し、幼虫を早期発見・防除を実施することが大事です。

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                                                           蛾のキオビエダジャク

7月20日に、我が家の生垣のイヌマキに1本枯れ枝が目立つので、枯れ枝を切り落としたら、尺取虫のような「キオビエダシャク」の幼虫が一匹落ちてきました。周りの健全なヒトツバを揺らしても幼虫は落ちてきませんでした。

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                                                   イヌマキの生垣から 切り落とした枯れ枝

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                                       揺らした木から落ちてきたキオビエダシャクの幼虫

7月22日に、「キオビエダシャク」の幼虫(尺取虫)探しと枝が伸びて見苦しきなってきたので、イヌマキの生垣を剪定しました。
一昨日、葉を食い荒らして木を枯らす尺取虫が一匹見つかったので、木を揺らして点検しながら深めに剪定しました。尺取虫は見つからず、一安心しました。

皆さんのお宅に葉のないイヌマキの枝があったら、「キオビエダシャク」の幼虫がいないかを確認してください。薩摩川内市の説明と写真が参考になります。

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