裏五輪
オリンピックが嫌いだ。
朝から晩までオリンピックオリンピックとそのことばかりになるから嫌いだ。参加することに意義があるとか言いながらメダルの数に固執するから嫌いだ。口では「ゲームを楽しみたいと思います」と言いつつ目が笑っていなくて嫌いだ。メダルを取らなかった選手と種目は最初から存在しなかったことになるのが嫌いだ。国別なのも嫌いだ。閉会式と開会式だけちょっと好きだ。あとはぜんぶ嫌いだ。
そもそもスポーツが嫌いだ。スポーツ選手イコールさわやか、純粋、フェアと誰が決めたのか。
スポーツというと思い出すのは、小学校の同級生だったヤマニシさんだ。体育の時間、ポートボールの試合をした。珍しく私のところにボールが回ってきて、敵に渡してなるものかと、しっかりボールを抱えてきょろきょろしていたら、ヤマニシさんがすたすたすたと歩み寄ってきて、普通の声で「ちょっとそのボール、見せてくれる?」と言った。ヤマニシさんは体育委員だ。何かボールに問題があるような口ぶりだった。もちろん、まんまとひっかかった私が間抜けなのだ。それはわかっている。ヤマニシさんの作戦勝ち。ユーモラスでスマートなフェイント・プレー。私はスポーツが嫌いだ。
そもそも、たいていのスポーツは、元をただせば単なる冗談だったにちがいない。ボールを投げ合うのに飽きて、たまたま手を使わないでやってみたのがサッカーの起源、とか。誰かの投げたボールがごみ箱に入ったのが面白くてバスケットボールの始まり、とか。互いの体の臭い部分を無理やり嗅がせあったのがのちのレスリング、とか。むろん勝手な想像だ。でも、きっとそうに違いないと思う。元をただせばおふざけだったものに、むきになって勝ったの負けたのと言っているから、私はスポーツが嫌いだ。その点、カーリングとかカバディとかは、まだ元の馬鹿馬鹿しさが残っていて好ましいが、そういうスポーツにかぎってなぜか決してメジャーにはならず、テレビでもめったに中継されないのは、きっとスポーツの出自の馬鹿馬鹿しさを思い出させられて不都合だからに違いない。
もしも私の好きにしていいというのなら、今あるオリンピックの競技はすべて廃止にして、もっとスポーツの原点に立ち返るような、たとえば「唾シャボン玉飛ばし」とか「舌シンクロナイズド」とか「猫の早ノミとり」とか「水中にらめっこ」とか「目かくしフェンシング」とか「逆立ちマラソン」とか「男子二百メートルパン食い走」とか「女子一万メートルしりとりリレー走」等々の新競技を設置する。メダルも金・銀・銅はやめにして、一位どんぐり、二位煮干し、三位セミの脱け殻とかにする。
どうだろう。これぐらいやれば、さすがにみんな馬鹿馬鹿しくなって、勝ち負けなんかにこだわらなくなるのではなかろうか。
いや違うだろう。やっぱりみんな「どんぐりの数で韓国に負けた」とか「日本がどんぐり、煮干し、脱け殻独占です」などと言っては、悔しがったりはしゃいだりするのだろう。そして大まじめで舌の筋肉を鍛えたり、空気のように軽いノミ取り用の櫛をヨネックスと共同で開発したり、にらめっこの強化合宿中に顔筋断裂で出場が絶望視されたり、唾の粘度を増す薬を飲んでドーピングにひっかかったりするのだろう。百年も経てば、それらがもともと馬鹿げたおふざけであったことさえ忘れられてしまうのだろう。
だから私はオリンピックが嫌いだ。
(「ちくま」2004年9月号、『ねにもつタイプ』ちくま文庫に収録)