薬師の利益の事
鎌倉時代後期に書かれた仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」に薬師如来の御利益についての話が、常陸国の那珂郡で起こった話として書かれたものがありましたので紹介しておきます。
沙石集 巻2第2話(12) 薬師の利益の事
原話は ⇒ やたがらすナビ
<現代語訳(解説)>
常陸の国中郡という所に草のお堂があり、そこに薬師如来を安置しました。そしてその堂に近い家に、十二・三歳くらいの子供がおりました。しかしその子が悪い病気にかかり死んでしまいました。 その子は近くの野原に捨てられましたが、一両日のあいだ鳥獣に食われることもありませんでした。するとこの薬師様がこの童子を背負って家へ連れて来たと思うとたちま息をふきかえしました。
そのためこの薬師を、地頭家鎌倉へ迎えて奉納し、立派なお堂を造り祀ったのです。そうして生き返ったこの童子は、すでに法師になっており、ここに奉公するようになったそうです。
当時のことであり、末代まで奉仕するとなれば、感応(仏の働きかけ)がむなしいということはないでしょう。文永(1264~1275年)の末の頃の話である。一説に弥陀と言っていたという。
尾張の国、熱田の社頭に、若い下種男(げすをとこ:下男)がおり、、今年十一月十五日に急に両目が見えなくなってしまいました。心憂いたので、神宮寺に参籠して、薬師如来に祈念しました。
次の年の、三月十五日夜、夢に一人の僧が現れ、「なんぢ、起きて目を見開(あ)けよ、見開けよ」と仰せられたので、「目はめくらで見えません」と言うと、「ただ見開けよ」とおっしゃるので、なんとか見開けようとしていると、やがて開けることが出来たのです。
盲目になってから後、主人から追い出されて捨てられてしまっていたのですが、目が見えるようになると、また使おうとしてくれるのを、僻事(ひがごと:間違っている事)であるが、社司(神官)は聞いてこれを許しました。
この話は、目の前で見た人のはなしです。文永年中(1264~1275年)の事です。
(注)
(1)常陸国中郡:奈良時代は「那賀郡」が正式名称で、平安時代になると「那珂郡」が一般的になったが、どちらの時代も「中郡」という表記は見られ、平安末期から「中郡荘」とよばれる荘園ができると中郡と書かれる比率は増えて行ったと思われます。ただ江戸時代以降は「那珂郡」が一般的に使われました。
(2)尾張国熱田社は現在の熱田神宮ですが、承和14年(847)に神宮境内の一角に木津山(亀頭山)神宮寺が建立され、中世には薬師堂の薬師如来が大いに繁栄したとあります。ただこの神宮寺も明治初期の廃仏稀釈で取り壊されてしまいました。
薬師堂は壊され、諸仏などは名古屋長久寺へ遷座となりました。
熱田神宮寺(大薬師)の図 ⇒ こちら
(尾張名所図会 巻之3より:天保12年(1842))
鹿嶋明神の事
鎌倉時代にまとめられた説話集「撰集抄」(せんじゅうしょう)に鹿島神宮の事が書かれていましたので紹介しておきます。
撰集抄は西行法師に仮託されて書かれている説話集で、作者は不明です。
巻7第13話(73) 鹿嶋明神事
原文は ⇒ やたがらすナビ (参照)
治承(1177~1181年)のころ、常陸鹿島の明神(鹿島神宮)にお参りすると、神宮の造りは南向きになっており、その前は海で、後ろは山である。社や瓦屋根が並び、廻廊、軒が擦れ合わんばかりにひしめいている。潮が満ちてくると、御前の打ち板までは海となり、潮が引くと、砂浜が三里(12km)の遠くまで引く。
南は海であり、波打ち際も分らないほどであり、昼は棹さす船が見え、夜は波に宿借る月を見る。
北は山がそびえており、杉むらに繰り返し、鳴く子規(ほととぎす)の初音がいちはやく聞こえ、草むらの露に添う夜の鹿の声や、暁叫ぶ猿の声、また深山からおろして吹く松の風、物のあわれに心を動かす。東西は野辺が広がり、色々の花が錦となって覆い尽くすようになる。
さても、何よりも興味深いのは、御殿の上の桜が、七日だけ咲いて別れを告げ散り、庭を花弁が積もっている中で、潮が満ちると、花が、あそこに一むら、ここに一むらと入江にできている様子である。
かねて、廻廊の中で、「入於御山思惟仏道(山に入って、世俗の物を捨て、悟りの境地に辿り着く)」と貴き声にて読まれましたが、やがて、読むのを中断して、末ゆかしく思えりしに、巫女が皷打って、「思惟仏道の末をなほ聞かばや」と託宣され、さまざまの事などをすると、「いかにも、神もいらっしゃる」とは思える。
その中に、「われ、過ぎ去った神護慶雲(称徳天皇の時代、767~770年)に、法相を守ろうと三笠山に移ったけれど、この所をも捨てず、つねに守る」という、御託があった。(神護慶雲2年に御蓋山に鹿島神宮のタケミカヅチが降り立ち春日大社が勧請された。)
さても、潮が満ちる時は、多くの魚が波に従って、神宮の御前まで近寄って来て、潮が引く時には、はるかに離れた海に帰るので、日に三度、お参り下向しているようである。されば、「結縁は相当なもので、きっと巨益にあづかるであろう」と、あはれにおもわれる。(注:潮の満ち引きは1日2日ずつで3度ではないと思われるが、・・・)
また、はるかに御社を引きどかして、御社に侍り。いか川と申す眷属の神がおいでになる。
「天の下、すべてをもらさず守ろう」と誓ひ給へり。
鶴、千里を飛ぶが、なほ地を離れない。鷲、雲にかけるが、いまだ天の外にでることはない。
いづれの鳥獣も、利益にもれるものはいない。
このように、一子のように思って、「われを救はん、かれを助けん」と思う仏神は多くいらっしゃるが、われらのように虚妄で汚れている者は、心が晴れないで、仏神も利益のところのおありにならないにちがいない。
(注:撰集抄は西行法師が書いているような書体であるが、作者ははっきりせず、西行の死後に書かれたものである。
この文も実際の鹿島神宮をどの程度実地で観て書かれたかは不明で、書かれている内容も少し不明確なように思える。
今は、ともかく参考程度に残しておく。)
筑波山をぐるっと
先日天気も良くて、車でちょこっと筑波山まわりを一回りしてきました。
石岡市八郷地区側から見た筑波山は、手前の女体山の一つ頂上の山に見えます。
石岡市根小屋の県畜産センター付近
つくば市小和田 国道125号線北条大池手前。
こちらからは女体・男体の二峰が離れて見えます。
国道125号から県道14号(筑西つくば線)に入ると、女体山が隠れて男体山のみが見えてきます。
わんわんランド付近
筑波山のすそ野を廻るように真壁方面の県道41号線(つくば益子線)に入ります。
男体山が民家に押し迫っています。
つくし湖付近から椎尾薬師へ入口付近です。
こちら側から男体山への登山口があります。
石岡市八郷地区側から見た筑波山は、手前の女体山の一つ頂上の山に見えます。
石岡市根小屋の県畜産センター付近
つくば市小和田 国道125号線北条大池手前。
こちらからは女体・男体の二峰が離れて見えます。
国道125号から県道14号(筑西つくば線)に入ると、女体山が隠れて男体山のみが見えてきます。
わんわんランド付近
筑波山のすそ野を廻るように真壁方面の県道41号線(つくば益子線)に入ります。
男体山が民家に押し迫っています。
つくし湖付近から椎尾薬師へ入口付近です。
こちら側から男体山への登山口があります。
西蓮寺の大銀杏
11月26日に行方市の西蓮寺に立ち寄りました。
ここの大銀杏の黄葉は毎年12月始め頃ですのでまだ早いのですが様子を見ておきたくなったためです。
樹齢1000年以上ともいわれる大銀杏ですが、紅葉にはまだ早かったようです。
まだ青々とした元気な葉を繁らせていました。
ここの大銀杏の黄葉は毎年12月始め頃ですのでまだ早いのですが様子を見ておきたくなったためです。
樹齢1000年以上ともいわれる大銀杏ですが、紅葉にはまだ早かったようです。
まだ青々とした元気な葉を繁らせていました。
六の宮の姫君
芥川龍之介が今昔物語集を題材にいくつもの短編小説を書いています。
羅生門、芋がゆ、鼻などが有名ですが、その中に「六の宮の姫君」という話しが有ります。
この中に、都に残した姫君と遠く離れた陸奥守(仙台・多賀城)、常陸守(介)として赴任する父親について一緒に現地へ行った男の話が語られています。
物悲しい話ですが、当時の様子を少し垣間見れるような気がしましたので、ここに載せておきます。
芥川龍之介 六の宮の姫君(青空文庫) ⇒ こちら
その元話となった今昔物語集の話を見て見ましょう。
今昔物語集 巻十九第五話 六宮姫君夫出家語
原文はこちらを参考にしました。 ⇒ やたがらすナビ
<現代語訳(解説)>
今は昔、六の宮という所に元宮廷人の子供である兵部(軍の管理役人)の大輔(次官級役人)が住んでいました。
おとなしい性格で、古い習慣にとらわれ、世の人と交際することもないため、父が遺した宮の家の木も高く伸びきって、荒れてしまった屋敷の東方の隅にある館に住んでいました。年は五十歳ほどで、娘がひとりいました。
その娘は十余歳ばかりで、たいそう美人であり、髪をはじめ、姿かたち、非の打ちどころがありませんでした。心ばえも美しく、気だてのよい娘でした。このように、なんともいえない美しさであったので、然るべき君達にも合わせることもできたでしょうが、愚かにも思い至らず、このように綺麗でも世の人も知らなければ、言い寄る人も無いままに「誰かいいよってくれる人があれば」という古めかしい考えにとらわれて静かにしていました。
「身分の高い方と交際させてあげたい」と思いましたが、父も貧しい身分でしたので望めません。また父も母も心にかけていましたが、ただ娘を二人と共に寝かせ、いろいろ語ってきかせることしかできませんでした。そのため、乳母の心とは離れ、頼るべき兄弟もありませんでした。心細く思うことばかりで、ただ、父母はこれをとても悲しむ以外ありませんでした。
そうするうち、父も母も、相次いで亡くなってしまいました。姫君の心を思いやると、あわれで悲しく、身の置きどころもありませんでした。
月日は瞬く間に過ぎ、喪に服する期間も開けました。父母は常日頃、信用ならない者だと言っておりましたから、乳母にも打ち解けることができないまま、月日は過ぎていきました。さまざまな調度品も数多く残されていましたが、それも乳母がひとつまたひとつと売り払ってしまいました。そのため、姫君の暮らしは日に日に貧しくなり、大変心細く悲しく思っておりました。
そうしている、ある日、乳母が言いました。
「私の兄弟に僧をしている者がおり、その者が申しますには、○〇国の前司(前任の国司)で、二十余歳ほどになられる方で、姿も美しく、心ばえもよい方があるといいます。その方の父は今は受領(国司)ですが、上達部(かんだちめ:高位の貴族)の子ですから、いずれ昇進することでしょう。その方がお声をかけてくださいました。もしその方があなたの元に通ってきても、いやしい者ではありませんから、(今のように)心細く過ごすよりも、いいように思います」と、
姫君はこれを聞くと、髪を振り乱して泣くより外はありませんでした。
その後、乳母はたびたび男からの文を取り伝えましたが、姫君は見ようともしませんでした。乳母は若い女房に頼んで、姫君の文と思える返事を書かせました。このようなやりとりが続いたため、男はこの日と定めてあらわれるようになりました。姫君にはどうすることもできず通ってきました。姫君はとても美しい方でしたから、男は志を尽くして思うようになりました。男も貴族の血筋にあたる人ですから、気品のあるふるまいでした。姫君も頼れる人もおらず、この男を頼りにするようになりましたが、やがてこの男の父が陸奥守に任ぜられ、春には任国に下ることとなりました。男も男子ならば京にとどまることもならず、父と共に下る必要がありました。
女を置いていくことは心苦しいことでしたが、結婚を約束した仲ではなかったので、「つれていきます」とも言えず、心に思いを持ちながら、出発の日をむかえ、深く契りをかわし、泣く泣く別れて、男は陸奥へ旅立ちました。
任国に到着してから、「消息を伝えよう」と思いましたが、手紙を託すべき確かな使いもなく、歎きながら過ごしているうちに、年月が過ぎていきました。
父の任期が明ける年、京に戻ろうとしていると、常陸の守○〇という人が、任国にいて、はなやかに暮らしておりましたが、その人から、「この陸奥の守の子を聟(むこ)にしたい」と、人を遣わしてたびたび迎えによこし、父の陸奥守は「とてもよいことだ」と言って、息子を常陸にやりました。
そうして、陸奥国に五年いて、常陸に三、四年いるあいだ、京を出てから七、八年にもなりました。常陸の妻は、若く、かわいげのある人でしたが、京の人とは比べることもできません。常に心は京に残して、恋い偲んでいましたがどうすることもできません。京には何度か手紙を送りましたが、宛先不明でそのまま持ち帰ってきたり、または手紙を持って行った使者が戻ってきませんでした。
こうしていると、常陸の守の任期が終わり、京に戻ることになり、聟(むこ)も戻ることになりました。道中、粟津(滋賀県大津市)まできて、「日よりが悪い」ということで二、三日滞在しましたが、なかなか気が気ではありませんでした。
京に入る日、「昼は見苦しいから」といって、日が暮れてから入りました。京に入るとすぐに、妻を父の常陸の守の家に送り、自分は旅装束のまま、六の宮に急ぎ行ってみると、以前は崩れながらも残っていた土塀も皆失せており、四足の門があった所にはその跡形もありませんでした。寝殿の角にあった屋敷もなくなり、政所屋(まんどころや:政務所)だった家屋は残っていましたが、ひどくゆがんでいました。池には水がなく、水草が生い茂り木々も所々折れたり無くなったりしていました。これを見て、心が迷い肝が騒いで、「このあたりに知っている者はいますか」と、あたりの人に聞いてみましたが、消息を知る人はありませんでした。
政所屋の壊れ残ったところに、人が住んでいる気配がしたので、近づいて声をかけると、一人の尼が出てきました。月の明りに照らして見ると、姫君の下女の母だった女です。男は寝殿の倒れた柱が残されているところに腰をかけ、この尼を呼び寄せ問いかけました。「ここに住んでいた人はどうしたのだ」と問うと、尼は答えようとしませんでした。
「隠しているな」と思ったので、十月十日ごろ(陰暦)の頃ですから、尼もたいそう寒そうでしたので、男は着ていた衣を脱ぎ尼に与えると、尼は手を迷わせて、「いったいなぜこのようなものを私にくれるのですか」と言うので、男は、「私はしかじかの者である。おまえは私を忘れてしまったのか。私はおまえを覚えている」と言えば、尼はこれを聞くと、むせかえって泣き続けました。
その後、尼は言いました。「知らない人が尋ねているのかと思って、隠していました。あなたならばありのままに申し上げます。あなたが陸奥の国に下ってから一年ほどは、『御消息があるかもしれない』と待っておりましたが、絶えてありませんでしたので、『忘れてしわれたのだろう』と思い、しばらくはそのまま過ごしておりました。二年ほどたって、乳母の夫が亡くなりましので、もはや姫君の世話をする者はなく、みなちりぢりにやめて去っていきました。寝殿は殿の内の人の焚き物になり、壊れてしまいました。姫君がお住まいになっていた館も、道行く人が壊して、一年前の大風で倒壊しました。姫君は、二、三間(約5メートル)ほどの侍の詰め所にいらっしゃって、寝起きするところも無いような暮らしをしています。尼は、『娘の夫に付いて但馬の国に行きました。京では誰も雇ってはくれない』と考えたからです。去年のことです。姫君がどうしていらっしゃるかと思い、ここをたずねましたが、ごらんのとおり寝殿も失せ、跡形もなくなっています。姫君の消息をたずねましたが、知っている人もございません」と言って、尼は涙ながらに語りました。男はこれを聞いて、悲しみに沈み泣く泣く戻りました。
家に帰り着きましたが、この人に会わずには生きている甲斐がないと思い、「ただ、足のおもむくままに探し歩こう」と考えて、参拝者の服装をして、藁履(わらぐつ)をはき、笠を着て、方々をたずねまわりました。見つけられず、「もしや、西京(スラム街として名高かった)にいるかもしれない」と思い、二条から西に、大垣にそって歩いて行くと、申酉(さるとり、午後五時)ごろ、空がにわかに暗くなり、しぐれが痛いほど降ってきたので、「朱雀門の前の西の曲殿にいるかもしれない」と思い近寄ってみると、連子(れんじ:格子)の内に人の気配がありました。寄ってのぞいてみると、汚れたきたない筵(むしろ)をひき廻して、二人の人がいました。一人は年老いた尼で、もう一人は若い女で、とても痩せ枯れ、色が青く、影のような様で、いやしい筵の破れたものを敷いて、そこに臥していました。牛の衣のような布衣を着て、破れた筵を腰にかけ、手を枕にして臥していました。
「とてもいやしい姿であるが、どこか気品がある」と怪しく思って近くに寄ってみれば、たずねていた姫君でした。目の前が暗くなり、心も騒、ぎじっと見つめていると、この女が極めてかぼそい声で言いました。
たまくらのすきまの風もさむかりきみはならはしのものにざりける
(手枕してひとりで寝るときのすきま風さえ寒いと感じていたのに、今は貧しい暮らしに慣れてしまった)
と言うのを聞き、これは間違いないと思えたので、あさましく思いながら、掛けある筵を開いて、「なぜ、どうしてここにいるのか。ずいぶん迷い歩き、探し回ったのですよ」と言って、近寄って女を抱きしめると、女は顔を見合わせて「早く、遠くに行ってしまった人ですね」と思い、耐え難い衝撃が大きかったのでしょう、そのまま消え入るように亡くなってしまいました。
男はしばらくは「生き返る」と信じ、抱いていましたが、やがて冷たくなっていきました。男はそれから家に帰らず、愛宕護(あたご)の山に行って、髻を切って法師になりました。
道心のゆたかな人でしたから、貴く修行したと伝えられています。出家はずっと思っていたことでした。これが機縁となったのです。
この事はくわしくは伝えられていませんが、『万葉集』に記されたものと語り伝えられています。
(解説)
この話は他にいくつもの古書にもあります。
この今昔物語集の最後に書かれている『万葉集』には巻第十六に次のような記述があるといいます。
夫君(つ ま)に恋ふる歌一首 并せて 短歌
さにつらふ 君がみ言(こと)と 玉梓の 使ひも来ねば 思ひ病む 我が身ひとつそ ちはやぶる 神にもな負ほせ 占部(うらへ)すゑ 亀もな焼きそ 恋ひしくに 痛き我が身そ いちしろく 身にしみ通り むら肝の 心砕けて 死なむ命 にはかになりぬ 今更に
君か我を呼ぶ たらちねの 母の命か 百(もも)足(た)らず 八十(や そ)の 衢(ちまた)に 夕(ゆふ)占(け)にも 占(うら)にもそ
問ふ 死ぬべき我がゆゑ
反歌
占部をも 八十の衢も 占問へど 君を相見む たどき知らずも
或本の反歌に曰く
我が命は 惜しくもあらず さにつらふ 君によりてそ 長く欲りせし
右、伝へて云はく、時に娘子(をとめ)あり、姓は車 持(くるまもち)氏なり。
その夫(つま)久しく年序(と し)を経れども、往来をなさず。
ここに娘子、係(おも)恋(ひ)に心を傷ましめ、痾(やまひ)に沈み臥せり。
痩羸(やす)ること日に異(け)にして、忽ちに泉路に臨む。
ここに使ひを遣り、その夫君(つ ま)を喚び来す。
すなはち歔欷(な げ)き涙を流し、この歌を口号(お ら)び、登(すな)時(はち)逝没(みまか)りぬ、といふ。
また、「古本説話集」にも同じ話が載っています
第28話 曲殿の姫君の事 ⇒ こちら
内容的には上に書いた「六の宮の姫君」と同じです。タイトルとなっている【曲殿】は落ちぶれた姫君が最後にいた場所であり、【六の宮】は最初に住んでいた場所です。
まあ芥川の短編の解釈もいろいろありますが、ここではネタとして紹介するにとどめます。