―まずは小さい頃のことからお聞きしたいです。どんな子どもで、どんなことが好きでしたか?
線を書いたり、絵を描くことが好きでした。録画した『アンパンマン』や『ドラゴンボール』などのアニメを一時停止しては、キャラクターを写し取って、それを見ずに描けるように練習していました。
―ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?
父は僕が1歳のときに他界したので、母と祖母に育ててもらいました。母はスナックを経営していて、お店に一緒に連れて行かれることも多かったです。そんなときは一人で静かに絵を描いていた記憶があります。祖母の影響も大きく、「男の子は字が上手い方がいいから」と言われ、小学校の低学年から習字を習い始めました。
―やはり習字は得意でしたか?
男の子の中では上手い方だったと思います。でも、みんなと同じように書くのはあまり得意ではありませんでした。子どもらしい字や男らしい字というと、大きく太く書くイメージがありますが、僕はどちらかというと神経質なタイプだったので、小さく細く書いていました。そのため、形の美しさは褒められましたが、「線があんまりだね」と言われることも。結局、祖母に取りなさいと言われていた段を取って、小学校6年生で辞めてしまいました。
―中学の頃はどんな日々を送りましたか?
中学1年生の頃は、中学受験で培った勉強の成果もあり、学年でトップの成績を取っていました。生徒会に選ばれ、全校集会で話をしたりもしました。しかし、だんだん勉強についていけなくなり、中学2年生のときに母の知り合いの方に家庭教師として来てもらうことになったんです。あるときその先生の鞄の中に巻物が入っているのを見つけて質問すると、それは平安時代のかな文字で書かれた『古今和歌集』の写本だと知りました。
―書道との出会いですね。
その先生は書道家でもあり、書道について色々と教えてもらったり、作品を見せてもらうにつれて、これまでの習字とは違うものだと感じ、興味を持ち始めました。先生の勧めと祖母の支援のもと、先生に書道を習うことになり、毎日一生懸命かな文字を写すことをしていました。
―どんどんその魅力に心奪われていったんですね。
そうですね。それであるとき、先生に大東文化大学という、日本で初めての書道専門の学校ができると聞いて。僕は漢字はやらずに仮名しか書いていなかったし、みんな全国から実技試験で来るから無理だろうと、だったら付設の高校から行ってみるのはどうかと言われて、書道推薦をもらって大東文化大学第一高校に入りました。ですが、学校では仮名をやっている子がほとんどいなかったのと、部活もそんなに楽しめなかったのであまり行かず、普通に高校生活を謳歌しながら、書道は自分の先生の元で一生懸命やっていました。それでも担任の先生の尽力もあって大学への推薦をもらい、進学することができました。
―大学はいかがでしたか?
全国から各県で一番上手な生徒たちが集まってきたので、授業についていけず、みんなの上手さにプライドが傷つけられる思いでした。特に辛かったのは、自分の先生に習った字の書き方と、大学で学ぶことが違ったこと。どんな字が良い字なのかわからなくなり悩みました。そんなとき、大学で日本書道史を専門とする先生から「書は時代を映す鏡である」という言葉をもらい、深く感銘を受けました。書の作品はその時代の思想や文化が反映されていることを理解し、字の形だけでなく、その背景にある歴史や思想も学ぶようになったのです。
―大学生の時に本阿弥光悦の作品に出会い感銘を受けて、その後光悦について研究をしたそうですが、どんなきっかけがあったのですか?
僕は絵も好きだったので、その先生の勧めで俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の展示を観に行ったんです。そうしたら、宗達の作品の手前に本阿弥光悦の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」が展示されていて、それを見た瞬間、雷を打たれるような衝撃を受けて。卒論を光悦にしようと決めました。その後はその先生のお誘いで大学院に進み、修士、博士号を取得しました。光悦を研究する中で、日蓮宗や茶道、工芸など、さまざまな分野を学びました。
―なるほど、そうだったのですね。博士号を取得した後はどうなさったのですか?
そのまま母校で大学の教員として日本書道史を教えました。授業がつまらないと生徒がすぐに寝てしまうので、いかに面白くするかを常に考えていましたね。毎日図書館に通って授業の準備をし、生徒たちの反応を見ながら資料を直す日々。書道についてだけ教えるのではなく、宗教やアニメの話を入れたりして、どうしたらもっと興味を持ってもらえるかを工夫して。僕は苦学生だったので、1授業いくらかと計算してしまうんです。だからこそ面白い授業を提供しようと努力しました。
―根本さんは努力家ですね。
振り返ってみると、24歳くらいまではあまり勉強もせずに中途半端に生きてきたと思います。ですが、光悦の作品と出会ったことで研究に真剣に取り組む決意をして、その後の4、5年間は一日も休まずに本を読みました。そして博士号を取得した後も、高校の非常勤教員や大学の教員を週に1回、さらには塾の講師のアルバイトや習字教室を経営しながら、仲間と作品展示を行ったりして。しかし、次第に自分が本当にやりたいのは、アーティストのように派手にパフォーマンスすることではなく、日本の歴史における書の魅力を伝えることだと気づきました。それで書道団体を辞め、デパートなどで美しい手紙や名前を書く講座を、お着物を好む方々や茶道や香道を嗜む方々に向けて教えるようになりました。
―作家としての活動にシフトしていったのですね。
10数年続けてきた高校の教員は辞め、大学の非常勤講師と作家として生きていこうと考えていました。そんなとき、コロナ禍となり、展覧会やお茶会、パーティーがすべて中止になってしまって。どうしようかと思っていたところ、書道を習いに来てくれていた山平昌子さんからのお誘いで、「ひとうたの茶席」というウェブサイトを立ち上げることになりました。茶人が好む歌を毎月一つ取り上げ、僕が書いた作品を親友の岸野田さんが表具し、華道家の平間磨理夫さんが手がける花と一緒に、昌子さんの夫でカメラマンの山平敦史さんが撮影し、その作品をウェブ上で発表するという企画です。
「ひとうたの茶席」の作品
―「ひとうたの茶席」の作品は、本当にどれも美しいと思っていました。そしてその後、大河ドラマ『光る君へ』への題字を手がけられましたね。
人生で一度お別れしたかなが、また向こうから手を差し伸べてくれて、しかも自分の好きだった分野で携わらせてもらえるなんて、こんなに嬉しいことはありませんでした。さらに、もともとは書道指導の依頼としてのお話だったのが、題字も書かせていただけるという夢のようなご褒美をいただいて。字を見ただけでどういうドラマかがわかるようなものを書いてほしいということで、交渉を重ねながら延べ800枚書きました。
―そうやって、あの素晴らしい題字が生まれたわけですね。あるインタビューで、根本さんが「平安時代は心を糸や紐のようなものとして連想していた。だから紫式部と藤原道長の“ちょっと遠いものに手を伸ばし、掴めないものを掴むような途切れそうな思い”を「光」の字の最終角に、糸のイメージを「へ」の字に表した」とおっしゃっているのを読んで、見方が変わりました。
万葉集や古今集の古歌を見ていくと、愛しき女性への想いを、柳が風に吹かれて絡み合う姿に例えていたり、心という言葉が「結ばれる」とか「絡まる」といった紐を連想させる言葉と結びつくことが多いんです。そして、仮名は「連綿」と言って糸のように連なっていたり、源氏物語絵巻では文字が重なって読めない部分があったりして、これは読ませるだけでなく、心の絡まりを表現しているのではないかと感じるようになりました。いつか大河ドラマの題字を書く機会があれば、本当は仮名だけで表現したいと思っていました。しかしオファーを受けた『光る君へ』というタイトルには漢字と仮名が交互に入っています。これだと仮名文字を繋げられないと困っていた時に、「漢字の中にも仮名の心の糸のような繊細な表現を入れてもいいのでは?」と思うようになりました。掴めないものを掴もうとするような、手を伸ばすような線が引けないかと考えて、「光」の最終角をビュンと細く伸ばしたり、「へ」の字をすっと魂を拾っていくような感じで書きました。
―『光る君へ』は、やはり女性の視聴者が多いのではないですか?
広報の方もそうおっしゃっていますが、男性の方も「戦がなくても見応えがある」などとコメントしてくださる方が多いようです。
―では、これまでの活動の中で一番つらかった頃のこと、そしてそれをどのように乗り越えたのかをお話しいただけますか?
一番つらかったのは、書道団体を離れた頃ですね。書道を辞めるつもりではなく、新しい世界でもう一度書道を好きになりたいと思っていたのですが、仕事がなくなり収入が減り、急にいろんな不安が押し寄せてきて。もう自分は書道家としてやっていけないんじゃないかと思って、ストレスで自律神経のバランスを崩してしまいました。電車に乗ることもできないほどでした。
―それは大変でしたね。
隙を作ることが怖かったので、その頃はずっと本を読み続けていましたが、その時に読んだ古歌が心の助けになりました。古今集の終わりに雑歌(ぞうのうた)という部立があって、それを改めて読んでいると、「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ(この世は夢なのか現実なのか、現実とも夢とも誰にもわからない。なぜならそれは有って無いものだから)」とか、「世の中は昔よりやは憂かりけむ我が身一つのためになれるか(この世は昔からつらい世の中だったのだろうか。それとも、自分にとってだけそうなったのだろうか)」と、過去の偉人たちが悩みを吐露していることに気づいて、みんな自分と同じ人間なんだなって、ずしずしと心に響きました。また、書くことに集中したのも良かったようです。荒かった呼吸が整い、少しずつ心が安定していきました。教室の生徒さんたちにも助けられましたね。
―では、逆に一番嬉しかった出来事を挙げるとしたら何になりますか?
たくさんありますが、やはり『光る君へ』の話をいただいた時はとても嬉しかったです。今までやってきたこと全てが報われる瞬間というか、誰に何と思われようとも、めげずに好きなことを続けてきて本当に良かったと思いました。あとは子どもを授かったことも大きな喜びですね。
―根本さんの書のスタイルを一言で表すとしたら何ですか?
新たな自分のテーマとして「令和の雅」を表現することがあります。僕は京都生まれでも貴族でもなく、親が書道家でもありません。それでも「平安の雅」について語る立場に立っていることに、どこか違和感を感じる自分もいます。しかし、令和という新しい時代では、生まれや身分に関係なく、好きなことをやっていい時代です。だから「平安の雅」ではなく、新しい「令和の雅」を模索していきたいと思っています。
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―今の時代、情報が溢れていて独自のスタイルを生み出すのは難しいと思いますが、そこに苦労している人たちにアドバイスをするとしたら何を言いますか?
よく「やりたいことを見つけなさい」と言われますが、「しても嫌じゃないこと、そして、やりつづけられることを見つける」ことが大事だと思っています。それが個性の発見につながるのではないかと。僕にとっては、それが仮名を通して日本文化の思想を学ぶことでした。でも、仮名を教えるだけでは食べていけなかったので、好きな「喋り」を活かして教師をやり、漢字の書き方も教えました。大好きな仮名は誰に何と言われようと大事にしておこうと思っていたんです。そうしたら大河ドラマのような素晴らしい機会をいただいて。「仮名をお金にしたい、売れたい」と思わなくて本当に良かったと思います。自ら求めず、いつか誰かが手を差し伸べてくれたらいいし、してもらえなくてもけっして後悔はないと思えるものと出会う。それが大切なんじゃないかなと思います。
―では、憧れたり尊敬する方はいらっしゃいますか?
本阿弥光悦です。こんなに理想的なアーティストはいないと思いますし、人生のお手本にしています。また、紀貫之も尊敬しています。彼は初めて日本の歌というものを世に定義した人で、彼がいなかったら、僕がここまで和歌や仮名の魅力を伝えることはできなかったでしょう。現代では伊集院光さんを一番尊敬しています。「100分de名著」が大好きで、伊集院さんの質問の仕方や優しい語り口は、専門家の先生たちのお人柄を上手く引き出してくれます。それによって改めてその先生方の本を読んでみると、そこには人間味が現れ、内容がより理解できるようになるのです。これはすべて伊集院さんのおかげだと感じています。
―理想の人間像はありますか?
後進の方々に多く質問されるような人になりたいですね。自分から「教えてあげよう」というのではなく、彼らが自発的にたくさん質問してくれるような大人でありたいと思っています。そして、教えたことに対しても、無理に「これを大切にしてほしい」とか「僕が教えたんだ」と押し付けるのではなく、それぞれが自分に合うものを見つけていけば良いと考えています。僕自身、そうしたかっこいい大人たちをたくさん見てきました。僕が日本文化を楽しみながら追求する姿勢が後輩たちに良い影響を与えられればと願っていますが、「守らなければならない」と感じさせるものではなく、「やりたいことを自由にやってみよう」といった気づきを与えられるような、そんな大人になりたいです。
―では、根本さんにとってチャンスとは?
チャンスは縁だと思います。そして、そのいただいたチャンスにいつでも応えられるように準備をしておくことが大切です。ただ、何の準備が縁につながるのかは分からないので、ただただ好きなことを深く突き詰めていくことがまず必要だと思います。ある時、NHKの広報の方にこう言われました。「売れるとは重たいものを軽くすることである」と。「根本さんは日本の歴史など重たいものをたくさん持っているけれど、その重たいものを持っているだけでは誰も気づかずに終わる。それをふわっと軽くして上に上がってきてください。その重たいものの中からどれを持って上に上がるか、それが売れるということです」と言われて鳥肌が立ちました。だから、いかに深く、重たいものを大切に携えておいて、ご縁によってチャンスをいただいた時に、その重たいもののどの部分を持ち上げるか。そしてそれが社会性と結びついたら、多くの人に喜んでもらえるのではないでしょうか。これがチャンスをものにするということなんじゃないかなと思います。
―自分が持つ強みのどの部分をどう表現するか、常に考えておくことが大事ですね。
そうですね。僕は専門性だけでは誰にも気づいてもらえないと感じたので、少しでも喜んでもらえるように、他分野で例えができることや、他の人の目線に立って何が面白いと思うかを考え、シミュレーションすることを大事にしてきました。
―では、成功とは何だと思いますか?
今言ったように、「重いものを軽くできて、専門性に社会性が伴うこと」。それが成功じゃないでしょうか。僕が尊敬している人たちはみんなそういう人たちです。必ず専門性があって、そこに社会性が結びつき、軽やかに羽ばたいている人たち。まさにそれが成功だと思います。
―最後に、まだ実現していないことで、これから挑戦してみたいことを教えてください。
よく聞かれるんですけど、特にないですね。今は自分から何かを求めるのではなく、求められることに対して100%応えていこうと思っています。今までの人生で自分が求めたことが叶ったことがないので、自ら求めてはいけないという意味を込めた「自不求(じふく)※茶道の「自服」を掛けた造語」という作品も書いているくらいです。自ら求めると欲が先に出てきてしまい、受け取り手もそれを感じてしまうと思います。だからこそ、大義を持ってやっていることに対して手を差し伸べてくれるのであれば、そのお手伝いをしましょうというスタンスで、それがどう広がっていくかを楽しみにしている状態です。そのご縁がまた違う大きな仕事につながるかもしれないし、つながらなくても構わないし、あったら嬉しいなといった感じです。むしろこんなマニアックな人間を、どうやってもっと社会性を持たせてくれるのだろうかということに期待している部分もあります。「皆様のお力添えをください」という感じですね。もし何もなければ、僕はひたすら本の中に閉じこもるだけです。