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戦没者追悼式と大好きな先輩の旅立ち - 小笠原諸島・母島ジャイアン ブログ  -GIAN'S HAPPY BLOG-小笠原諸島・母島で自然農&便利屋

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小笠原諸島・母島で持続可能な暮らしを目指しています。

その中や暮らしで学んだことを紹介したいと思います♪

戦没者追悼式と大好きな先輩の旅立ち

2023年08月26日 | 戦争と貧困
■今年も8月15日がやって来ました。
終戦記念日です。

毎年、この時期になると、広島、長崎の原爆被害、戦争を考え、
命について考えさせられます。

太平洋戦争の激戦の地となった硫黄島がある小笠原。
21,900人が戦死し、まだ1万柱以上のご遺骨が眠ったままの硫黄島。
毎年、遺骨収集は行われていますが、ご遺族の高齢化も進んでいると聞いています。
戦後78年を迎える今も、硫黄島の戦後は終わっていないのです。

小笠原に移住してから、この8月15日はずっと戦没者追悼式に出れる限り出席してきました。

僕は小笠原に移住するまで、
戦争を経験していない、戦争の話を直接聞くことの経験があまりありませんでした。

この追悼式に出席する事、それから島の戦跡や歴史に触れる事、
介護や硫黄島訪島事業でご遺族の話を聞くこと、
沖縄に行って様々な戦争を知る機会などで
少しずつ戦争というものが、どれほど悲惨な事かという事が少しずつ分かって来ました。

今も、ロシアとウクライナの戦争は1年半以上も続いているし、
様々な小さな紛争はこの今も起こっています。
軍事費が増やされ、核抑止論などもよく語られるようになってきています。

凄く悲しいことです。
戦争を決定するのも、動かすのも国の上層部ですが、
いつも被害を被るのは一般市民です。
世界平和を実現しなければなりません。

日々、島のレジェンドと関わると、
戦争当時の話を聞くことがあります。
親戚や、優しかったあの兵隊さんが硫黄島へ向かい、
帰らぬ人となった話など幾つも聞くのです。

小剣先山の麓で、米軍に機銃掃射を受けた時、
パイロットと目が合って、相手は笑っていたという話も聞きました。

今お話を聞かせてくれる80,90代のレジェンドは
多感な十代を、島の暮らしを戦争に翻弄され、
強制疎開で慣れない本土での生活を強いられたのです。

その度に胸が締め付けられます。

戦争が無ければ、あのまま楽園だったと思える硫黄島。
今回の8月15日は本当に色んな事が起きて、
沢山の学びとなりました。

■母島の戦没者追悼式はお昼少し前に始まります。
12時ちょうどの防災無線による黙祷に合わせる為です。

今まで、一般島民や青年会、PTA会長など、
色んな立場で出席してきましたが、
今回は村議会議員としての参加でした。

今回は準備から関わらせて頂きました。


そして、この日をずっと緊張して準備を進めていた人がいました。
次女です。
追悼式の「平和の誓い」として、
子供代表で出席していました。

次女はこの時、中学2年生。
丁度硫黄島の勉強をするタイミングでした。

夏休み前の硫黄島訪島事業(上陸無しの3島クルーズ)は、
なんとコロナに感染してしまい、残念ながら次女はお休みになってしまいましたが、
夏休みに母親と広島の平和記念公園に行き、
原爆の被爆者の話を直接聞いて、
戦争への理解、そして自分たちの今後の行動についてもよく考えているようでした。

そして、8/15に母島にいる中学生は次女だけということが判明し(夏休みでみんな留守!)、
彼女が平和の誓いをスピーチすることになりました。

前日の夜は日付を跨ぐほど、文章を考える程、
ずっと話す言葉を選んでいました。

当日、ドキドキのリハーサルを経て、
しっかりと本番では平和の誓いを話していて、とても素晴らしかったです!


次女がスピーチする前ですが、
みんなで黙祷する1分間、平和の鐘が鳴らされます。
その瞬間、いつもみんなの祈りの波動を強く感じるのです。
とてもとても大切な時間だと思います。

平和への祈りが力を感じさせてくれました。

1日もはやく、世界が平和になるように、
1日もはやく、ご遺骨が見つかって本土、ご遺族の元に帰れることを願ってやみません。


■そして、今回の8月15日は別の意味でもとても大きな1日でした。
その日の朝に大好きな母島の先輩が亡くなったのです。

50代という若さで、天へと旅立って行きました。
あまりにはやいお別れでした。

大好きな小笠原太鼓を叩き、
優しく教えてくれて、
カヌーも一緒に漕ぎ、
男フラの時のパーカッション(一斗缶と便所スリッパw)をしてくれた、
大好きな大好きな先輩でした。


その3日後の8/18に火葬式を行うことになりました。
内地から急遽、ご親族も来島し、
大好きな先輩のお別れとなりました。

みんなの太鼓が鳴り響き、
先輩が大好きなレゲエが流れる、
厳かで温かい雰囲気の火葬式でした。


父島からも村長や課長さん、
友人が駆けつけてくれました。

僕は去年から母島の火葬場のオペレーターとして仕事をしていて、
すでに数回経験をしています。
誰一人知らない人を火葬したことはありません。
みんな生前、話したことがあるし、
仲良くさせてもらっていた方たちばかりでした。

年齢も100歳を超えるレジェンドもいらっしゃって、
本当に心からお疲れ様と思える火葬をしてきました。

でも、今回は、
僕は骨を拾いながら、
急に寂しい気持ちがこみ上げてきて、
目から涙が溢れました。
ただただ、寂しい気持ちが溢れてきました。

前日まで、思い出コーナーとして準備する写真の取り込みや、
遺影の写真を選ぶ作業をしたりして、
ああだこうだ言いながら、
でも家族の先輩を想う気持ちがすごく優しくて、
骨を拾うまで、こんな気持ちにならなかったのに…
この文章を書いている今も寂しい気持ちが溢れて止まりません。

きっと天国で先に待っているお師匠と、
笑顔で飲みながら太鼓を叩いていると思います。

大好きだった先輩、
心からご冥福をお祈りします。



■この1年間、
こんなに命の事を考える事はないのでは?と思うほど、
色んな魂を見送って来ました。

誰にでも平等に死は訪れるものだけれど、
こんなタイミングってないでしょ⁉って思うような別れがあります。

当時は疑問にも思いませんでしたが、
39歳で亡くなった父も、55歳で亡くなった母も、
今思えば早すぎるのです。

あまりの現実に心が追い付いてこないのです。

僕自身もいつ死ぬか分からないので、
後悔のないように生きようと強く思わされます。

戦争をなくすことはもちろん、
みんなが笑って過ごして、
みんなが笑って最期を迎えれるような、
そんな世の中にしていきたいと思える、そんな夏の日でした。

どうもありがとうございました。









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