EXECUTIVE INTERVIEW「オプトオンライン.jp」
東京工業大学
栄誉教授
末松 安晴氏
プロフィール
1955年:東京工業大学理工学部 卒業
1960年:東京工業大学大学院理工学研究科修了 工学博士
1961年:東京工業大学理工学部電気工学科 助教授
1973年:同大学 理工学部 電子物理工学科 教授
1989年:同大学 学長
1995年:産業技術融合領域研究所所長
1997年:高知工科大学 学長
2001年:国立情報学研究所 所長、顧問
2011年:東京工業大学栄誉教授

動的単一モードレーザ研究を振り返り、今の研究者に伝えたいこと

光通信の世界的研究者として知られる末松安晴氏が、2014年日本国際賞(Japan Prize)を受賞した。これは「大容量長距離光ファイバ通信用半導体レーザの先導的研究」によるものだ。
末松氏は、光エレクトロニクスの黎明期である1960 年代初頭から光通信の研究に取り組んできた人物。1980 年代始めに光ファイバの最低損失波長帯で光を高速で変調しても波長が安定した動的単一モードレーザを完成させ、大容量・長距離光ファイバ通信の実現に大きく貢献した。
今回は末松氏から、受賞対象の動的単一モードレーザ研究の逸話や、現在の研究者に対するメッセージを伺った。(本誌・柿沼 毅郎)

OPTCOM:研究当時の状況をお聞かせください。

末松氏:1960年にレーザが出現し、光通信への夢が芽生えたと云えます。しかし、当初はレーザにしても光ファイバにしても余りにも技術的に弱く、長い期間、光通信は実用的な技術と捉えられなかったのです。こうしたことがあって、あの頃は商用化が一番大きな狙いでした。なかなか商用化できなくて困っていたのです。そんなもの使いものになるのかという時代でしたから。とにかく商用化してもらわなくてはならないということで、できるだけシンプルなシステムにしようとしました。しかし、当時の通信技術であった同軸ケーブルやマイクロ波通信より格段に優れた性能を持たせなければ、既存の技術が普及している中で、それらと互角に用いられるようにはならないのです。幸いにシリカ光ファイバの低損失製造技術が進んできました。将来に発現するであろう隠れた性能を十分に活かす光ファイバ通信システムを実現するために、動的単一モードレーザと名付けた、大容量で長距離の伝送が出来る光を発する半導体レーザを1980年に実現しました。これが契機となって、単一モード光ファイバ通信の実験が世界的に進み、1980年代の後半からは、大容量長距離光ファイバ通信が広く用いられるようになったのです。我々の時代の第一世代のシステムは強度変調です。この強度変調が今、極まりつつあります。光ファイバではマルチコアのような多心光ファイバが登場し、同時にレーザも安定化されてきて、作り方が上手くなって光出力も安定化されてきました。

そして、動的単一モードレーザの最終形態と考えて提案し、実証していた波長可変レーザが、現在ではごく当たり前に作られるようになりました。長らく1.5μ帯の温度で波長を変えるレーザが使われていましたが、電気的に波長を変える波長可変レーザが2005年頃に使われ始め、2010年になってようやくマジョリティになってきた感があります。実はこのアイデアを出して実証したのは1983年でした。つまり、使われ始める2005年まで約20年という歳月を要したのです。それが今ではマジョリティになり、本当に嬉しいです。そして第二世代のシステムである位相変調も、日本がずっとリードしています。

また、最初に着手するというのが大切だと考えています。光ファイバもレーザも個々ではアメリカ人が最初に作っていますが、光“ファイバ”通信の実験を世界でどこが最初に行ったかを調べてみたところ、どうも東京工業大学のようです。この実験は1963年5月26日の全学祭で行われました。当時、私は同大学で助教授をしていたのですが、学部の4年生がレーザに関わる何かを展示したいと云って来たので、光ファイバ通信のデモンストレーションを行いました。アメリカでは1961年に光ファイバを使わない空間伝送の実験が行われていますが、光ファイバを使った伝送実験は日本が最初となります。これは、最初だから偉いという意味では無く、そうした革新意識が定着することで周囲にも良い影響を与えるのです。光ファイバ通信に関して、日本は開発段階から世界のトップを走っていて、単一モード伝送という基本的なコンセプトも出してきました。シングルモードファイバシステムで進めるというのは日本が言い出したことです。

□ 研究において重視した点を教えてください。

末松氏:システム全体を把握しながら細かいデバイスの研究を行う。システム指向のデバイス研究と云っています。それが非常に大事です。要となるデバイスのキーテクノロジーが無ければシステムが実現できないことを、開発に携わる方々に伝えたい。私は当時、レーザの波長は光ファイバの最低損失帯でなくてはいけないと考えました。それから単一波長でなければいけないことも。また、波長多重を見据えて、波長を変えることも必要だと考えました。この3つが揃えば優れたシステムができると、動的単一モードレーザの開発をさせて頂きました。

企業の考え方からすれば、精密な技術を必要とする動的単一モードレーザの開発は暢気な大学のお遊びに映っていたようです。しかしそれがマジョリティになることもあるのですから、そうした開発を許容することも大事でしょう。当時はそういう風潮でしたから、企業で光ファイバ通信のセクションを立ち上げ、それを社内に公表せずにいる様子も見かけました。仕切られた部屋に案内されたこともあります。そうしたハート、更に言えば蛮勇も必要だと思います。研究者はあまり萎縮しないで欲しいです。

私達はそういう環境で取り組んできたので、研究者間の連帯感はとても強いです。できるだけ皆にやって欲しいと思っていたので、私は特定の企業の為だけに何かをすることはありませんでした。国内の学会では非常に密に、隠し事をせずに進めました。もちろん、これが企業間同士だと難しいと思いますが。

□ 日本で蓄積されてきた技術、知見を、まず日本で発表して欲しいというのもありますね。

末松氏:そうです。国内でも学会は数多く行われているのですから、そこで発表しておけば、先程の光ファイバ伝送実験のように、後からトレースして「最初は日本ですよ」と言えるわけです。サイエンスの発展というのは、海外の有名な場で発表することではありません。良い仕事をするのが一番大事です。そういう意味では、現在の風潮には忸怩たる思いが有ります。だから私は、まず日本で発表しましょうと言っています。動的単一モードレーザ研究の学会発表は、50人くらいしか参加しない小規模の分科会が最初の一歩でした。国内から国外への発表の場ということでは、私が十数年ほど前から参加しているディスカッショングループでは、日本でも国際的総合学術雑誌を出したいという意見が出ており、私も同じ考えです。これは絶対に必要でしょう。

また、世の中で広く注目されることを目的とした論文ばかり書いていては、新しい分野を切り拓くことはできません。引用されない論文を書くのです。企業で新しいシステムを開拓するのが難しいのであれば、尚のこと大学はそうした研究を行うべきです。将来、世の中で使われるシステムを頭に描いて、その核になる技術を研究するのです。すぐに日の目を見るのは難しいですが、そうした研究に取り組み、企業の方に関心を持ってもらって、だんだん1つの確立した分野に仕上げていくと。光通信と言うのは正にそうでした。皆で議論しながら裾野が広がっていき、できることが増えてきました。そして、有力企業群がプロジェクトとして推進する様になったことが開発の流れを確固たるものにしたのです。しかし、前に述べたような流れが有ったので、実用化する時は一気にできたわけです。そういうことを、今の研究者達にもやって欲しいです。

もう1つ大事なことは、教授のテーマに従わないドクターコースの学生を支援することです。失敗して、どうすれば良いかと苦労した経験は後で役に立ちます。博士論文の時に確たる仕事をした人間が残るとは限りません。言われた通りにして自分では考えないというのではなく、さんざん考え抜いて上手く出来なかったとしても、それが教訓となって、次は上手くできたという人もいます。

□ 自分の頭で考え続ければ、いつか花開くと。

末松氏:そうです。自分で頭を使って失敗した経験をさせることで、選り分ける能力が身に付き、新しいものに気付くことができます。これを意図的にやっているのがイギリスとアメリカです。このままでは日本は危ない。

また、産業の盛衰を見て将来に活かさなくてはいけません。私の場合はオートバイが好きで、その産業を見ていました。国内メーカーを見ると、戦後は50社ほどに増えた時期もありましたが、今では3社ほどです。例えばホンダは、アメリカのハーレーを模倣せず、車体は簡単にし、しかもエンジンは大きくしませんでした。こうしたことを知ることは、自分で何かをする時に1つのexampleになります。彼らが実際にどういう考え方だったかとは別として、私はオートバイ産業を見ることで、高級感を追い求めるのではなく、地道に、かつ本質は守るという教訓を得ました。ですから、世界の産業の流れがどうなっているか、教訓を肌身で感じていなくてはいけません。

□ 最終的にはマーケットで活かせなければなりませんからね。

末松氏:私の場合は本当に運が良かった。ファイバやレーザの開発とInternetというアイデアが同じ時期に出ていて、パラレルで進みました。お互いの発展に良かったのです。また、1.5μ帯の大容量ネットワークが始まったのは80年代の後半ですが、それが広がり始めた1990年の後半には伝送コストが下がったこともあり、楽天やGoogleといった企業が登場しています。

今後も、オリンピックを見据えた4K・8K映像や、モバイルでの高精細映像と、光通信システムの大容量化は進みます。それを支える動的単一モードレーザの発展は、これからも続きます。

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