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いっちゅうは・・・『一字』でなく『一宇』と書くのだ! - KAZASHI TREKKING CLUB

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四国の山を中心に毎週楽しく歩いています。

いっちゅうは・・・『一字』でなく『一宇』と書くのだ!

2024年10月14日 | 四国の山

 

剣山に始めて登ったのはもう四半世紀以上も前になる。登山口となる見ノ越へのルートの国道438号線も昔に

比べると少し道が広がった場所もあって、多少は走りやすくなった気がする。

通い慣れた見ノ越までの途中通過する一宇。つるぎ町に合併する前は一宇村と呼ばれ、最盛期には8000人近

くの人口で商店街もそれなりに賑わっていたようだ。

その一宇の中心市街地の古見から見上げる山一面に展開する大宗と赤松の集落は、おそらく国内でも最大規模の

山岳集落になるといわれている。

前回塔ノ丸を歩いた帰りに時間があったので車を走らせてみた。その時に少し調べていて目に付いたのが、集落

のさらに上にある『宇峠』だった。『宇峠・・・・宇?』ということは麓は当然『一宇』。なぜそう思ったのか。

そう、一宇はいままでずっと『一字』と書くと思っていたから・・・・。ブログにも度々『一字』と書いてきた

ので目からウロコだった。(地図にも道路標識にも一宇と書いてあるのに、思い込みとは恐ろしいもんだ)

それは徳島の親戚のおじさんがイチウのことを『いっちゅう』と言っていたので、わたしも昔から『いっちゅう、

いっちゅう』と言っていた。最初から『イチウ』と言っていたなら間違いは起こらなかったのに、思い込みで単

純に『一字』と書いてしまっていた。結果情けない事に数十年ぶりに誤字に気が付いてしまった。

 

 

その誤字に気づかせてくれた『宇峠』を今回訪ねてきた。ついでに西側にある焼堂峠から志貴岳を歩いて周回し

てみることに。このルートは2010年にこもれびさんがお二人で歩いている。そのレポートを参考にしたのだが、

こもれびさんのレポートにはトラックの記録が載っていない、その上地形図には全く破線が載っていないルート

だったので、とにかくレポートの写真と文章を頭に入れてスタートした。

廃屋となった民家の周りは萱で取り囲まれ、ススキの穂が朝の光に輝いていた。

 

 

スタート地点は集落の最上部に近い赤松にある聖午王神社の少し下のカーブになった場所。カーブの奥からは西

にコンクリート道が続いていた。

 

 

 

コンクリート道が途切れると道の脇に運搬用のモノレールのレールが続いていた。スタートした場所に車が停ま

っていたのと、コンクリート道が荒れていない、さらには谷筋に架けられた丸太の橋が新しかった事から、この

先にはまだ住んでいる民家がある。そう思いながら歩くと予想通り、外周りを獣除けの高いネットでぐるっと囲

った民家があった。その民家の庭先の一段下、ネットの外側を通ってさらに奥へと進んで行く。

 

 

最終民家でモノレールは途切れたかのように見えたが、まだまだ先どこまで続くのだろうと思うくらい延々とレ

ールは続いていた。途中で薄暗い林の中に不似合いな大きな案内板が立っていた。スタート地点にもあった同じ

案内板が立っていたが、その『ウラジロの木』と書かれた案内板の上手に、日本最大といわれるウラジロの木

その根元にお地蔵さんを祭った祠があった。ただもともとウラジロの木は他の木に比べて大きくはないのか、日

本最大にしては迫力にかけていた。

 

 

 

ウラジロの木からもさらにモノレールのレールは続いている。ただ途中で途切れたヶ所が何カ所もあって、この

先にあるだろう民家には人の気配が感じられなかった。

すると陽の届かぬ暗い林の中、前方から歩いてくる人の姿が・・・。一瞬びっくりしたがすれ違いざまに少し話

しをすると、やはり住人ではなくスタート地点に停まっていた二台の内の一台の車の持ち主のようだった。

『峠まで行かれたんですか?』と尋ねると『そこまでは行かずに引き返してきた』という。持ち物にはカメラの

バックのようなものを抱えている。あまり話をする雰囲気でもなかったので、ひょっとすると廃屋マニア(そん

なマニアがいるのかは?)かな、なんて思いながら別れた。

 

 

 

杉林の影の向こうの明るい日差しの中に赤い屋根が見えた。『ん、民家かな?』と思い谷筋を回り込むようにし

てさらに進んで行くと、畑地の跡なのか石垣が現れた。さっき見えた集落が近いそう思っていると道の下手に土

壁の納屋らしき建物。この辺りの畑の農作業で使われていた建物だろう。

 

 

 

道の端には排水用だろうか、側溝らしき蓋が続いている。すると日陰から明るくなった先にお堂が見えた。

見ノ越に行く途中でも集落には同じようなお堂が建っている。三方が開けたお堂には何の神様が祭られているの

だろうか?お堂があるということはこの先に集落があるという事。

 

 

スタート地点にも掛けられていた張り紙。書かれているルールを守れない人が多くいるのか。それでも立ち入り

禁止とは書かずに、『ルールを守って楽しみましょう』とは、優しい言葉だ。

 

お堂の先は急に開けて目の前が明るくなった。どうやら地形図にも載っている『寺地』の集落の様だ。

開けた場所からは南から南西にかけての山々が見える。相変わらず次郎笈の頭には雲がかかっている。少し視線

を右に振ると秋葉山から津志岳に続く稜線が見える。

 

 

先ほど谷筋の反対側から見えたのはこの赤い屋根だった。平成10年にこもれびさんが訪れた際に、すでにこの

集落には住人はいなかった。廃屋の周りは畑はシダが伸び放題で、あと何年もすればこの建物も朽ちて草木に埋

もれて杜に帰ることだろう。

 

 

 

 

航空写真で見るとたしかにこの場所は開けて集落を形成している。しかも赤松の集落よりもさらに標高の高い場

所にある。こんな場所に住む人たちはどんな生活をしていたのだろう、そして何で生計を立てていたのだろうか。

ただその昔に開墾して広げたこの場所も、もうすでに緑の中に埋もれつつあって、その当時の暮らしぶりを垣間

見ることはできない。

地形図ではこの集落のさらに西に、麓から焼堂峠に続く破線が載っている。まずはその破線に向かって歩いて

行くが、次第に道は不明瞭になって行く。倒木や石で荒れた掘割のような道らしき道を、ルートは合っているの

か不安になりながら進んで行くと、小さな谷筋に古い丸太の橋が架かっていた。おそらく焼堂峠への破線へと続

く道だと確信。

 

 

 

さらに先では道が二手に分かれていた。左側の道は明瞭だったがとにかくずっと下って行く様子。それならと右

側の少し荒れた踏み跡を登ってみるが、これが間違いだと気づいたのは結構登ってしまってからだった。

何となく道らしい踏み跡を辿って登って行くが、とにかく急登。積もった落ち葉に足を滑らさないように、登っ

て行けば尾根には出るだろう、そう思いながら登る事20分ほどでやっと尾根らしき場所に青空が見えた。

 

 

 

尾根に出ると一旦焼堂峠に引き返すようになる。稜線上をとにかく辿って西に向かって歩いて行く。途中怪しげ

な間違えそうな場所もあったが、尾根を外さないようにして進んで行く。

 

 

 

すると尾根の北側の窪地のような場所にブリキでできた祠があった。中にはお地蔵さんが二体。

峠ということで祠の北側を覗いてみると、麓に続く道らしきものが見えたが南側はと言うと、尾根の南は広尾根

になっていて少しうろついてみるが、地形図に載っている破線の道は確認できなかった。

 

 

 

 

 

お地蔵さんに手を合わせた後、引き返して今度は尾根を東へと歩いて行く。すると先ほど寺地からむりやり登っ

てきた場所に見覚えのある杭があり、その先で道は二手に分かれていた。左側は下り坂になっていたので、その

まま尾根を登って行く。地表が洗われ木の根が露出している。

 

 

途中けっこうな急登もあるが稜線上は南から涼しい風が吹いてきて、割と気持ちよく歩いて行ける。

地形図にのっている1000mの標高点の場所には木の幹に黄色と赤色のテープが巻かれていた。見当たらない

石柱の代わりの目印だろうか。

 

 

このルートで何度か見かけた『地すべり指定年月日』が書かれた大きな支柱。でもその60年以上前の指定日を

書いただけの支柱を立てて、なにか意味があるのだろうか?大きく両手を広げたような赤松が印象的だ。

 

 

何度かのアップダウンをした後、スタートから2時間30分弱で志貴岳に着いた。三等三角点 三頭 1073.4m

三角点の北側には阿讃山脈とその南に流れる吉野川、そして貞光の街並みが見えた。尾根の下の木々も少し色づ

き始めている。南側も開けているが木々が伸びてあまり景色は見えない。松の木の枝と枝の間に塔ノ丸の笹原は

確認できた。

 

 

 

 

ここで朝食べた菓子パンの残り半分を口に入れる。三角点でREIKOさんがいつも撮っている写真のマネをし

てストックと一緒に写してみる。

 

 

 

ここからは一旦東の小ピークを目指す。そのピークの手前で踏み跡らしき跡がトラバースしていたので、ここで

いつもの悪い癖がでてしまい、楽をしようとトラバースして行くが、結局これも間違っていて、小ピークへ急登

を登る羽目になる。その小ピークからは北東に支尾根が猿飼の集落に向かって続いていて急坂にトラロープがか

かっていた。その途中から今度は南東に宇峠へ進まなければならない。地形図には破線はなく、ルート図もない

状態がこれほど不安だとは思ってもみなかった。(地形図の等高線が少し複雑になっていたので)

 

 

分岐になった場所では右に道らしき踏み跡があったので、半信半疑で下って行くと道は明瞭になり、トラロープ

もかかっていたので、宇峠への道に間違いないと一安心。

 

 

さらに下って行くと目の前に大きな木(何の木だろう?)。太い幹がえぐられたようになっていて、くねった枝

が垂れ下がり、何だか痛々しい。どうやらここが宇峠の様だが、皆さんのレポートに出てくる祠が見当たらない。

すると『宇峠』と書かれた道標の後ろに朽ち果て廃材のようになった阿弥陀堂の跡が確認できた。

 

 

 

皆さんのレポートにはまだ立派な阿弥陀堂が写っていたのに、十年以上経過するとここまで朽ち果ててしまうの

だろうか?その近くにも二つほど何かの跡だろうか、廃材が転がっていた。

 

 

宇峠と書かれた道標と皆さんの写真で見た、庚申塔と地蔵でやはりここが峠だと分かった。

 

 

 

 

阿弥陀堂(跡)と石仏の数からいって昔はけっこうな人の行き来があったように思うが、一宇村と貞光・半田

結んだ峠も阿弥陀堂が朽ち石仏が傾きかけた寂しげな場所になり、今その昔を偲ぶすべはない。

 

 

 

石仏の前から谷筋へと下って行く。このルートは珍しくほとんどテープがない。谷筋の左岸を踏み跡を辿って

等三角点 赤松 725.4mに向かって下って行く。

 

 

 

最初は涸れていた沢も、下まで来るとチョロチョロと水が流れ始め、途中からは給水の管が集落に向かって続い

ていく。

 

 

すると畑地の跡の石垣が道の左手に現れた。畑跡の中に立つ杉の木の大きさからして、耕作しなくなってもう何

十年にもなるのだろう。

 

 

畑跡を見ながら進んで行くと萱原に飛び出した。ただその先には大きな屋根が見える。寺地の集落では廃屋の周

りはシダで囲まれていたが、ここでは背の高い萱に囲まれている。その萱をかき分けながら進んで行くと廃屋の

軒先に出た。たしかこもれびさんがスタートしてこちらに歩いてきてあった民家だ。その時は住人のおじいさん

にたしか道を尋ねていたが、今は・・・・。

 

 

赤松の集落から続く林道の突き当りにある4・5軒ほどの民家はどこも今は住む人の姿はなく廃屋となっていた。

 

 

 

 

その当時も住人の人たちが眺めていただろう景色は今も変わらず青空の下に広がっている。当時は畑で何を作っ

ていたのだろうか?畑に立つ大木の奥にやっと頭を出した次郎笈。その大木の前の畑も今は萱原となってしまっ

ている。

 

 

 

最終民家から舗装路を車を停めた場所まで下って行く。途中のブロックで囲まれた中は墓じまいを済ませていた。

それを眺めながら、子供たちが県外に出てしまった今他人ごとではないな~と思う。

にし阿波に点在する傾斜地にある集落は200ヶ所近くあるといわれている。その集落も今は住人の高齢化が進み

ほとんどの集落では廃屋が多くみられる。

災害が少なく温暖な平野部で暮らしてきた私たちには、なぜそこに?という疑問が湧いてくるが、これから少し

づつ山歩きを兼ねて色々な場所にある残された集落を訪ねてみたいと思う。

 

 

 

帰りにまた一宇の中学校跡を訪ねてみた。そこは中学校と古見の小学校と幼稚園にもなっていた。地上5階建て

の大きな校舎の横には、また大きな体育館。廃校になる前の子供たちの賑やかな声が聞こえてきそうだった。

 

 

 

そしてお昼を過ぎてお腹が空いているのを我慢して、今まで一度は寄ってみたいと思った貞光にあるお店でお昼

に。愛想のいいおばあちゃんの応対にほっこりしながら美味しいハンバーグカレーを頂いて帰った。


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