浜田岳文 | 125カ国以上を旅して美食体験を続ける、美食レビューランキング世界1位のフーディ。食べ続ける理由と、好奇心に火がつく瞬間
HIGHFLYERS/#58 Vol.1 | Mar 2, 2023

僕は好奇心の赴くままに世界中を食べ歩く。フーディになったのは、大学の寮の食事が不味すぎて外食を始めたことがきっかけ

Interview & Text: Kaya Takatsuna / Photo: Atsuko Tanaka

今回ゲストに登場するのは、フーディの浜田岳文さん。エンターテイメントや食に携わる企業のアドバイザーを務めたり、食のイベントの企画・運営に携わったりしながら、日々興味ある場所を旅しては食事をして、ご自身のメディアで美食を発信し続けています。そんな浜田さんは、大学在学中にニューヨークを中心に食べ歩きを開始。卒業後はフランス・パリに滞在して、美食とクラシック音楽鑑賞をさらに追求しました。その後は外資系投資銀行に約10年間勤務したのち、南極から北朝鮮まで世界125カ国以上を旅して美食体験を深めます。今では年に8ヶ月は国内外を食べ歩き、自分の好奇心の赴くままに世界を旅する浜田さんに、ご自身の半生を振り返っていただきながら、今までの食体験をたっぷり伺いました。第1回目は、幼い頃の思い出や中学高校時代に人生が変化した出来事、初めての海外体験についてなどをお聞きしました。
PROFILE

フーディ 浜田岳文

1974年兵庫県宝塚市生まれ。米国・イェール大学卒業(政治学専攻)。 大学在学中、学生寮の不味い食事から逃れるため、ニューヨークを中心に食べ歩きを開始。卒業後、本格的に美食を追求するためフランス・パリに留学。 外資系投資銀行と投資ファンドにてM&A・資金調達業務とプライベート・エクイティ投資に約10年間携わった後、約2年間の世界一周の旅へ。帰国後、資産管理会社(ファミリー・オフィス)社長を経て株式会社アクセス・オール・エリアを設立、代表取締役に就任。 南極から北朝鮮まで、世界約125カ国・地域を踏破。一年の5ヶ月を海外、5ヶ月を東京、2ヶ月を地方で食べ歩く。 2017年度「世界のベストレストラン50」全50軒を踏破。 2018年度・2019年度・2020年度・2021年度「OAD Top Restaurants(OAD世界のトップレストラン)」のレビュアーランキングで4年連続第1位にランクイン。 国内のみならず、世界の様々なジャンルのトップシェフと交流を持ち、インターネットや雑誌など国内外のメディアで食や旅に関する情報を発信中。 グルメサイト「食べログ」ではグルメ著名人、グルメキュレーションサービス「テリヤキ」ではキュレーターとして、世界の美味しい店を紹介している。 株式会社アクセス・オール・エリアの代表としては、エンタテインメントや食の領域で数社のアドバイザーを務めつつ、食関連スタートアップへの出資も行っている。

「やりたいことがあったら自分で動く」と教わった沖縄の出逢いをきっかけに海外へ興味を持ち、中学の時に単身ハワイに短期滞在

まず、浜田さんのお仕事についてお伺いしたいです。肩書きで言うと、どういうことになるんですか?

一番難しい質問ですね。なぜなら時間をたくさん使っていることと、収入を得ることが結構違うからです。仕事としては、複数の会社のアドバイザーをしています。例えばインターネットの食に関係するものもありますし、広い意味で言うとフードテックの会社に自分で出資もしてます。食以外にも、エンタメの会社のアドバイザーをやったり、以前は金融の世界にいたので、今でも親しい方の資産運用のお手伝いを少ししてますね。元々はアメリカの投資銀行でM&Aのアドバイザリーや、プライベートエクイティファンドで事業投資の仕事を合計10年くらいやっていました。

食ではない分野でも活躍されてらっしゃったのですね。今日は、“フーディ”としての浜田さんについて、いろいろお聞きしたいと思います。フーディのお仕事とはどういう内容になりますか?

例えば雑誌に寄稿する仕事があってどこかに行くフードジャーナリストと違って、僕は自分の好奇心、興味が赴くままに世界中を食べ歩いているんですね。基本自分が行きたい所に行きたいタイミングで行って、そこで出会った食だったりレストランだったりシェフだったりを自分のメディアで発信しています。

それはいつから始めたんですか?

すごい数のレストランを食べ歩くようになったのは、大学を卒業したタイミングぐらいですかね。僕は兵庫県宝塚市で生まれ育ったのですが、小さい頃は特に食に興味はなかったし、母親が作るご飯を美味しいとも美味しくないとも思ったことがなくて。でもアメリカの大学に入って、寮の食事を食べたらあまりに不味くて衝撃を受けて、必要に迫られて外食するようになって。それから食に興味を持ちました。

アメリカで、どんなものを食べ始めたのですか?

大学のあるコネチカット州のニューヘイブンは、アメリカ風ピザの発祥地って言われるくらいピザが有名でした。なので、最初はピザを食べていましたが、それだと飽き足らず、月に1、2回は片道2時間かけてニューヨークに食べに行ってました。クラシック音楽も好きだったので、ニューヨークでクラシックを聴いてご飯を食べて帰るっていうのが唯一の息抜きでしたね。でも20数年前のニューヨークってそんなに美味しいものがなかったんで、結局アメリカでは満たされず、大学を1学期早く卒業して、フランスのパリに住んだんです。そこで初めてミシュラン星つきのレストランにも行くようになったので、最初に美味しいものを食べたのはパリですね。

大学時代

音楽や食に興味を持ったのは、どんな影響が大きいですか?

もう単純に母親の影響だと思います。母親は好奇心が旺盛で、知らないことを知りたい欲求がすごく強いし、旅好きなので、そこを受け継いでる感じはありますね。僕も旅が好きなんですけど、好きになった最初のきっかけは実家の食卓の壁に貼ってあった世界地図なんです。母親が貼ったらしいのですが、僕はいつもそれを見て、「ここにはどういう人が住んで、どういう生活をしてるんだろう」とか想像を膨らませていました。

素敵ですね。他にも幼い頃のことを色々お聞きしたいです。どのような子供時代を過ごされましたか?

本を読むのが好きで、ずっと読んでいたくて、学校の行き帰りに友達と一緒に通学したくなかったほどです(笑)。友達と一緒だとそのぶん時間が取られるじゃないですか。僕はその時間を本を読むことに使いたかったので、歩きながら本を読んでました。今の時代だとめっちゃ怒られるスマホ歩きを、小学校の時すでに本でやってましたね(笑)。

小学生の頃。読書が大好きだった

本のジャンルは問わず?

基本はノンフィクション。フィクションにあんまり興味を持たなかったですね。多分それって、世界を知りたいっていう欲求が強いからだと思うんですよ。想像の世界よりは現実の世界に興味がありました。ある日高熱を出して保育所を休んだ時、母親が本を色々買ってきてくれたのがすごい嬉しくて、味を占めて、また買ってきてくれることを期待して、仮病を使って休んだりしてました(笑)。小学校高学年ぐらいになると、大阪にあった西日本最大級の紀伊國屋書店に行くのが週末の楽しみで、そこに4、5時間ぐらいいて、一人でずっと読んでいました。小中学校の頃は、政治の本だったり経済の本だったり、多分1日一冊以上は読んでましたね。

その頃将来になりたかったものってありますか?

大学に入るまでは学者になろうと思ってましたね。知りたい欲求が強いし、何かを突き詰めていきたいタイプの人間だったので、何らかの分野の専門家になってそれをまた次の世代に伝えるみたいな役割なのかな、と何となく思ってました。

中学・高校時代はどんな日々を過ごしましたか?

小学校の時に中学受験をして、関西学院という中高大一貫のところに入りました。大学受験がないところなので、ゆったりしていて、自分がやりたいことにのめり込める環境だったと思います。中学校はそれなりに校則とかも厳しかったのですが、高校に入った途端にめちゃめちゃ自由になるんですよ。完全に私服で、学校行事もほとんどなくて、もうみんな好きにしろみたいな。なので、中学校が合っていた人は高校で急激に成績落ちることもあるし、逆に中学校が合わなかった人が高校で生き生きしたり。僕は完全に後者のパターンでした。

中学生の頃

そこから海外の大学ですか?

関学って中高大が同じキャンパスなので、高校1年で4年間キャンパスにいるわけですよね。4年もいたらもう十分なんですよ。それでどうしようかなと思って、学校の壁に貼ってあった海外交換留学のポスターを見て申し込んだんです。アメリカのオハイオ州のコロンバスに行きました。留学団体が決めたところで、僕は選んだわけではないんですけど。

それが初めての海外ですか?

そもそも海外に行こうと思った根本的な理由からお話しすると、中2の時に友達が誘ってくれて、スキューバダイビングを始めたことがきっかけです。それでスキューバダイビングのショップに出入りしていたら、アルバイトしてた高校生と仲良くなって、いわゆるお兄ちゃん的な存在ができたんです。それで、その人が沖縄に行くって言うから一緒に行ったんですよ。それがすごく楽しくて、それから自分一人でも沖縄に行くようになって、高校の間も含めてほぼ休みの度に沖縄に行ってました。ユースホステルに泊まるんですけど、そうすると大人がいっぱいいるじゃないですか。それが楽しくてしょうがない。みんな自分が知らないことを知ってるし、もっともっと知らない世界を見たいっていう好奇心がすごく強くて、そういう大人達に会うためにユースホステルに行ってました。

スキューバダイビングを通して兄的存在となる人に出会い、色々なことを学んだ

中学時代にすでにすごいですね。

そのお兄さんからは、「やりたいことがあったら自分で動いてできるようにしよう」ということを学びました。例えばスキューバダイビングに行きたいって言っても、中学生なんで交通手段がないけど、そこで諦めないで、ユースホステルで他に行きたい人を募って、自分でレンタカーも予約して、その中で免許ある人に連れていってもらえば行けるじゃんって。それで沖縄で旅の楽しさを覚えて、次は海外に行ってみたいっていう気持ちが強くなって。そのお兄さんもアメリカのロッキー山脈を自転車で越えたりしてすごくアクティブな人だったんで、僕も影響を受けて、どこかに行きたいなと思ったんですね。でも、海外のどこかに行くにも、その時中3ですし、あんまり激しい旅は親が許してくれないだろうと色々考えて、まずはハワイに行こうと決めました。

初の海外はハワイでしたか。

ハワイで日本語を一切使わずに一週間過ごすというふうに決めて、親に頼み込んで行かせてもらって。ハワイでもユースホステルに泊まって、一週間ずっと自分で動き回りましたが、結構英語で苦労しました。例えばファーストフードショップに入ってハンバーガーを頼んだりしても、あまりコミュニケーションが取れない。注文ぐらいはできると思って、何を聞かれるかある程度準備していくんですけど、最後に言われたことが聞き取れなくて。4回くらい聞き直して、結局最後に“Anything else?”って聞かれてたってわかるんです。そんな言葉は僕が持っていた会話帳には出てなかったんでわからなくて。それがすごく悔しかったんですよね。

それで、海外への好奇心に火がついたのですね。

関学って英語教育にすごく力を入れてて、中1からネイティブの先生がついたりして、その当時はかなり珍しかったんです。なので、英語をそれなりにやってきたにも関わらず全然できなかった。高校に入ってより自由になって、勉強は全然してなかったんですけど、英語くらいはちゃんとやろうと思ったんです。そうは言ってもあまり代わり映えしない高校生活だったんで、環境を変えて自分で何とか楽しいことを見つけなきゃと思って、海外の交換留学を選択しました。

次回へ続く

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