性社会・文化史研究者・三橋順子のアーカイブ:SSブログ
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2024-08-21

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「純綿・純女」 ―講談社現代新書『性的なことば』から [論文・講演アーカイブ]

三橋順子「純綿・純女」 井上章一+斎藤光+渋谷知美+三橋順子『性的なことば』(講談社現代新書、2010年)407~412頁
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純 綿・純 女 (三橋 順子)

「おい、順子、あれはどっちだ?」
ここは新宿歌舞伎町の女装スナック「ジュネ」。トイレに立って席に戻る途中の私を、カウンター席で飲んでいた常連客のSさんが引きとめた。そして、ボックス席で私が相手をしていた女性を指差しながら尋ねた。
「彼女ですか? 本物ですよ」
「なんだ、やっぱり、純綿(じゅんめん)かぁ。いい女なのに惜しいな」

新宿の女装コミュニティの店は、女装客と女装者を好む(非女装の)男性客との出会いの場所であり、希に来店する女性客はゲスト扱いで、男性客が口説いたり、お触りしたりするのはタブーである。

女装者好きの男性(女装者愛好男性)の代表格であるSさんが、目をつけた相手が生得的な女性であることを知って残念に思ったのは、そういうわけだ。このように女装コミュニティやニューハーフの世界では、生得的な(遺伝的な)女性のことを「純綿(じゅんめん)」と呼んできた。

この言葉を最初に耳にしたのは、私がこの店のお手伝いホステスをするようになった一九九五年から程ないころだったと思う。

「じゅんめんって、どう書くのですか?」と尋ねた私に、薫ママが「純粋の純に綿(わた)って書くのよ。昔、スフっていう人工綿があってね、それって綿としてまがい物なわけ。それが私たち(女装者)。本物の綿が純綿で、本物の女性ってことなのよ」と教えてくれた。

スフとは、いわゆるレーヨン(rayon)のことで、絹、もしくは木綿の安価な代替品として用いられた再生繊維である。レーヨンが、ステープル・ファイバーと言われたことからスフと呼ばれた。

つまり、品質の劣る人工繊維のスフを自分たち女装者にあて、生得的な女性を純度100%の天然繊維に例えたもので、かなり自虐的な臭いが感じられる。しかし、そこには、ゲイ(男性同性愛者)コミュニティに見られるミソジニー(女性嫌悪)とは逆の、女装コミュニティにおける生得的な女性に対する憧憬の意識がうかがえる。

では、純綿という言葉が生まれたのはいつのことだろうか。小説家の吉行淳之介に「男娼会見記」というエッセイがある。現在は、『吉行淳之介エッセイ・コレクション2 男と女』(ちくま文庫)に収録されているが、初出は1963年8月刊行の『紳士放浪記 男と女のにんげん術』である。ただ、文中の記述から「会見」は、もう少し以前、おそらくは1950年末に行われたように思われる。

「男娼について、又それに関連して同性愛について、私は幾分の知識を持っている。しかし、私がその知識を得たのは、そのことに関して、ヤジ馬的な好奇心を持ったためであって、その性向・趣味があるためではない。つまり、私はソノ道の専門語でいえば『純綿』である。又、その知識も、僅かなものだ。一度、専門家(?)に会っていろいろ話を聞いてみたいと思った」

この記述から、1950年代末~60年代初めに「純綿」という専門用語があったことが確実にわかる。しかし、問題はその意味である。吉行の「純綿」の用法は、文意からして「その(同性愛)性向・趣味が」ない人、あるいは、「ソノ道(男娼・同性愛)」の「専門家」ではない人という意味になる。

現在のゲイ用語でいう「ノン気」(同性愛気質がない異性愛の人)に近い意味で、なにより男性である吉行が「私は・・・純綿である」と言っていることからも、女装コミュニティでの用法「生得的な(遺伝的な)女性」からは、かなり遠い。

なにぶん、文献資料が乏しい世界なので、こういう用法がなかったと断定することはできない。しかし、これはやはり誤用だと思う。ある特殊な世界に外部の人間が入ってきたときに、その世界の隠語や専門用語を誤解し誤用してしまうことは珍しいことではない。

女装コミュニティでの用法が文字として記録されたものとしては、加茂こずえ「女装交友録(二〇)」(『風俗奇譚』1969年1月号)に、現代風に言えば「パス度」(女性としての通用度)が高い女装者の写真のキャプションとして「純メンに近い女装マニア」とあるのが、今のところ、いちばん古い。

文献資料の探索は、今後も続けることにして、「純綿」という言葉が成立する状況を考えてみよう。新宿女装コミュニティの原型は1960年代後半に形作られた。さらにその淵源となるゲイバー世界は1950一年代後半に形成された。一方、スフの生産が急増して、日常の衣類に多く使われたのは50年代後半から60年代のことで、時代的にはほぼ合致する。また、本物と偽者を対比してたとえるのに、バターとマーガリンのような食品ではなく、純綿とスフという繊維製品が使われたのは、繊維業界が活況を呈していた「糸偏景気」の時代(1950年代後半)がふさわしいように思う。「生得的な(遺伝的な)女性」を「純綿」にたとえる用法は、ゲイバーの出現・急増と、スフの生産増加が重なる1950年代後半に生まれたと推測したい。

ところで、私たちの世代には、レーヨンは通じても、もうスフという言葉はほとんど通じない。したがって、スフと純綿という対応関係も頭に浮かんでこない。そうした状況下では、「じゅんめんさん」という言い方が90年代後半のコミュニティに伝わっていても、その原義やどういう漢字を当てるかということは、もうあやふやになっていた。聞きたがりの私は、一世代上のママから直接教えてもらえたが、そうでない普通の女装者には、じゅんめん=純綿という知識を持たない人もけっこういたように思う。そうした人たちの間では、「純面」という文字をあてる人もいたが、これでは何の意味かますますわからない。

さらに、90年代末くらいから、「じゅんめん」から末尾の「ん」が脱落して「じゅんめ」という言い方が行われるようになった。そして「純女」という文字があてられていく。そこから、さらにミス・ダンディなどの男装者に対して、生得的な男性を意味する「純男(すみお)」という派生語も生まれた。
 現代の女装コミュニティでは、おそらくほとんどの人が、生得的な女性をさす言葉を「じゅんめ=純女」と理解していると思う。漢字の意味合いからしても、純粋な女性という意味になるので、もとからこういう言い方だったと疑っていないのではないだろうか。

ちなみに、同義の用法として、生得的な女性を「天然もの」、ニューハーフを「養殖もの」という言い方もあるが、これはそれほど古い用法ではないだろう。

純綿から純女へという変化には、ある言葉の原義が忘れられ、言葉が崩れていく過程で、いかにももっともらしい漢字があてられ、その結果、言葉が再生するという、辞書に固定化されない俗語ならではの変容を見ることができ、興味深いものがある。

しかし、「純女」という専門(業界)用語を知ったからといって、生得的な女性が、女装者やニューハーフの前で「私たち純女は・・・」と、あまり言わない方がいいと思う。聞いている女装者やニューハーフにしてみると、「そっち(本物の女)が純女なら、あたしたちは不純女(ふじゅんめ)かい」と皮肉のひとつも言いたくなるから。

図版(純女).jpg
原キャプションで、発音が「純メン」であることが確認できる。
(『風俗奇譚』1969年1月号)



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(講演録)「GID(性同一性障害)学会」第22回研究大会・教育講演「GID以前と以後」 [論文・講演アーカイブ]

「GID(性同一性障害)学会」第22回研究大会は、当初、2020年3月20・21日に川崎市で開催されるはずだった。
22回GID学会 - コピー.jpg
私は、川崎市在住ということで、大会長の中山浩先生(川崎市こども家庭センター部長)からご指名いただき、教育講演をさせていただくことになった。
ところが、残念なことに「コロナ禍」のため、大会は延期になってしまった。

そして、1年経っても「コロナ禍」は収まらず、結局、川崎市での開催は幻に終わり、2021年4月に、オンデマンド開催ということになった。

これは、その記録である(一部、誤字訂正)。

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「GID(性同一性障害)学会」第22回研究大会    2021.04.03(オンデマンド配信)
           教育講演
        GID以前と以後
      三橋順子(性社会文化史研究者・明治大学非常勤講師)

皆さん、こんにちは。教育講演を担当いたします三橋順子です。実は、GID学会で講演させていただくのは3度目になります。1度目は2015年の第17回大会(大阪府立大学)の基調講演「性別越境現象」、2度目は2018年の第20回大会(東京・御茶ノ水)の特別講演「GID学会20年の歩みをふりかえる――医療者でもなく、当事者でもなく――」です。理事でもない永世平会員の私がこうした機会を3度もいただくこと、たいへん感謝しております。僭越ではありますが、よろしくお願いいたします。

(参照)
第17回基調講演の記録 https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2015-03-23-2
第20回特別講演の記録 https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2018-03-26

とはいえ、3度目ともなりますと、さすがにお話しするネタも乏しくなります。苦肉の策として、今回は「GID以前と以後」と題しまして「以前」と「以後」の2題話をいたします。日頃、学生には「レポートのテーマは1つに絞りなさい」と言っているのですが、困ったものです。当初の予定では2つをつなぐ話も少しはしようと思っていましたが、「オンデマンド配信」ということで、機材の関係でできなくなりました。

言い訳は、このくらいにして、本題に入りましょう。「以前」については、日本最初のSRS(Sex Reasignment Surgery)についての新発見史料をご紹介します。「以後」については、現在の重要課題である、性別移行の法システムの再構築についてお話します。

第1部 GID以前 ー日本最初のSRSについての新史料ー
日本最初のSRSは1951年4月頃、永井明さん(女性名:明子)に対して行われたもので、執刀は石川正臣日本医科大学教授(1891~1987年、後に日本産婦人科学会会長)でした。
ちなみに、この手術は、1951年5月15日のイギリスのRobert Cowell(女性名:Roberta)より前の可能性が大で、戦後では世界で最も早い事例と思われます。 

 (図1)永井明子さん(1954年頃)
しかし、新聞報道や、手術を受けた永井明子さんの「手記」はあるものの、執刀医である石川教授側の資料はほとんどなく、術式などは不明でした。

ところで、現在、私は1950~60年代の「性風俗雑誌」の収集とアーカイブ化計画を進めているのですが、その一環として『風俗奇譚』1961年12月号(文献資料刊行会)を購入して、内容をパラパラ見ているうちに「医学博士 石川明 性転換手術はこうして行なう」という記事の重要性に気づきました。2019年のことです。
風俗奇譚196112 - コピー.JPG   
(図2)『風俗奇譚』1961年12月号の表紙
IMG_2345 - コピー.JPG
(図3)同、目次の一部

実は、この記事、20年近く前にコピーしてファイルしてあったのですが、当時は、ほとんど気に留めていませんでした。ということで、厳密には新発見でなく、再発見です。

ポイントは著者名です。石川明という著者名は、執刀医の石川正臣と手術を受けた永井明を合成したアナグラムだったのです。

石川正臣
     → 石川 明
永井 

なぜ、これまで気づかなかったのか?と思うと同時に、これは本物だと思いました。それは、内容を読むうちに確信になりました。

石川明「性転換手術はこうして行なう」(『風俗奇譚』196112) (1).jpg

石川明「性転換手術はこうして行なう」(『風俗奇譚』196112) (2).jpg
石川明「性転換手術はこうして行なう」(『風俗奇譚』196112) (3).jpg
(図4) 記事全文

記事は、A5版3段組4ページの短いもので、最初に短い序文があり、以下、①「転性手術の歴史」、②「現在の手術方法」、③「将来の見通し」の3章構成になっています。

序文には「性転換手術は、実際どのように行ない、どのような結果になるか、また手術に要する費用、日数などはどのくらいか、などということについて、関心をお持ちのかたも少なくないと思われますので、外科の臨床にたずさわっている者として、実例をお知らせしよう。」とあり、著者が「外科の臨床にたずさわる人」であることがわかります。

最も興味深いのは、②「現在の手術方法」、つまり1950年代~60年代初頭の術式についての記載です。この部分は、去勢のみ、去勢&陰茎切除、造膣の3段階に分けて記述されています。

まず去勢手術については、次のように述べています。
「なるべく陰嚢上部に二センチほどの切開を入れる。その線が縦か横かうるさくいう人もいるが、どっちでも大差はない。切り口から片方ずつ睾丸を脱転させて(これは割合簡単にコロリと出る)から、精管その他を糸で縛って切り離す。消毒は、赤チン程度でじゅうぶんである。切開したところもまた、しいて縫わなくてよい。」
「この手術は、簡単で、しかも効果はほかの転性手術と全然変わらないから、もっと普及してもよさそうなものだが、実際に希望者が非常に少ないのは、やはり、きわめて小さくはなるが、陰茎と陰嚢が残ることであろう。」
「もし、費用の点から手術に踏み切れない人がいたら、まず、この簡便法だけを受け、その後、適当な時期に、陰茎切断をおやりになるといい。早く去勢手術を受ければ、それだけ早く効果が現われるわけであるから。」
「この手術さえ受けていれば、あとは女性ホルモン(卵胞ホルモンだけでよい)を適宜使用することで、徐々に男性性徴のいくつかを消すことができる。」

現代の医学水準からしても大きな違和感はない見解だと思います。切開線の縦か横かに言及するあたり、プロであることを感じさせます。

続いて、当時の言い方で「性転換手術」の説明になります。
「外見上も完全に女性性器化する方法をのべよう。これが、いわゆる性転換手術であるが、細かくいうとまだ二段階ある。つまり膣を造るか造らないかである。かつての未熟な外科技術では人工造膣など思いもよらないことだったが、今は時間さえかければ、なんでもない。」

興味深いのは、「少し特異なのは患者の寝かせかたで、両足を開いたかっこうで、少し頭のほうを低くして、あおむけに、つまり産婦人科の診察台を少し頭のほうに傾けたものと思えばよい。」と手術時の姿勢について述べていることで、GID学会でもSRSを行う形成外科の先生がこの点について見解を述べているのを思い出しました。

以下、詳細な術式の説明が続きます。
「メスは陰茎のつけねの上の部分から入れて、陰嚢のつけ根にそって左右両側から肛門の前二センチのところまで皮膚を切る。昔の去勢であれば、そのとき陰茎も睾丸もみんな切ったわけだが、いまは、切るのは皮膚だけである。そうすると、陰茎の亀頭の部分だけがひっついているだけで、ペロッと皮膚がとれ、陰茎の筋肉や睾丸が露出するわけである。もちろん、止血その他は、皮切の進行につれて行なっていく。
まず、処置するのは、睾丸である。鼠径部(太もものつけ根)で精管とその他を分離して、別々にそれぞれ縛ってから切断する。これで両方の睾丸はからだから離れるわけである。
つぎに、横下腹にある陰茎靱帯(勃起させる筋)を切ってから、陰茎を前から後ろへ引きはがすようなつもりで、陰茎海綿体(陰茎の上半部)と恥骨とがくっついているのを削りとりながら切り離す。これで、陰茎は尿道海綿体(下半分)がすこしからだについているだけで、ダラリとなる。
あとは、新しい尿道口をどこにつくるか長さをかげんして横に切断すればいい。
傷口の縫合は、女性の陰唇部に相当する。余裕も残さなければならないし尿道の位置もそれに見合うものでなくてはいけない。針も糸も細めのもので、縫合間隔も比較的せまく縫う。このあと、尿道には、カテーテルという細い管を入れておいて、排尿が不便でならないようにする。人工造膣を行なわない場合は、一週間ほどで抜糸できる。
女性に造膣手術をする場合(まれにそういう人もいる)だと、膣壁用に大腿部の皮膚などを切りとらなくてはならないが、転性手術の場合は、切りとった陰嚢が、ちょうどよい。陰嚢の、内側だったほうを外に裏返してプロテーゼ(棒)にかぶせる。太すぎる場合は、縫い縮めてから。前につくっておいた隙間に挿入するわけである。プロテーゼはむろんそのままにして、それから縫合である。」

造膣手術の術式が「反転法」であることが確認できます。この点、新聞記事などでは、何で「内張り」したのか不明確だったのですが、陰嚢の皮膚を使ったことがはっきりしました。

術式を詳しくかつ明瞭に述べている点、試行錯誤段階ではなく、すでに術式が確立していることを思わせます。この点については、転性希望者への「性転換手術」が、膣のない女性への膣形成手術の応用であることによると思われます。そして、なぜ産婦人科の教授が最初の「性転換手術」を執刀したのかということも、理解できました。
ただ、術式の解説が詳しすぎ、性風俗雑誌の読者のほとんどには不要(理解不能)な情報のように思います。私も術式の詳細についてはコメントする能力がないので、評価は現代の形成外科の先生方にお委ねいたします。

以下、術後のケアについては、
「プロテーゼのぬきかえ(毎日行なう)を行なうときは、傷口にふれるので、痛みを訴える患者が多い。ややもすると、人工膣は、腹圧によってつぶされがちだから、気長に治療することが必要である。」

全治については、
「造膣なしの場合で二週間、造膣をともなう場合で一カ月というところであろう。」
と述べています。

そして、費用については、
「術者の技術によってかなり幅があるが、入院費こみで、膣なしが五万円前後、膣つきが十万円前後と思えばよい。」
と述べています。

1960年代初頭の物価を現代に換算するのは、物によって価格上昇率がかなり異なるので難しいのですが、いろいろ考慮すると、だいたい10~15倍見当だと思います。
つまり、造膣なしで現在の50~75万円、造膣までして100~150万円に相当するということになり、現在の感覚と大きな違和感はないと思います。

最期の③「将来の見通し」では、
「将来、生体蛋白の構造が究明されつくしたあかツきには、他人の臓器との交換も可能になるだろうから、性転換者が妊娠して子供を生めるようになる可能性もあるかもしれない。」
と述べていて、1961年という時代を考えると、とてもハイレベルな見識だと思います。

さて、石川教授はなぜ、1961年というこの時点で、それまでの沈黙を破って「性転換手術」について語ったのでしょうか?
1つは、1951年の永井明子さんの手術から10年が経った時期であることが考えられます。「ほとぼりが冷めた」ということです。
もう1つは、1891年生まれの石川博士は1961年に満70歳で、大学教授として定年退職を迎えた可能性が高いことです。フリーな立場になり、今まで控えていたことを語れるようになったという推測です。おそらく2つの理由が相まってではないかと思います。

ここでふと、思ったのですが、石川教授が執刀した「性転換手術」は、1951年の永井明子さんの1例だけだったのでしょうか?
この記事のまったく気負いがない、いたって平静な記述からすると、もっとしていたのではないか?と思えてきます。たとえば1955年に完全な男性から女性への「性転換手術(造膣あり)」を受けた人としては(知られている限り)2例目の古川敏郎(女性名:椎名敏江)の場合、手術を受けた場所は「大きな病院」としかわかっていません。もしかして、石川教授が・・・と妄想しています。もちろん証拠はないのですが。

ここまでの内容、実は22回大会の一般演題でお話して「優秀演題賞」で理事長先生から表彰していただこうともくろんでいました。
その願望が虚しくなったところで、第1部を終えたいと思います。

要は、日本はけっしてSRSの後進国ではなく、むしろ1950~60年代前半までは世界の最先端の水準だったということです。

第2部 GID以後 ーICD-11の施行にともなう性別移行法の制定ー
時代も内容もガラッと変わって、「GID以後」のお話しは、ICD-11の施行にともなう性別移行法の制定についてです。

皆さん、ご存知のように、2019年5月の世界保健機関(WHO)総会で新しい「疾病及び関連保健問題の国際統計分類」(ICD-11)が採択されました。これによって従来の第10版(ICD-10)で精神疾患のグループ名(F64)として記載されていた「Gender Identity Disorder(性同一性障害)」という概念は無くなり、同時にそのグループに病名として規定されていた「Transsexualism(性転換症)」と「Dual role transvestism(両性役割服装倒錯症)」も消滅しました。

そして、新設された「Conditions related to sexual health(性の健康に関連する状態)」の章に「Gender Incongruence(性別不合)」が置かれました。つまり、ICD-11によって、性別に違和感があること、性別の移行を望むことは、Disorder(疾患)からCondition(状態)になったということです。
病理維持派の人たちが「病名が変わっただけ」と言うのは、明らかな間違いです。

こうして1990年のICD-10による同性愛の脱病理化に遅れること29年にして、世界のトランスジェンダーの多くが待ち望んでいた性別移行の脱精神疾患化がようやく実現しました。

ここで留意すべきは、脱病理化(Depathologization)は脱医療化(Demedicalization)ではないということです。日本では、両者を混同して「医療が受けられなくなる!」と、脱病理化に反対する当事者がいますが、性別移行のために必要な医療を受けたい人々の権利は当然のことながら保障されなければなりません。言い方を換えるならば、現在進行中の変化は、医療福祉モデルから(医療を受ける権利を含む)人権モデルへの転換ということになります。

ICD-11は2022年から施行されます。とにもかくにも、トランスジェンダーにとっての新しい時代の到来を当事者の一人として寿ぎたいと思います。「おめでとう!世界のトランスジェンダーの仲間たち」。
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 「WPATH2014」(バンコク)に集まったアジアのトランスジェンダーたち

さて、ICD-11の発効に関連して喫緊の課題になるのが、性別移行の法システムをどのように再構築するか?という問題です。「コロナ禍」で諸事滞っている間に2022年初のICD-11の発効まであと8カ月になってしまいました。間に合うのでしょうか?

日本は、これまで2003年7月成立(2004年7月施行)の「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(GID特例法)」によって、戸籍の性別(続柄)の変更を希望する人たちに対応してきました。

しかし、ICD-11の発効によって法律の名称になっている「性同一性障害」概念が消失し、また性別移行の脱精神疾患化の決定により、性別移行の適格者を精神科医が認定するという精神疾患であることを前提とした枠組みが成り立たなくなります。そもそもの話として法律が要求している「性同一性障害」の診断書を医師が書けない状況になるのです。

さらに、「GID特例法」が定める性別変更の要件は、国際的な人権規範に照らして様々な点で問題があります。

たとえば、第3条の2項(非婚要件)、3項(未成年の子なし要件)は、「結婚している、あるいは親であるといった社会的身分もその当事者の性同一性の法的承認つまり法的性別変更を妨げない」とするジョグジャカルタ第3原則に明らかに反しています。

また、同4項(生殖機能喪失要件)、5項(性器外形近似要件)は、「性同一性の法的承認、つまり法的性別変更の条件にホルモン療法や不妊手術や性別適合手術といった医学的治療は必須とされない」とするジョグジャカルタ第3原則、および、法的な性別の変更に生殖腺の切除手術を要件とすることは、トランスジェンダーの身体の完全性・自己決定の自由・人間の尊厳に反する人権侵害であるとする、2014年の国連諸機関共同声明に明らかに抵触します。

とくに共同声明を無視する姿勢は、国連だけでなく、声明の発表後、続々と対応して法改正を行い、性別移行法から手術要件を削除した欧米諸国のメディア、人権関係のNPO、関連学会から強い批判を受けています。そうした批判に対応しなくてよいのでしょうか?
日本が人権を重視する民主国家であることを、今後も世界に標榜していくのならば、やはり無視はまずいと思います。

世の中には、国際的な人権規範など無視して、日本独自の道を進むべし、という人もいますが、だったら欧米の精神医学の所産である「性同一性障害」概念などは受け入れなければ良かったわけです。

なお、GID学会では、2019年の第21回総会(岡山大学)で、2014年の国連諸機関共同声明を支持する理事会の決定が、総会で承認されています。

現行の「GID特例法」の最大の問題点は、戸籍変更のために当事者が必ずしも望まない手術を受けざるを得ないシステムにあります。
必ずしも手術を受けたくない人に、戸籍変更のためだけに高額の費用、身体への負荷、医療事故のリスクを課すことは人権侵害ということです。
さらに、法による生殖を不能にする手術へ誘導は、明らかに生殖権の侵害です。生殖権は人間の基本的な権利であり、戸籍の変更とバーターされるようなものではありません。

こうした状況を踏まえると、「特例法」の改正ではなく、「特例法」を廃止し、新・性別移行法を制定する必要があると、私は考えます。

さて、2018年5月31日、針間克己先生(はりまメンタルクリニック院長)と私は、「日本学術会議」法学委員会「社会と教育におけるLGBTIの権利保障分科会」に参考人として招かれ、東京・乃木坂の「日本学術会議」ビルに出向きました。
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「日本学術会議」は内閣総理大臣の諮問機関である公的な機関です。針間先生と私は、三成美保委員長(奈良女子大学教授・副学長)をはじめとする委員の前で、「GID特例法」改正問題について、意見を述べました。

まず、針間先生が「性別違和(性同一性障害)と性分化疾患医療の現状と課題」と題して見解を述べ、次いで、私が「新・性別移行法」の私案をお話ししました。

私案のポイントを整理すますと、①病理を前提としない、②年齢以外の要件を規定しない、③家裁での審判システムを残す、④「お試し期間」(Real Life Experience)を設ける、⑤申請と許可の間に一定期間(1年)を置く、の5点になります。
①と②は、国際的な人権規範に沿うため、③は乱用防止の効果を持たせるため、④は性別移行の実質性を担保するため、⑤は興味本位の乱用や再変更の頻発を防止するためで、同時にそれが「お試し期間」にもなります。
国際的な人権規範を重視しつつ、日本社会との適合性を重視したたつもりです。
 
(参照)
三橋順子「LGBTと法律 ―日本における性別移行法をめぐる諸問題―」(谷口洋幸編著『LGBTをめぐる法と社会』日本加除出版、2019年)

この意見陳述から、2年半が経った2020年10月、「日本学術会議」法学委員会「社会と教育におけるLGBTIの権利保障分科会」の意見書「性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)―トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けてー」が提出されました。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t297-4.pdf

その内容は、①「GID特例法」の廃止と新「性別移行法」の制定、②成人要件以外の4要件(非婚要件、未成年の子なし要件、生殖機能喪失要件、性器外形近似要件)の撤廃、③戸籍における性別変更履歴の移記の廃止、などです。

①については、
「トランスジェンダーの権利保障のために、国際人権基準に照らして、性同一性障害者特例法に代わる性別記載の変更手続に係る新法の成立が必須である。国会議員あるいは内閣府による速やかな発議を経て、立法府での迅速な法律制定を求めたい。」
とし、さらに、
「トランスジェンダーの人権保障のためには、本人の性自認のあり方に焦点をあてる「人
権モデル」に則った性別変更手続の保障が必須である。現行特例法は、「性同一性障害」
(2019 年 WHO 総会で「国際疾病分類」からの削除を決定)という「精神疾患」の診断・
治療に主眼を置く「医学モデル」に立脚しており、速やかに廃止されるべきである。」
「特例法に代わる新法は「性別記載の変更手続に関する法律(仮称)」とし、国際人権基準に則した形での性別変更手続の簡素化が求められる。」
と、「医学モデル」から国際人権基準に則した「人権モデル」への転換を提言しています。
この点については、私もまったく同感です。

②の内、生殖機能喪失要件については、
「身体への侵襲を受けない権利」(憲法13 条)を保障するという見地からも、WHO を含む国際機関からの2014 年共同声明に記された国際基準の見地からも、生殖不能要件を廃止することを提案する」
としています。

「性器外形近似要件」についても、同様に「身体への侵襲を受けない権利」は、憲法 13 条による保障されるものである。」としたうえで、「特例法」の立法理由で挙げられている「(トイレ、更衣室、公衆浴場などの施設利用にともなう社会的)混乱や問題」については、「メーカーや施設責任者の協力を得て設備や環境の改善による対応が可能であり」、また「トランスジェンダーを装う「なりすまし」は犯罪行為であり、刑事法で対応すべき」とし、結論として「トランスジェンダーの「身体への侵襲を受けない権利」を否定する根拠にはならず、目的と手段があまりに不均衡である」として、生殖不能要件と外性器近似要件(合わせて手術要件)の廃止を提案しています。

人権と生活習慣との間に対立が生じる可能性がある場合、両者の擦り合わせが必要になりますが、その際には、生活習慣を改善すべきであり、人権を抑圧すべきでないことは、当然だと思います。

③については、戸籍に「【平成15 年法律第111 号3条による裁判確定日】」という性別変更履歴を記載することを止めるべきという提言です。これは以前から、戸籍の性別を変更した人たちが主張していたことです。

実は、「提言」が公表される半年前の2020年3月19日に、日本学術会議で「意見交換会」が開催され、参考人として、針間先生、公明党の谷合正明参議院議員、そして私が出席しましたが、その時には、すでに「提言案」ができていました。
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机の上に置かれていた「提言案」を一読して、正直言って、かなり驚きました。

「人権モデル」に基づいた積極的な「提言」はおおいに評価できますが、司法機関がまったく関与することなく、行政手続きだけで性別が変更できる実質的な「届出制(自己申告)」であり、従来の法システムに比べてかなり急進的なものだったからです。
私が重視する、日本社会の現実との適合という点で、いささか不安を覚える内容でした。

やはり、なんらかのゲイト・キーパーは必要なのではないでしょうか。その役割をこれまでは精神科医が務めてきました。しかし、性別移行の脱精神疾患化が達成された今、それは法理からして無理です。となると、その役割は家庭裁判所に委ねるしかありません。これまでも家裁は「審判」という形で介在していたはずですが、実際にはほとんど形式的でした。それに少しは実質性を持たせたらどうかと思うのです。

ちなみに、私のこうした意見は、「トランスジェンダーの性別変更意思が確定的であることを担保するために、申告から一定期間経過後に性別変更の記載をすることや、家庭裁判所が意思確認をすることなどが考えられる。」という形で「提言」に付言的に取り込まれています。

残念ながら、現在の自民党・菅内閣の「日本学術会議」への抑圧的な姿勢からして、「提言」がそのまま実現する可能性は低いでしょう。
しかし、内閣総理大臣の諮問機関が提出した公的性格をもつ「提言」です。
一部のLGBT団体などが「GID特例法」の「改正」運動を進めているのは、「提言」を無視している点、脱精神疾患化の意義を十分に理解せず、精神疾患を前提とした「特例法」の枠組みを維持しようとしている点の二つで、筋としても、法理としても間違っていると思います。

性別移行の法システムの再構築という課題については、私案の提示、「日本学術会議」への意見具申など、社会的影響力に乏しい野良講師の私にできることは、やったつもりです。

結果がどうなるか?わかりませんが、私としては、新「性別移行法」が、国際的な人権規範に適う、欧米諸国に恥ずかしくない内容になることを心から願っています。

最期に、付け加えますと、ICD-11の施行によって、日本精神神経学会の「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」も根拠を失い空文化します。1990年のICD-10では、日本精神神経学会は同性愛を精神疾患とする従来の姿勢をなかなか改めず、同性愛者団体の抗議をうけて、5年後の1995年になって、ようやく「同性愛はいかなる形でも病気ではない」という声明を出しました。今回は、そうした醜態を演じることがないように、率先して「性別を移行したいと考えることは精神疾患ではない」旨の声明を出して欲しいと思います。

そろそろ時間になりました。
これで、教育講演を終わりにいたします。

ご清聴ありがとうございました。

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(講演録)洲崎・亀戸の性文化史  [論文・講演アーカイブ]

「江東区2019男女共同参画フォーラム」(2019.06.23:パルシティ江東)でおこなった講演の記録です。
『21世紀の女たちへの伝言』8号(江東の女性史研究会、2022年7月)に掲載された講演録の原版です。

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(講演録)洲崎・亀戸の性文化史   
三橋 順子(明治大学非常勤講師、性社会文化史研究者)

ご紹介いただきました三橋順子です、よろしくお願いいたします。今回こういう形でお話する機会をいただきましたこと、とても嬉しく思います。というのも、私が遊廓、そして戦後の「赤線」、広い意味での売春地帯の歴史に実際に関心を持ったのは洲崎が最初だったからです。最初に訪れたのは二〇〇〇年ですから、もう一九年前です。なぜそういうことになったかというと、当時私は、京都の国際日本文化研究センターの教授である井上章一さんが主催している「関西性欲研究会」に参加したばかりで、その研究会が東京で合宿をする際に、先生から現地見学を企画するように言われまして、それで「赤線」時代の建物がまだ残っていた洲崎を案内することにしました。下調べのため、二〇〇〇年一一月、最初の現地調査に訪れました。研究会の現地見学は年が明けた二〇〇一年の一月で、東京に大雪が降った翌日でした。こんな雪がたくさん残っている状態で洲崎をご案内したことを鮮明に覚えています。〔写真を見せながら〕これ私です。比較的最近まで残っていた「大賀」というお店の前です。これが私の「赤線」研究・遊廓研究の事実上のスタートでした。
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 旧「大賀」の前で私(2001年1月28日)

私の自己紹介ですが、いくつかの大学で非常勤講師をやっております。専門はジェンダー・セクシュアリティの歴史研究、特に、自分がそうなので、性別越境、トランスジェンダーの社会文化史です。もう一つのテーマとして、買売春、主に「赤線」の歴史研究をしています。二〇一八年一〇月に『新宿 「性なる街」の歴史地理』を出しました。新宿を中心とした東京の「性なる街」の歴史地理ですが、江東区については亀戸についてコラムを一つ書いております。洲崎については、まとまった記述はしていませんが、かなりあちこちで触れております。ということで、二〇〇一年からこの本を出すまで、足掛け一八年かかりましたが、私なりに「赤線」を中心とする歴史をまとめたつもりです。書名が歴史地理になっているのは、私、一応歴史を勉強した人間なのですが、子どもの頃から地図が大好きで、場所とか街への関心が強く、この本も地図がたくさん入っています。そんな感じで、今日も地図がちょろちょろと出てまいります。

1 遊廓と「赤線」、制度と歴史
最初に、遊廓と「赤線」について基本的なことをお話ししておこうと思います。早い話、戦前が遊廓で、戦後が「赤線」なのです。これについて自分の本に愚痴っぽく書いたことなのですが、フェミニズム系の女性学の先生に、「名前は違っても、女性が管理されて強制的に売春させられて搾取されていたという点では何も変わらないわよ」と言われてしまって、「いやそう決めつけちゃったら何の学問の進歩もないでしょ」と思ったのですが、私にとっては、かなり違います。もちろん売春の場であって、女性がそこで身体を張って、身体を使って労働していたという点は同じですけども、システムがやはりかなり違います。そこら辺のことを丁寧にお話するとそれだけで一時間半かかってしまうので、できるだけ簡単にしようと思います。本当はそもそも江戸時代の話からしなければいけないのですけど、近代公娼制度、明治以降の制度に焦点を当てます。

ちょっと意外かもしれませんが、江戸時代に公認されていた遊廓は、新吉原(現:台東区)一か所です。他にも色々潜り的な場所がありましたが、少なくとも公許、公に許されているところは一つだけという建前は、江戸時代を通じて基本的に崩れません。ところが、幕末に変なことがありまして、それは後でお話します。そして、明治新政府になりますと、遊廓が拡大します。東京府下では、新吉原に加えて、品川、千住、板橋、内藤新宿という、江戸から出ていく街道の最初の宿場である「四宿」、それから多摩地域の甲州街道の宿場町、調布、府中、八王子、合計九か所になります。近代国家になって遊廓が拡大するということ、これポイントです。

一八七二年(明治五)に芸娼妓解放令という御触れが出ます。強制的な年季奉公の廃止など、女性の人身売買を規制する目的の法令です。これは外国から「日本は人身売買、事実上の奴隷制度やっているじゃないか」と責められて、諸外国の手前、「そういうのは止めます」ということで公娼制度を廃止する姿勢を示したものなのですが、内心は全く違いまして、ほとんど実効性がありません。翌年に「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」という法令を出しまして、法律で規制するという形をとりながら、それまでの遊廓システムを、事実上、公認する形を作ります。だから実質、何も変わらないのです。それが一九〇〇年(明治三三)に「貸座敷取締規則」「娼妓取締規則」という形で、法律として近代化します。この話、先日も某大学でしてきましたが、明治民法ができるのが一八九八年(明治三一)で、明治の三〇年代はいろいろな法律を近代的に作り直した時期なのです。その一環としてこういうものができます。

その内容は、娼妓稼ぎをする者、つまり売春的な稼ぎをする者は警察の娼妓名簿へ登録しなさい、と。登録すると鑑札が渡されます。娼妓鑑札制と言うのですが、基本、個人に許可を出す形で、売春の個人ライセンスです。その際、登録が認められるのは(数え年)一八歳以上の女性ということになります。それ以前の、もっと若い少女が売春させられていた状況は法律で規制されます。また、娼妓は官庁が許可した貸座敷の内、つまり、遊廓の中でなければ営業はできないことになります。貸座敷というのは、娼妓に座敷を貸すという営業形態ですが、それはあくまでも建前で、事実上は遊廓の妓楼、娼館です。そして、貸座敷の営業許可をエリア制にします。つまり、売春をする女性は個人ライセンスだけれど、売春する場所を貸座敷に限定し、さらにその貸座敷の営業をエリアで統制することで、娼婦を一か所に集めて管理する形態を作ります。こうした形を集娼制と言います。政府は集娼制を維持したいのです。逆に、娼婦があちこちに散っている形を散娼制と言いますが、政府、特に警察はこれをとても嫌がります。ともかく業者に便宜を図ることで一か所に集める。なぜ一か所に集めたいかと言うと、一つは売春のコントロールであり、もう一つは性病の管理です。売春を管理して性病の蔓延を防ぐということに政府の強い意識があります。

それと、正確に言うと「遊廓」という言い方は法律用語ではありません。「貸座敷免許地」もしくは「貸座敷指定地」というのが法律的に正しいのですが、当時の文献、人々の言い方として「遊廓」という江戸時代以来の言葉がそのまま使われているわけです。
もう一点、重要なポイントになるのが、娼妓(娼婦)と芸妓(芸者)の許可を分離したことです。この「芸娼妓分離」制に明治政府はとても力を入れます。ただ、実際には、地方などで、そうした仕事をする人が少ないようなところだと、一人で二枚鑑札――芸者と娼妓の両方の許可をもらっている――という人もいました。東京はかなり分離をしっかりしています。やはり警視庁お膝元、政府のお膝元ですから。

元々、前近代(江戸時代以前)の日本は、芸能と飲食接客、そして売春(セックス・ワーク)は三位一体で分離していません。三味線を弾いて唄を歌って(芸能)、お酌をして(飲食接客)、それが終わるとセックス・ワークというのを一人が行うのはごく普通でした。それが分離していくのは、江戸時代中頃、十八世紀の新吉原からですが、基本的に前近代の日本では分かれていません。だから、高級娼妓である花魁は色々な芸能ができないといけないのです。それが「遊廓文化」でした。明治政府は芸能とセックス・ワークが分離することを政策的にやります。その結果、娼妓はただセックス・ワークだけをする人になってしまいます。遊廓もファッションや芸能など色々な文化の発信地だったのが、単に性を売る場所に変わっていきます。遊女が持っていた聖なるものと賤なるものの二面性から、聖なるもの、つまり「花魁ってやっぱりすごいよね」という要素が失われていき、娼婦を卑しむ見方だけが残ってしまいます。そして、そこに明治時代になって日本に入ってきた売春を悪徳とするキリスト教の性規範が重なり、売春従事女性への蔑視が強まっていきます。キリスト教の廃娼運動の人たちは娼妓を「醜業婦」、「醜い」仕事をしている女性と呼ぶようになります。

もう一つ、娼妓取締規則から少し遅れて一九〇八年(明治四一)に、密売淫の禁止が制定されます。貸座敷指定地内で鑑札を持つ娼妓が行う売春以外の、貸座敷指定地の外、鑑札を持たない娼婦による売春をすべて密売春として全面的に禁止します。つまり、自由売春ができなくなるということです。自由売春の禁止によって、国家にとっては売春の管理が徹底でき、遊廓の業者にとっては売春営業を独占できる。両者にとってメリットがあったわけです。

こうして、明治政府のもと、自由売春の禁止、売春の国家管理、遊廓の売春営業独占を3つの柱とする近代公娼制が完成します。時期的には明治の終わりぐらいですね。それが大正・昭和戦前期と続き、戦間期を経て、敗戦後の一九四六年(昭和二一年)二月まで継続していく、これが戦前の遊廓制度です。

さて、ようやく昭和戦後期の「赤線」の話になります。一九四五年(昭和二〇)八月一五日の敗戦の三日後、一八日に、Recreation and Amusement Association (以下、RAA)という、日本語で「特殊慰安施設協会」が警察の指令で作られます。これは日本を占領してくる進駐軍、占領軍の将兵の慰安、早い話、性欲を満たすための施設です。当時、「性の防波堤」、一般の婦女子を、アメリカ軍をはじめとする占領軍兵士の性欲から守るための防波堤を設けるという発想でした。

「性の防波堤」を作るにしても、そういう性的慰安施設を経営するノウハウを持ち、セックス・ワークで働いてくれる女性たちを集めることができる人と言えば、遊廓業者たちです。警察は、遊廓業者や、私娼街の業者たちに協力を依頼してRAAができるわけです。旧・洲崎遊廓の業者や、私娼街だった亀戸の業者もRAAに参加することになります。

ところが、せっかく作ったのに、その七カ月後の一九四六年(昭和二一)三月に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で連合国軍兵士のRAA施設への立ち入りが禁止されます。いわゆる「OFF LIMITS(立ち入り禁止)指令」です。理由は性病の蔓延です。アメリカ兵士の性病感染率がすごく高い。これはRAAの日本人女性がたくさん性病に罹っていて、そこから感染している、だから立ち入り禁止という見解をGHQはとるわけです。「どっちが悪い」ということになると、よくわかりません。アメリカ軍の兵士が性病に罹っていて、それが日本の女性にうつされて、またアメリカ軍に戻ってくるという、そういう形態も考えなければいけません。たぶん実態はそんなところだと思います。

しかし、ともかくオフリミッツ。そうなると、RAAの施設に雇われていた女性たちは、仕事にならないので、解雇されてしまいます。すでに、戦後の社会的混乱、生活困窮で、大量のストリート・ガール(街娼)、当時の言葉でいう「パンパン」――パンパンの語源は諸説あって大変なので解説しませんが――が出現しています。そこにRAAを解雇された女性たちが加わり、街のあちこちに街娼が立つ状態になる。これは典型的な散娼化です。性病のコントロールができなくなるので警察が一番嫌がる形態です。

話が前後しますが、一九四六年一月に貸座敷取締規則、娼妓取締規則など戦前の公娼制度(貸座敷・娼妓鑑札制)に関する法規を廃止するようにというGHQ指令が出ます。人権抑圧でありデモクラシーの理念にふさわしくないということです。占領期ではGHQ指令は絶対ですから、日本政府は従うしかありません。二月に内務省から全国の警察へ通達を出して、これで明治時代以来の近代公娼制は解体されたことになります。

ところが、同じ年の一二月、警察は特殊飲食店というものを許可します。そして、特殊飲食店で働く女性従業員(女給)が店で知り合ったお客さんと仲良くなって、「じゃあ私のお部屋いらっしゃいよ」という形で、自分の私室、プライベートな部屋に誘い、そこで自由恋愛という形でセックスが行われ、男性が女性にお礼を渡す、という建前のシステムを考え出されます。女給さんに部屋を貸しているカフェーの経営者は「何も関知してません」という建前です。そして、警察は特殊飲食店の営業を、エリアを指定して許可します。こうして、エリア限定で、買売春行為を警察が黙認するシステム、「赤線」が始まります。

だから、当時の「赤線」のカフェーというのは、一階が酒場と小さいダンスホール、二階が女給さんの部屋という構造になっています。建前としては、酒場やホールで男性と女給さんが親しくなる。実際は、そこでお酒飲む人はあまりいなくて、すぐに二階に上がるのですが。

なぜ「赤線」と言うかというと、警察がそういう特殊飲食店を許可した地域(特飲街)を赤鉛筆で地図上に囲ったから「赤線」と言うのだ、いうのが一般的な説です。でも微妙に証言が違っていたりしていて確証はありません(笑)。

それと、この説では「赤線」指定は、赤線で囲ったエリアなのですが、実際にはエリアからはみ出した特殊飲食店もあります。実は、「赤線」洲崎にもはみ出しているお店があります。つまり、特殊飲食店の許可は個別店舗なので、エリアで考えると、微妙にズレてくるのです。細かい話ですが…。

よく「赤線って合法なんですか、違法なんですか」という質問があります。これはどちらとも言えないです。「赤線」を警察が公認した売春地帯と定義するのは間違いです。当時の法制の基本は、売春は違法ですから合法ではありません。だけど、このエリア、赤線で囲ったエリアだけは目瞑る、摘発はしないという黙認エリアなのです。そこら辺、すごく微妙な話なのです。

ここは今日の話の一つのポイントなのですが、戦前も戦後も、こうした売春関係の場は、警察ととても密接な関係があります。現在の警察と風俗営業業者は、――もちろん裏で何かあるかもしれませんけど―― 基本的に摘発する側、される側で敵対関係です。だけど遊廓時代、そして「赤線」時代はそうではなくて、結構、持ちつ持たれつというか、はっきり言ってグルなのです(笑)。グル、お互い共通利害があるという風に理解すると、いろいろよくわかるのです。「赤線」も売春営業を続けたい業者と、性病コントロールのために集娼制を維持したい警察の共通利害が生み出したシステムなのです。

ここで、地図を見ていただきたいのですが、東京区部の「赤線」分布です。
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このマルが洲崎で、ここが亀戸ですね。東京都の「赤線」は区部一三か所、多摩地域四か所の合計一七か所ですが、区部に限ると、東半分に多いことがわかると思います。西半分は、私が調べた新宿、それから品川、そして、ほとんど知られていませんが、大田区の武蔵新田です。大田区の行政の人も、区内に赤線があったって知らなかったというぐらいなのですが(笑)、この三か所だけで、あとは全部、東半分です。台東区の新吉原は隅田川の西ですが、江東区の洲崎・亀戸、それから墨田区の玉ノ井、鳩の街、葛飾区の立石、足立区の千住、江戸川区の小岩、新小岩、それから一番北が亀有(葛飾区)ですね。区部一三か所の一〇か所が東半分に集中しています。

そして、「赤線」の全盛期と呼ばれた一九五二年(昭和二七)末に、区部一三か所で、一一四二軒、従業婦、事実上、売春をしている女性は、四四五四人というデータがあります。こういう数字がきっちり出てくるのも、警察が管理しているからなのです。

ここで、ちょっと性病の話をします。「赤線」の建て前は自由恋愛ですけど、実質的に売春をする女性を一か所に集めている集娼施設です。なぜ警察は集娼施設を黙認したかと言えば、性病の定期健診を行って、性病の流行を防ぐ、コントロールするためです。「赤線」業者の全国組織が、正式名称を「全国性病予防自治会」であることが、それを示しています(会場笑)。今、お笑いになったとおりで、現代の感覚からすると冗談みたいな名称ですけども、これが本質なのです。

性病、ここでは主に梅毒と淋病ですが、どちらも、抗生物質がかなり良く効き、現在ではそんなに治りにくい病気ではありません。早くに発見してきちんと治療すればちゃんと治ります。しかし、抗生物質が普及する以前はそうではありませんでした。特に梅毒は、長期間にわたって症状が進んで最終的に死に至る病ですし、淋病は軍隊にとってとても厄介な病気でした。男性の尿道で炎症を起こしますので、早い話、股間が痛い、排尿のたびに激痛ということになります。股間が痛かったり痒かったり、いつも股間を気にしている兵隊では戦争で使い物にならないです。(会場笑)。だから軍隊にとっては、性病は著しく戦闘力を削ぐ病気であり、徴兵検査のときに厳しくチェックするように重大視をされていたわけです。

そうした軍隊と性病の歴史があるわけですが、ちょうどRAAから「赤線」くらいのところが転換期になります。アメリカで軍にかなりの量のペニシリンが供給されるのが太平洋戦争の末期です。これが性病によく効く、ほんとうにたちまち治るそうです。

日本占領期のアメリカ軍はペニシリンを使っていますが、さすがのアメリカもまだそんなに贅沢に使える状況ではありません。日本側はまだまったくペニシリン持っていません。だから、日本占領軍の兵士がたくさん性病に罹ると、アメリカ本国に「ペニシリンをもっと送ってくれ」と頼むわけです。アメリカ本国からしてみると、貴重なペニシリンを日本に送っても送っても追加注文が来る。「日本占領軍はいったい何をやってるんだ?!」と問題になり、その結果、オフリミッツ、立ち入り禁止ということになったのです。

さらに――こんな話していると時間がなくなってしまいますが――、アメリカ兵の相手をする日本女性の性病を治療しないと感染率が下がらないということで、日本女性にもペニシリンを渡します。ところが、彼女たちはペニシリンを渡されても、自分で注射できません。技術的なこともありますが、当時の社会状況からして注射器は入手困難ですから。三年前(二〇一六年)に九二歳で亡くなった私の父は、当時、新宿の医学生でした。新宿のそういう女性たちにペニシリンを注射してくれたらお小遣いあげる、本物のコーヒー飲ませてあげるみたいな条件で、アルバイトをしていました。ともかく性病への意識が現在とはまったく違うということです。

一方で、特殊飲食店が許可されない地域もあって、それは「赤線」に対して「青線」と呼ばれていました。でも、これは青鉛筆で囲っていたかは怪しいです。
「赤線」システムは、法的には一九五八年(昭和三三年)四月一日の売春防止法の完全施行まで続きます。「赤線」は一九四六年から五八年まで――足掛け一三年ですね――続いた戦後の「黙認売春システム」ということです。

ちなみに、売春防止法の完全施行は四月一日で、その前日の三月三一日が「赤線の灯が消えた日」と、世の中で認識されているのですが、これはほぼ間違いです。東京の主な赤線は三月三一日の一か月前、つまり二月二八日でほとんど営業を終えています。こちらの研究会ではそこら辺をきちんと調べられていて、さっき見せていただいた資料にありましたが、当時を知っている方が、ちゃんと「二月まで」と語っています。とても感激しました。新宿はさらに一か月前で、一月三一日で終わっています。たった一、二か月のことですけが、人の記憶はすごくいい加減で、三月三一日に女給さんとお客がみんなで「蛍の光」を歌って「赤線」が終わったような話になっていますけど、それは事実ではないということです。

さて、前半の最後に戦前の遊廓と戦後の「赤線」とどこが違うか?比較をしておきましょう。
まず、経営規模が全然違います。遊廓時代、都内の遊廓の一軒平均の従業婦は大体一〇人です。平均で一〇人、だから大きい妓楼だと二〇人ぐらい女性を働かせていました。それが戦後の「赤線」になると、およそ平均四人です。もっと小さいところもあります。経営規模がまったく異なります。

さらに重要なのは収入の分配です。戦前と戦後ではまったく違います。戦前ははっきりした取り決めがありませんが、おそらく実質一対九、「一」が娼妓で、「九」が経営者(貸座敷)側です。業者の搾取度が非常に高いです。こんなに搾取されていたら借金を返せるはずがないわけで、借金による人身拘束が常態でした。これもちゃんと、こちらの研究会の聞き取りで、ご自身が業者だった方が語っています。対して戦後は、驚くべきことですけども、業者と女給さんの分配を五対五、半々にするよう警察が指導しています。ところが実際は、食費と税金が業者持ちで、従業婦が四、業者が六だったようです。さっき読ませていただいた元経営者の方の聞き書きでは「四対六でも(経営的に)結構大変だった」と言っています。まぁそれは業者の側のぼやきですね。ともかく、戦前と戦後では収入の分配率が大きく違います。

そして、働いている女給さんの収入もピンからキリです。これは今の水商売、たとえばキャバクラ嬢なんかも本当にピンキリです。上は月収レベルで数百万というキャバクラ嬢がいますし、キリは十万もいかないような子がいます。水商売世界というのはそういう実力社会、格差世界です。当時の「赤線」も同じで、トップクラスの売上の女給さんは当時の職業婦人の中でも格段に高収入です。「赤線」の従業婦を職業婦人に入れるなんてとんでもないという意見もあると思いますが、客観的に比較してそうです。若干、伝説なのかもしれませんが、「赤線」新吉原の高級店のさらにナンバーワンの女給さんの収入は当時の国会議員よりも上でした(笑)。稼いでいる女給さんのほとんどは、贅沢をしていたわけではなく、親元に送金していたようです。個人の収入としては格段に高いですが、それで一家一族を養い支えていた女性がたくさんいたということです。

あと、戦前と戦後で大きく違うのは、働いている女性の自由度です。戦前は本当に自由がありません。新吉原にしても洲崎にしても、遊廓のエリアの中だけの自由、それすらもお供が監視に付くというような状況です。それが戦後の「赤線」になると、監視が付けられないのです。戦前の遊廓は、妓楼にいる娼妓も多いですが、それ以外の男衆や女衆もたくさん雇っています。一人の娼妓の収入に大勢の従業員が寄生しているという形なので、収入の分配が一対九になってしまうのです。人手が多いので、娼妓の外出に一人のおばさんを付けて監視することが可能でした。ところが、戦後の「赤線」は経営規模が格段に小さくなります。女給さんを四人雇っている、建前は住まわせているとして、経営者とその妻(お母さん)、あとは女衆(おばさん)と女中さんが一人ずつくらいです。女給の外出に一人付けることができないです。だから「赤線」の女給さんの自由度はかなり高い。都電に乗って買い物にも映画館にも行ける。だから、悪賢い女給だと、業者からお金借りて、それでいなくなってしまう人もいたようです。

戦前の遊廓は、そもそもが人身売買であり、借金による人身拘束で、娼妓の自由度が著しく低い。「性奴隷」と言っていいと思います。世界の売春システムの中でも、日本の遊廓のシステムは、悪い意味でとても完成度が高い管理売春システムです。それを明治時代後半のくらいから海外に輸出していきます。最初は台湾、次に朝鮮半島、さらに大連、そして満洲に輸出し、南方に展開し、ということを戦争中までずっとやっていた。それがいわゆる「慰安婦」問題につながるわけです。

それに比べると戦後の「赤線」は、管理売春と自由売春の中間ぐらいの性格です。人身売買はゼロではありません。問題になっているケースもありますが、わざわざお金を払って女性を買い集めなくても、女性の方から「働かせてください」って来る。だから、違法なことをする必要もなかった。逆に業者の方が居心地を良くして稼ぎ手の女給さんをつなぎとめる、というのが当時の語りです。違法なことをあえてするのは、よほどひどい店で、働き手の女性が寄ってこないような店だと言っています。

2 洲崎の歴史――遊廓の成立、「赤線」化、消えゆく現在
さて、ようやく洲崎の話です。洲崎遊廓は非常に成り立ちが複雑です。いろいろな説があって、原稿書きながらけっこう苦労しました。

洲崎遊廓の成立については、まず根津遊廓の話をしないといけません。根津から洲崎につながってくるわけですから。根津遊廓は、もともと根津神社(現:文京区)の近くの根津門前町にあった「岡場所」(非公認の売春地帯)です。江戸時代は先ほども言いましたように吉原だけが公許で、それ以外はすべて非公認でした。それが一八六八年(慶応四年)――敢えて慶応四年と書きましたけど、明治元年です、官軍の江戸侵攻の直前です――に、江戸幕府の陸軍奉行・浅野美作守氏祐という人が根津遊廓として公許したということになっています。しかし、江戸時代の遊廓の統制は町奉行所の管轄で、責任者は町奉行です。また、根津遊廓の門前町は寺社地なので、寺社奉行の管轄です。遊廓の経営は町奉行の管轄、土地の管轄は寺社奉行、どちらにしても陸軍奉行が認可するのは明らかに筋違いでおかしいのです。想像すると、幕末のどさくさで、軍事的な費用に困っていた陸軍奉行が根津の業者から献金を受ける代わりに公許したのかなと思います。ともかく、幕府倒壊直前の混乱期のことで、まともな公許ではありません。

だから、明治新政府はそれを素直に認めません。非常に微妙な位置づけになります。先ほど、一八七三年(明治六)の東京府令による貸座敷許可地は六か所と言いましたけど、厳密に言うと、新吉原、品川、板橋、千住、内藤新宿の五か所で、根津は新吉原の下に「付け足り 根津」とあるのです(笑)。新吉原のおまけというか、新吉原の管轄の内という形での認可だったようです。一本立ちしていない、でも一応、認可はされているという、かなり微妙な位置づけでした。
そして、一八八四年(明治一七)に根津に程近い本郷に東京医学校(現;東京大学医学部の前身)が移転してきます。で、医学校の近くに遊廓があるのは風紀上よろしくないという話が出てきます。近いと言ってもそんなに近いわけでもないし、根津を潰しても新吉原に行けばいいわけで、どうもよくわからない話なのですが、ともかく風紀上の理由で一八八八年(明治二一)一二月をもって根津での営業は禁止、立ち退きということになります。

ちなみに、東京帝国大学出身で、評論『小説神髄』で知られる文学者の坪内逍遥の奥さんは、元・根津遊廓・大八幡楼の娼妓「花紫」で、学生だった逍遥が通い詰めて落籍し、一八八六年(明治一九)に結婚します。同時期にそういうことがあったわけですが、それが強制移転の理由にまでなるとは思えません。

立ち退き先は、東京湾岸の平井新田というところ、ここは江戸時代まで広大な干潟で、安政江戸大地震(一八五五年)の後、大量の塵芥を捨てたりして埋め立てが進んでいました。しかし、台風が来て高潮になるとあっという間に潮を被ってしまうというような土地です。そうした海とも陸ともつかないような場所を造成して、当時の東京府深川区に編入します。そして、立ち退き期限の半年前の一八八八年六月に移転を完了し、貸座敷許可地になります。これが洲崎遊廓の成立です。

根津からの移転を受け入れる代わりに、移転先の洲崎では一人前の貸座敷許可地、遊廓として認可する、そんな取引(バーター)が東京府と妓楼の業者の間であったのかなと想像しています。

これは一九三〇年(昭和一〇)の地図です。
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左が平久町と平井新田です。ここは少し埋め立てが進んでいました。その北東に洲崎弁天があります。洲崎弁天は江戸時代にすでに行楽地になっていました。というか、洲崎弁天しかなく、あとは干潟とも埋め立て地ともつかないものが広がっていたわけです。平井新田の東側に長方形の土地を造成します。長崎の出島みたいな感じで、四周が水面で隔てられ、陸とは繋がっていません。南側は海(東京湾)です。現在は埋め立てが進んで、海が遠くなりましたが、当時は本当に海辺です。

ここで重要なのは隔絶性です。廓とは、周りを塀とか石垣とか堀とかで囲われている隔絶された場所という意味ですから、洲崎の地形はまさに廓です。人工的に堀を巡らした新吉原よりもずっと隔絶性が高い。元からの水面を周囲に残し、表の出入口は洲崎橋、それと洲崎弁天の方に行く小さな橋(西洲崎橋)が裏門みたいな感じです。船をつかえば別ですが、二つの橋に番人を置けば、脱出不能という、遊廓としては理想的な地形です。

それでは、洲崎の画像を見ていきましょう。
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歌川広重の「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」です。左手前が洲崎弁天、現在の洲崎神社ですね。その向こうにはずーっと干潟が広がっていて、人々が潮干狩りをしています。さらに遠く品川沖。後に洲崎遊廓ができるのは洲崎弁天のさらに左側ですが、まだ影も形もありません。

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これは、正確にいつかわかりませんが、遊廓ができたのが一八八八年で、一九〇〇年出版の本に載っていますから、おそらく出来て間もない一八九〇年代の写真だと思います。おそらく、洲崎遊廓の写真としてはいちばん古いでしょう。一面の干潟が広がっていて、そこに漁師さんがいて、海の向こうに不思議な塔のある建物が見えます。洲崎がまさに海辺の遊廓であることがよくわかります。

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一八九八年(明治三一)に発行された「東京名所」に描かれた洲崎遊廓の夜景です。前の写真とほぼ同じ海越しの角度で、満月の東京湾岸を人々が散策している様子が描かれています。手前の男性二人はこれから遊廓に向かうのでしょうか? 海辺の行楽を兼ねてセックスしに行くみたいな、そんな場所だったのかもしれません。

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これは、洲崎遊廓の内部を描いた絵です、先ほどの写真に見えた特徴的な二つの時計台が描かれています。柳が植えられた道路は中央を南北に貫くメインストリートで先に海が見えます。

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海辺というのも善し悪しで、なにしろすぐ先が海ですから、洲崎遊廓は台風に伴う高潮の被害を何度も受けています。特にひどかったのが一九一一年(明治四四)と一九一七年(大正六)の高潮で、死者が出る被害でした。これは一九一一年の被災写真(絵葉書)で、新遠江楼という妓楼が、高波に直撃されて、叩き潰されたように完全に倒壊しています。門柱も倒れていますね。日頃は海が近くて良い感じなのですけど、災害に弱いのが欠点でした。

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明治全盛の洲崎遊廓は一九一二年(明治四五)三月の大火で焼けてしまいます。この絵葉書には、洋風な建物、時計台が見えないので、おそらく大火の後の大正期だと思います。メインストリートに沿って木造三階建ての和風の妓楼が並んでいます。

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これは、石川光陽『昭和の東京』に入っている一九三四年(昭和九)の洲崎遊廓の写真です。
石川さんは朝日新聞のカメラマンとして活躍された方です。二台の人力車に乗った娼妓は、洲崎病院に性病検診に行った帰りではないかと石川さんは解説しています。おそらくそうでしょう。場所はどこだろう?と思い、調べてみました。中央の建物は玄関の上に「三日月楼」と読めます。さらに左の遠景の建物に「新甲子」とあります。
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地図を調べると、見つかりました。いちばん広い大門通りから東に二ブロック入ったところに三日月楼とありまして、さらに新甲子があります。人力車は三日月楼の前を東から西(地図では右から左)に進んでいて、カメラマンはそれを赤丸のあたりから東方向を撮っています。まぁ、だからどうだっていうことなのですけども(笑)。

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もう一枚、石川さんの写真集からです。大きな通りではなく、雨上がり、水たまりがある裏通りを歩く二人の女性、おそらく娼妓だと思います。やはり一九三四年の撮影ですが、場所はさすがにちょっと調べがつきませんでした。見ているうちにだんだんわかったのですが、石川さんは、写り込む人を選んでいますね(会場笑)。きれいな人が多いのです(会場笑)。カメラをじっくり構えてきれいな子が来るまで待っていたのではないかなと。この二人も美人さんだと思います。とくに左の女性は笑顔がすてきです。

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これは一九三六年(昭和一一)の洲崎遊廓の空中写真です。近年、国土地理院のサイトで空中写真が見られるようになり、ずっと使いやすくなりました。私は新宿遊廓について空中写真を使って調べたのですが、その時、遊廓地区の空中写真に特徴があることに気づきました。それは、真ん中に暗い部分がある建物がたくさんあることです。私は片仮名のロの字型建物と言っていますが、上の写真にもたくさん見られます。これは何かと言うと、真ん中に庭を置いて、四週を建物で囲む建築様式を真上から写すと、中庭部分が暗いロの字型に見えるわけです。遊廓建築がだいたい木造三階建で中庭を囲む形になるのは、どの部屋からも庭が見られるようにという配慮と、採光、明かり採りのためです。すべての妓楼がそういう形式ではないにしろ、やはりこの形が多く、遊廓建築の特色です。だから、ロの字型の建物が密集しているところは、遊廓エリアだと判断できます。

このことを、新宿で最初見つけて、洲崎でも言えます。さらに名古屋の中村遊廓もまさにそうです。ところが、不思議なことに新吉原の空中写真にはほとんどロの字型が見られません。新吉原は、一九一一年(明治四四)の「吉原大火」、一九二三年(大正一二)の関東大震災と全焼を重ねていくうちに、そうした江戸時代以来の建築様式から離れたのかなと思ったのですが、そんなこと言ったら、洲崎も同じで・・・(笑)。今ところ、理由はわかりません。

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これは、一九三六年(昭和一一)の洲崎遊廓の詳細な住宅地図(火災保険特殊地図)です。ちょっとわかりにくいと思いますが、オレンジ色で囲ったのが妓楼です。ものすごい数です。本当にびっしりで、極めて密度が高いです。ただ、橋を渡って大門(上の中央)を入ってすぐの西側(地図では左側)のブロックだけ、ちょっと区画が違っていて、そこに商店や郵便局などが、妓楼以外の建物がまとまっています。たぶん、計画的にそういう配置にしたのでしょう。

特徴的なのは、道路がものすごく広いこと。メインストリートの大門通りは幅三五メートルです。三五メートルというと、今の自動車道路で六車線です。人力車くらいしか走っていない時代に三五メートルというのはものすごいです。そして、大門通りに直交する横(東西)の大通りが半分の一七メートルです。私の本の「コラム1」に書きましたが、戦前の遊廓、とくに新たに作った遊廓は、ともかく道が広く規格性が高い。不必要に道が広いのは、ただの交通路ではなく、火災のときの防火帯の役割を兼ねているからです。洲崎の場合もそれがとてもよくわかります。

遊廓びっしりの中で南東隅だけ、妓楼がありません、ここに何があるかというと、洲崎警視庁病院です。そして、その隣に産業組合の取締事務所と性病検診所があります。はじめの方で「警察と業者はグルです」と言いましたが、洲崎の場合、警察と業者組合兼診察所の位置関係で、それがもろわかりなのです(笑)。ここまではっきり仲良くしているところも、そうはないです(笑)。

洲崎遊廓の全盛期は昭和初期です。一九二九年(昭和四)のデータが残っていますが、貸座敷一八三軒、娼妓一九三七人です。一軒あたり平均一〇・六人。地図を見てもかなり妓楼の大小がありますから、大きな妓楼は二〇人くらいの娼妓を抱えていたでしょう。この段階で都内第二位。やはり新吉原が第一位で二二八軒、二三六二人で、洲崎がその次。三位の新宿は五六軒、五七〇人ですから、洲崎とは四倍近い規模の差があり、新吉原と洲崎が東京の二大遊廓であるのは間違いありません。全国だと、大阪の松島遊廓が一位なので、洲崎は全国三位ということになります。

よく言われる言葉が「吉原大名、洲崎半纏」です。まあ、大名が来ていたのは新吉原の初期までですが、洲崎は北に接する木場の職人さんが主な客筋でした。では「木場の旦那衆はどっち行ったんだろう」と思うのですが〔会場より「吉原」〕、はい、やはり新吉原でしょうね。あまり近いとかえって行きにくいだろうし(会場一部笑)。職人さんのほかには、船員さん、あと、下町の職工さん、それから景気が良いとき漁師さん、沖仲仕はなかなか来られないかな。江戸時代以来の歴史で、格式ばったところがある新吉原に対して、気取りのない雰囲気の、潮の香も懐かしい庶民的な遊廓だったと言われています。

それに関連して、地図を見ていて気付いたのですが、西側の水路沿いに割と大きめの妓楼が並んでいて、妓楼の裏側にちょっとした舟寄の石段かあれば、船で来て上がれるのではないかなと思いました。残念ながら、そこら辺の写真はないのですが。

さて、洲崎遊廓は太平洋戦争中の一九四三年(昭和一八)一〇月に、海軍省の接収命令が出て、一二月に全域が接収されてしまいます。建物だけでなく、布団も鍋・釜・食器の台所道具も全部置いていくようにという命令でした。お女郎さんがお客の相手をしていた部屋が軍需工場――石川島(後の石川島播磨重工業、現、IHI)――などに配属される勤労動員の青年たちの宿舎になります。だから布団も台所用具もそのまま使えるように「居抜き」接収なのです。

接収される妓楼の経営者からしたら、いくら海軍省の命令でも、これではたまりません。そこはやはり「見返り」が用意されていて、洲崎の業者たちは、立川飛行場がある立川、羽田飛行場の近くの穴守(大田区)などに作られる軍関係の「慰安所」の経営者に転身していきます。東京の「赤線」分布のところでちょっとお話した武蔵新田(大田区)は、洲崎の業者が作った穴守の「慰安所」が、羽田飛行場の拡張で再移転した場所なのです。

接収された洲崎遊廓の建物群は、一九四五年(昭和二〇)三月一〇日の東京下町大空襲で全滅します。おそらくスパイの報告で、あそこはもう遊廓じゃなく軍需工場の宿舎だと、わかっていたのだろうと思います。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、西洲崎橋のたもとに今でも戦災殉難供養塔があります。やはり、この地形、逃げにくいのです。なんとか橋のところまで来たけれど、逃げ切れずにここで亡くなった方がたくさんいたということです。

ようやく戦後です。結局、立川の錦町、羽衣町、それから武蔵新田、もとの本拠地である洲崎が、戦後、アメリカ軍兵士の「慰安所」を経て、「赤線」になります。洲崎遊廓系の「赤線」は、東京都内一七か所中四つもあるのです。勢力大拡張です。軍に率先して協力した見返りはやはり大きかったということです。実は、亀戸も移転しながら分化して、一か所が三か所に増殖します。

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洲崎系の赤線の本拠を象徴するのがこの「洲崎パラダイス」の大アーチ」です。洲崎橋を渡ったすぐのところです。

ちなみに、「洲崎パラダイス」の名前を有名にしたのは、一九五六年の映画『洲崎パラダイス 赤信号』(川島雄三監督、日活)です。この映画、洲崎橋の北側、「赤線」の外側にある飲み屋が主な舞台なので、旧廓内、当時の「赤線」はほとんど映っていません。主演の新珠三千代と三橋達也が当時の美女・美男の典型で映画としては好きなのですが、「赤線」の資料としてはあまり使えないです。

戦後、旧遊廓の東半分だけが「赤線」指定地になります。さっき見せていただいた聞き書きには、西半分は緑地になるはずだったと書いてありました。それは初耳でしたが、でも全然緑地にならなかった。それと、指定地から二軒だけはみ出しています。これは、前に述べましたように、特殊飲食店の指定は一軒一軒が基本で、赤い線で囲った指定エリアは便宜的という事情によるものです。

一九五二年末の調査で、「赤線」洲崎は、特殊飲食店一〇八軒、女給さん五〇五人、一軒あたり平均四・七人です。戦前の遊廓時代の平均が一〇・六人ですから、経営規模は半分になっています。それでも、四・七人というのは都内の「赤線」では多い方です。軒数では新吉原、玉の井に次いで第三位、女給の数では新吉原に次いで第二位で、規模は都内の赤線でも二位か三位かです。「規模は」と言ったのは、料金的には上に来ないからです。はっきり言って、安いです。料金的に言うと、トップが新吉原で、次いで、新宿と鳩の街(墨田区)が並びます。洲崎はかなり安い方です。さらに安い亀戸よりちょっと上くらいです。トップクラスの新吉原がショートで五〇〇~八〇〇円なのに対し、洲崎は三〇〇~四〇〇円でほぼ半額です。遊廓時代よりも戦後の「赤線」はさらに庶民的になった感じです。

次に「赤線」時代の写真を見てみましょう。と、言っても同時代の写真はあまり残っていません。まして、営業中の写真になるとさらに少なくなります。

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例の「大賀」です。『洲崎遊廓物語』という洲崎遊廓の歴史を書いた本に載っている写真です、正確な撮影時期はわからないのですが、店の前に並んでいる女給さんが全員和装(着物)なので、「赤線」の初期かなと思います。一九五〇年前後と推測しています。数少ない「赤線」営業時の写真で、女給さんも撮られるのを意識している感じで、隠し撮りではないと思います。もしかして、なにかの記念撮影かもしれません。それと「大賀」は横の大通りに沿っていますので、道がとても広いことがわかります。

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これも営業中の写真ですが、こちらは全員洋装です、女給さん。店にもよると思いますが、赤線の前半は和装が多くて、後半はほとんど洋装化してきます。これは一九五五年、「赤線」後期の写真です。場所を調べたいのですが、店の名前が読めそうで読めません。

「赤線」は一九五八年(昭和三三)四月一日の売春防止法の完全施行で廃止・廃業になりますが、すでに述べましたように、東京都の「赤線」は、それに先立つ二月の末までで営業停止になっています。これは業者組合が警察に営業許可を返上しているので、一斉廃業です。

「赤線」地区のその後です。新吉原は、現在、都内最大のソープランド街になっていますが、あれはむしろ例外で、都内の「赤線」地帯はほとんどは、その後、歓楽街・性風俗街にはならずに、一般住宅地になっています。洲崎もそうです。ただ、新宿は、また特異で、現在「ゲイ・タウン」、男性同性愛者のお店が集中するエリアになっています。

洲崎は、近年まで住宅街の中に「赤線」時代の建物がかなり残っていました。アパートや一般住宅として使われていましたが、この三年くらいで急激に姿を消して、もうほぼ全滅だと思います。これはどこの旧「赤線」でもそうです。戦災の後に建てた建物は、もう七〇年以上経っているので、木造建物の耐用年数をとっくに超えているわけです。

それでは、まだ「赤線」時代の建物が少し残っていた二〇〇〇年に撮影した写真を見てみましょう。

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洲崎橋の上から撮った写真です。橋を渡るまでは片側一車線、両側で二車線です。それが、橋を渡って旧・遊廓地区に入ると、中央分離帯がある片側三車線になります。もう圧倒的に広くなるのがわかると思います。道路としては無駄に広い(会場笑う)。だからもう両側の一車線分は完全に駐車ベルトになっていますが、それでも二車線は完全に余裕です

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旧廓内に入って左側(東側)最初の角に八百屋さん、そして肉屋さんが入っているとても特徴的な建物がありました。「赤線」時代「サンエス」という屋号だったカフェー(特殊飲食店)です。
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一階の柱は根元の方がオレンジ色、上はきれいなブルーのモザイクタイル装飾です。二階は、角柱を面取りした擬似円柱にやはり鮮やかなブルーのタイルを貼っています。
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この写真を撮った時には「サンエス」という屋号だったことは知らなかったのですが、2階の出窓の手すりにSが3つ並んでいて、後になって「あ、サンエスだったんだ」と気づきました。
 
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これは「サンエス」の筋向かい側にあった「ミハル」という屋号の建物です。バルコニーがとても特徴的です。バルコニーを持つ「赤線」建築は割とあるのですが、その中でも装飾的でモダンな感じです。また両サイドを一階から二階まで通しているブルーのタイルの柱が印象的です。とてもきれいな濃いブルーのタイルでした。「サンエス」もそうですが、どうも洲崎は他の地域と比べて、ブルーを多用しているような気がします。やはり海のイメージがあるのかなと思います。

ところで、私ぐらいから上の年配の方は、小さなタイル(豆タイル)をモザイクに貼り合わせて装飾する技法を知っていると思います。家庭でもお風呂(浴室)などで使いました。そうしたモザイクタイルの装飾を多用したのは、お風呂屋さん(銭湯)、クリーニング屋さん、病院、そして「赤線」のカフェーなのです。タイルには「衛生的」というイメージがあり、その四つの業種を結びつけるのは「衛生」というイメージです。性交渉の場である「赤線」と「衛生」って、今の感覚では結びつきませんが、「赤線」業者の組合が「全国性病予防自治会」であったことを思い出してください。やはり「衛生」なのです。こうしたタイル装飾、現在やろうとしても、もう職人さんがいなくて、できないそうです。だからこそ、柱一本、壁の一部でも保存して欲しかったです。もう遅いのですが。

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これは「あけぼの」という屋号だった建物で、撮影時点では一般住宅でした。
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一階の車庫になっている部分は、扉ないのでちょっと覗いたら、おしゃれな燭台が見えたので、外から撮らせていただきました。おそらく、車庫になっている所が、小さなダンスホールだったのではないかなと思います。

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三度目登場の「大賀」です。最後は共産党の江東支部になっていて(笑)、すごくびっくりしました。二〇一一年の東日本大地震で半壊してしまい、それで取り壊しということです。埋め立て地で地盤が良くないことと、やはり建物の耐用年数が来ていたのだと思います。私が記念撮影したところなので残念でした。「大賀」は原色のタイルを使わずに、黒タイルで装飾した太い円柱を入口の左右に構えていました、シックな感じで、ちょっと路線が違うのかなという感じでした。

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これは「松竹」という屋号だった建物です。ある種、「赤線」建物の典型的です。「赤線」建築の特徴の一つとして、表間口に入口が複数ある形態がしばしば見られます。この建物も軒が出ている箇所が三つあります。撮影した時には塞がれていましたが、もともと入口が三か所あったと思われます。たいした間口でもないのに入口が三か所。つまり、それぞれの入口に一人ずつ女給さんが立って、お客も招いていたのだと思います。あるいは、来る客と帰る客が鉢合わせしないように入口と出口を別にしている可能性もあります。旧「赤線」の建物を見分けるとき、入口の数が不必要に多いのはかなり確率が高いポイントです。

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この建物、若干煤けてしまっていますが、モザイクタイルの柱がよく残っていて、下が褐色の大きめのタイル、上はきれいなエメラルド・グリーンのモザイクタイルでした。さらに窓枠の縁に捩じり棒みたいなタイルが並んでいて、とても印象的でした。残念ながらそういうものがすべて姿を消してしまったわけです。


3 亀戸の私娼街と「赤線」
時間が足りなくなってきましたが、最後に江東区のもう一つの「赤線」亀戸のお話をします。
亀戸は、亀戸天神社を中心とする江戸の東の郊外の行楽地ですが、そこにいつから「性なる場」ができたのか、よくわかりません。一八八七年(明治二〇)ごろには、すでに銘酒屋が軒を並べていたようです。銘酒屋というのは、お酒を売るふりをして女性を売っている店です。一応、酒瓶が並んでいます。でも埃を被っていたりします。ろくに飲まずに上とか奥の部屋に行ってしまうからです。なぜ亀戸に「銘酒屋」街ができたのか、起源がはっきりしません。一九一〇~二〇年代、大正期にはすでに二五〇軒を超えていて「天神裏」、――亀戸天神の裏ですね――と呼ばれる私娼街を形成していました。

一九二三年(大正一二)の関東大震災で、浅草の銘酒屋街「十二階下」が壊滅します。「十二階下」というのは、有名な「凌雲閣」という一二階建ての建物の下にあった銘酒屋街で、「凌雲閣」は観光地として有名ですが、その下はかなり怪しい場所でした(笑)。その壊滅した「十二階下」の銘酒屋街から、業者が川を渡って亀戸に移転してきて、亀戸の私娼街はさらに大きくなります。

この亀戸の私娼街、なんと「亀戸遊園地」と名乗っていたのです。大人しか行けない遊園地、子どもを連れて行ってはいけない遊園地、「お父さん、今度亀戸遊園地連れてって」と言われても連れて行ってはだめです(会場笑)。


この写真は、亀戸にある天祖神社という神社さんの玉垣です。中と左は「亀戸」と小さく書いてあって、その下に「遊園地」とあります。右は「亀戸遊園地」「総代 吉田金兵衛」とあります。戦前の東京最大の私娼街「亀戸遊園地」の存在を今に伝える貴重な資料です。

この写真は10年以上前に撮ったものなので、本を出す前に、もう少し良い感じで撮り直そうと思って行ったら、記憶の所に見当たりません。「おかしいなぁ、たしかここら辺にあったのになぁ」と探しているうちに、ふと気づきました。「あれ、こんな案内板なかったよね」。区が立てた案内版と玉垣の間を覗いたらありました。「何もここに立てなくてもいいのに、いや逆かも、わざとここに立てたのかも」。どうも都合の悪い歴史を隠蔽する意図があるような気がします(会場笑)。

亀戸の私娼街は、昭和初期の最盛期には四三二軒、一〇〇〇人を超える酌婦――登録上は酌婦、つまりお酒を注ぐ女性。でも実態は娼婦――がいました。かなりすごい規模です。知名度では、同じ私娼街の玉の井(現:墨田区東向島)には及びませんでしたけど、規模では最大です。玉の井が有名になったのは永井荷風の『濹東綺譚』(一九三七年)ですね。

エリアは、亀戸天神社の北西、横十間川にかかる栗原橋の東辺りで、戦前の住所では城東区亀戸三丁目(現:江東区亀戸三丁目)になります。さっき見せていただいた本に、当時を知っている方が、「亀戸三丁目」と言うと、タクシーの運転手が馴染の、というか契約している店に連れて行ってくれた、と語っています。それほど有名で、通り名になっていたのですね。

亀戸の私娼街は、一九四五年(昭和二〇)三月一〇日の「東京下町大空襲」で全滅します。業者は立石(葛飾区)、新小岩、小岩(江戸川区)などに移転・分散するのですが本拠地の亀戸の再建はなかなか進みませんでした。ところが、九月二八日、日本を占領したアメリカ太平洋陸軍総監代理ブルース・ウェブスター大佐が東京都衛生局の防疫課長、与謝野光――歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻の長男です――をGHQ本部に呼びつけて、「性病予防に協力してほしい」と要請をします。当時の状況では「協力してほしい」と占領軍に言われたら命令ですから、与謝野は日本占領軍用の慰安施設の準備にかかります。
その際、ウェブスター大佐から白人兵士用と黒人兵士用を分けるようにと指示されていたので、新吉原・千住・品川などの旧公娼系を白人兵士専用に、玉の井・亀戸・新小岩など私娼街系を黒人兵士専用に割り振ります。ちなみに、将校用は大体、芸者さんがいた花街です。たとえば白山(文京区)とかですね。

アメリカ軍は人種差別が激しいので、軍の治安上、白人兵と黒人兵をいっしょにしませんでした。慰安所が白人用と黒人用に分かれているだけでなく、相手をする女性も分かれています。一度、黒人兵の相手をした女性は絶対に白人兵の方には回さないという、日本人の感覚からしたら、意味がわからないに近い人種差別ですが――こういう話も段々伝わらなくなりますが――、ともかく、アメリカ軍の要請などで、そうしたわけです。

そして、一一月一五日に亀戸の「慰安所」が営業を開始します。ウェブスター大佐の要請からわずか一か月半でできてしまいました。亀戸の私娼街は空襲で丸焼けになった後、なかなか再建できなかったわけですが、それがたちまちできてしまいます。施設の建設に必要な資材がおそらく優先的に供給されたのではないかと思われます。日本政府から優先的に供給されたのか、進駐軍から供給されたのか、資料的にはわからないのですけど、どうも状況からして進駐軍のような気がします。理由はまた後で話します。

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例によって航空写真を見ていて気づきました。上の画像の左が横十間川で、そこに栗原橋がかかっています。ちょっと薄黒っぽく見えるところは焼け跡で、地面が露出していて家が建っていないところです。正確な撮影年月日はわかりませんが、おそらく一九四七年(昭和二二)ぐらいだろうと思います。
焼け野原の中に、とても規則的に、大型の建物が連なっています、広い道路(黒っぽく写ってる)の北側中央ブロックに横長の大型建物が四棟(A、B、C、D)並んでいます。ほとんど同規格です。道路の南側にもう一棟(E)、その南に向きを南北に変えて中型の建物が二棟(G.H)、それから北側の西ブロックにもう二棟(F、I)。東ブロックにはやや小型の建物(N、O、P、Q)が二列に並び、さらに三棟(K、L、M)あります。

ともかくパッと見て普通でない建物です。大型であると上に、規則的・規格的に配置されています。大規模な公団団地などの航空写真と同じような感じです。建物の間には庭のスペースがあって、それもみんな同じ幅で規則的です。

この画像を建築史の井上章一先生(現:国際日本文化研究センター所長)に見ていただいたところ、「なんか米軍の兵舎みたいな建て方やね」と、おっしゃいました。

物資が乏しい時代に、焼け野原の東京下町にこれほど大型で規格性のある建物を建てられるは誰か?ということです。戦中までだったら日本軍関係なのですが、もう戦後です。そうなると、やはりアメリカ占領軍なのではないか、設計がアメリカ軍なら、先ほど述べた建物や配置の特徴も理解できます。確証はありませんが、状況証拠に、そう考えています。

ところが、せっかく建てた立派な占領軍兵士「慰安所」も開設からわずか四カ月足らずで、「OFF LIMITS」指令が出て、機能を停止してしまいます。

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この地図は、一九五四年(昭和二九)の江東区亀戸三丁目の火災保険特殊地図です。塗ってあるのが特殊飲食店です。先ほどの空中写真のだいたい七年後です。広い道路の両側(南北)5ブロックが「赤線」でした。東南のブロックに組合事務所と診療所がありました。比較すると北側中央ブロックに横長の大型建物四棟(A、B、C、D)、道路の南側の三棟(E、G、H)、北側の西ブロックの二棟(F、I)。東ブロックのやや小型の建物群(N、O、P、Q)など、多くの建物が一致します。アメリカ軍が設計したと推測される建物がそのまま転用するかたちで「赤線」になったのが亀戸の大きな特徴です。

一九五一年(昭和二六)の現地ルポに「昔の面影はない」、「最盛の姿を見れば、道路も広く、全部が新築であって、近代カフェーの形を取り入れた洋館建てである」と記されています。私娼街だった面影はないのは空襲で全焼しているので当然ですが、「洋館建て」という表現が単に「洋風」というよりも、もっとアメリカっぽいという意味なのかなと思います。そして、「なかなか豪華なものだ」という評価になっています。

これは、おそらく、アメリカ軍が設計した建物を、そのまま「赤線」に転用していたので、他の「赤線」と違う印象を受けたのではないかと推測します。

このルポの直後の一九五二年(昭和二七)の「赤線」亀戸のポジションは、軒数でも女給数でも都内第五位です。軒数で新吉原、玉の井、洲崎、鳩の街、亀戸、人数で新吉原、洲崎、新宿、玉の井、亀戸の順です。ただ、安いのです(笑)。ショートで三〇〇~四〇〇円、泊りで七〇〇~一〇〇〇円。都内の「赤線」では下から二つ目のクラスです。だから、建物は立派な洋館建てだけど、料金は安いという、ちょっと不思議な状況だったようです。

亀戸も他の「赤線」と同様に一九五八年(昭和三三)二月末で営業停止になります。その後は、ここも一般住宅地になります。そこに。近年までアメリカ軍兵士「慰安所」、そして「赤線」時代の建物が三軒残っていました。

そのうちの一軒が、大型建物Fです。「赤線」時代は「三富」という屋号でした。それが「三富荘」という名のアパートになって残っていました。それをグーグル・ストリートビューで確認して、撮影のために現地に行ったのですが、なんと更地になっていて(会場どよめく)、もう呆然というか、とてもショックでした。タイムラグ六か月の間に解体されてしまっていたのです。本にどうしても写真を載せたかったので、写した方をインターネットで探して、「本を進呈する」というお約束で掲載許可をいただいたのがこの写真です。蔦がすごくからまっていて、何が何だかわからないような建物なのですが、よく見ると、とても不思議な建物です。
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まず、これらの大型建物群、空中写真ではわかりにくいかもしれませんが、屋根が特徴的で、切妻ではなく、寄棟みたいな形です。それと、アパートとしてはとても大きいのです。妻の中央に玄関がありますが、おそらくそこから廊下が延びて、左右に部屋があったと思われます。二階も同様で廊下の両サイドに部屋がずっと奥へ続く。しかもこの「三富荘」は元の建物(大型建物F)の半分だけなのです。西側の「大前田」という屋号だった部分は、後ろに見える大きなマンションになってしまっています。
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「三富荘」の二階だけでも、窓の数などから見当をつけて、おそらく一〇部屋ぐらいありそうです。となると、なくなっている部分を合わせてその倍の二〇部屋、一階は全部が個室ではないにしろ、一、二階合わせて三〇部屋以上、それだけの数の慰安婦がアメリカ軍兵士を相手に仕事をしていたということです。

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これも、お借りした写真です。百日紅の花がきれいですが、すでに住人はいないようで廃屋化が進んでいます。ともかく、とても貴重な遺構だったのですが、残念ながら間に合いませんでした。

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もう一軒、大型建物Dの東側部分が残っています。西側は「美つかど」という屋号ですけが、東側は屋号の記載がありません。「美つかど」が続いているのかなという気もします。現在は倉庫になっていて、だいぶ改装されていますが、特徴的な、切妻でない入母屋でもない屋根がよく残っています。

一番きれいに残っているのは、空中写真で「P」と記号を振ったやや小型の建物、「赤線」時代は「双葉」という屋号だった建物です。現在は道路に面した部分が個人住宅、後ろ側がたぶんアパートだと思います(個人住宅なので写真と地図は不掲載)。窓などが逆U字型のデザインで、入口が二つ、その一つに赤褐色のタイルで装飾した角柱があり、「赤線」建物の特徴を備えています。ちょっと南欧風みたいなおしゃれな感じです。洲崎の「赤線」建物群が姿を消した今となっては、江東区に残る数少ない「赤線」遺構として貴重だと思います。

おわりに―身体を張って生きてきた女性たちの歴史を忘れないために―
時間になりました。用意してきたスライドも、これでお終いですが、最後に一言。私、こういう形で遊廓や「赤線」の歴史地理研究をしているわけですが、いろいろ調べれば調べるほどそこで働いていた女性たち、いろいろ困難な状況の中で身体を張って生き抜いた女性たちへの思いが深くなります。彼女たちの多くは自分が生き抜くためだけでなく、家族を養うために働いていました。昔からよく言われることですが、遊廓や「赤線」の女性には長女が多いと。つまり姉が身体を張って稼いで、両親を養うだけでなく、弟を学校に通わせて身が立つようにし、妹が身売りしなくて済むようにする。実際に「赤線」女給の収支簿などを見ても、故郷の家への送金額がとても大きい。だから「赤線」廃止で仕事の場が奪われるとき、彼女たちはとても困ったわけです。自分一人なら違う仕事でもなんとかやっていけるけど、故郷への送金ができなくなる、そうした切実な事情があったから、「赤線」廃止に反対する運動に立ち上がったのです。

自らのため、家族のために身体を張って懸命に生きた女性たちがいたことを忘れないでほしいと思います。

ところが、世の中はそうした方向とは逆です。たとえば、新宿区は新宿遊廓、「赤線」新宿について、そこそこ調べてはいるのに、区の出版物にはほとんど記述しません。だから、新宿遊廓が現在の地図上でどこにあったのか、『新宿区史』をいくら調べても出てこないのです。そして、地上にはいっさい説明板を設けていません。ここが新宿遊廓だったという表示はありません。

台東区は、新吉原があまりに有名で、隠しようがないからか、区の教育委員会がそれぞれの場所にそれなりの説明板を立てています。そう言えば、江東区は、洲崎も亀戸も、何の説明版もありませんね。亀戸の天祖神社の玉垣の「亀戸遊園地」もやっぱり隠したがっているのかなと思います。先程ちょっとお話をうかがったったところでは、こちらで出された本の増刷ができないという問題があるそうで、やはり遊廓や「赤線」のことが載っている本は、あまり多くの人に読まれたくないと区は考えているのかもしれません。

それは逆だと思います。以前はそうした人たちへの偏見がまだまだ強かったですし、実際にその関係者もいらっしゃいました。業者さんや、そこで働いていた女性が、その頃のことを思い出したくないという気持ちも、わからないではないです。だけど、直接的な関わりを持った方の多くは、もうこの世にいないぐらいの年代になってきました。私が本を出せたのも、そうしたタイミングだったからです。もっと早くにお話を聞いておけば良かったと思う一方で、今だから出せたという側面もあります。

そういう意味では、この会が蓄積された「語り」はとても重要です。先程、読ませていただいて、洲崎にしても亀戸にても、実際を知っている方の聞き書きは本当に貴重です。私がいろいろ調べて、東京「赤線」は「三月末じゃなくて二月末でもう終わっていたんだ」というようなことを、「終わったのは二月ですよ」と、知っている方、記憶が正確な方なら、ぱっと言えるのです。そういう話はもう二度と聞けないわけで、私たちができることは、それを次の世代、次の世に伝えていくことです。

自分の本の意味は、自分を育ててくれた大好きな新宿の街の歴史を書きたかったと同時に、隠されてしまう歴史、語り伝えられなくなってしまう歴史を掘り起こして、次の世に伝えたかったのです。新宿の街は内藤新宿の「飯盛女」から始まって、新宿遊廓のお女郎さん、「赤線」新宿2丁目の女給さん、そして現在の歌舞伎町のキャバクラ嬢たち、女性たちが身体を張って稼いで盛り立ててきた場所なのです。そうした街で、そういう人たちの歴史をないもののように扱うことに、とても腹が立ちました。私も歌舞伎町の夜の「女」の一人だったわけで、余計に怒りが強かったのですね。それでその怒りをはっきり本に書いてしまったので、「新宿歴史博物館」からはもうお呼びがかからないだろうなと思います(会場笑う、講座終了のアナウンス入る)。

そういうことで時間になりました。もし大丈夫なら質問を…。

質疑応答
Q. 性の産業っていうのは必要なものなんですか?
A. 今、私、首を傾げたように、とても難しい質問ですけども、そこら辺、私は現実主義者なので、必要か必要でないかというよりも、無くそうと思っても無くならないのです。それが本来的に必要であるかどうかということよりも、第一に考えなければいけないのは、そこで働く女性たち、まぁ女性限定ではありませんけど、主に女性たちのリスクをどうやって減らすか、リスクというのは性病感染――今でも性病ありますし――、望まない妊娠、暴力、不当な経済的な搾取、そうしたリスクをどう減らすかが重要だと思うのです。「性産業」をどうすべきかというのは、世界的にたいへんな問題で、今述べましたように「需要がある以上そういうリスク管理をもっとちゃんとするべきだ」という意見がある一方で、「いや供給するから需要が生まれるんだ」という売春禁止的な考え方もあり、いろいろな国で、いろいろな方法を試しているのが現在です。性を売る側を「売春防止法」で規制している日本、「性売買特別法」で性を売る側、買う側双方を処罰対象にしている韓国みたいな国、それからスウェーデンは、買うことを禁止、刑罰化することで性産業を無くしていこうしています。その場合、現実に性産業で働いて収入を得ている女性たちの生活保障をどうするかという問題もあるのです。まぁ、いつも思うことですが、なかなか難しいです。ただ、私は、昔も今もできるだけ働く女性の側に立って考えていきたいと思っています。

【主な参考文献】
石川光陽『昭和の東京―あのころの街と風俗』(朝日新聞社、1987年)
岡崎柾男『洲崎遊廓物語』(青蛙房、1988年)
三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日選書、2018年)
   第2章、第6章、コラム1、コラム2

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遥かなる旅の記憶―38年前のシルクロード紀行(その1)― [論文・講演アーカイブ]

中国関係書籍の専門店「東方書店」の広報誌『東方』2020年9月号(474号)に、エッセー「遥かなる旅の記憶ー38年前のシルクロード紀行(その1)ー」が掲載されました。
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若き日の旅の記憶が、やはり若き日に定期購読していた雑誌に掲載されたこと、とても感慨深く、うれしいです。
「その1」は出国から、北京~ウルムチ~トルファンの旅の記録です。
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    遥かなる旅の記憶
      ―38年前のシルクロード紀行(その1)―
            三橋順子

初めての海外旅行がシルクロード
真綿のような積雲を浮かべた真っ青な東シナ海が黄色味を帯び始め、さらに黄土色に変わった。やがて島が見え、中国の大地が姿を現した。飛行機は上海上空で大きく旋回し、ほぼ直角に進路を変え、大運河に沿うように北京を目指す。

1982年8月20日、27歳の大学院生だった私は、國學院大学「考古学研究会友好訪中団」の一員として、まだ滑走路が1本しかない成田国際空港を出発した。初めての海外旅行、そして初めての空の旅だった。

日本古代史の研究者になることを志していた私が、なぜ専門違いの考古学の訪中団に加わったかというと、指導教授の林陸朗先生(日本古代史)が団長だったからだ。つまりお供(団長随員)である。

当時の成田―北京の飛行ルートは、現在の朝鮮半島を横切る最短コースではなく、直行便でも上海を迂回するルートだった。長崎・五島列島から東シナ海を横断して長江河口を目指す奈良~平安時代の遣唐使の航路と同じだった。だから、円仁の『入唐求法巡礼行記』にあるのと同じように、海の色の変化で大陸が近いことを知る経験ができた。

北京に着いて、さっそく故宮を見学。日本の宮都(平城京など)とは比べ物にならない広大さに驚いたが、高校生の時、「中国革命における長征の意義について」というレポートを書いて、今思えば、明らかに左翼の世界史の教諭に激賞されたくらい毛沢東思想かぶれの少年だった私(大学時代に憑き物が落ちた)は、毛主席の肖像画が掲げられた天安門を背景に記念写真を撮れたのがうれしかった。

当時の中国は、毛沢東の後継者だった華国鋒から実権を奪った鄧小平体制の初期(胡耀邦総書記、趙紫陽首相の時代)で、「改革開放」の近代化路線はまだ途に就いたばかり、文化大革命期の余韻が色濃く残っていた。

ウイグル自治区の仕組み
2日目の朝、中国民航機で新疆ウイグル自治区の省都、烏魯木斉(ウルムチ)に飛んだ。黄土台地、オルドスの平原、沙漠の塩湖や涸川(ワジ)、雪をいただく祁連山脈。地理学の教科書では知っていたが見たこともない風景に興奮した。
ウルムチに到着後、さっそく自治区博物館と少数民族博物館を見学。外に出ようとすると、一瞬たじろいだほど大勢の人たちが私たちを待っていた。珍しい「外賓」を見物しようとする人たちで、特に子供たちは興味津々という様子だった。

当時の新彊ウイグル自治区はまだ外国人観光客に開放されておらず、入域するには学術調査団の形をとらなければならなかった。私たちが「考古学研究会友好訪中団」と大袈裟に名乗っているのも、そうした理由だった。

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「外賓」を見物するウルムチの人々

宿泊した「崑崙賓館」は、ソ連が建てた天井が無駄に高い大きなホテル。エレベーターは手動で、女性服務員がタイミングを計ってレバーを引いて止める。段差数センチで止まると、乗っている人たちが拍手する。時には10センチ近い段差になることもあった。「ああ、これだからソ連は本格的な航空母艦が造れないのだな」と思った。

夕方、新疆ウイグル自治区政府を表敬訪問。公式行事なので、あらかじめ提出した名簿通りに列んで挨拶をする。私はいちばん年下の大学院生なので序列25位、つまりいちばん下っ端だ。「友好訪中団」の団長である林教授が挨拶し、それを受けてイスラム帽をかぶった白髭のウイグル族の長老の自治区政府主席が歓迎の辞を述べる。「皆さん、遠い日本からよくいらっしゃいました。なにかお困りのことがあったら、副主席の張さんに言ってください」

この一言で、自治区政府の仕組みがわかった。副主席は漢族で共産党の書記を兼ねている。自治区の顔はウイグル族、実権は漢族。この統治システムは、もうすでに確立していた(今はもっと露骨になっている)。

ちなみに、こうした場合、まず現地ガイドがウイグル語を中国語に訳し、それを全行程随行のガイドが日本語に訳すという二重通訳。中央から派遣されたガイド趙星海氏は私と同年齢の若い男性だったが、かなりのエリートで、現地のガイドとは格が違うという感じだった。

火州・トルファンへ
3日目の朝9時半、バスでトルファン(吐魯蕃)を目指して出発。バスは日野自動車製。郊外に出ると樹木はまったくなく、ところどころに草が生えている半砂漠、そしてそれすらもない小石だらけの礫沙漠(ゴビ)が続く。その向こうに天山山脈のボゴダ山(5445m)が白く輝いていた。

2時間ほどで達坂城人民公社に着いた。ここはいわゆる模範人民公社らしく、ウルムチ―トルファン往還を通る要人や外賓のための招待所があり、簡素だが清潔な食堂で昼食が供された。まさに沙漠の中のオアシスで、集落の周囲には農場が、さらにその外周に広大な放牧地が広がっていた。ここでも子供たちが集まってきて、束の間の日中友好交流(簡単な筆談)を楽しんだ。

人民公社とは、かつて中華人民共和国の農村にあった組織で、ソ連の農業集団化を模倣した集団所有制のもとで「自力更生、自給自足」の生産活動(農業・工業)を行い、同時に末端行政機関でもあった。しかし、改革開放政策の進展で1983年までにほとんどの人民公社は解体されたので、私たちが見たのはその最末期の姿ということになる。

13時半、火州・トルファンに着いた。ウルムチから休憩を含めて4時間の行程。宿舎の「吐魯蕃招待所」で一休みした後、五星人民公社のカレーズ(地下水路)の出口の見学に出かけた。遠く天山山脈から沙漠の地下をトンネルで流れてくる水は、想像していたよりずっと水量が豊かだった。ただ、天山の雪解け水なのでとても冷たく、農地に入れる前に地上の水路を迂回させて温めなければならない。水路の周囲にはポプラが林をなし、薄茶色の沙漠ばかり見てきた目にはまぶしいほど鮮やかな緑の農地が広がっていた。逆に言えば、カレーズがトルファン・オアシスの生命線であることがよくわかった。その昔、来襲する遊牧民族は、カレーズを破壊したという話はもっともだ。水道(みずみち)を絶たれれば、たちまちオアシス都市は干上がってしまう。

そこから、交河故城に向かう。車師国(前2世紀~5世紀)の都で、2本の峡谷に挟まれ、周囲は断崖絶壁で難攻不落を思わせる大規模な都市遺跡。NHK特集「シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)-」(1980年4月~1981年3月)で大要はつかんでいたが、やはり驚いた。古代都市の遺構がそのまま地上にあり、あちこちに遺物が散乱している。居住区地区の街角で、誰かに出会いそうな気がするくらいだ。日本では古代の遺跡はすべて土に埋もれていて、発掘をした遺構や遺物を通じて、ようやくそこに何があったかを知ることができるのに。遺跡というもののイメージがまったく変わった。

遺跡で金髪の女の子に出会った。この地にさらに西方のアーリア系の血が及んでいることがわかる。ウイグルの人たちの顔立ちはかなり多様で、日本人に近いモンゴル系の人もいれば、彫りが深いトルコ系の人も多い。民族のるつぼという感じだ。

次に吐魯蕃博物館を見学。ここでトルファン文書(5~6世紀の高昌王国時代の漢文文書)を見た。私は学部時代、トルファン文書の研究で知られる土肥義和教授の講義を受けたので、実物を目の当たりにしてとても興奮した。そもそもの話、湿潤な日本では木に書かれた文書(木簡)や漆被膜に包まれた紙の文書(漆紙文書)など特殊な条件で残ることはあっても、紙の文書が地中からそのまま出土するということはまずありえない。出土文字史料については、それなりに学んできたが、「常識」が次々に覆されていく。

やっと招待所に戻って夕食。その後は「外賓」を歓迎する「ウイグル歌舞の夕べ」。ブドウ棚の下に絨毯が敷かれ、西域の楽器の生演奏で合わせてウイグル族の女性が踊る。回転が多い踊りで、唐詩にある長安の胡旋舞を思わせる(実際には胡旋舞のイメージを基にした再現のように思う)。

宴が終わったのは22時だった。でも空がまだ薄っすら明るい。トルファンは東経90度、15度で1時間だから、東経120度基準の北京標準時とは、2時間の時差があるはず。しかし、皇帝が時を一元的に支配する伝統がある中国は広い国土すべてが北京標準時なので、22時と言っても実際は20時なのだ(おまけに北緯42度なので夏の日没は遅い)。

ベゼクリク千仏洞へ
4日目の朝、シャワーを浴びる。元が雪解け水なので震えるほど冷たい。朝のお祈りを告げる声が流れてくる。異世界(イスラム世界)に来たことをあらためて実感。

火焔山の麓にあるベゼクリク千仏洞に向かう。壁画の切り取り跡が痛々しい。中国政府は、ドイツのアルベルト・フォン・ル・コックをはじめとする探検家による壁画の持ち出しを文物の略奪として強く批判している。それはもっともだ。しかし、ル・コックらが壁画を持ち出さなかったとして、中華人民共和国が保全に乗り出すまでの70年ほどの間、壁画が無事だったかというと疑わしい。なぜなら残されている壁画もかなり損傷しているからだ。像の顔、とくに眼の部分が削られているものが目立つ。これは偶像崇拝を否定する(というか怖れる)イスラム教徒の仕業だからだ。文物の保存の難しさを目の当たりにした。
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ベゼクリク千仏洞

千仏洞があるムルトク川の峡谷は、川畔にわずかに緑がある以外一木一草もない荒涼とした沙漠地帯。火焔山は砂岩の山肌に無数の溝が穿たれ、風化して落ちた砂が山麓の沙漠に続いている。この日の気温は46度だった。しかし汗はまったくかかない。たちまち蒸発してしまうからだ。気づくと肌がざらざらしている。よく見ると細かな塩の結晶だった。そんな乾燥した気候なのに、なんとこの日は雨が降った。ほんの僅か、バスの窓に水滴がついただけだったが。8月下旬にして今年初めての雨とのことだった。

巨大な城壁に囲まれた高昌故城へ。シルクロード交易で栄え、唐に滅ぼされた高昌王国(460~640年)の都。大寺院跡の仏龕にわずかに残る彩色光背(仏像はすべて失われている)に、この地を経由した玄奘三蔵の労苦をしのんだ。
招待所に戻って昼食。午後はまず額敏塔(蘇公塔)へ。清朝の乾隆41年(1779)に建てられた高さ44mのイスラム教の塔で、(今ではとても上れない)螺旋階段を上りきると、トルファン・オアシスが一望できる。

近くの蒲萄溝人民公社で休憩。川沿いの豊かなオアシスで、名前の通り、ブドウがたわわに実っていた。乾ききった気候の中で食べるブドウ、スイカ、ハミ瓜がなんと甘露だったことか。

ふとブドウ棚の脇の木を見上げると、なんだか馴染みのある葉っぱをしている。北関東の養蚕地帯に生まれ育った私は、その葉が桑に似ていることに気付いた。ガイドさんに尋ねると、やはり桑の木。ただ故郷の桑とは比べ物にならない大木だ。それでも桑があれば蚕が飼えるし生糸が採れる。今でも養蚕をしているか尋ねてみたが、残念ながらよくわからなかった。これがシルクローの旅で、絹の存在を感じた唯一の機会だった。

驢馬(ろば)タクシーとバザール
トルファン文書が出土したアスターナ古墳群を見学して、トルファンでの公式見学を終えた。招待所に戻って、さすがに疲れて休んでいたら、若手グループがバザールに行くという。それなら、行かないわけにはいかない。

招待所の門の前には、何台もの驢馬タクシーが待っていた。真っ先に寄ってきた少年馭者と値段交渉。「最初は1人1元」(当時のレートは1元=135円。現在は約15円、なんと9分の1)と吹っ掛けてきたが、5人乗るからということで1人2角(27円)に値切った。
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少年馭者の驢馬タクシー

驢馬タクシーは馭者が1頭の驢馬を操り、2輪の荷台を牽引する。荷台の左右に2人ずつ、後に1人が外向きに腰掛ける5人乗り。馭者がロバの背中と軛(くびき)の間に鞭の柄を差し込んでしごくと、ロバは並足から駆足になる。思っていたよりスピードが出るが、それほど揺れず、振り落とされることはない。

中央バザールは活気に満ちていた。露店で羊の串焼き、練った小麦を焼いた丸いパン状のもの、ヒマワリの種などが売られている。スイカを売る少年、羊の臓物を竿秤で量り売りするおじいさん、そして野外床屋。建物は映画館だけ(入場料は1角4分=19円)。ウイグルの人たちの暮らしを生で感じることができて、とても楽しかった。

それにしても、雨が降らないということは、住居や生活様式にこうも大きく影響するものなのか。外壁は立派な映画館に屋根はない。露店もまったく覆いがなく、文字通りの露天だ。雨が多い日本では、露店は雨よけがないと商売にならないから、まず覆いを付ける。トルファンの人たちからすれば、不要だから付けないだけなのだろうが。
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羊の臓物売りのおじいさん

ただ、私たちが持っているお金は、毛沢東の肖像の人民元ではなく、外国人専用の「外貨兌換券」(1994年末で廃止)。事前にガイドから「兌換券は公設商店でないと使えません(使ってはいけません)」と言われていたのでなにも買えなかった(後で、公設商店以外の場でも、商人たちは喜んで受け取ることがわかった。なぜなら闇レートで1兌換券=1.8人民元だったから)。

映画館の前にかわいらしいウイグル族の姉妹がいて、こっちを見ている。写真を撮らせてもらった後、手を振ったら、姉ははにかみ、妹は手を振り返してくれた。
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「さようなら、トルファン」

招待所に帰ろうと歩き出したら、なんとあの少年馭者の驢馬タクシーが待っていた。こうなると乗らないわけにはいかない。結局、彼は2角×5人×2=2元(270円)を手にしたことになる。しかも兌換券で。きっと家に帰って父母に褒められたことだろう。あの時、14歳と言っていたから今は52歳、立派なタクシー運転手になっただろうか? それとも……。現在のウイグルの人たちの抑圧された状況を知るたびに心が痛む。

招待所でトルファン最後の食事をして、深夜の沙漠をトルファン駅に向かう(市街からかなり離れている)。そして、23時35分発の「烏京特快」(ウルムチと北京を3泊4日で結ぶ寝台特急列車)に乗車して東に向かった。軟臥車(1等寝台車)の寝台に横たわると、ハードスケジュールの疲れで、たちまち眠りに落ちた。(続く)


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日本女装昔話【番外編・第5回】一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 [日本女装昔話]

一流ホテルと契約した女装歌手 橘アンリの夢 (1969年)

もうほとんどの人は忘れてしまっているでしょうが(生まれていない?)、1960年代後半という時代は、高度経済成長期の真っ只中であると同時に「性転換」ブームと呼べるような時代でした。

1965年10月に性転換手術を行った医師が優生保護法違反で摘発された「ブルーボーイ事件」がきっかけになり、その判決(有罪)が確定する1970年ころまで、マスコミはともかくやたらとこの種の情報を流しまくったからです。
 
国内では、雄琴温泉の性転換芸者よし幸、性転換ダンサー銀座ローズ、同ジュリアン・ジュリーなど、海外ネタではオーストリアの有名女子スキー選手の男性への性転換、アメリカの性転換女性作家の妊娠騒動、イギリスの性転換女性アッシュレー夫人の離婚裁判などが報じられました。

カルーセル麻紀が売り出したのも、丸山(美輪)明宏が三島由紀夫脚本の「黒蜥蜴」に女優として主演して大ヒットしたのもこの時代でした。
 
そんな時代に咲いた花のひとつが女装歌手橘アンリ(21 自称)でした。

彼女は、1969年9月に東京赤坂のホテル・ニュージャパンと「女性」歌手として出演契約を結んで話題になった人です。
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歌う橘アンリ(『週刊新潮』 1969年6月28日号)

混血女性のような顔だちきゃしゃな首、スラリとした脚、ミニドレス姿で週3回、のレストランのステージに立ち、シャンソンやカンツォーネを歌いました。

声はやはり低音、それでも外人がほんとんどの客にはOKだったようです。
 
彼女は、四国の松山で6人兄弟の末っ子に生まれ、小学校時代に両親と死別し、4人の姉に囲まれて、しゃべる言葉は女言葉、姉たちの感性を自分の感覚として成長しました。

中学2年の時、ゲイの大学生にフェラチオされて目覚め、野球の名門松山商業高校時代もオネエ言葉で通したそうです。

卒業後は上京して会計事務所に勤めましたが1年半しか続かず、四谷のゲイバー「一力茶屋」へ入店、ゲイボーイとして「女」を磨きました。

そして、芸能マネージャーの目に留まり、9カ月の歌のレッスンの後、めでたくデビューとなりました。
 
東京オリンピック(1964年)前後の赤坂は、ちょっと不良っぽい外人が多く、インターナショナルで怪しい雰囲気の街でした。

ブルーボーイ・ショーで評判になった「ゴールデン赤坂」などショーを売り物にするクラブやゲイバーも多く、そう、現在の六本木と新宿歌舞伎町を混ぜたような感じかもしれません。

アンリはそうした街に咲いた妖しい一輪の花だったのです。
 
「彼女の場合は美少年で売ってるのでしょう。わたしは外見もこの通り女だし、女として売ってるの」。
アンリは、当時売り出し中のピーターにライバル意識を燃やしていました。
しかし「歌手として一流に」という彼女の夢はかないませんでした。
ライバル視したピーター(池畑慎之介)のその後の大活躍とは比べる術もありません。
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橘アンリ「甘い生活」(1970年)

アンリが歌った13年後、ホテル・ニュージャパンは紅蓮の炎に包まれ、死者33人の大惨事を起こします。
そのニュースをアンリはどこでどうして見ていたのでしょうか。
 
参考資料 :『週刊文春』1969年10月20日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第34号、2001年11月)

【追記】
トランスジェンダー歌手については、下記をご覧ください。
三橋順子「トランスジェンダー歌謡の歴史」
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2017-01-07
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日本女装昔話【番外編・第4回】新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 [日本女装昔話]

新劇女優を目指した男性 花井優子の挑戦 (1978年)

歌舞伎に代表される日本の伝統的な演劇は、女形と深い関係があります。
しかし、そうした歌舞伎(旧劇)に対抗してヨーロッパの演劇の影響下に始まった新劇は、女優中心で(例外的な劇団を除いて)女形が舞台に起用されることは稀でした。
 
そうした性別の区分がうるさい新劇の世界で「女優」を目指した一人の男性がいました。
1978年に演劇集団「円(えん)」の研究生に採用された花井優子(25)です。
 
長男として生まれた「彼女」は、母親の化粧品を塗っては鏡の前でうっとりする子供時代を経て、中学3年の時、担任の男性教師に犯され、完全に「女」に目覚めてしまいます。

ちょうどその頃、新劇の大物女優「文学座」の杉村春子の公演「女の一生」を見て感動し、新劇女優になる夢を抱きます。
 
大学進学を機に上京、テレビで見た赤坂のゲイ・クラブ「ジョイ」のママ(マダム・ジョイ)の美しさに魅せられて、女装して19歳でゲイ・クラブでアルバイトを始め、大学は2年で中退。

このままだったら典型的なゲイボーイのコースでしたが、彼女は仕事のかたわら芝居見学を続けます。

23歳の時、日本国内で去勢手術を受け、また一歩、女に近づき、そして、25歳になったこの年、ついに念願かなって「円」の研究生に採用されたのです。
 
身長168cm、体重47kg、B84W58H85というスレンダーなボディは、外見的にはほとんど女性。しかも写真のように、ちょっとエキゾチックな美形です。
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花井優子(『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号)

容姿だけなら十分に女優として通用しそうですが、容姿だけでは女優は務まりません。
彼女の場合、演技力もさることながら、最大の悩みは声。
メリハリの効いた舞台声を出そうとすると、男の地声が出てしまうのです。

その弱点をなんとか克服して「火の玉みたいな感じのする女を思い切り演じてみたいの」というのが、彼女の望みでした。
 
この記事から23年がたちました。
残念なことにその後の花井優子の動静について、週刊誌の類は何も伝えていません。
新劇女優として舞台に立つという彼女の夢は果たしてかなったのでしょうか。

演劇世界は厳しい世界です。
劇団の研究生になっても舞台に立ち、名の有る役につくにはまでには厳しい修行が待っています。
大成する人は、その中でもごく少数です。
多くは世間に名を知られることなく舞台から消えていくのです。

花井優子もその一人だったのでしょうか。
 
彼女の挑戦の数年後の1981年、ニューハーフをキャッチ・コピーに松原留美子が角川映画「蔵の中」の主演女優に抜擢されます。
しかし、彼女の女優生命も短いものでした。

1990年には矢木沢まりが「Mrレディ 夜明けのシンデレラ」に主演しましたが、やはり女優としては大成しませんでした。
大御所の美輪明宏やピーター(池畑慎之介)は別格として、トランスジェンダー「女優」はいないのが現状です。
そろそろ誰か出てきて欲しいと思うのですが・・・。
 
参考資料 :『週刊プレイボーイ』1978年10月10日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』 第33号、2001年8月)
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日本女装昔話【番外編・第3回】泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 [日本女装昔話]

泡姫は男の子! 日本最初のニューハーフ・ソープ嬢 (1981年)

「ニューハーフ・ソープ嬢」と題しましたが、実はまだ「ニューハーフ」という言葉も「ソープランド」という言葉も無く、それぞれ「ゲイボーイ」「トルコ風呂」と呼ばれていた20年前のお話です。
 
当時「トルコ風呂」のメッカとして、知らない男性はいない名声?と繁栄を誇っていた滋賀県雄琴温泉に「男性トルコ嬢」が出現し、並大抵のサービスでは驚かない常連客の間で大いに話題になりました。

話題の主は、雄琴温泉「トルコ江戸城」に勤務する綾姫さん(21歳)。
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日本初のゲイボーイ「トルコ嬢」 雄琴温泉「トルコ江戸城」の綾姫嬢
(『アサヒ芸能』1981年2月5日号)

トルコ嬢歴まだ3カ月、店の制服のチャイナドレス姿も初々しく、身長160cm、体重45kgのスレンダーな身体でありながら、B81W59H82というなかなかのプロポーション、小ぶりだがきれいにふくらんだ乳房は女性ホルモン注射の成果、表情もしぐさも語り口も見事な女ぶりなのです。
 
とは言え、彼女の戸籍は男性。
山梨県で5人兄弟の次男として生まれ、中学までは陸上部で活躍した普通の男の子、卒業後は大工を目指して技術専門学校へ進みました。
ところが、18歳の時、母親が入院していた病院で知り合った年下のゲイの高校生におフェラされたのがきっかけで心の中の「女」が目覚めてしまいます。
 
家出して京都祇園のスナックで女性に混じってホステス修行。
そこの常連客の男性に言い寄られて半ば強引に「処女」喪失。
そして、性転換手術の費用を貯める目的で雄琴の「トルコ嬢」になったという訳です。
 
当然のことながら、彼女、トルコ嬢の仕事はすべてこなします。
「ローション洗い」(ローションを全身に塗ったトルコ嬢がボディを使って洗ってくれる)の時に発揮する舌技はなかなかの評判だし、もちろん「本番」もOK(入れる場所が少し違うようですけど)。

彼女を雇った「江戸城」の鈴木社長も「ホンモノのトルコ嬢より、ずっと女らしい子」、「テクニックもどこをどう攻めれば男が気持ちよくなるか、それが経験でわかっているから、これはもうバツグン」と手放しでほめちぎってます。
 
彼女は平均一日4人のお客を取る売れっ子。
「ノンケの男が好き」、「わたしは女になっているつもりだし、女になりきりたいんだから」と言う彼女には、ノンケ男相手の「トルコ嬢」の仕事は合っていたのでしょう。
 
今から6年ほど前、写真週刊誌が岐阜の金津園「ホワイトハウス」勤務の白石敬子さん(23歳)を「ニューハーフ・ソープ嬢、第一号」と紹介しました(『FRIDAY』1995年6月30日号)。
しかし、本当の第1号は、その15年前にすでに出現していたのです。
 
現在ならニューハーフのソープ嬢と言っても驚くほどのことではないかもしれません。
しかし、20年前は違います。
衝撃的な出来事でした。
そうした意味で、綾姫さんはニューハーフの風俗業界進出のパイオニアの一人と言えるし、また彼女を雇った社長の先見の明にも敬意を表したいと思います。
 
あれから20年、綾姫さんがどこかで幸せなオバさんになっていればいいなと思います。
 
参考資料 :『アサヒ芸能』1981年2月5日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第32号、2001年5月)
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日本女装昔話【番外編・第2回】名門私立女子大の怪しい受験生の正体は? [日本女装昔話]

名門私立女子大の怪しい受験生の正体は?(1975年)

毎年、大学入試シーズンになると不正受験のニュースが話題になります。
不正受験には様々なテクニックがありますが、これほど大胆華麗?、ユーモラスな手口で人々の関心を集めた事件はないでしょう。
 
舞台は今から25年前、東京多磨地区にある私立の名門T女子大です。
津田塾女子大学.jpg
事件の舞台になったT女子大学

国際関係学科の試験終了後、一人の受験生が試験官に「私のお隣の人、男の人ではないでしょうか」と告げてきたのが事の発端でした。
 
なにしろ女子大です。
驚いた試験官は受験票の束から問題の受験生の写真を取り出して密告者に確認を求めました。

しかし、受験票の人物と試験を受けた人物は確かに同一人物でした。
「これが男だって?そんなバカな」「ちょっと老けてるけどね。やっぱり女性でしょう」。
入学試験委員室の教授たちは、この時点では正体を見破れなかったのです。
 
これで終わっていたら、不正受験は完全犯罪だったかもしれません。
ところが、翌日の英文学科の試験にも問題の「彼女」が現れたのです。
白いタートルネックのセーターに真っ赤なパンタロン、165cmの長身に洒落た7分丈コートをはおり、口紅も鮮やかな水商売風の濃化粧。

地味な服装の受験生の中ではひときわ人目を引く容姿です。
 
前日は見逃してしまった教授たちのマークは厳しいものがありました。
「手がごつごつしていて女性の手でない」「化粧の下に青い髭剃り跡が見える」、疑惑を裏付ける報告が次々に入試本部にもたらされます。

「間違いなく男だ。替え玉受験だ!」と断定派の老教授。
「いや、ホルモン異常の女性かもしれない。決めつけて間違ったら人権問題になる」と慎重派の若手教授。
入試本部は喧々諤々の大騒ぎになりました。

その時、ある教授が疑惑人物と同じ高校出身の受験生がいたことを思い出しました。
入試が終わった後、同級生たちに受験票の写真が提示されました。

「あなた方の同級生の〇山〇子さんですか」。
2人の同級生は激しく頭を振って「違います!」と断言しました。

これで決まりました。
教授たちは別室に待機させていた疑惑人物を問い詰めました。
観念した「彼女」は、あっさり白状しました。
「彼女」の正体は、なんと本物の〇山〇子の実の父親だったのです。
しかも50歳近い彼は娘の高校の英語教師でした。

後日、娘も父親の無謀な賭けの「共犯」であることがわかりました。
 
前代未聞の父親女装替え玉受験という悲喜劇はこうして幕を下ろしました。

世間はこの事件に驚き、笑いながらも、女装してまで娘の合格を図った悲しい父性愛にいくばくかの同情を寄せました。
 
しかし、この事件には不思議な点があります。
まず彼のあまりに見事な女装ぶり。
喉仏を隠すタートルネック、ごつごつした脚線を隠すパンタロン、娘の協力があったにしろ女装ファッションとしての要点を見事に押さえているのです。

そして女装時の堂々とした態度。
彼は受験の2日間、女子トイレを利用するなど女子大という女の園で臆する事なく行動しています。

これは熟練した女装者でも容易なことではありません。
 
こんなハイレベルな女装行為が、替え玉受験のために思いついた即席の女装者に、はたして可能でしょうか?

もしかして彼は、トップレベルのアマチュア女装者だったのでは・・・?。
真相は25年の時の流れのかなたです。
 
参考資料 :『週刊サンケイ』1975年4月17日号
      『週刊朝日』1975年4月18日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第31号、2001年1月)
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日本女装昔話【番外編・第1回】女装芸者「市ちゃん」 [日本女装昔話]

女装芸者「市ちゃん」 (1959年)

三河高原に抱かれた愛知県東加茂郡足助(あすけ)町。
1959年の晩秋、町外れの農家小沢家で、半年前に家出した一人息子の市左衛門(よりによって超古風な名前ですね)の帰郷祝いが開かれていました。

本人に先立ってトラック数台分の荷物、テレビ、電気洗濯機など最新式の家庭電化製品や立派な桐たんすにぎっしり詰まった豪華な女物の衣装などが運び込まれていました。
その様子を見た招待客たちは「市坊は東京のお大尽の娘を嫁にもらった」と噂し合いました。
 
宴もたけなわ、電蓄から流れる三味線の音に合わせて、一人のあでやかな芸者が現れ、扇片手に舞い始めました。
驚く人たちがよくよく見れば、当夜の主賓のはずの市坊。
「市坊が女になった!」。
衝撃はたちまち麓の町にまで広がりました。
女装芸者(鬼怒川温泉・市ちゃん) (2) - コピー.jpg
芸者時代の市ちゃん(『風俗奇譚』1962年1月号)

子供の頃から女の子とばかり遊んでいた市ちゃんは、中学卒業後は土産物店に勤めながら三味線や日本舞踊を習う女っぽい青年でした。

青年団の集団作業でも力の弱い市ちゃんは能率が上がらず「女以下じゃ」と馬鹿にされていたのです。
春のある日、山村での生活が嫌気がさした市ちゃんは、なけなしの5000円を持って村から姿を消しました。
 
数日後、お金を使い果たし東京駅の待合室で途方にくれていた市ちゃんに中年男性が声をかけました。
男は思いがけないことを言いました。「芸者に化けてみないか」。
市ちゃんの女性的傾向を見抜いていたのです(すごい慧眼!)。

着いた先は栃木県鬼怒川温泉。身なりを女姿に変えた市ちゃんは、検番(芸者の管理組合)の試験にすんなり合格し、「きぬ栄」の名でおひろめとなりました。

さすがに置屋の女将は市ちゃんが男であることを見破っていましたが、市ちゃんの女っぷりに「これは行ける」と思った女将は、市ちゃんに女になりきる秘訣を事細かに授けました。

秘密は女将と朋輩の芸者以外に漏れることはなく、若くて美人、三味線と日舞が上手なきぬ栄は、たちまち売れっ奴にのし上っていきました。
 
8月、東京の某銀行の慰安旅行で鬼怒川温泉にやって来た50がらみの部長が、きぬ栄にホレこみましだ。

週末には必ず通ってくるほどの熱の入れようで、やがてお定まりの身請け話となりました。
きぬ栄を囲った男は彼女が欲しがる家電製品や着物を次々に買い与えましたが、きぬ栄は「結婚するまでは」と決して肌を許そうとしません。

とは言え、男の執着を避けるにも限度があり、そもそも戸籍が男なのだから結婚はできません。
思い詰めたきぬ栄は、男と別れ貢がせた道具や衣装を持って故郷に帰ることを決心します。
 
こうした事情で先程の衝撃の帰郷場面となったのです。
「女になるというなら仕方がないわさ。こうなれば息子の思うように生きさせなければなあ。今はそういう世の中なんじゃで」市ちゃんの母はこう語っています。

40年前とは思えない、なんと進んだコメントでしょう。
 
当時、推定20歳の市ちゃんも今では60歳。元気で女として暮らしていることを祈りたいです。
 
参考資料 :『週刊文春』1960年5月16日号

(初出:『ニューハーフ倶楽部』第30号、2000年11月)

【追記】たいへん残念なことに、「市ちゃん」は、1970年前後に自殺されたことが判明しています。
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