実業の世界 少年時代
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2013-12-16 10:53

不易糊

fueki

封筒の蓋を糊付けするのに不易糊を購入した。
ヤマトのアラビア糊よりも具合が良いようだ。

不易糊を刷毛で伸ばして塗る。いとよろし。

不易糊は大阪の足立商店が、腐らない糊というコンセプトで明治天皇の御世に開発したものである。
現社名は不易糊工業㈱である。


不易とは荀子の言葉である「萬世不能易也」、つまり「変わらない」という意味で、要するに澱粉糊なのに腐らない。ホルマリンを入れると臭くなるので、それを使わず・・・腐らない工夫をしたものだという。

少年時代は不易糊ばかりで、会社に勤めてからはヤマト糊であったが、
久々の不易糊の使用で、昔を思い出したのであった。



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2012-08-17 22:10

「あめふらし」の居る海岸風景

 

少年時代、浜名湖の浅瀬に「あめふらし」が居た。

踏むと紫色の汁を出した。

 

ぐにゃ・・・っとした感触は忘れられない。

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2012-07-30 20:44

馬鹿は死ななきゃ治らない

 

少年時代、浜松に住んでいた。

鮪や鰹は、清水の港からやってきた。

夕食に、白い御飯と鮪や鰹の赤味を食べた。

当時は鮪のトロなどを食べる習慣は無かった。

 

清水の次郎長の子分、森の石松は、遠州の森町の出身である。

森町は山の中である。

森町に友人が居たが考古学の発掘に熱心であった。

 

当時は少年考古学者というのが、けっこう居た。

彼らは発掘して、図面を書き、考古学的分析までやっていた。明智探偵事務所の小林少年より緻密な分析をしていた。

 

受験勉強の無い時代であった。

喧嘩や先生の拳骨はあったが、一方では知的な素晴らしき少年時代であった。

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2012-03-06 21:03

コロンボの女の子(6) 後日談

結局、僕らはオバハンに、店から追い出されてしまった。

翌日、先生に報告だけはしておいた。

その後、女の子は「知り合いの家に預けている」は嘘だったことが判明する。

店の二階に住んでいて殆ど家から出ないが、時々、店の周囲や〇〇銀座通りで一人で遊んでいるらしい。

学校が嫌いというより、オバハンが面倒臭くて行かせないだけのようである。

この時代は家の手伝いで学校を休む子が多かったので、不登校でも目立たなかった。

そもそも、ランドセルなど持ってる子は居なくて、布の袋に教科書やノート、筆記用具を詰めて通っていた。

教科書が買えない場合は支給されるが、ノートや鉛筆や消しゴムは支給されない。

そこで隣の席の子に借りるのだ。私の隣の席の子は、何も持ってないので、鉛筆を貸して、消しゴムは共用した。

 

給食費が払えない家の子は、昼休みは何も言わずに消えた。

私が親しくしていた子は、給食の時間に席に居なかった。

ある日、どこに行ったのかな?と思い、教室の窓から外を見ると、鉄棒のところに彼が居た。一人で鉄棒の練習をしていた。

給食の片付けが済み、彼が教室に戻ってきても、何もいえなかった。

また、クラスに1人は風呂に入らないので臭う子が居た。

本人は風呂が嫌いだから入らないと言っていたが、本当は親に彼を銭湯に行かせる金が無いのかもしれない。

こうした臭い子も、喧嘩になると臭いが武器になるので無敵であった。

 

喧嘩は多かったが、陰湿な虐めは無かった。

あれば子供会のリーダーが止めに入るので、直ぐに収まるのである。

 

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2012-03-06 15:20

コロンボの女の子(5) 対面

勝手口のドアをノックして「ごめんください」と声を掛けてみた。

返事が無い。

再度、試みる。

返事が無い。

 

帰ろうとするとドアが空いて中年の女性が出てきた。

当時としては珍しいことに太っており、さらにビヤダル風で括れがない。

おまけに化粧してないので、疲れた中年のオバハンと言う印象。

でも、店が始まる前に、頭に木の葉を乗せて、美女に化けるに違いない。

 

こちらも驚いたが相手も「あら」と驚いている。

確かに場違いな来客である。

 

僕たち、この地域の子供会の者です。

こちらに女の子が居ると、先生に聞いて来たのですが」

「あら・・ここには居ないわよ」

「女の子が居ると聞いてきました」

え・・ああ、知り合いの家に預けているの

こういう商売なので、夜が遅いので、私は午前中寝ているし、とても面倒が見れないから・・」

「先生が学校に来るようにと言ってました」

「私、引っ越して来たばかりなので、町の様子が分からないのよ・・・」

「僕たち、集団登校してますので、毎朝、迎えに来ます。

母さんは寝ていても問題ありません。そういう家は他にもたくさんあります」

都市部では兄弟姉妹で食事を作り、しっかり片付けまで済ませてから登校という家はけっこうある。お父さんが夜勤で、お母さんが病弱の場合なら、長女や長男がお母さんの代わりに食事を作るのである。

「そうね、迎えに来てくれるなら安心ね。でも、前の町に居た時も、学校にはあまり行ってないのよ。行きたがらないしね。でも、貴方達の仲間に入れてもらえば行くかも知れない。聞いてみるわ」

 

それからオバハンは「来てくれてありがとね」を連発しながら子供達を追い出しに掛かるのであった。

 

 

 

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2012-03-05 12:08

コロンボの女の子(4) 訪問

コロンボ探検隊は、男の子だけとなった。

土曜日は授業が半ドンなので、その後に行ってみることになった。

男の子達がイメージしていた女の子は・・・

 

 

こんな感じ。

オリエンタルカレーのイメージ。 

 

 

バー・コロンボは〇〇銀座の奥から伸びる横丁の奥にあった。

店は開いてなかった。その周囲の店も閉店状態。

もっとも土曜日の午後だから空いているはずもなく、実は夜まで待っても営業するかも分からなかった。

 

しかし、初めて風俗街の足を踏み入れた少年に、そのあたりの事情は分からず「やはり、先生の言うとおり、店は閉店で誰も居ないや」と思ったのである。

それでも、念のためにドアをノックしてみた。

反応無し。

「ごめんください」と声を掛けてみた。

反応無し。

「帰ろうか」と誰かが言う。

「でも裏に勝手口があるかも知れない」と誰かが言う。

店の横に、細い通路があり、それが裏に通じていた。

全員がそこを抜けて店の裏に出ると、やはり勝手口のドアがあった。

 

 

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2012-03-04 19:39

コロンボの女の子(3) 日本の伝統的な自治組織

さて、子供会であるが、これは子供組の伝統を引き継ぐものであった。

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世界大百科事典 第2版
こどもぐみ【子供組】
 
村落や都市のうちでも伝統のある古い町の内部で地域的に、しかも行事のつど随時編成される子どもの年齢集団。

若者組や娘組が存在した時代には、それらの下位に属した。

呼称としては子供仲間、小屋仲間、あるいは行事にちなむ塞の神仲間、天神講などがあるが、特定の呼称をもたない例もある。

また6歳から15歳までの、すべての男児によって構成されるのがふつうだが、ときには女児が混じる型もみられる。

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 若者組とは、伝統的社会における年齢集団の一つ。

若者衆、若者仲間、若者連中など地域によっても様々に呼ばれていた。

近世の村(自然村、部落、集落)において、地域社会を支える集団の一つとしての機能が確立したと考えられ、これらの機能は、近代以降も引き継がれていた場合が多い。

 

若者組への加入・脱退の決まりは大きく2つに分けられる。

1つは、その村の男子全員が加入するというタイプで、多くの場合は結婚を機に脱退する。

もう1つは、各戸から1人(長男)だけが加入するというタイプで、多くの場合、結婚ではなく一定の年齢に達すると脱退するというものであった。

いずれの場合も、一定年齢(15歳くらい)に達すると加入する。

若者組に加入したものは、村で一人前という事になり、加入の際に、厳しい試練を課する事もあった(加入儀礼)。

 

若者宿、若衆宿などといわれる拠点があり、そこに寝泊りしたり、共同で作業したりする場合が多かった。

村内の警備や様々な作業を行ったり、共同で集まり親睦を図った。

特に祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。

 

男性の若者宿に対して同じ年頃の女性が集まる娘宿の存在する地域もあり、この場合、双方の交流によって結婚相手を探すという意味があった。

若者組は村内の恋愛、性、結婚を管理する側面を持ち、「村の娘と後家は若衆のもの」などという表現がなされた。

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以上のように、子供会というのは、近世からの子供組の伝統を継承するものであり、大人の世界とは独立した自治組織であった。

この子供組を指導する役割は若者組なのである。

それゆえ若者組が愚連隊になってしまうと、子供組もその予備軍になってしまうのだ。

 

子供会は子供組の伝統を継ぐため男児中心の組織であった。江戸川乱歩の「少年探偵団」も子供組の伝統の上に乗っていると思われる。

ただし、少年探偵団に花崎まゆみが居るように、女児も一定の役割を果たすが、基本的には少年達が守るべき存在であった。

 

子供会のリーダーは民主的な選挙などで選ばれるのではなく、自然に決まるのである。

昔から子供達の間で特定の子をターゲットにした「虐め」があったが、これを止めさせるのはリーダーであった。

それだけの実力(知力+腕力)がなければリーダーにはなれない。

猿山のボスが自然に決まるように、子供会の会長も自然に決まるのであった。

 

 

 

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2012-03-04 17:51

コロンボの女の子(2)襲い来る者達

このシリーズは2回で終わるつもりであったが、

思わぬ大量のコメントを頂き、簡単に終われなくなってしもうた。

 

例えば・・・・

 

>それにしても目を潰され耳をもがれた番長の子分とは凄まじい。野良ネコでもこういうのは少ないのに。

 

と相模さんのコメント。

確かに動物は縄張り争いと、繁殖期のメスを巡る雄の争いでもなければ、このような凄まじい喧嘩はない。

 

しかし、大日本帝国の敗戦後、1945年から1955年頃までは暴力が支配する世界であった。

「戦後民主主義教育」なるものは、大江健三郎の頭の中にしかない幻想の物語だと思う。

少なくとも、私はそのようなものを見た記憶が無い。

 

小学校に入学した日、午前中は授業だが、午後から子供会があるので、それに出てから帰るように先生に言われた。

子供会は自治組織なので、先生はその教室には立入禁止なのだという。

そこで、近所に住んでいる日本人形作りの家の男の子(苗字忘れた)と、その隣の山下家(大きな二階家であったが親の職業は不明)の六男と、川向こうの眼鏡の朱実ちゃんと3人で、わが繁華街の校区の子供会の部屋(といっても放課後の教室を割り振っているだけだが)をドアを開けたとたんに目に入ってきたものは、異形の上級生達の群れであった。

 

中学生の着る黒の学生服を着た大男が、小さな椅子に座って仲間と話していた。

学生服は兄のお下がりだと思われるが、片目が潰れていて、さらに青い目ヤニが潰れた目を覆っていた。

片目はナイフで刺されたのでありうか・・・そのような印象であったが「どうしたの」と聞ける雰囲気では全くなかった。

 

その大男の周囲にたむろする上級生達も、いつでも直ぐに戦闘体制に入れるような危険の匂いのする連中であった。

 

何故、そうなのか?

それは日本人を襲い来る者達が周囲に居るからである。

彼らの余りの横暴さに、怒った日本人が逆襲し、市街地で銃撃戦を繰り広げる事態は1947年頃までは続いていたのである。

 

子供会が校区別に作られたのは、集団で登校と下校をするためだ。

登下校の途中で連中に襲われないようにすること。

そして、道草して知らずに「危険な場所」(連中の居住場所)には入ることがないようにする。

この2つが大きな使命であった。

 

「今日は襲撃される恐れがある」というような情報は警察から学校に伝えられる。

すると、先生は「気を付けて帰るように」と告げる程度の時もあれば、授業を中止し、早めに下校させる場合もあり、特に危険の場合は、先生達が竹刀で武装して、子供達を引率して下校する。

 

早期下校は小学校の2年頃までは時々、あった。

先生の護衛付下校は、一回あったことは間違いなく記憶している。先生達も常に臨戦態勢であり、戦後民主主義の花畑の住民は皆無であった。

 

しかし、この危険な時代は1960年を境に急速に終焉するのである。

私の世代が危険な時代を知る最期であり、2年違いの妹は、平安で民主的???な小学生時代を送っており、こうした話は知らない。

 

先生達も「貴方達が境の世代、愚連隊の仲間に入る生徒も出なかったのが嬉しい」と妙な卒業式の挨拶をしていた。

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2012-03-03 09:07

コロンボの女の子(1)

 

昔は子供会というのがあったんだが、今はあるのだろうか?

 

全国子ども会連合会と言う組織があり、全国で10万強の子供会があり360万人の子供が参加しているようである。

 

http://www.kodomo-kai.or.jp/

 

私の子供時代の子供会の思いでを書く。

 

1955年 1957に私は小学校に入学した。

当時の小学校はクラスに配属するだけではなく、地域単位の子供会にも入ることになる。

その小学校は都市の中心の繁華街から住宅地、さらに周囲に田圃が広がる郊外まで校区が広がっていた。

私の所属した子供会は、繁華街を含む地域であり、環境はあまり良くなかった。

 

子供会は自治により運営されていたので、先生は立入禁止であった。

繁華街の子供会は、その環境に影響され、一部の上級生はすでに中学の番長の配下に入っていた。

そのため喧嘩で片目を潰されたり、耳をもがれたりしているのも居た。この連中は、番長の命令で使い走りに忙しく、子供会には出てこなかった。

それで、私は4年生で子供会のリーダーに選挙で選ばれた。

リーダーになると、自分の好みで決められることも多くなる。

私は繁華街のポルノ映画館の周囲の掃除を早朝の奉仕活動に選び、映画館の掲示板に張り出されているスチール写真を、早朝からじっくり見たりして楽しんだ。

 

さて5年、6年はもはやグレてしまっているので、彼らは無視して、4年以下をしっかり固めるのが、私の方針であった。そこで学校から配布された子供会名簿を見ると、出てこない3年生の女子がいた。

「この子は?」と聞くと、

それは「コロンボの女の子だよ」と言う。

「コロンボ??」何のこっちゃと思ったら、繁華街にあるバー・コロンボのママさんの娘とのこと。

「学校に来てないから子供会に出てくるわけがない」と彼女のクラスの男の子が「無視するように」と言う。

「それは駄目である」と私は3年担当の先生に合いに職員室に行く。

「コロンボの女の子が子供会に出てこない。それは学校に出て来ないからなので、先生の力で学校に出てくるようにしてください」

すると先生は「私も何回か店に行ってみたのだが、声を掛けても誰も出てこないんじゃ。君が子供会を代表して、行ってみてくれないか?」と逆に頼まれた。

こうして、コロンボ探検隊が組織された。

 

「1人で行っても相手にされないと思うので全員で行こう」と提案すると、皆が賛成した。

バーやキャバレーのある地区に、小学生が集団で行くという珍しい事態となった。続く

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2011-10-23 11:31

東京の手毬歌

子供の頃、家族が一緒に眠る座敷の八畳間の天井に穴があった。

あの穴から、誰かの足が出てくる・・・との伝説が、子供達の間で流行して、怖がった。

両親に聞くと、あれは焼夷弾が突き抜けた後を塞いだのだが工事が下手で、隙間が出来たのだという。

 

焼夷弾は、座敷を突き抜けたが不発弾であったので、我が家は焼けずに済んだ。

ありがたいことだ。

 

大空襲で燃えなかったので、我が家には戦前の書籍やレコードが残っていた。

 

納戸に入り、手回しの蓄音機を動かして、戦前のレコードを聴くのは、私の楽しみであった。

 

その中に、この「水師営の会見」の歌があった。

これは文部省唱歌であった。 

 

 

この歌を納戸の蓄音機で聞きながら 「昨日の敵は今日の友」の言葉は、我が幼き心に印象に残った。 

 

 一方で1950年代まで歌われていた東京の手毬歌でも乃木大将は出てくる

 

一列談判破裂して、

日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシヤの兵、

死んでも尽すは日本の兵
五万の兵を引き連れて、

六人残して皆殺し
七月十日の戦いに、

哈爾浜(はるぴん)までも攻め破り
クロパトキンの首を取り、

東郷元帥万々歳

 

一、二、三から十まで韻を踏んでいる。 

この歌も、微かに記憶があるが、男の子は手毬歌は歌わない。近所の姉さん達が歌っていた。

 

特に以下の部分は、我が幼き心に印象に残り、その後の人生観のベースになってしまった。

 

さっさと逃げるはロシヤの兵、

死んでも尽すは日本の兵

 

たとえ最後は勝ったとしても、被害の多い戦はしてはならない。

 

手毬歌は歌わなかったが縄跳びをしながら数え歌を歌った記憶がある。あれは何だったのか?

 

これらの歌も、巷より消えてしまった。

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2011-05-21 15:35

テレビの記憶 ホームラン教室

 

 これは「ケーキ屋ケンちゃん」「寿司屋のケンちゃん」から「洗濯屋ケンちゃん」までの、小学生の男の子を主人公にしたテレビ番組の走りである。

 

ホームラン教室の主人公の家は、パン屋であって、お父さんは懐かしの牟田悌三。

あんぱん役の少年は小柳徹。

 

放映は1959年10月から。

この時期に東京タワーが完成している。

 

東京タワーというのは工事を始めてから、アッというまに完成したので、驚いた。

1957年の末に着工し、翌年の秋に完成していた記憶がある。

 

「東京タワーに行きたい」

「今、混んでるのでだめ」

「空いたら連れてってね」

 

と言うことで父と約束したのだが、私が東京タワーに行ったのは大学に入学してから。確かに、もう空いていた。

 

さすがに一人で行きました。

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2011-05-19 12:08

テレビの記憶 バス通り裏  

 

「バス通り裏」 は、昭和33年から昭和38年まで、NHKテレビで平日の午後7時15分から7時30分まで放映された連続ドラマ。

 

我が家の場合、父が会社から帰って来るのが、午後6時過ぎであり、

家族団欒の食事は6時30分から7時頃。

7時からNHKのニュースを見て、7時15分から「バス通り裏」を見る。

この時には食事が終わって、デザートを食べたリ、お茶を飲んでいる時間である。

 

この時期のサラリーマンは、あまり残業などしないで、終業すると、一直線に自宅に帰って来た。

卓袱台での家族団欒があるからね。

 

そして、8時前になると近所の人達がテレビを見にやってくる。野球やプロレスの中継が始まるからである。

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2011-05-18 19:37

ラジオの記憶  一丁目一番地

テレビの記憶の前にラジオの記憶がある。

ホームドラマは、最初はラジオで聞いた。

ラジオドラマ「一丁目一番地」は、昭和32年よりNHKで放送された。

我が家にテレビが入ったのは昭和34年であるから、32年、33年と、このラジオ番組を聴いたはずである。

 

 

ちょっと失礼おたずねしたい
ここらは何丁目何番地
あちらの角のポストから
こちらの橋のたもとまで
みんなの町です 一丁目一番地
昨日も今日も又明日も
にこにこ笑って明け暮れる
ここは一丁目 一丁目一番地

 

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当時の小学生は、学校から帰って玄関にランドセルを投げ出し、直ぐに外に飛び出して、

夕方まで近所の子供と遊んでました。

 

 

昨日も今日も又明日も
にこにこ笑って明け暮れる

子供時代を送ってました。

 

この主題歌の通りだったのです。

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2011-02-11 21:44

海仁草  地獄の味覚 地獄の悪臭

 

沖縄周辺で取れる赤色の藻である。

海人草とも海仁草とも書く。

 

読みは「かいにんそう」だった気がする。

 

この藻を乾燥させた生薬が、当時の小学生を苦しめた地獄の味覚である。

 

超ド級の不味さ。

超ド級の悪臭。

これは人類が発明したものの中で、もっともおぞましい薬品である。

 

「こんなものを発明したのは誰なんだ」

 

当時の子供達は、大いに恨んでいた。

 

犯人は竹本常松博士である。

 

大正2年1月28日生まれ。

大阪薬専、阪大、東北大の教授を歴任。

昭和51年東北大の初代薬学部長となる。

のち徳島文理大教授。

海人草から回虫駆除薬の成分カイニン酸を抽出した。

平成元年1月23日死去。75歳。

 

竹本博士。恨みます。

貴方の発明で、どれだけ多くの子供たちが泣いたことか。

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2010-05-24 19:42

ラッシャー木村の相撲時代の四股名は「木の村」であった

 

それにしても「木の村」とは、相撲界では、ほとんど期待されていなかったのではなかろうか?

 

国際プロレス時代のラッシャー木村が一番良かった。

全日本プロレス、新日本プロレスの2つの谷間で、ビルの谷間のラーメン屋台の状態。

 

それでも、モンスター・ロシモフ(その後のアンドレ・ザ・ジュアイアント)を始めて、日本に招聘したのは国際プロレスであった。アレックス・スミルノフも懐かしい。

 

その国際プロレスが倒産して、他社のリングで苦労したと思う。 

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国際プロレスをスタートに多くの国内プロレス団体を渡り歩いたラッシャー木村さん(本名・木村政雄)が、24日午前5時30分、腎不全による誤嚥性肺炎のため都内の病院で死去した。享年68歳。

 

 

こちらは国際プロレス時代にラッシャー木村と流血の死闘を演じたアレックス・スミルノフ。

 

本当はカナダ人なのに、ロシア人に変身して米国リングに悪役として参戦。

冷戦時代の最大の悪役はロシア人であり、血も涙も無い悪役を徹底して演じた。

 

でも、全日本プロレスで来日した時は、その他の名も無いレスラーで終わった。もっと目立つのがいっぱい居たからね。このダサいジャージのズボンでは売れません。

 

でも、国際プロレスでは芽が出た。

 

スミルノフの得意なのはロシアン・チェーン・マッチである。

 対戦相手同士の手首を鎖でつないで闘う形式のデスマッチ。チェーンを拳に巻き付け相手を殴打することも可能。

流血は必至だ。

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2010-04-03 21:58

さらに懐かしい「糸巻きタンク」

 

材料は「糸巻き」と「割り箸」と「輪ゴム」のみ。

これを戦車に見立て、廊下を走らせた。

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2010-04-03 18:17

ゴム動力飛行機の思い出

子供の頃作りました。

そして、飛ばしました。

懐かしい限りです。

 

今の子供も飛ばしているのだろうか?

 

 

 

 

映画「三丁目の夕日」より

 

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2010-01-10 15:16

おひつの蓋の上に猫が居る風景

子供の頃の1月の東京はもっと寒くて、

正月には雪が降った。

まだ、電気釜なるものは存在せず、米は竈で炊いた。

竈にくべる薪を割るのは子供の仕事であった。

私は庭で斧で薪を割った。

そして、古新聞を入れた上に、薪を置き、竈に火を付けた。

 

炊いた飯は、おひつに移して台所から居間に運ぶ。

すると暖かい場所を良く知っている猫がやってきて、

このおひつの蓋の上に座りたがるのである。

 

 

 

今は電気釜を保温にすることで、おひつは不要になった。

 

・・・が、このたび「セラミックおひつ」なるものを買ってみた。

 

 

 

http://www.at-life.com/kitchen_ohitu.html

 

 

常温で保存しても充分に美味しい。

米は冷めても美味しいのである。

 

それを思い出した。

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2008-07-20 20:35

主題歌しか覚えていない「七色仮面」

「七色仮面」は1959年6月~1960年6月までの1年間、日本教育テレビ系で放映された。

日本テレビは、かつては日本教育テレビだったのだ。
ある時、教育の文字を取って日本テレビとなった。

「七色仮面」は、東映が月光仮面の原作者である川内康範氏(森進一とおふくろさん騒動を起した)に依頼して作成したテレビドラマである。
当初から映画化を考えて製作されたので、予算不足の宣弘社の作品(月光仮面等)とは出来が違う。

しかし、筋は全く記憶にない。
多分、出来が良すぎて、子供には面白くなかったのだと思う。
顔が7つに変わるというコンセプトは、どうも子供には分りにくい。
なんとか仮面は、仮面を着ける前が1つ、仮面が1つで、合計2つ。7つに変わる必要はないのだ。

ただ、川内康範氏の書いた歌詞は実に秀逸。


とけない謎を さらりとといて
この世に仇なす 者達を
でんでんどろりこ やっつけろ
でんでんどろりこ やっつけろ
ななつの顔の おじさんの
本当の顔は どれでしょう
  

でんでんどろりこ・・・とは、どのようなやっつけ方なんでしょうか?

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なお、二代目「七色仮面」は千葉真一である。
これは千葉真一のデビュー作でもある。

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2008-04-08 22:45

月光仮面50周年

今年『月光仮面』は50周年。
川内さんと一緒に世のために何かできないか考えていたのに、
さみしいです。(大瀬康一氏談)。

月光仮面は1958年2月に始まったテレビドラマ。
確かに50周年である。
翌年(1959年)の7月には終了しているので、有名な割には、放映期間は短かった。
子供は夢中になり「月光仮面ごっこ」を良くやった。
厚紙を三日月状に切って、銀紙を貼って光らせてから、額に貼り付けて、月光仮面になったつもりでチャンバラをしたり、高い所から飛び降りて怪我をした子供も多かった。
それで「教育上、よろしくない」・・・という理由で、急遽、番組が終ってしまった。

なお、銀紙は森永の板チョコか、お父さんの吸うピースの空き缶から回収した。

当時は、テレビの普及期であり、家にテレビのある家と、無い家があった。
テレビのある家は、ご近所の大人も子供も、テレビを見に集まって来た。

我が家は比較的早くテレビを購入したので、茶の間は近所の人達のサロンと化していた。

月光仮面も近所の子供達が集まり皆で見たのである。
八幡様の境内で見た紙芝居と同じ、まさに電気紙芝居であった。

YOUTUBEにも月光仮面がアップされていた。

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2008-03-22 21:23

懐かしいCM特集

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YOU TUBEで探してみました。
よくぞ、保存していましたね・・・と驚く、動画集です。

まずはアンクル・トリス。

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精工舎。これは記憶にある。

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三輪石鹸。輪が3つ。

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渡辺のジュースの素
粉末ジュースを水で溶かして飲んだのです。

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うみゃーでイカンワ  名古屋弁まるだしのオリエンタルカレー。


   

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2007-05-19 20:03

子ども会の思い出

小学校に入ると「子ども会」にそのまま入ることになる。
これは町内に住む子供が、年齢横断的に加入している会である。
基本的には子供達の自治組織で、子供達だけで運営を決めている。
6年生が会長になり、適当に役員を指名していた記憶がある。


この子ども会の大きな仕事は集団登校である。
朝食を食べていると「ゆうちゃん」と外で声がする。
「はあい」と答えて、大急ぎで食べ終えランドセルを背負って出かけるのだ。
子ども会は子供の居る家を一軒一軒訪ねて、声を掛けて集団で登校する。
もちろん、親達にも「おはようございます」「行ってまいります」と全員が元気に挨拶する。
これを毎日、やっていると、
町内の親は、町内の子どもの顔を全て覚えてしまうのだ。
また、逆に子供たちも、親達の顔を覚える。
今、考えると信じられないような素晴らしい制度であった。
「人さらい」が出ると恐れられた時代なので、集団登校はとても安心できた。
でも、なぜか下校はバラバラである。
それは上級生と下級生の下校時間が異なる他、
クラブ活動などもあるからだ。

子ども会は集団登校以外に何をしたか、あまり記憶がない。
ただ、上級生のお兄ちゃんの家には、よく遊びに行った。
当時は、真空管のラジオを組立てるのが流行していて、お兄ちゃん達がハンダで線を繋いだりするのを見学したものだ。

そして6年生になると、町内の子ども会の会長になる。
同年齢の子が居なければ、嫌でも番が回って来る。
会長になると、それなりに大変である。
私の町内の一角に、飲み屋街があった。
そこには子どもが居なかったのだが、
私が会長になった時に、女の子が転校してきた。
ところが、朝、迎えに行っても出てこない。
夜遅くまで営業しているバーなので、親達は寝ているのである。
そこで、日曜日の昼間に数人で尋ねて行って、親に集団登校の話をした記憶がある。

さて、現在、子ども会はあるのだろうか?
調べたら「全国子ども会連合会」というのがあり、
会長は町村信孝氏であった。

http://www.kodomo-kai.or.jp/

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