ところが自称リベラリスト、所謂ポリコレ賛同派は、「多様性の尊重」とまで言いながら、彼等の仲間内で「政治的に正しい事」だけをポリコレとして強制しているようにしか見えないのです。
先日こんなニュースを拾いました。
本来の台本を大胆に読み替えることなどで常に物議をかもしてきたドイツの演出家、ペーター・コンヴィチュニー(79)が演出する東京二期会のオペラ「影のない女」が今月下旬に公演される。コンヴィチュニーは取材に「『影のない女』をオリジナルのまま上演すれば女性蔑視の形になります。このオペラには3人の女性が出てきますが、彼女たちは男性に従うだけなのです。これは今日では受け入れがたいことです」と話した。オリジナルから曲の4分の1をカットし、シーンを入れ替え、日本語のせりふを加えるなどコンヴィチュニーの本領発揮の舞台となりそうだ。
子供ができない皇后
「影のない女」は2022年に公演が予定されていたが、コロナ禍で延期されていた。コンヴィチュニーは初めてこのオペラを演出する。ドイツのボン歌劇場との共同制作で、東京が初演となる。
リヒャルト・シュトラウスが作曲、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの台本によるこのオペラは1919年に初演された。本来のあらすじは、東洋の島々に住む皇帝は、霊界の王(カイコバート)の娘を皇后にした。しかし彼女には影がなく、子供ができない。乳母は人間をだまして影を買い取ることができると、皇后と人間の世界に向かう。子供がいない貧しい染物屋、バラクの女房から影をもらい受けようとする。しかし、皇后は他人を犠牲にしてまで影の入手を望まない。「影を持たない皇后のため石と化す」という呪いのため皇帝は石となった。皇后の精神の尊さゆえに奇跡が起こり、皇帝は石からよみがえる。
大作だが「反社会的」
休憩を入れずに約3時間20分はかかり、楽器編成も大きい大作。また祝祭的なオペラであるため、初演はウィーン国立歌劇場の第1次世界大戦後の最初の公演として、1955年の同歌劇場再建記念、66年のメトロポリタン歌劇場落成記念などで上演されてきた。
しかしコンヴィチュニーは「『影のない女』は好まれている作品ですが、影を持つことで妊娠するという意味です。女性は子供を産むことで女性になれると言っています。反社会的です。私はいろいろと変えることにしました。シーンを組み替えることで分かりやすくしました。そしてオペラにユーモアを入れようと思いました。これが一番大事なことです。ドイツ語の作品に日本語のシーンが入ることもユーモアです。そして女性が男性をだますというユーモアを入れました」と作品が内包する女性に対する古い固定観念を問題視した。
コンヴィチュニーは1945年、フランクフルト・アム・マイン生まれ。父親の著名な指揮者フランツ・コンヴィチュニーがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者だったため旧東ドイツで育った。劇作・演出家ベルトルト・ブレヒトゆかりのベルリナー・アンサンブルで助監督を務めた。80年からオペラ演出を手がけ、オペラを現代にも通用するドラマとして生まれ変わらせ、ドイツのオペラ雑誌「オーパンヴェルト」で何度も年間最優秀オペラ演出家に選出されている。
リヒャルト・シュトラウスのオペラが反社会的?
ワタシはオペラに詳しくないのですが、色々とこのオペラについて検索しても、どこがどう女性蔑視なのかわかりません。
演出家コンヴィチュニーは「『影のない女』をオリジナルのまま上演すれば女性蔑視の形になります。このオペラには3人の女性が出てきますが、彼女たちは男性に従うだけなのです。」と言うのですが、オペラのストーリーを見る限り、何でそういう解釈になるのか全然わかりません。
オペラのストーリーは他を検索しても記事の通りです。
東洋の島々に住む皇帝は、霊界の王(カイコバート)の娘を皇后にした。しかし彼女には影がなく、子供ができない。乳母は人間をだまして影を買い取ることができると、皇后と人間の世界に向かう。子供がいない貧しい染物屋、バラクの女房から影をもらい受けようとする。しかし、皇后は他人を犠牲にしてまで影の入手を望まない。「影を持たない皇后のため石と化す」という呪いのため皇帝は石となった。皇后の精神の尊さゆえに奇跡が起こり、皇帝は石からよみがえる。
ここで皇后が影を持たないと言うのは、妊娠できない事を意味します。
妊娠できないという事は、皇帝の世継ぎができないという事です。
キリスト教では一夫一婦制が非常に厳格なので、嫡出子にしか王位継承権がありません。 だから皇后は何が何でも子供を生まなければならないのです。
このオペラもそういうヨーロッパの文化背景を元に作られているのでしょう。
そして「「影を持たない皇后のため石と化す」という呪いのため皇帝は石となった。」のも、皇后が子供産めない為、皇位継承者を得られないなら、皇帝は帝位を追われる、或いは帝国が崩壊する事を意味しているのでしょう。
但しこのオペラは上演時間が3時間半にもなる大作なので、乳母が人間の女を騙す為に使う姦計と、それに抵抗する染物屋夫婦の夫婦愛も描かれています。
こういうストーリーですから、コンヴィチュニーの言う三人の女とは、女王、女王の乳母、染物屋の女房でしょう。 でもこの記事に出ているストーリーを見ても、他のサイトでストーリーを見ても、彼女達が「男に従うだけ」とは全く思えません。
皇后はいかに自分に影が必要であっても、他人を犠牲にする事は拒否する。
乳母は皇后に対して忠義を尽くし、何が何でも皇后の為に影を手に入れようとする。
染物屋の女房は貧しいけれど、夫を愛し女王の乳母が仕掛ける姦計に打ち勝っていく。
勿論このストーリーの背景には、コンヴィチュニーの言うように「女性は子供を産むことで女性になれると言っています。」と言うヨーロッパの社会と文化があるのです。
これは子供を生めない女性、生みたくない女性には大変厳しい物でした。
しかしこのオペラの三人の女たちは、それぞれがこのような社会に抗って自分の意思を貫こうとしているのです。
特にこうした状況の中で、それでも「他人を犠牲にしてまで影の入手を望まない」と言う皇后は大変気高く、女性として賞賛に値します。
彼女は女性として生きる事を放棄しても、人として恥じない生き方を選んだのですから。
子供を生むというのは女性にしかできない事で、非常に重要な役割です。
だから「女性は子供を産むことで女性になれる」と言うのもわかります。
しかし女性は女性である前に人間なのですから、女性として生きる前に人として生きるべきなのです。 所謂フェミニスト達の中にも「女性は女性である前に人間である」と言っている人が多数います。
このような女性が主人公なのに、何でこのオペラが女性蔑視なのか?
反社会的なのか?
むしろ彼女達は「影を持つことで妊娠するという意味です。女性は子供を産むことで女性になれると言っています。」と言う理不尽な社会に、抵抗した英雄ではありませんか?
理不尽な社会に抵抗する人々は英雄です。
だからこうした人々を描いた芸術作品は多数あります。
しかしオペラであれ、映画や演劇や小説であれ、こうした英雄を描く為には、その英雄が抵抗した社会を描かなければなりません。
例えばネルソン・マンデラを描いた映画「インビクタス」では、当時の南アフリカ共和国の過酷な人種差別が描かれています。
またガンジーを描いた映画では、イギリスによるインド独立運動への弾圧が描かれています。
南アの人種差別もイギリスのインド支配も、現代では絶対に認められない話で「反社会的」と言えるのですが、その反社会的な行為を描かないと、何でガンジーやマンデラが英雄なのか理解できません。
「影のない女」も同じではありませんか?
勿論、ワタシはオペラには詳しくないので、ストーリーだけからはわからない女性蔑視があるのかもしれません。 またこの演出家が何とか原作を改変したいだけなのかもしれません。
しかし長く愛されてきた作品を、現代の思想で問題化して改変するって、蛮行としか言えません。
そもそも現在上演されているオペラの殆どが17~20世紀初頭までに作られた作品です。 だからそれぞれの作品が作られた時代の価値観を反映しています。
また暴君や奴隷など、現在では全く存在を否定されているキャラクターも出てきます。
だからポリコレを振り回せば、殆ど全てのオペラが上映不能になるでしょう。 それでも上演しようとすれば作品を改変するしかありません。
けれどもこれはもう蛮行と言うしかありません。
ナチスドイツの時代にも、古典オペラのストーリーが問題になった事はありません。
スターリン時代のソ連でも、古典オペラはそのまま上演されていたし、古典オペラや古典文学を題材にした映画も多数作られました。
ところが現在のポリコレ派は古典芸術を彼等の倫理道徳で改変するという蛮行を平然と行っています。
ワタシはこれは人間の魂と文化の破壊だと思います。