乐胖代购免代理版
地誌のはざまに
FC2ブログ

「鉄道開通記念写真帖」の鮮明な写真をご提供戴きました

2ヶ月ほど前の記事で、大正9年(1920年)10月21日に熱海線の国府津〜小田原間が開業したことを祝する祝賀会の様子を収めた「鉄道開通記念写真帖」(以下「写真帖」)を紹介しました。

この記事に対し、松本安太郎の「エム・エフ商会」についての資料でお世話になった「湘南軌道」を主宰される山崎朗さんから、同書を御自身でコレクションされているとのことで、数点の写真をメールでご提供戴きました。誠にありがとうございます。

実は「国立国会図書館デジタルコレクション」(以下「デジタルコレクション」)に収録されている「写真帖」のスキャン画像が正しく原本の状態を示していないことに私も思い至っておらず、「写真帖」に掲載された写真自体が潰れた不鮮明な状態で印刷されているものと勘違いをしていました。実際は全くそんなことはなく、原本は「デジタルコレクション」上の画像より遥かに細部まで確認できる状態の写真が印刷されているものの様です。


「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)19コマより「花電車」
「花電車」(「「写真帖」19コマ」:再掲)
「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)19コマ「花電車」山崎朗様御提供
「花電車」の山崎さん提供の写真

例えば、小田原電気鉄道の「花電車」の写真では、「デジタルコレクション」の画像では花電車の装飾の細部は潰れて良く見えなくなっていますが、山崎さんから送って戴いた写真では細部まで十分見える様になりました。お陰で、前回の記事で紹介した「おだわらデジタルミュージアム」(小田原市郷土文化館、以下「デジタルミュージアム」)に掲載された「鉄道開通祝賀会小田原花電車」の写真に見える2両の花電車のうち、右手前の車両に施された理容室のサインポールの様な柱などの、装飾の特色が合致することが確認出来る様になりました。

また、「デジタルミュージアム」の写真では車両の先頭に何らかの動物の頭部を模したものが付いていますが、山崎さんの写真でも右の男性の背後にその頭部の一部が見えていることがわかります。「デジタルミュージアム」の写真ではトロリーポールの向きから頭部の装飾が着いた方向に走行していたことがわかりますが、「デジタルコレクション」の写真では反対方向へ走っていることになります。

更に、「デジタルミュージアム」では車両が2両写っており、前回の記事では車両が連結されている可能性を考えましたが、写真が鮮明になったことで連結されていなかったことが確認できます。「デジタルミュージアム」の写真では左奥の車両のトロリーポールは鮮明に写っていませんが、右手前の車両のトロリーポールと平行な線が左奥の車両の上にもうっすらと見えており、あるいはこれが左奥車両のトロリーポールかも知れません。

「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)22コマより「青物町の余興広告自動車〜」
「靑物町の餘興廣告自動車と新名女學校の花賣(東海新報社前)」
「写真帖」22コマ:再掲)
「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)22コマ「靑物町〜」山崎朗様御提供
「余興広告自動車〜」の山崎さん提供の写真

一方、「青物町の余興広告自動車〜」と題された写真では、「デジタルコレクション」の写真では確認できなかった車体番号が、山崎さんの写真では「神401」であることがはっきり確認できます。「その3」で確認した通り、「401」号車は小田原電気鉄道の所属であることがわかります。後続車両の車体番号は前に立っている人物に隠れて見えていませんが、恐らくは同じ小田原電気鉄道の車両であろうと思われます。この車両は「神奈川県自動車案内」が示すところによれば「幌」付きの車両ですが、やはり「ハレ」の場に繰り出す目的で飾り付けた車両であるだけに、幌は折り畳まれたままになっています。


現在の松原神社前の様子(ストリートビュー
「デジタルコレクション」の写真では後背の柵は一部しか見えていませんでしたが、山崎さんの写真では柵は右端まで続いており、これが神社の「玉垣」であることが見て取れます。青物町の神社としては鎮守である「松原神社」が筆頭に上がり、現在の玉垣は更新されているものの、境内の雰囲気は写真と共通するものを感じます。この写真のキャプションには「東海新報社前」と添えられていることから、同社はこの鳥居前か、少なくともこの周辺至近にあったことになります。

「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)奥付・山崎朗様御提供
また、山崎さんの所有する「写真帖」には奥付が残っており、右の通り「東海新報社」が編集発行を手掛けたことが確認できます。「発行兼編集印刷人」の「神保國夫」は「新聞總覽 大正拾壹年版」では「主筆兼編集長」に名が見えていますが、社長で政友会党員としても活動していたという「神保 眞明」との続柄は確認できませんでした。

印刷納本の日付は「大正九年十二月二十五日」とあり、10月21日から3日間催された祝賀会からは2ヶ月ほどで発行に漕ぎ着けたことになります。元々新聞という速成を求められる編集部を営んでいることから、この様な出版物でも早期に仕上げる能力は十分持っていたのでしょうが、祝賀会からあまり時間を置かずに当日の熱気を伝えたいと考えて発行を急いだのかも知れません。

「デジタルコレクション」に収められたスキャン画像は、特に最初期のものはモノクロ2値の荒いものが多く含まれています。現時点ではまだ「デジタルコレクション」に収録する蔵書の比率を上げる方を優先しているものと思われますが、一巡したところで初期のスキャン画像をより鮮明なものに差し替える必要があると思います。グレースケールで撮影されたスキャン画像はその点ではモノクロ2値のものほどの不鮮明さを感じていませんでしたが、写真を含んでいるものでは細部が潰れるなど原本に劣る品質になっているものがあるという課題を残していることを今回認識しました。これらについても後日より鮮明な画像と差し替えられて欲しいと思うと同時に、やはり必要に応じて原本に当たらないといけないという戒めを痛感した次第です。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

記事タイトルとURLをコピーする

「今昔マップ on the web」の「迅速測図」表示部分の切り替えを完了しました

4月末に、「今昔マップ on the web」で表示できなくなった「迅速測図」を「歴史的農業環境閲覧システム」に切り替える作業を始める旨アナウンスしました。それから4ヶ月余りが経ちましたが、ひとまず該当箇所の切り替え作業は完了しました。

今回を機に、「歴史的農業環境閲覧システム」は「比較地図」を使用する様に改めました。「地理院地図」の該当箇所が右側に表示されることで、該当箇所との照合が容易になったと思います。

場合によっては今後「今昔マップ on the web」上で再び「迅速測図」が表示される様になるかも知れませんが、その場合でもここまでの分については原則的に「歴史的農業環境閲覧システム」を表示させる形を維持する予定です。

一方、今回の切り替え作業の過程でも、リンク先のリニューアルや移転・廃止によってリンク切れを起こしている箇所が多数見つかりました。こちらについては都度リンクを張り替えるなどの対応を執りましたが、飽くまでも「今昔マップ on the web」を使用している記事のみを対象としている関係で、今回の対象とならなかった記事にまだリンク切れ箇所が存在するものと思います。こちらについては引き続き確認・修正作業を行いますが、かなり時間がかかる見込みです。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

記事タイトルとURLをコピーする

「大日本軌道小田原支社」の自動車事業と「江之島自動車」

「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)41コマより「小田原熱海間輕便鉄道」
「写真帖」41コマ
前回の終わりに、大正9年(1920年)10月21日に開業した熱海線(現:東海道本線)の国府津〜小田原間開業の祝賀会の様子を収めた「鉄道開通記念写真帖」(東海新報社、以下「写真帖」)に、小田原電気鉄道の他にもう1社、延伸の影響を受ける事業者が広告を出していたことを示唆しました。右の広告がそれで、ここでは「小田原熱海間輕便鉄道」と表していますが、正確には当時は「大日本軌道小田原支社」となっていました。

実は富士屋自働車や小田原電気鉄道の保有車両を各資料から洗い出す作業をしている過程で、この会社も一時期車両を保有していたことを示す記録が見つかり、その動向についても調べてみる必要を感じました。今回は、この「大日本軌道小田原支社」の自動車事業と、保有していた自動車の動きを追ってみたいと思います。


事業者車体番号「神奈川県ト自動車」
(曽我紋蔵 著 横浜自動車協会、
以下「県ト車」)
大正8年11月30日現在
「神奈川縣自動車案内」
(現代之車社編集発行、
以下「県案内」)
大正10年6月1日現在
「全国自動車所有者名簿」
(帝國自動車保護協會、
以下「―名簿」)
大正12年1月10日印刷
大日本軌道株式會社(小田原支社)371江の島自動車株式會社江之島自動車株式會社
372江の島自動車株式會社江之島自動車株式會社
373江の島自動車株式會社江之島自動車株式會社
498江の島自動車株式會社江之島自動車株式會社
  • 社名の括弧は誤植等による表記ブレのある箇所を示す。他、住所にも誤植は散見される。
  • 各車体番号の掲載箇所へのリンクは以下の通り。

「交通及産業大鑑」(大正3年)44コマから大日本軌道小田原支社広告部分
交通及産業大鑑」(大正3年)から
大日本軌道小田原支社広告
この「大日本軌道小田原支社」は当時、右図の広告の様に小田原〜熱海間の軽便鉄道を経営していました。明治29年(1896年)に熱海〜小田原間での運行を開始した「人車鉄道」が前身ですが、機関車を導入して軽便鉄道化した後、明治41年(1901年)に「大日本軌道」の設立に参加して同社の子会社化していました。もっとも、当初の人車鉄道を設立した雨宮敬次郎が「大日本軌道」の設立を主導していますので、軽便鉄道化した後の経営不振の打開策の一環として、同業者を結集することによるメリットを追求しようと考えたのでしょう。

「大日本軌道」は小田原〜熱海間の他、福島・静岡・浜松・伊勢・広島・山口・熊本に支社を持ち、更に機関車や部品製造を行う鉄工部を有していました。この鉄工部も元は雨宮敬次郎が設立した「雨宮鉄工場」が端緒にあり、全国各地で鉄道敷設の機運が高まる中、その多大な初期投資を少しでも圧縮するべく、機関車をはじめとする車両やその部品等を共通化することが狙いにあった様です。

ただ、敬次郎亡き後は大正7〜9年(1918〜20年)にこれらの保有路線を他の会社に譲渡し、最後に小田原支社の保有路線を当時熱海線(現:JR東海道本線小田原〜熱海間)の建設に動いていた国に売却した上で解散しています。小田原支社の路線の方は、熱海線の完成までの「繋ぎ」として「熱海軌道組合」を再結成して、路線等の施設を貸し付けられて運行を継続していましたが、熱海線完成直前に大正12年(1923年)の関東大震災の直撃によって残存路線も大きく損壊したために、復旧されることなく廃止されています。

この路線を運行していた小田原支社が、自動車事業も行っていたことを示す痕跡が「県ト車」上に出てきたことになるのですが、「大日本軌道」の縮小・解散に向けての動きもあってか、次の「県案内」以降では既に「江之(の)島自動車株式會社」に移されています。

この自動車事業については、まず大正7年7月頃の「官報」に相次いで会社の「目的」の変更の登記が公示されています。

●大日本軌道株式會社變更事項

目的 各地ニ軌道鐵道を敷設シ運輸ノ業ヲ營ミ副業トシテ鐵道軌道用機關車車輛其他諸器機自動車ノ製作販賣自動車運輸賃貸業ヲ爲ス

右大正七年六月十八日登記

小田原區裁判所

(「官報 大正7年7月24日」附録4ページ上段、同様の登記は各支社毎に行われており、浜松静岡広島安濃津(伊勢)熊本でも同様の登記が見られる)


続いて、「自動車 第一卷第三號※」(大正7年9月 帝国自動車保護協会)が

●神奈川縣大日本軌道會社は今回乘合自動車數臺を新調し小田原を中心として熱海、國府津、箱根、大磯其他各方面旅客の便に供することゝし七月二十六日より開業せり。

(60ページ上段「地方自動車界片々」欄)

と同年7月に乗合自動車業(バス)を開業したことを伝えています。「県ト車」に掲載された4台のうち、少なくとも一部は貸自動車用ではなくより大型の乗合自動車用であったことになりますが、4台全部が乗合用だったとしても、この台数だけでここに書かれている広域を運行するのに充分だったのかは疑問も残ります。


また、132ページには「營業者一覽」として「大日本軌道株式會社 小田原支社 雨宮豐次郎 足柄下郡小田原町 二四(電話番号)」と代表者の名前が記されていますが、豊次郎は親会社の創業者敬次郎の養子に当たる人物です。

更に、「県ト車」には
と全部で4名の運転手の氏名が記されていますが、導入した自動車の台数と同人数ということは、交代要員を全く置かずに運営していたことになります。小田原支社の自動車事業の余裕の無さが窺える体制ではありますが、この会社の具体的な営業実績を窺い知ることが出来る資料は出て来ませんでしたので、この体制が充分なものと言えたかどうかは今のところ何とも判断出来ません。

一方、「自動車 第一卷第四號※」(大正7年・1918年10月 同上)では

●大日本軌道株式會社靜岡支社經營に係る自動車は去月中旬より運轉開始の筈なりし處、今回車庫も竣成し久能淸水江尻等の停留所準備出來し、且つ東京本社にても兩三日中には車體發送の手續を完了すべさ田(ママ)なるを以て本月二十日頃よりは全區間に亘る運轉を開始するに至るべしと

(59ページ中段「地方自動車界片々」欄)

と、静岡でも自動車事業を開始すべく準備を進めていることを伝えています。「停留所」という表記が見えることから、これも乗合自動車であったことが窺えます。

こうした動きからは、「大日本軌道」の支社の中には、将来の路線廃止などを見越して自動車事業に活路を見出そうとした所もあったことが窺えます。

しかし、既に大正10年の「県案内」で4台の車両が全て他社へ移籍していることから見て、少なくとも小田原支社の自動車事業は思う様な業績を上げることが出来なかったと見られます(静岡支社の自動車事業の業績については未確認です)。何しろその頃には既に富士屋自働車や小田原電気鉄道の自動車事業が大きく先行し、その煽りで松本安太郎の自動車事業の方は廃業する展開となっていました。先行する事業者の中にさえ廃業に追い込まれる所が出る程に激しい競争が発生していた地域で、後発の事業者が小さな規模で参入して来たところで、勝算に乏しかったのは止むを得ないところだったでしょう。

以前の記事で見てきた様に、大正8年には熱海線建設による廃線に対する補償が法整備によって現実のものとなったこともあって、自動車事業を畳んで会社を解散させる方向へと舵を切った様です。

冒頭の「写真帖」の広告にも、同社の自動車事業の様子を写した写真は含まれていません。大正9年10月の時点で引き続き自動車事業が続けられていたのであれば、この広告にも保有車両などの写真を掲載してもおかしくありませんが、全く触れられていないことから見ると、あるいはこの時点で既に自動車事業から撤退済みだったのかも知れません。もっとも、「県ト車」や「県案内」から窺い知れる自動車の移転事情を見るだけでも、同社の自動車事業は、極めて短命に終わったことには変わりありません。

「県ト車」に掲載された4名の運転手のうち、杉崎怡三郞は富士屋自働車へ移籍したことが確認できますが、残りの3人は「県案内」に出て来ないことから、運転手を廃業したか、神奈川県を離れた可能性が高いと思われます。



「大日本軌道小田原支社」が保有していた車両が移籍した「江之島自動車」についても、その経緯を見てみましょう。


「デジタルコレクション」に収められている資料で最初に「江の島自動車」についての記事を掲げているのは、次の「自動車 第二卷第六號」(大正8年・1919年6月)でしょう。

□相洲江の島惠比濤屋(ママ)永野平󠄁治郞金龜樓福島松五郎其他發起人となり資本金五萬圓を以て江の島自動車株式會社を設立することゝなり目下設立認可申請󠄁中なるが營業區域は江の島藤澤及鎌倉間の乘合運轉及貸切運轉及貸切運轉(ママ:重複か)をなすべしと。

(52ページ上段)


恵比寿屋」も「金亀楼」(1990年代に廃業:跡地は「花の広場」となっている、リンク先は「今昔マップ on the web」)も、江の島の参拝者のための宿坊に起源を持つ宿です。それらの宿の経営者が集まって、江の島へ観光客を運ぶ自動車事業を始めようという訳です。

程なく官報に「江之島自動車」の商号が登記されました。

●商號 江之島自動車株式會社

本店

高座郡藤澤町藤澤三百九十三番地

目的

藤澤ヲ中心トシ 一般交通ノ便ニ供スル自動車ノ賃貸及ヒ之ニ伴フ機械器具ノ賣買

一設立年月日

大正八年六月二十八日

一資本總額

金一万五千圓

一一株金額

金二十圓

一各株拂込株金額

金二十圓

一公告方法

所轄登記所ノ公告スル横濱貿易新報

一取締役

高座郡藤澤町藤澤二千三十三番地

石井彌三郎

 

鎌倉郡川口村江之島十八番地

福島松五郎

 

高座郡藤澤町大鋸三百七番地

平󠄁野 熊藏

 

同郡同町鵠沼六千六百四十二番地

福田 良平󠄁

 

同郡同町藤澤五百二十番地

景安 三郎

一監査役

同郡同町鵠沼六千六百四十二番地

後藤 榮

 

鎌倉郡村岡村渡内五百六十六番地

福原亀次郎

一存立時期

設立ノ日ヨリ滿二十箇年

右大正八年七月四日登記

横濱區裁判所藤澤出張所

(「官報 大正八年八月二十五日」附録1ページ上段)


江の島から同社の役員に入ったのは金亀楼の福島松五郎だけですが、それ以外の役員も全員藤沢界隈の名士で固められました。筆頭に収まった石井彌三郎については「自治団体之沿革 : 神奈川県名誉録※」(篠田皇民 著 昭和2年 東京人事調査所)によれば高座郡六会村大字西俣(現:藤沢市西俣野)の出身で、明治42年に藤沢町に移り住みながら耕地整理組合など主に農業に関する事業で要職を歴任してきた様です。また、監査役の渡内の福原亀次郎は、「相中留恩記略」を編纂した福原高峯の子孫に当たります。

江ノ島電気鉄道、通称「江ノ電」が開業したのが明治35年(1902年)ですから、既に17年が経過し、藤沢から江の島へ、更に鎌倉への足として定着していました。江ノ電の現在の「江の島駅」は当時は「片瀬駅」と称しており、江の島までは1.2kmほど歩かなければなりません。とは言え、片瀬の浜から江の島までは当時は木製の桟橋が掛けられていたものの、自動車が渡れる様な丈夫なものではありませんでしたから、自動車で乗り付けられるのは対岸の片瀬の浜までしかありませんでした。そうなると、藤沢〜片瀬間の乗合自動車路線はほぼ全区間で「江ノ電」と競合することになります。起業に携わった人々がこの路線の何処に利点を見出そうとしていたのか、少なからず疑問も感じます。

実際、「自動車」誌の記事では資本金「五萬圓」とされていたのに、登記時には「一万五千圓」と大幅に減額されているのが気になります。次の「官報」に見える通り、同社は翌年の末には早くも増資を行っていることからも、会社登記までに当初の目標金額を集めることが出来なかった可能性が考えられます。

●江之島自動車株式會社追加及變更事項

一增加資本總額

金五萬圓

一資本增加決議ノ年月日

大正九年十二月十二日

一各新株拂込株金額

金十二圓五十錢

一取締役及監査役補缺選任

取締役

高座郡藤澤町鵠沼六千六百四十二番地

長谷川欽一

 

鎌倉郡村岡村渡内五百六十六番地

福原亀次郎

監査役

高座郡六會村西俣野九百六十八番地

飯田傳之輔

 

同郡藤澤町藤澤七百九十五番地

堀内  良

右大正十年六月九日登記

横濱區裁判所藤澤出張所

(「官報 大正十年八月八日」34ページ1〜2段目)



資本金が当初の見込みから大きく減額しているにも拘わらず開業に踏み切ったのは、折から「大日本軌道小田原支社」が保有車両を売却しようとしていることを察知して、当初はこれで賄うことが可能と判断してのことだったのかも知れません。もしそうであるとすると、「大日本軌道小田原支社」が自動車を手放したのが大正8年の夏頃だったことになり、同社の自動車事業の廃業が上記の熱海線開業時点より更に1年ほど早かったことになります。

ただ、「―名簿」でも「江之島自動車」の保有車両は上記表の4台のみで、少なくとも大正12年までの間に開業当初からの車両数の増減があった痕跡は見当たりません。大正10年の増資は開業当初に目標とした額に引き上げるだけの目的であった可能性もあるものの、「江之島自動車」の営業実態がわかる資料も「デジタルコレクション」では見つけられなかったため、この増資の目的が何だったのか、今のところその事情を窺い知ることは出来ません。

「県案内」に記載されている「江の島自動車」在籍の運転手は
の3名です。この体制ですと保有車両を1台常に余らせることになり、修理や整備目的で運用から外れる分があることを考慮しても、運用効率の点では課題のある体制だったことになります。別の時期の同種の資料がありませんので、何時頃までこの様な不十分な体制を続けていたかは不明ですが、少なくとも開業当初は充分な体制を組めないまま営業を続けていた可能性が高そうです。

「県案内」の206ページには

江ノ島自動車株式會社 石井彌三郎 藤澤町藤澤三九三 藤澤 二三(電話番号) 藤澤驛前、臺間/乘合及賃貸

とあり、乗合自動車、賃貸自動車双方とも事業内容に入っている点は「自動車」誌の記事と合致します。「県案内」の238ページには

藤澤町内乘合自動車

◆駐車塲、驛前、大正橋・大鋸橋、國府屋旅舘前、臺ノ四區間

◆乘車賃金一區每ニ十錢ヅヽ

◆驛前自動車業、江の島自動車

という記述が見え、「臺」が藤沢の「台町」(リンク先は「今昔マップ on the web」)に当たることから、この乗合自動車を運営していたのが「江之島自動車」であったことが確認できます。しかし、同社の乗合自動車について「県案内」に見えるのはこれだけで、この情報に過不足がないのであれば、少なくとも当初は藤沢駅前とかつての藤沢宿の区間を往復する程度の短い路線の営業でスタートしたことになります。

乗合自動車の路線に関する情報など、同社の具体的な営業実態が窺える当時の資料は今のところ「県案内」のみで、「自動車」誌にあった「江の島藤澤及鎌倉間の乘合運轉」を行っていたことを裏付ける資料は「デジタルコレクション」上では今のところ見つかっていません。

「藤沢市史年表」(1981年 藤沢市)の309ページ※には、大正8年7月1日に「藤沢―片瀬間の乗合自動車(江之島自動車)運転開始」とあるものの、現時点ではこの路線の営業を裏付ける資料が見つからない上に、2年後の「県案内」に該当する路線に関して記述されていない点について、どの様に解釈すべきか判断が難しいところです。双方の資料とも正であるとすると、「江之島自動車」は開業早々に藤沢―片瀬間の乗合自動車の運転を開始したものの、「県案内」が編集される前に廃止したことになり、2年ともたなかったことになります。そうではなく藤沢―片瀬間の運行はその後も続いていたものの「県案内」に不掲載になっただけだとすると、同社の経営に参加していた「金龜樓」が別途広告を出稿するなど、「県案内」の編集中から情報を提供していたと見られる「江之島自動車」の情報がどうして一部不掲載になったのかが問題になります。

また、「藤沢市史資料 第38集」(1994年 藤沢市教育委員会)所収の「藤沢町勢要覧」(大正11年・1922年 藤沢町)には

自動車

経営者名車輌数一ヶ年収入高開始年月日
江ノ島自動車株式会社一二、〇〇〇、〇〇〇(ママ)大正八年七月一日
自動車数自転車数人力車数荷馬車数荷車数
七四二八〇一四七一、二六五

上記書32ページ※、横幅の都合上2つの表に分割)

という表が掲載されています。1つの表にまとめられていますが、前4列が「江ノ島自動車」に関する項目、残り5列が藤沢町の統計という位置付けかと思われます。「開始年月日」が登記上の「設立年月日」の「大正八年六月二十八日」とは噛み合いませんが、実質的な営業開始日を指している様です。問題なのは「車両数」が「3」となっていることで、「県案内」や「―名簿」で確認出来る4両と合わない上に、藤沢町の当時の車両数が「4」というのは、当時既に「美栄堂自動車」があったことなどを考えると、この両数ではなかったと考えられ、どの様な集計を行ったものか疑問を感じます。ただ、「一ヶ年収入高」に「12,000.000」円(当時の物価等から考えて、小数点を「、」と誤植したものと考えられる)とあるのは、運転手3人という小規模な体制であったことを考えれば、そこまで悪くない営業実績であったと見られます。


「江之島自動車」の経営環境としては、同時期に「片瀬自動車商会」も営業を開始しており、乗客を巡って競合する事業者は少なくなかったと見られます。しかし、「藤沢市史資料 第25集:藤沢震災誌※」(1981年 服部清道 編 藤沢市教育委員会)に掲載された関東大震災の犠牲者の追悼碑(「嗚呼九月一日」)には、背面に刻まれた賛助員の一覧の中に「江島自動車会社」の名が見えています。昭和4年9月付の「金砂山観音堂」(リンク先はGoogleマップ)の境内に建立されたこの碑にこうして名前が刻まれていることから、同社はそれなりに安定した経営を続けることが出来ていたものと考えられます。「自動車関係者大鑑 昭和5年※」(福島鉚太郎 編 自動車日日新聞社)では、「神奈川縣自動車協會」(昭和4年5月調べ)の「藤澤支部」に「評議員」として「江島自動車株式會社」の「福田良平」が参加しており、これも同社が藤沢地区で相応の地歩を確保していたことの裏付けになります。

同社が存続していたのは昭和6年(1931年)7月17日までで、この日同社は「藤澤自動車株式會社」に合併して解散しました。

●江之島自動車株式會社解散

一高座郡藤澤町藤澤四二五番地ノ一 藤澤自動車ヘ合併シタルニ因リ 昭和六年七年十七日解散ス

●藤澤自動車株式會社合併

一高座郡藤澤町藤澤三九三番地江之島自動車株式會社ヲ 合併シタルニ因リ左ノ登記ヲ爲ス

合併ニ因リ增加シタル 資本總額 金三万五千圓

合併決議ノ年月日 昭和六年三月五日

合併ニ因リ各新株 ニ付拂込ミタル株金額 金二十圓

右昭和六年七月十八日登記

横濱區裁判所藤澤出張所

(「官報 昭和六年九月二十三日」16ページ最下段)


この「藤沢自動車」については、以前の記事で「美栄堂自動車」について紹介した際にも触れた通り、第二次大戦中のバス事業統合によって昭和19年(1944年)に「東海道乗合自動車」に統合され、現在の「神奈川中央交通」へと繋がっていきます。「神奈川中央交通」は他にも多数の会社を合併して現在に至っていますが、「江之島自動車」もその様な「神奈川中央交通」の前身に当たる会社の1つだったことになります。

「現在の藤沢」(昭和8年・1933年 加藤徳右衛門 著、後年「藤沢郷土誌※」として復刻)には、

元江之島自動車株式會社日の出町車庫の樓上、同社の事務所應接間に掲げられたる扁額は明治維新の際太政官より各村落に普く掲示されたる制札の一にして重役たる福原龜次郎氏が自家に傳えられたるものを寄贈されたるものとか用材は松の分厚の板である

722ページ※)

とあり、藤沢自動車への合併後も江之島自動車時代から伝えられるものがしばらく残っていた様です。

「大日本軌道 小田原支社」から引き継いだ「江之島自動車」の4両の自動車が、移籍先で何時まで走り続けていたのかは定かではありません。が、大正時代に入って各地で興り出した自動車事業が短時間で再編されていく中で、思わぬ形で離れた地域の事業に繋がりが生まれた一例と言えるでしょう。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

記事タイトルとURLをコピーする

大正時代の小田原・箱根地域の自動車事業にまつわるエピソード続き

前回の続きで、 大正元年(1912年)から12年(1923年)までの小田原・箱根地域で自動車事業について調べてきた過程で、ここまでの話に収まらなかったエピソードをもう2点紹介したいと思います。




前回自動車事故の記事を2点紹介しましたが、事故への懸念はあるものの、自動車導入そのものを阻止しようというものではありませんでした。一方、それとは別の視点で、箱根の山中を走り始めた自動車について、こういう否定的な視線を向ける記述を見つけました。

凡そ箱根は其の山川・草木・溫泉・交通の設備、冬の雪景、春の新綠、夏の水、秋の草花等四時よく吾人を誘ふに足る。但し最近自働車が怪音、塵埃を蹴だて狹き屈曲多き山路を我物顏に走り行く、蓋し山神の怒を招くなからずや。(坪田)

(「箱根植物」大正2年・1913年  神奈川県植物調査会 編 三省堂書店 117ページ)


「(坪田)」とあるのは編者の「神奈川県植物調査会」のひとりで神奈川県立横須賀中学校(現:県立横須賀高等学校)教諭の「坪田元福」であることが「凡例」で確認できます。「緒言」に従えば、「神奈川県植物調査会」は明治45年4月に結成され、県内各地での標本採集を進めて大正元年に「常緑樹目録予報」を上梓したとしています(「国立国会図書館サーチ」では該当書は見つかりませんでした)。「箱根植物」はそれに続く同会の出版物であったという位置付けになる様です。


同書中で自動車のことを記しているのはこの箇所のみです。大正2年は松本安太郎や小田原電気鉄道が自動車事業を創業した翌年に当たりますから、ちょうど箱根の山中で自動車を見かける機会が増大した時期に調査に入ったことになり、その分「箱根植物」調査会のメンバーが山中で見掛けた自動車の真新しさが一層強く印象付けられることになったのでしょう。

まだ十分な検索を尽くしたとは言えない段階ですが、こうした箱根の自動車事業に対する自然環境への負荷を懸念する意見は、「デジタルコレクション」上で確認できる範囲では、大正年間の出版物上で他の事例を見つけることは出来ませんでした。

箱根を含む一帯が国立公園の指定を受けるのはもう少し時代が下った昭和6年(1931年)ですが、そこまでの経緯を簡単に追ってみます。

昭和5年(1930年)、内務省が「國立公園候補地調査概要」という資料を作成しています。この資料中では候補地全17箇所について調査検討を行ったことが報告されていますが、その中では以下の様に「富士国立公園候補地」には箱根は含まれておらず、関連地域として別の取り扱いとすることが提言されています。なお、調査は昭和3年度に完了したことが「緒言」に記されていますが、候補地の妥当性の評価については出版までの何時頃の状況が反映されているのかは不明です。

富士國立公園候補地

二、公園區域 本區域ハ富士山麓ノ裾野以上及山梨縣ニ屬スル山中、河口、西湖、精進及本栖ノ五湖ヲ包括シ北方ハ御阪峠、十二ヶ岳、節󠄁刀ヶ岳、女坂、西方ハ龍ヶ岳、南方ハ十里木道ニ限ラレタル約七萬七千町歩ノ區域ヲ適當トシ土地ノ所有關係ニ於テモ富士山ノ北半ハ山梨縣有大部分ヲ占メ、南半ハ殆ド御料地ニシテ、又山麓モ槪シテ公有地ヲ主トシ、約七萬七千町歩ノ大區域ヲ一團地トナスニ適ス。箱根ハ本公園飛地又ハ別個ノ公園トシテ取扱フヲ至當トス。

三、國立公園トシテノ素質 …附近ニ箱根、伊豆、沼津海岸、身延、昇仙峡等ノ風景地アリ、共ニ本公園計畫ニ關連シテ施設スベキモノトス。

(27〜28ページ)


その間、地元の箱根では昭和4年から国立公園誘致の動きが活発になっていたことが、内務省衛生局内に設置された「国立公園協会」の機関誌「国立公園」の記事で報告されています。

富士國立公園と密接なる關係を有する大箱根地方でも、豫て大箱根一帶を確實にその計畫區域に編入せられんことを希望してゐたが、今回更めて内務省より田村、中越兩嘱託の出張を乞ひ、實地の踏査を乞ふて、大いに國立公園運動に參加する決意を見せてゐる。先づ計畫を立案して將來の大方針を樹立すると共に、地方の保勝會溫泉組合等は着々とその實現に猛進しようとしてゐる。支部の設置はもとよりのこと、國立公園展覽會出品に對しは、極力努力して他の二縣を壓倒せん勢ひである。

(「國立公園 [第一卷]第五號※」昭和4年・1929年7月 23ページ上段)


そして、昭和5年1月に「大箱根国立公園協会」が設立されています。

神奈川縣に大箱根國立公園協會(支部)設置さる

大箱根國立公園協會設置に關しては、一昨年來地元有志の熱心なる希望あり、在來箱根に置かれたる保勝會をも併合して、其の設立を急ぎたりしが、昭和五年一月二十一日地元發起人一同出縣し、山縣知事、田邊土木部長に面接したる處、山縣知事も外人招致策と相俟つて大に其意に賛し、會長たることを承諾されたので、發起人一同は直に參事會室に於て、發起人會を開き、縣廳側よりも丸山都市計畫課長、太田嘱託等出席し、規約並に會員募集等の具體的相談を終り、茲に目出度く產声を擧げたのである。

今後は内務省の國立公園協會の指導の下に、愈々國立公園の實現に直進するの臍を固めた譯である。

而して目下役員の方々に其の快諾を待つてゐる次第であるが、全部承諾の上は次に續報する。

發起人(アイウエオ順)

  • 箱根組合町村長 安藤好之助
  • 仙石原村長 石村喜作
  • 箱根振興會理事 石村幸作
  • 箱根振興會長 小川仙二
  • 溫泉村長 折橋大光
  • 箱根遊船會社 大場企太郎
  • 箱根溫泉協會 川邊儀三郎
  • 宮城野村長 勝俣富士太郎
  • 富士屋自動車會社 志澤忠俊
  • 湯ヶ原溫泉旅館組合 高杉忠次郎
  • 箱根登山鐵道會社 丸井亞彥
  • 眞鶴村長 松本赳
  • 湯本町役場 松島作和治
  • 八龜倉藏

(「國立公園 第二卷第二號※」20ページ上〜中段)


発起人には現地の町村長や担当者、あるいは富士屋自働車や、小田原電気鉄道から改名した箱根登山鉄道をはじめとする、現地の観光業に携わる企業や組合の首脳が並んでいます。こうした動向が国立公園候補地の選定作業にどの様に影響したのかはもう少し他の資料で裏付ける必要がありますが、地元の「声の大きさ」がある程度勘案されていた可能性は少なくないと見られます。その一方で、箱根地域で自然調査を行う専門家の団体はまだ含まれていませんでした。

また、同誌の翌月号に掲載された「箱根山」(辻村太郎)という記事では、その締め括りに

湯本まで通つて居た鐵道馬車が電車となり、人力車が箱根の交通機關であつた時代から熱海線登山電車の開通に伴つて自動車道が發達しやうとして居る現代までの三十年を回顧して見ると、計劃的に行はれた設備が著しく自然を害つた例は餘り多く無いやうに思はれる。其れ故に國立公園時代の狀態に對しては充分に樂觀しても宜いのであるが、然し事の成否は遊覽者並びに營業者の敎養と組織に據る所が決して少ないのである。

(「國立公園 第二卷第三號※」13ページ下段)

と記されています。著者は小田原の出身で、日本の地理学の大家となる人物ですが、観光開発に伴う箱根山中の自然環境への影響については楽観的に見ていたことがわかります。

日本の国立公園設立の経緯と自然保護についての考え方について、きちんと掘り下げるには更に資料を紐解く必要がありますが、これらの経緯を見るだけでも、当時はまだ景勝地の観光開発という側面が強く、また自然保護と観光資源開発が未分化に捉えられていた傾向が強く見て取れます。

無論、当時はまだ地域の植生調査も黎明期と言うべき時期であり、「箱根植物」自体その端緒に編まれた著作だったことを考えれば、開発の影響を観察結果から見極めるにはまだ時期尚早だったということになるでしょう。実際、「箱根植物」も後の植物誌の構成と比較すると、章立てに「七 箱根の樹木とその利用」「八 箱根細工と木材」「九 箱根の物産」といった、植物の利用方法を前面に立てた構成になっている点が異なります。坪田の発言も、自動車の騒音や粉塵を不快に感じたという、飽くまでも感覚的なものに留まっています。



大正8年(1919年)6月に小田原電気鉄道の延伸区間が開業して1年4か月あまり後の大正9年10月21日、現在の東海道本線に当たる熱海線の国府津〜小田原間が開業します。

「デジタルコレクション」には、開業当日から3日間小田原で催された祝賀会の様子を収めた「鉄道開通記念写真帖」(以下「写真帖」)という写真集が収められています。

残念ながら「デジタルコレクション」に収められている該当書は69コマ目までとなっており、以降のページが落丁してしまっています。このため、最終ページに奥付が存在したか否かを国立国会図書館の蔵書で確認することが出来ないことから、この記事を書いている時点では、「デジタルコレクション」の書誌情報では表紙などから著作者と出版者を共に「小田原町祝賀会」と判定しています。

しかし、「デジタルコレクション」上で「鉄道開通記念写真帖」をキーに全文検索を試みると、「神奈川県主要図書館蔵書綜合目録 第1編 (郷土資料篇)※」(1950年 神奈川県教育委員会・神奈川県図書館協会 共編)という資料がヒットします。その74ページでは該当書は「東海新報社編」となっており、同書を小田原の図書館が蔵書していることを示しています。実際、同書は現在も「小田原市立図書館」に蔵書があります。この記事ではこの小田原市立図書館の現在の書誌情報に従い、著作者・出版社を「東海新報社」として扱います。


44コマ目の「祝賀會槪况」に、この祝賀会が小田原町を挙げて催されたこと、しかし開業当日は生憎の雨天であったことが記されています。

大正九年十月二十一日熱海線國府津小田原驛間鐵道開通當日及二十二、二十三日の三日間小田原町は左記諸君を委員に擧げ町長今井廣之助君委員長として盛大なる祝賀會を擧行したり生憎二十一日擧式の當日は朝來雨天なりしが 我社は我か町空前の盛况を記念すべく寫眞班を雨中に活動せしめて之をレ(ママ)ズに收むること槪ね遺憾なきを得たり夜前の秋雨名殘りなく霽れたる二十二、三の兩日は此の空前の賑ひを見物せん爲め小田原停車塲に昇降する者實に數萬を數へ其の他四方より蝟集したる群衆は蓋し數十萬にも達して全町人波に掩はるゝの賑ひを見たり本社寫眞班は引續き三日間に亘りて各町の餘興裝飾雜踏等を撮影し永く當日の壯觀を紙上に彷彿するを得たるもの即ち此寫眞帖にして眞に唯一絕好の記念たるを信ず


「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)4コマより「開通祝賀当日の小田原停車場全景」
「開通祝賀當日の小田原停車塲全景」
「写真帖」4コマ
実際、「写真帖」に収められた写真では、傘を掲げた人物が写っているものがかなりの数含まれています。右の開業当日の小田原駅前を撮影したという写真でも、新しい駅舎の前に傘をさした人物が数名写っています。

当日の様子については「横浜貿易新報」(現:神奈川新聞)の翌日5面の上半分ほどの紙面を割いて大きく報じていますが、その見出しでも

歡聲(くわんせい)(あめ)(とも)(しげ)

小田原(おだはら)(えき)開通(かいつう)祝賀會(しゆくがくわい)

鐵相(てつしやう)以下(いか)()來賓(らいひん)(まへ)

今井(いまゐ)町長(ちやうちや)(くち)(ほとばし)(よろこ)びと

(ぜん)町民(ちやうみん)(こぞ)熱誠(ねつせい)發露(はつろ)

と、雨天の中で祝賀会が催行されたことを伝えています。


もっとも、この記事中の「◇雜歡(ざつくわん)」というコラムでは、小田原駅前の広場が折からの雨でかなり酷い状態になっていたことを伝えています。

小田原(おだはら)新驛(しんえき)前通(まへとお)りは路幅(みちはば)(ひろ)くしたての(やはら)かな地面(じめん)(かた)める()め一(めん)(でか)(いし)()()めたので(くつ)でさへ(ある)(にく)い、開通式(かいつうしき)()折柄(おりから)前夜(ぜんや)からの豪雨(がうう)()(いし)(した)から(つち)がはみ()した、其處(そこ)自働車(じどうしや)(おも)(からだ)(はこ)ぶんだから(たま)らない、停車塲(ていしやじやう)(まへ)綠門(アーチ)眞下(ました)などウツカリ()()まうものなら(すね)(ぼつ)するの泥田(どろた)(やう)になつて(しま)つた

(この)河原(かはら)(やう)(いし)コロ(みち)高下駄(たかげた)穿()きで(ある)人々(ひと/\)困難(こんなん)()(どく)であつた、屈强(くつきやう)男子(だんし)(れい)泥土(でいど)(はま)つて片足(かたあし)(どろ)ダラケにして(はだ)しの(まゝ)鼻緒(はなを)()れた下駄(げた)をブラ()げて()るのに二人(ふたり)ばかり()つた、自働車(じどうしや)車輪(しやりん)心棒(しんぼう)(へん)(まで)()めて大騒(おおさわ)ぎを(ゑん)じたと()ふし、電車(でんしや)停車塲(ていしやじやう)(まへ)初脫線(はつだつせん)をやつたと()(なに)しろあの(いし)土中(どちう)にメリ()まぬ(うち)は、當分(たうぶん)(ある)くのが難澁(なんぢう)であろう

(印字不明瞭な箇所が多く、推定で補った箇所がルビを中心に多々あります)


開業当日の小田原駅前の写真でも、新たに駅前広場が整備された様子が確認できますが、開業当日は折からの雨で一面の泥になってしまい、人も車も泥に嵌って大いに難儀する事態になってしまった、という訳です。写真手前にやや明るく写っているのは、その点を勘案すると広場に出来た水たまりか流水でしょう。記事中の他の箇所では、模擬店の客が泥に足を取られて買ったおでんを落としそうになっている様子なども書かれており、横浜貿易新報の記者には祝賀会に訪れた人々の混乱振りが余程強く印象付けられたものの様です。

一応石畳敷きにして対策は施していたものの、軟弱な地面に直接敷いたためか全く機能していなかった様で、この様な広場を交通の結節点とするためにはどの様に整備すべきかというノウハウが、まだ小田原には乏しかったということになるのでしょう。酒匂橋の橋面がアスファルト舗装されたのは、熱海線開業の3年後の大正12年でしたが、それが一般道路に普通に用いられる様になるのは、戦後かなり経ってからのことです。

「写真帖」には「5コマ」の「停車場前アーチのイルミ(ネ)ーション」(ほぼ漆黒で委細不明)や「44コマ」の「祝賀會當夜ういらう本店の電飾」の様に、夜間の電飾の様子も収められています。この点は前回紹介した通り、強羅地区などで街灯が基本的な照明以上の目的で利用される様になった点と通じるものがあり、その点では小田原電気鉄道の電力部門の影響を感じさせるシーンと言えます。

しかしそれ以上に、「写真帖」に残された祝賀会の様子の中で富士屋自働車や小田原電気鉄道関連で注目されるのは、次の2枚の写真でしょう。
「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)19コマより「花電車」
「花電車」(「「写真帖」19コマ」)
「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)32コマより「祝賀会当日富士屋自働車会社の仮装機関車」
「祝賀會當日富士屋自働車會社の假裝機關車」
(「「写真帖」32コマ」)

「花電車」で「デジタルコレクション」を検索すると、明治37年(1904年)10月の「風俗画報 臨時増刊(征露圖會第13編)」(東陽堂:国立国会図書館内限定資料)に「●街鐵の花電車日比谷公園門前なる例の街鐵の裝飾電車は五日更に靑杉葉を添へ、」という一文が検索結果に表示されます。生憎とネット経由では閲覧できない資料のため現時点で内容未確認ですが、当時日比谷公園前を走っていた東京市街鉄道(後に他社と合併して東京市電となる)が日露戦争戦勝を祝して走らせたのが、「花電車」の最初期の事例ということになる様です。

「おだわらデジタルミュージアム」(小田原市郷土文化館)には翌明治38年1月5日付けの「祝戦捷花電車(小田原電気鉄道本社前)写真」が掲げられていることから、小田原電気鉄道でも開業後早い時期から花電車を運行していたものと考えられます。同ミュージアムには熱海線開業時の花電車と考えられる写真「鉄道開通祝賀会小田原花電車」も含まれており、こちらの写真では当日の花電車のより詳しい状況が確認できます。花電車としては珍しく2両編成で仕立てられていたか、または2両の花電車が続行する状態で停車しており、荷運または保線用の壁面が抜けている車両を装飾していたと見受けられます。

その点を念頭に置いて改めて「写真帖」の写真を見ると、この写真では運転手が左手に立っており、トロリーポールの向きからも左手に向かって進行しようとしている一方、手前の男性2名は2両編成であれば後続の車両との間に立っていることになります。

小田原電気鉄道にとっては、この熱海線の開業によって並行する国府津〜小田原間は廃線になり、改めて新たな小田原駅へと線路を付け替えているため、その新たな区間での初の花電車運行という側面もありました。しかし、写真で見る限り装飾には廃線をうたう文言などは見受けられず、専ら熱海線開業の祝福に徹した様です。「写真帖」では37コマに「東海道線列車と聯絡して箱根强羅に至る、會社經營貸自働車の便もあり」と新たな駅舎の写真とともに広告を掲載していますし、40コマには同社の強羅の遊園の写真も掲げています。熱海線の開業によって観光客の増大に繋がってくれる期待の方が上回っていたということでしょう。因みに「写真帖」では他にも小田原電気鉄道の車両や各停車場、更には「出山の鉄橋」の写真も収められているなど露出が多くなっています。

一方の富士屋自働車の「仮装機関車」ですが、車体番号の「38」が見えています。装飾によって全体は見えていないと考えられ、実際同社の保有車両に「38」という車体番号を持つものは「その3」に示す通り存在しませんでした。同社の車両で「38」という数字の並びを含む車体番号は「538」のみであることから、この「仮装機関車」はこの車両を飾り付けて仕立てたものと見られます。「神奈川縣自動車案内」(大正10年・1921年8月20日印刷 現代之車社編集発行、以下「県案内」)ではこの車両は「貨」と記されていましたが、写真で確認できるところでは車体長がやや長く、また後ろで旗を掲げている2名の人物は立っている様に見えることから、確かにこの車両は無蓋のトラックであったと見受けられます。

側面の「9617」という番号は大正2年から登場した9600形蒸気機関車のものです。ボイラー上部の蒸気溜めや砂箱の配置などもそれらしく再現されるなど、祝賀会限定の飾りつけとしては、かなり凝った出来栄えになっていた様です。

富士屋ホテルや富士屋自働車は「写真帖」へは広告を出稿しなかった様です(但し落丁があるため、欠落部分に含まれていた可能性あり)が、新しい小田原駅前で保有車両を並べた写真が収められています。こちらも熱海線開業に伴う観光客に期待するところ大だったでしょう。

「鉄道開通記念写真帖」(小田原町祝賀会)22コマより「青物町の余興広告自動車〜」
「靑物町の餘興廣告自動車と新名女學校の花賣(東海新報社前)」
「写真帖」22コマ
また、「写真帖」には他に青物町(現:小田原市本町2丁目付近、東海道から甲州道へと逸れた辺り)の「余興広告自動車」と題された写真が1枚含まれています。

車両は2両写っていますが、どちらも車両番号が隠れてしまっており、何処の所属の車両かは確認出来ません。「県案内」で確認できる限りでは、小田原町青物町の車両は1両も見当たらないことから、富士屋自働車か小田原電気鉄道の貸自動車を借り切って仕立てたものの様です。借り物の車両ということもあって、前照灯を「青物町」と書いた布のようなもので覆い、旗と思われるものを前部に飾る程度の簡単な装飾に留めている様にも見えますが、写真が不鮮明のため細部まではわかりません。

「写真帖」にはその他にかなり多數の「山車」(「写真帖」では「花車」と表現)が写っています。キャプションでその所属が確認できるものだけでも、
かなりの台数が繰り出していることが確認できます。他にも所属を明示していない山車が12コマ29コマに写っています。小田原では現在でも鎮守である松原神社の例祭で幾つかの町から山車が参加しますが、この祝賀会でも各町が保有する山車が特別に街中を巡行したのでしょう。

また、これらとは別に東海新報社も山車を仕立てています(24コマ)。写真では山車の破風の辺りに「東」の文字が見られます。全くの新調であるかどうかは不明ですが、32コマには「停車場工事関係職人連の花車」とする写真が掲げられており、臨時に集まったと見られる職人たちまでが山車を仕立てていることからも、各町の保有する山車以外にこれらの例の様な職業集団が別途山車を出す風習があったことがわかります。

これらの山車に混ざって花電車や仮装自動車が巡行していた様子からは、こうした慶事に合わせて車両を飾り立てる風習は、それぞれに単独に出てきたものではなく、むしろ街がそれまで続けてきた風習に「組み入れられて」いくことによって現れてきたものではないか、という気がします。街を挙げての祝賀会に各町や会社が参加する中で、明治時代以降に新たに入ってきた交通機関を飾り立てて参加する成員がいて、この様な新たな風習が生み出され、やがて街の「成員」として受け容れられてきたということになるのでしょう。




さて、この「写真帖」には小田原電気鉄道の他に熱海線の延伸の影響を受ける鉄道の広告も掲載されていました。その会社について、ちょっと意外な動向があったことを見つけましたので、次回はそちらについて紹介したいと思います。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

記事タイトルとURLをコピーする

松本安太郎・小田原電気鉄道・富士屋自働車の自動車事業まとめとエピソード数点

大正元年(1912年)から12年(1923年)までの小田原・箱根地域で自動車事業を新規に立ち上げてきた松本安太郎、小田原電気鉄道、富士屋自働車について、かなりの回数記事を出してきました。今回はそれらを少しまとめた上で、それらの記事に収まらなかったエピソードを何点か紹介したいと思います。

まず、ここまでの記事を一覧化します。


これらの記事の中でも時折触れてきましたが、元々私が小田原・箱根地区の自動車事業の黎明期について調べる切っ掛けになったのは、酒匂川に掛かる酒匂橋の歴史を見ていく過程で、大正12年に竣工した代の酒匂橋が相模川の馬入橋を差し置いて進められた経緯を追ったからでした。


これらの記事を書いていた頃には、単に小田原・箱根地域の自動車事業の拡大が酒匂橋の橋面の摩滅を早め、その結果として酒匂橋の架替えを馬入橋に先んじて実施させる原因になった、程度の説明で終わらせていました。大筋ではそうなのですが、それでは何故小田原・箱根地域の自動車事業の拡大が他地域に先んじて進んだのかについては、全く触れていませんでした。さほどの人口密集地でもない小田原・箱根地域で、富士屋自働車が横浜の貸自動車事業者と匹敵するほどの車両保有台数を誇る程までに、自動車事業の伸長で県内の他地域を凌駕する程になるには、それだけの動機づけがあった筈です。


今回は「全国自動車所有者名鑑」(大正4年及び5年 東京輪界新聞社、以下「―名鑑」)や「全国自動車所有者名簿」(大正12年 帝国自動車保護協会、以下「―名簿」)、あるいは類似の資料を「デジタルコレクション」上で見つけて、以前の記事を再点検することが当初の切っ掛けでした。

しかし、「デジタルコレクション」でヒットした関連資料の数々を見ていくうちに、当時の小田原・箱根地域が意外なほど東京・横浜の様な都市部から資本や実業家を呼び込んでいた実情が見えてきました。その端緒となったのは、「箱根登山鉄道のあゆみ※」(昭和53年・1978年 箱根登山鉄道株式会社社史編纂委員会 編 箱根登山鉄道㈱発行、以下「あゆみ」)にある通り、小田原馬車鉄道が小田原電気鉄道となる過程で、東京馬車鉄道が自らの電化のテストケースとして小田原馬車鉄道の大株主となって電化を推し進めたことにあると言えます。

※電気鉄道敷設計画

小田原馬車鉄道の株主に大変更あり、東京馬車鉄道及び電灯会社等の大株主新に入りて之れらが株主となり、電気鉄道に変更の儀を出願したる事は既に報ぜし所なるが、箱根の水を利用して水力電気を起すの装置も既に成り、只馬を電気に変ずるのみ他に、電話、水道等の故障あるにもあらねば、近々許可せらるべく目下其利害の囂々たる電気鉄道の模範は近く小田原に現はるべし。又た前記両会社の大株主が殆んど同会社株券の大半を買収したるも、種々考慮の末議論よりは早く実施の手本を示して交通機関の進歩を謀るにしかずと意に出でしもの也(「報知新聞」明治28年9月10日)

(「あゆみ」29ページ欄外)


江戸時代以前には、こうした投資目的の多額の資金を域外から齎し得る制度が未整備でしたから、明治維新後に株式会社の様な仕組みが海外から輸入されて初めて起きた事象と言えます。明治の早い時期から、東京や横浜に近い温泉地として旅客の便を向上すべく道路整備や馬車鉄道導入などが行われてきた地域ではありますが、鉄道の電化の様な当時の最新技術導入には、そのために必要な高額の資金を地元だけで賄い切ることが困難でした。そんな中、電化の可能性を探りたい東京の同業者との思惑が合致したことが、大きな資本を賄える都市部との関係を小田原・箱根が築く切っ掛けになったと言えます。

その点では、箱根は温泉街という観光地としての側面だけではなく、電力開発に必要な高所の水源を得やすい地理的な条件がセットになっていたことが好都合でした。前回紹介した小川功氏の論文「箱根の遊園地・観光鉄道創設を誘発した観光特化型“不動産ファンド” : 福原有信・帝国生命による小田原電気鉄道支援策を中心に」では、「我国の金融史においてリゾート開発に深く関与した金融機関の多くが不幸な結末を招いた事例が少なくない中で、本稿の箱根のリゾート開発のケースは希有な成功事例」と評価していましたが、それはこの開発が単に観光面だけではなく、電源開発という側面とセットになっていたために、季節変動などの影響で収益が安定しにくい観光部門の収益を、電力部門が補う収益構造になったことが効いていたと言えます。

こうして流入した都市部の資本によって小田原電気鉄道の延伸事業が下支えされる一方、神奈川県が自動車事業参入の足枷になっていた自動車規則を緩和したのを機に、同社や松本安太郎が小田原・箱根地域の自動車事業に参入する流れが生まれます。そして、彼らの事業の実態に刺激されて富士屋自働車が創業して両社を凌駕する勢いで事業を拡充し、その結果として国府津やその先まで走らせ始めた自動車が酒匂橋の摩耗を早めたことが、馬入橋に先駆けてコンクリート橋への架替えを推進する結果に繋がったことになります。こうした小田原・箱根地域への資本や人の流入がなければ、この逆転現象は起きていなかったと言っても過言ではないでしょう。

一方で、富士屋ホテルでは当時の株主が山口家の親族で大半が占められており、富士屋自働車にもその傾向が受け継がれていた点は、小田原電気鉄道とは対照的だったと言えます。この辺りはもう一段掘り下げて研究する必要があると思いますが、富士屋自働車が駕籠かきや人力車夫などにも株主を拡げようとしていた動き(「あゆみ※」)は、小田原馬車鉄道が小田原・箱根地域の外から積極的に株主を集めようとしていた点と併せて見ていくと、また違った側面が見えてくるのかも知れません。

もっとも、これらの動きは大正12年9月に起きる関東大震災で、完成後わずか2ヶ月で落橋した酒匂橋のみならず、東京・神奈川一帯に多大な被害が起きることによって、変調していくことになります。




さて、ここからは今回「デジタルコレクション」や大正時代の新聞を調べていく過程で、ここまでの話の流れの中では取り上げることが出来なかったものを何点か紹介したいと思います。

小田原電気鉄道が電力事業を手掛けたのは勿論自社路線の電化のために必要な電力を賄うためで、余った電力を電燈用途などに販売することで副次的な収益の柱としていたものが、やがて本業の運輸事業の収益と拮抗し、更に凌駕する程に伸長していったことは、前回見た通りです。

この電力事業が、強羅地区での別荘開発に際して単なる照明として以上の位置付けで活用されていた可能性を示す記事を幾つか見つけました。

遊覽鐵道の繁榮策

煙の樣に次第々々に濃くなつて來る凾嶺の宵暗を破つて華かな灯火が幸福と歡樂の潮が流れる樣に眞黑い森を通して燦然と輝くそれは强羅公園に眞晝と照るマツダC電球の光である。强羅公園は小田原電氣鐵道會社の經營に係るもので先般同社の登山鐵道開通を期とし公園並其附近道路に照明設備を施して從來温泉地の通弊であつた夜間遊覽設備の不備を補ひ一般遊覽客の満足を圖つた。明い灯が人に快感を與へ人は灯を慕つて集るのは人間の通有性である。かくして同社が多大の經費を投じ滿山に氣持の好い照明を施した結果寂しかりし强羅は急に賑々しい土地となつた。

登山鐵道の終點である强羅停車場は構内の電柱に當社製配照型反射笠に五百ワツトC電球を取付たるもの三個と二百ワツトのもの二個で晴やかに照して居る。此の停留場は片側を旅客の乘降用に他側を貨物の積卸ホームとして使用して居る。そして附近に目下建築中の幾軒かの擴壯なる旅館の設備が整つた曉には海抜一八〇〇尺を數へる當地の夏期に於ける繁盛は今から豫想に難くない。

停留場より公園に到る百五十間に餘る道路並に公園前面の道路は二十餘間每に樹つ電柱に停留場構内に取付た器具と同樣な配照型金屬反射笠に五百ワツト窒素電球を取付け公園周圍の道路にも二百ワツト電球が等しく取付けられてある。器具を取付けた電柱は孰れも在來の物を其儘利用した結果多少不規則の嫌はあれども使用器具の撰定が當を得て知るために高燭光の電球を使用したにも拘らず厭ふ可き眩輝作用殆どなく道路照明として殆んど模範的な施設である。

(「マツダ新報(C電球應用號) 第六卷第五號※」大正8年・1919年12月 東京電氣株式會社 9〜10ページ)


そして、以降のページに設置された照明の様子を伝える写真や設置位置を示す地図が掲載されています。

「東京電気株式会社」は当時は電燈などの弱電機器を製作する会社で、昭和14年(1939年)に「株式会社芝浦製作所」と合併して「東京芝浦電気株式会社」(現:東芝)になります。「マツダ新報」は非売品の雑誌で、自社の電燈などの製品販促のために関係企業などに配布する目的で製作したものの様です。

駅施設の夜間照明として設置されたものは単に夜間の乗降や荷物の積み下ろしのためのものと考えられるものの、公園内の照明は観光地の営業時間をそれまで考えられなかった夜間まで延長させることを狙ったものであると、この記事は紹介しています。

また、同書口絵2ページ※では「五個の投光器照明大平臺鐵橋」と題された写真が掲載されています。「大平台」とされているものの、形状から見ていわゆる「出山の鉄橋」(早川橋梁)のものと見られ、当時温泉村に属していた大平台と、湯本村に属していた塔ノ沢の境に位置しています。ライトアップ目的と言うよりは、開通当初は立体交差化されていなかった鉄橋脇の踏切の街灯として設置されたものと思われますが、夜間の撮影と考えられるにも拘わらず鉄橋や早川の姿などがかなりはっきりと写っており、かなり強い光源を使っていたことが窺えます。

更に、同じ「マツダ新報」の第6巻第2号(7月号)※では

□小田原電氣鐵道の經營にかゝる箱根の山腹にある强羅公園の遊泳地では夜間も安全に遊泳が出來得る樣にプロゼクター、三個を以て光るく照明を施して居る噂である。

(25ページ上段)

と、夜でもプールで泳げる施設を作っていたとする伝聞を紹介しています。「噂」と書いていることからは取材で裏を取った情報とは言えそうにありませんが、電気による照明がない時代にはそもそもこの様な発想自体現れる可能性が殆どなかったことを考え併せれば、電気が夜の時間帯の観光の可能性を拡げるのに使われようとしていた機運を伝えるものではあると思います。

これらの記事からは、小田原電気鉄道が自社の電力を別荘地のライトアップにも積極的に活用し、単に宿泊地の夜間照明とするだけではなく、箱根で観光できる時間帯の拡充を狙っていたことが窺えます。その効果の程は更に他の資料を使って裏付ける必要はあると思いますが、東京の様な都会ではないこうした地域でも、電力需要が基本的な照明としての利用から一歩踏み出した効果を狙う段階に入ってきたことを示す一例と言えるのかも知れません。



他方で、自動車が日本に導入されてくる過程で最も懸念されていたのが、道路が自動車交通に適した幅を有しておらず、事故を起こしやすくなっている状況であることは、神奈川県の「自動車取締規則」制定や改定の事情を見た際に触れました。

実際の事故の例については松本安太郎の自動車事業について見た際に1件取り上げました。当時の小田原・箱根での事故事例について、記事を網羅的に探した訳ではありませんが、今回「横浜貿易新報」(現:神奈川新聞)等の当時の記事を見ていく過程でたまたま見掛けた事故の記事の中から、象徴的と思えるものを2件紹介したいと思います。

1件目は大正7年(1918年)6月11日の「横浜貿易新報」3面に掲載されたものです。

自動車(じどうしや)衝突(しようとつ)

箱根(はこね)大平臺(おほひらたい)にて

()より九()(わた)國府津(こふづ)箱根(はこね)(かん)自動車(じどうしや)徃復(おうふく)(すこぶ)頻繁(ひんぱん)(きは)めたるが同日(どうじつ)午後(ごご)()(ころ)箱根(はこね)大平臺(おほひらたい)富士見(ふじみ)茶屋(ちやや)(まが)(かど)(おい)(くだ)(きた)れる電鐵(でんてつ)自動車(じどうしや)五十五(ごう)(のぼ)りの富士屋(ふじや)百十九(ごう)とが()(そん)じて正面(しやうめん)衝突(せうとつ)()しアハヤ千(じん)谷底(たにぞこ)轉落(てんらく)せんとしたるも前部(ぜんぶ)(そん)せしのみにて乘客(ぜうかく)()()無事(ぶじ)なるを()たり


大平台の「富士見茶屋」は、現在は「大平台のヘアピンカーブ」として箱根駅伝の際のチェックポイントの1つになっている箇所にかつてあった茶屋で、このカーブは当時も同じ場所にありました(「今昔マップ on the web」)。この茶屋から撮影したとする撮影年・撮影者不詳の「富士見茶屋からの宮の下遠望」という写真が、「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真データベース」に掲載されています。

ここで富士屋自働車と小田原電気鉄道の車両が夜10時頃に衝突事故を起こし、下を流れる早川に転落しかかったものの、幸い死傷者を出さずに済んだ様です。両車の車両番号が掲載されていますが、「神奈川県ト自動車」(大正9年 曽我紋蔵 著 横浜自動車協会、以下「県ト車」)では、55号車と119号車は空欄になっています。「神奈川縣自動車案内」(大正10年 現代之車社編集発行、以下「県案内」)や「全国自動車所有者名簿」(大正12年 帝国自動車保護協会、以下「―名簿」、以上リンク先は55号車を含むページ)ではどちらも別の所有者の名称が掲げられていますので、正面衝突程度で済んだ軽い事故だったのであれば、この2台は修理後別の所有者に売却されたのかも知れません。

大正7年当時では、保有車両台数の点では富士屋自働車が小田原電気鉄道をまだ大きく凌駕していた頃ではあるものの、この2社が小田原・箱根地域の保有車両台数のトップ2であった点は変わりませんし、両社もほぼ同じ路線を高頻度で運行していた訳ですから、お互いが衝突事故を起こすのも自然の流れではありました。「あゆみ※」では両社の自動車事業を巡って鍔迫り合いが度々起きていたことが紹介されており、元より仲の悪いところはあった様ですが、そこにこうした事故の印象も影響していたかどうかは定かではありません。しかし、事故の都度同業者が顔を鉢合わせする様な事態が続発していれば、お互いの心象が殊更に悪くなってしまうのも道理ではあったでしょう。

2件目の事故事例は、大正8年6月2日の「横浜貿易新報」3面に掲載されたものです。小田原電気鉄道の湯本以遠が開業した翌日、まさにその様子を伝える記事に続いて直ぐ近くの大窪村風祭(現:小田原市風祭)で起きた自動車の人身事故が載っており、編集者が意識的にこの2つの記事を隣り合わせたものと考えられます。

箱根(はこね)遊覽(いうらん)電車(でんしや)昨日(さくじつ)より開業(かいげふ)

箱根(はこね)湯本(ゆもと)强羅(がうら)(かん)箱根(はこね)遊覽(いうらん)電車(でんしや)準備(じゆんび)都合(つがふ)其筋(そのすぢ)認可(にんか)(おく)れし()(いま)開業(かいげふ)(いた)らざりしが三十一(たち)()認可(にんか)(くだ)りたるを(もつ)(さく)(じつ)午前(ごぜん)()(ばん)電車(でんしや)より運轉(うんてん)開始(かいし)開業式(かいげふしき)()げたり

●ホテルの自動車(じどうしや)

山下町(やましたまち)グランドホテルの自働車(じどうしや)三十五(がう)運轉手(うんてんしゆ)小林(こばやし)銀治郎(ぎんぢらう)(二五)が西洋人(せいやうじん)(めい)()せ三十一(にち)午後(ごご)出發(しゆつぱつ)(どう)()(ごろ)小田原(おだはら)大久保村(おほくぼおむら)(原文ママ)風祭(かざまつり)(さし)(かゝ)りし(さい)同所(どうしよ)長女(ちやうじよ)タケ(二ツ)を()きて重傷(ぢうしやう)()はせ()(かたは)らなる警察(けいさつ)(よう)電柱(でんちう)()自動車(じどうしや)破損(はそん)運轉手(うんてんしゆ)負傷(ふしやう)したるが乘客(じやうかく)には怪我(けが)なくタケは小田原(おだはら)間中(まなか)病院(べういん)にて治療(ちりよう)(ちゆう)なり

(被害者の住所詳細と姓は伏せました)


横浜山下町にあったグランドホテルは関東大震災で壊滅的な被害を受けて閉館し、現在はその近所に「ホテルニューグランド」が現存しています。経営母体の関係はありませんがほぼ同所ということで、このホテルから風祭駅までの経路をGoogleマップで表示させると、大筋で自動車専用道を経由する経路をサジェストされ、距離にして60km強、時間にして1時間少々という見積が出ます。

自動車の制限速度について、神奈川県では「街路は十哩、其の他は十二哩」(「神奈川縣誌※」大正2年・1913年 神奈川県庁編集発行)と規則に定められていたことは既に紹介しました。これは大正8年(1919年)1月11日に国が「自動車取締令」を公布した際に

第三條 自動車ノ最高速度ハ一時間十六哩トス但シ地方長官ハ道路、區域、時間又ハ自動車ノ種類ヲ指定シテ之ニ異ナル速度ヲ定ムルコトヲ得

(「官報 大正八年一月十一日」1ページ・合本97ページ 上段)

と、全国一律の最高速度が定められてひとまずは若干ながら制限が引き上げられた格好にはなりました。しかし16mph≒25.75km/hというのは現在の生活道路の規制速度より下ですし、引き続き地域の道路事情に応じた規制を行う権限が府県に認められていましたから、相変わらず現代では「徐行」と表現されるのに近い速度でしか走行を許されていなかったことに変わりありません。

勿論当時は自動車専用道などなく、それどころか舗装道路すら存在しない時代です。その様な道を走り続けなければいけないとなれば、スピードが遅いとは言え大きく揺すられ続けるのは避けられず、運転手だけではなく乗客にも大変な負荷が掛かることになります。恐らくは途中で何度か休憩を摂りながらの道中ではあったでしょうが、それでも午後に出発して夕方の6時に箱根付近と4〜5時間程度も掛かってしまうのは、当時の道路事情では如何ともし難いところでしょう。

夏至に近い時期のことですから、平野部であればまだ西日が残っている時刻ではあるものの、箱根山への入り口に当たる風祭では西側を大きく山に遮られていますから(「今昔マップ on the web」)、この時刻には既にかなり薄暗くなっていたでしょう。長距離のドライブによる疲労と光量不足で、集落を通過する街道で遊ぶ幼児に気付くのが遅れてしまった事故の様です。

こうした事故のリスクや道中の乗客への負荷を考えると、横浜からであれば途中鉄路を行く方が良い様にも思えますが、日本の事情に疎い海外からの旅行者にとっては、途中で乗り換えが必要になるのは避けたいところだったのでしょう。そういう海外の旅行客のための貸自動車事業を「グランドホテル」が営んでおり、箱根までのロングドライブを敢行していたということになる様です。

その実情を確認すべく車両番号35号の所属を「県ト車」で見ると、33〜36号車及び38号、43号車共々「グランド自動車株式会社」の所属になっています。同社の車両は他に312号が掲載されており、全部で7両を保有していた様ですが、「月刊 自動車 第一卷 第二號※」(大正7年・1918年8月 帝国自動車保護協会)によると

◎横濱市内で賃貸用(ちんたいしよう)としての自動車(じどうしや)を最も多く持ってゐるのは、横濱(よこはま)自動車(じどうしや)株式會社(かぶしきくわいしや)の十三臺である。それから住吉町の高木(たかぎ)自動車(じどうしや)(てん)の十臺、山下町(やましたちやう)グランド自動車株式會社の九臺といふ順序(じゆんじよ)になる。また郡部(ぐんぶ)では凾根(はこね)の富士屋自動車株式會社の三十二臺、小田原(おだはら)自動車(じどうしや)株式會社(かぶしきくわいしや)の十六臺等が主なるものである。

(16ページ「神奈川縣の自動車」より)

とあることから、2両ほどの誤差があります。この理由は定かではありませんが、あるいは事故等による廃車が発生したものかも知れません。何れにせよ、上掲の記事と照らし合わせてグランドホテルの関連会社として設立され、同ホテルの宿泊客の送迎を事業内容の1つとしていたと考えられます。

その点では富士屋自働車と大変に良く似た経営スタイルを採ったと見られるものの、良く似た名称の雑誌「自動車 第壹卷 第貳號※」(大正二年・1913年1月 日本自動車倶楽部横浜支部)には同じ住所で「グランド自動車販賣株式會社」の広告が掲載されており、この会社が当初は自動車販売を行いながらその顧客の送迎や試乗にも所有する自動車を使っていたことがわかります。「―名鑑」ではこの社名で保有する車両が大正4年版5年版ともに見つかります。

ただ、この「グランド自動車(販売)株式会社」は官報への公示が見つからず、「株式会社」を称しながらどの様な経営をしていたのか、「デジタルコレクション」上の検索結果だけでは詳らかになりませんでした。「県案内」には引き続き「グランド自動車」の名前が見えていますが、「―名簿」では旧「グランド自動車」の車両は何も他の名義に移っており、この名称で保有されている車両が見当たらなくなっていますので、この間に「グランド自動車」が解体されたのかも知れません。「グランドホテル」名義に車両が移された訳でもないので、同ホテルが貸自動車事業から撤退した、と見るのが妥当な様です。「小林銀治郎」も「県案内」では「大和自動車」に所属が移っており、ひと足先に「グランド自動車」を離れています。



次回もう少しエピソードの紹介を続けます。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

地誌のはざまに - にほんブログ村

記事タイトルとURLをコピーする
NEXT≫