【本当の意味でのメンタルの安定とは】~違和感と向き合いその本質を突き止める~
小さい頃から総合格闘技の選手になると決めていた中村選手。念願の総合格闘家としてスタートししたものの、3戦目にUFC進出間近と言われる強豪選手との試合が決まり、体もメンタルもどん底の状態だった。そんな時、山本美憂氏を通して慶人コーチと出会い、コーチングを受けてみることになる。
埼玉出身だそうですが、子供の頃はどんな子で、どのような環境のもと育ちましたか?
めちゃめちゃ元気で、とにかくうるさい子。ずっと喋ってたみたいです。僕が生まれた時、父親が初代タイガーマスクの佐山聡さんと「PUREBRED大宮」という格闘技のジムをやっていたので、そこによく連れて行かれて格闘家の方と遊んでもらってました。ジムの隣には父が経営する健康センターがあって、子供にとって遊園地のような場所を与えられてたと思います。
レスリングには小さい時から自然に入っていった感じなんですね。
そうですね。物心ついた時は、4代目タイガーマスクさんとか、当時修斗の四天王だった朝日昇さんやエンセン井上さんなど、今の日本の格闘技の源流になる方達がジムに集まっていて、皆さんがこの世のものとは思えないくらいの迫力で練習している姿を見て、「お兄ちゃんたち怖え、でも遊んでくれると面白い」と思ってました。真剣に取り組み始めたのは5歳の頃です。山本KIDさんがエンセンさんに弟子入りして、KIDさんのお父さんの郁榮さんや、姉妹の美憂さん、聖子さんと、山本ファミリーが来たんです。当時美憂さんと聖子さんは女子レスリングの世界チャンピオンだったんですけど、女子レスリングがオリンピックの競技にはならないから指導もやりたいとなって、美憂さんの息子のアーセンと、僕と弟の3人で一緒にやろうってなって。
5歳の頃。左から母、山本聖子、山本美憂
6歳頃。弟の剛士(左)、山本アーセン(中)と
それまで遊びでやっていたものを真剣にやるとなると、やっぱり違いましたか?
違いました。美憂さんは基礎を延々とやらされる方なので面白くなかったですけど、僕は負けず嫌いなんで、泣きながら組み合いとかやってました。「こういうお兄ちゃんになりたい」って思える人たちが周りにたくさんいたから、自分もそうなれると信じて続けてました。
小5、6と全国大会2連覇したそうですが、いつ頃から強くなっていったんですか?
小5の頃は頑張って減量して一番下の階級で優勝しましたけど、僕が特別強いと思うことはなかったです。周りに強い子たちがあまりいなかった感じで。
ちなみに当時から将来総合格闘技に進む予定で、その一環としてレスリングに取り組んでいたそうですね。
当時というか、3歳、4歳の頃からそう思ってました。小さい時にお母さんに連れられて、お兄ちゃんたちの試合を後楽園などに見に行ってたんですが、大人たちが試合を見て泣いたり喜んだりする姿に、こんなに人を巻き込める競技ってすごいと思ったのを覚えてます。その時から「これをやる!」って決めてました。
中学、高校の頃はどんな毎日を送っていましたか?
小5、6と全国大会で優勝したんで、花咲徳栄高校の監督から「中学生になったらうちに練習しに来ていいよ」って言われて行くようになりました。学校が終わったらすぐ家に帰って、電車で1時間かけて行って練習してって感じで。練習はめちゃめちゃきつかったです。
思い出に残る試合はありますか?
頑張って練習した甲斐があって、2年の時に全国中学生の決勝に行けて、その決勝の相手が小学校の時は怖すぎて自分が大泣きしちゃうくらいの子だったんですけど、その時初めて点が取れたんです。結果負けたけど、自分が強くなってると感じられたことが印象に残ってます。中3の時に全国中学生選手権(42kg級)で優勝した時より嬉しかったですね。あとは、高2の時に世界選手権で3位になったことも自信になりました。でもとにかく毎日必死で、嵐のように過ぎ去って行った中のひとコマくらいの感じです。
そして専修大学に進学(2013年)されて、大学時代はどんな日々を過ごされましたか?
大学に入ってすぐの大会で、インターハイ3連覇の、手の届かないと思っていた1個上の選手を倒して、着実に力がついているのを感じました。その後2年生でインカレ(全日本学生選手権)と全日本大学選手権で2冠を取って、オリンピックが見えてきたと思いきや、3年の時に全日本選手権で負けてしまい、リオ五輪代表権を逃して。僕の中では「リオデジャネイロオリンピックに出場して総合格闘技に転向」っていうプランだったんで悔しかったけど、4年まではレスリングを続け、転向するのは大学卒業後にしようと思いました。そんな時、いろんなコーチに「次のオリンピックは東京なのに何で今格闘技に行くんだ、転向するのは東京オリンピックを目指してからでも遅くない」って言われて、自分の考えを変えて、監督が紹介してくれた博報堂に入社し、東京オリンピックを目指すことにしました。
そして、初開催となったU-23世界選手権に出場して、61kg級の初代世界王者(2017年)となったんですよね。いきなりそんな結果を出すとは、やはりすごいですね。
オリンピックって運とタイミングもあるし、まだ行けるかわからない中で、世界が僕のレスリングを恐れてくれる武器の一つになると思いました。だけどその2年後、練習中に肩を壊してしまって。同じ階級だと強い相手があまりいなかったから、でかいやつとやった方がいいってことで毎日86キロ級とかの選手と練習してたんです。そうしたらある時投げの打ち合いで、ブチボリ〜!って音と共に肩から落ちて、終わったと思いました、東京オリンピックへの夢も消えたって。
U-23世界選手権に出場し、61kg級の初代世界王者に(2017年)
まさかのそんなアクシデントが。
脱臼だったら良かったんですけど、脇の下に走ってる神経が切れかけて、三角筋が日に日になくなっていきました。10ヶ月経っても手をあげることもできないし、いろんなリハビリに行ったけど全く良くならなくて。その後、肩が治らないまま、全日本選手権で乙黒選手と戦って負けて。自分の中でやり切ったと思えたので、残っていた職務を終えた後会社を辞めて、2019年に格闘技に転向しました。
転向してどうでしたか?
最初は酷かったです。肩がまだ全然ダメで、パンチを打ったら腕が下がるからガラ空きになって殴られて。ガードをあげようにも肩が言うことを聞かないから殴られ続けて、もう無理って状態でした。毎日泣きながら家の近くのジムでレッグプレスをしてたのを思い出します。
とても大変な状況だったんですね。プロデビューはその次の年の7月(2021年)ですよね?LDHに所属されて。
はい。レスリングの実績を掲げて格闘技に転向したのに、こんな肩じゃダメだって、コーチがとてもいい技術を持ったトレーナーを紹介してくれて。考え方を根本的なところから変えて、地味なことを延々とやってるうちに出来ることが少しずつ増えていき、肩の筋肉も戻ってきました。
それは本当に良かったです。その後2022年にRoad to UFCに出場されますが、Road to UFCには昔から出たいと思っていたんですか?
ずっと死ぬほど入りたいと思ってました。でも、Road to UFCは定期開催するものではなく、2015年以降開催されてなかったし、情報もないので、どうやったら出場できるのかは探り探りの状態で。
慶人コーチとの出会いは?
2022年の4月に両国国技館で開かれた「POUND STORM」でのアリアンドロ・カエタノ戦の3週間くらい前ですね。LDHに所属してからの試合は、1戦目も2戦目も、なんとか神の導きみたいな感じで勝てたんですけど、3戦目は両国国技館での大規模なイベントでブラジルのカエタノ選手と戦うことが決まっていて。期待に応えないといけないのに、1月にコロナにかかって、2月には足首2箇所折って、3月は蜂窩織炎っていう菌がたまって3週間高熱が下がらなかったり、生まれて初めて喘息が出たりという不調が続いてしまったんです。ご飯を食べても戻してしまったり、寝れなくなったり、今まで好きだった趣味も全くしなくなって、毎日家で泣いてるみたいな日々で。
それはとても辛かったですね。
そうしたらある日、美憂さんが「最近どう?」って急に連絡をくれて。いつもなら大丈夫って言えるけど、その時は嘘でも返せなくて正直に自分の状態を話したら、「最近倫也は周りに感謝してばかりいるけど、自分が主人公になっていいんだよ」って言ってくれたんです。そしてその2日後にまた連絡をくれて「私のメンタルコーチングの慶人コーチに会ってみない?」って。信頼できる美憂さんがそう言うなら、と慶人コーチを紹介してもらうことにしました。
抱えていた問題
■大切な試合の3週間前なのに、コンディションが悪く思うように練習もできない
2022年4月24日に両国国技館で開かれる「POUNDSTORM」でカエタノとの対戦が決定したものの、怪我や体調不良が続き、思うように練習が出来ない状態だった。自分が何をしたらいいのか、何が出来るのかわからなくなっていた。
中村選手: 「自分は総合格闘技のキャリア3戦目、対戦相手のカエタノ選手は30戦で23勝。そこに対する焦りもありました。なのに、それまでずっと肩の怪我に悩まれて、まだ手の蜂窩織炎もたまっていたし、コンディション的には喘息もあって、ガンガンに練習はできない状況だったんです」
解決方法
■イメージの中で100回試合をし、100通りの対応策を立てる
練習できない状況下にぴったりの試合に向けた練習方法として、環境もシチュエ―ションも、究極に試合に近づけてのイメージトレーニングを行っていった。しかも「どんなところに違和感を感じるのか、どんな展開になったら負けそうか、どこに勝機がありそうかなど全部突き詰めて、試合までに頭の中で100回試合して100通りの対応策を立てて。そうしたら、カエタノと試合する時は101回目になるから、怖くないでしょ?(笑)」と慶人コーチは言ったという。
中村選手:「究極に試合に近づけて行うから、試合のパンツ履いて、グローブはめて、ワセリンつけて。そして入場から入場曲かけて、ガンガンにカエタノと試合するイメージして」と言われ、最初は「何それ、変態じゃん!」と思いましたが、自分にブレーキかけちゃっているだけで、本当にやりまくった方がいいなと思いました。そして“試合の時は101回目”を想像した時に確かに怖くないなって思って。それから3週間、「タックル切られた、ジャブされた、メチャメチャに暴れてきた」など、全部のシミュレーションをしました。それまでは自分の中でイメージすることを拒否していたシチュエ―ションだったんですけど、「そうなったらどうしようかな、どう思おうかな」と深く考えるようになって、カエタノと向き合う時いかに楽に戦えるかを突き詰められるようになったんです」
得られた結果
■キャリア2戦と30戦の差を埋め、見事3-0の判定勝ち
シミュレーションを重ねる中で、自分が不利なシチュエ―ションへの対策も対応も具体的になり、明確に勝てるイメージが出来るようになった。そして迎えたカエタノ戦、1Rにパンチを受けて右瞼を切り出血するも、試合を優位に運び、3-0の判定勝ちを収めた。
中村選手:「練習の時に「試合でこれもらった時はこうする、そうしたらこうなるので大丈夫」という状態まで持っていきました。例えば、「足を蹴られた場面をイメージして、痛えって思いながら左後ろに下がり、そのままハイキックもらって負け。じゃあ、その場面で逆に右前に出てみたら?と思い、シミュレーションしたらカエタノが嫌がったぞ」という感じに。そして「判定でしか勝てないけど、判定で勝てます」と慶人さんに言いきったんです。実際に試合で向き合った時は、全く動じず、何が来ても「はい、こう来たな」「はい、これこないだイメージの中でもらった」「けどこうすると嫌なんでしょ、わかってるよ」みたいなマインドでガンガン攻めて。そこでキャリア2戦と30戦の差をぐっと埋めることができたんです。奇跡でしたね」
コーチ補足
■本当の意味でのメンタルの安定の為に、自分の違和感と徹底的に向き合い正体を突き止める
慶人コーチ:総合格闘技は対人スポーツなので、いいイメージだけ持って挑んでも、イレギュラーなことをやられ、どうしようと思った瞬間に、もう一手先にやられてしまう。だから、何が自分の嫌なウィークポイントで違和感なのか、その正体を実際に身体を動かしながら、試合に近い状態でシミュレーションしながら突き止めていくんです。「こういうのは嫌だな、こうしたら負けるかもしれないな」っていうことと徹底的に向き合い、潰していく。その正体を突き止められれば、「そうなった時にはどうしたらいいのか」のABCを作れるし、「そうならない為にはどういう動き方をすればいいか」が分かってくる。そしてそれらを具体的に明文化することで、すばやく対応が出来るようになる。そうやって何が来ても大丈夫な状態を作って本番を迎えることが、本当の意味でのメンタルの安定だと思っています。
次は、今までで一番視界が開けたコーチングについて