ヴォーン・アリソン
―ご出身はオーストラリアのメルボルンだそうですが、どんな場所、どのような環境で育ちましたか?
メルボルンはコーヒー文化で有名で、人々の生活の大きな一部となっているのですが、僕も日々の生活の中でカフェで過ごすことが多くありました。両親はダンススクールとレストランを同時に経営していたので、幼い頃から両方のビジネスを手伝っていました。
―小さい頃印象に残っている街の情景や、子供の頃の思い出を教えてください。
やっぱり一番覚えているのはカフェの様子です。近年のメルボルンでは、モデルのような容姿のバリスタがスペシャルティコーヒーを淹れる、白い壁でおしゃれな内装のカフェが人気です。それもまた良いのですが、当時のカフェは常に活気で溢れていて、グラスの割れる音や、お客さんを迎え入れる大きな声が響き渡っていました。全てが完璧で整頓されているのではなく、混沌と共に愛が溢れる、そこに集まる人たちの第二の家のような場所でした。
―ヴォーンさんは当時どんなことに興味を持っていましたか?
実は物心ついた時から既に日本に関心を持っていました。母のダンススクールに通っていた日本人の女の子ととても仲良くなり、日本の文化を色々教えてもらったことから興味を持つようになったんです。オーストラリアでは小学校から第二言語を勉強するのですが、僕の学校では日本語かフランス語の2択で、迷わず日本語を選びました。その後、アニメの「NARUTO」や相撲にもハマって、よく観ていましたね。12歳の時にはその友達と彼女の家族と一緒に日本に初来日しました。
―来日前は日本にどんなイメージを持っていましたか?
当時持っていたイメージは、小学校の教科書で学んで感銘を受けた、寿司や相撲、侍など伝統的な日本の文化です。オーストラリアは素晴らしい国ではあるけれど、先住民族の文化を除くと、日本の様に古代から受け継がれてきた伝統的な文化はないんです。何しろ建国120年程ですからね。食べ物など、全ての文化は他の国から持ってこられたものです。
―初来日された時はどんな印象を受けましたか?
言葉にできないほど素晴らしいものでした。一緒に来日した友人家族とは離れて、3週間ある日本人家庭にホームステイしたんです。一番思い出深いのは、ゲームセンターに行った時のこと。UFOキャッチャーに夢中になって、興奮してそのまま財布を置いてきてしまって。数時間後に気付いたのですが、「お母さんに怒られる…」と絶望的な気持ちで泣いたのを今でも覚えています。街中の、色んな子どもたちが集まるとても混雑した場所ですから、絶対にあるわけないと思いつつも戻ってみたら、そのままの形で置いてあったんです。日本人から見たら普通のことかもしれないですが、僕にとってはすごいインパクトでした。人々がお互いに尊敬し合う文化に、幼いながら深く感銘を受けました。
―12歳にしてすごい経験をしましたね。ところで、ご両親はどんな方で、どんな育てられ方をしましたか?
二人ともとても仕事熱心な人たちです。父はとても穏やかな人で、エネルギッシュな母を支え、ふたりでビジネスの経営に120%のエネルギーを注いでいました。ダンススクールには200人程の生徒さんが通っていたのですが、母は、その全員のお母さんのような存在でした。子供たちのことを自分の子供のように思い、時には厳しく、常にたくさんの愛情を注いでいました。自分の親の言うことは聞かない子供たちも、母の言うことは聞くので、よく子供たちの親御さんに、「先生の言うことなら聞くからお願いします」と頼まれてましたよ。1歳から70歳までの生徒さんが来ていましたが、全ての生徒さんにとっての母であり、コーチであり、カウンセラーでもありました。その活動が認められて、エリザベス女王から優秀な教育者に与えられる賞をもらった程です。
―愛と情熱に溢れた素敵なお母さんですね。では、ヴォーンさんが通った中学、高校はどんな学校で、どんなことを学びましたか?また当時はどういうことに興味がありましたか?
両親が教育熱心だったので、ありがたいことに権威ある私立校に通わせてもらいました。でも、あまりいい生徒ではなかったですね(笑)。どの教科も、ギリギリでパスしてなんとか進級しました。でも唯一、日本語のクラスでだけは優等生でした。学校に行かない時はいつも両親の仕事を手伝ってましたね。小さい頃から母が振付師をしていたミュージカルをいつも舞台袖から見て育ちました。他の子供たちほど上手くはなかったけど、ミュージカルに出させてもらうこともあったんですよ。
―高校卒業後はどういう進路を選ばれたんですか?
高校の日本語の先生に、日本の大学に進学することを勧められて、何校か応募しました。運良く奨学金をもらうことができて、2001年、大分にある立命館アジア太平洋大学に入学しました。
―好きを追い続けると形になりますね。小さい頃ホームステイで来たことはありましたが、大人になって住んでみて、興味深かったことやカルチャーショックなことなどはありましたか?
規則正しく、時間厳守なところにびっくりしました。オーストラリアでは、例えばバスが遅れることは当たり前、むしろ来ない時だってあるくらいです。日本人は当たり前と思っていますが、こんなにたくさんの人が東京にいて、これだけの秩序が守られているって、本当にすごいことだと思います。これだけ大きな都市でこんなに治安のいい所は地球上に他には存在しませんよ。
―大学では何を専攻されて、どんな大学生活を送りましたか?
ビジネス、主にHR(Human Resources /ヒューマン・リソース)を専攻してBBA (Bachelor of Business Administration /学士(経営管理))を取得しました。でもやっぱり勉強はあまりしなかったですね(笑)。 タップダンスのサークルを立ち上げて、メンバーを募って20人くらいで活動していました。今もそうですけど、人と話すことが大好きだったので、学校にいるよりファミレスで友達と食べたり飲んだりしながら楽しい時間を過ごす方が多かったです。自分でもよくわからないのですが、それでもなぜかGPA 3.9を取って早期卒業することができたんですよね。
ーそれはまたすごいですね、そのコツを教えて欲しいです。大学卒業後は日本で就職されたんですか?
それが違うんです。卒業後すぐオーストラリアに戻って日系企業で働きました。KUMONオーストラリアの社長のアシスタントの仕事をして、社長にコーヒーを挿れて出したり、会議の準備をしたり、かばん持ちをしたりしていました。一番多かったのは一緒に飲みに行くことでしたね。毎日一時も離れず社長と過ごすことで、ビジネス経営を実践で学ぶことができてとてもいい経験になったのですが、2年半働いた後、もっと魂が震えるようなことがしたくなって辞めました。
―その後はどんなお仕事をされたんですか?
KUMONの仕事をしている時に兄がバンドを始めてよくライブを観に行ってたんですけど、いつも同じライブハウスでやっているので、シドニーとか色々な場所にツアーに行くことを提案しました。でも兄は、飛行機の予約の仕方がわからないとか、ポスターも作れないし、などと色々言い訳をしてやらなかったんです。それで僕がやってあげると買って出て、CDを作る手伝いなどサポートし始めて。それが高じて、KUMON退職後、アーティスト・マネージメントの会社を立ち上げました。
―やってみていかがでしたか?
兄のバンドを含め、5組のアーティストのマネージャーとして色々な面でサポートするのは、ある意味KUMONの社長のアシスタントの仕事とよく似ていました。残念ながら経営はあまりうまくいかなかったのですが、そのビジネスを通してたくさんの人達と繋がることができ、貴重な体験をたくさんしました。そしてある日、今の妻に出会ったんです。彼女は建築士なんですけど、個展の為にオーストラリアに来ていた時に、たまたま僕の兄のバンドのライブに来ていたんですね。すぐに付き合い始め、僕は日本に輸入されました(笑)。
―それはもう運命ですね!来日後はまずどんな活動をされたんですか?
ワーキングホリデービザで来たのですが、仕事も何も決めてこなかったので、暫し途方に暮れていました。そんな中一人友達ができて、ある日ハチ公前で待ち合わせをしたんです。ちょっと早く着いたので待っていたら、モデル事務所の人にスカウトされました。そのエージェントの人は、翌日どうしてもモデルが必要とのことで、僕はモデル経験0で早速次の日撮影をすることになりました。
―何の撮影だったんですか?
雑誌の撮影だったんですけど、終ったら次の日の撮影にも呼ばれてそれが仕事になっていって。4年程モデル業に携わった後、文化服装学院の英語講師の仕事に転職しました。
モデルをしていた頃 Photo: Jaykay Suh (for Espionage, Korea)
―服飾の大学で英語のクラスがあるんですか?
英語でファッションについて楽しく話すクラスなんです。2013年に始めて、今でも週2日働いています。ここで教えることや、生徒と話すことは僕の生きがいとなってます。
―今でこそヴォーンさんと言えばコーヒーの人というイメージですが、色々な事をやられていたんですね。では、コーヒーについての発信はどのように始められたんですか?
当時モデルの仕事はたいてい朝、アーティスト・マネージメントのイベントは夜にあることが多かったので、日中はよくカフェで過ごしていました。新しいカフェがオープンすればオープニングパーティーに行ったり、通って堪能しているうちに、たくさんの人に日本のカフェ情報を伝えなくてはと思い、2009年にブログを始めました。毎月特別なカフェを1軒取り上げて記事を載せていたんです。当時英語で日本のカフェについて紹介しているブログは他になかったと思います。そこからコーヒーにまつわる小さなイベントを開催したり、2015年には、コーヒーに関わる人たちを一つにし、東京のコーヒー業界を盛り上げる目的で立ち上げられた「Tokyo Coffee Festival」にアドバイザーとして参加しました。その後、スペシャルティコーヒーが楽しめるカフェ情報を紹介する情報サイト「Good Coffee」の設立にも携わりました。
自身のブログで日本の様々なカフェを紹介 Photo: Takahiro Otsuji
―東京のみならず、全国のコーヒー業界を盛り上げる活動をされて。ご自身のコーヒーショップ「MIA MIA」はいつ設立されたんですか?
2019年に契約を済ませ、2020年の4月に、“Bring People Together”(人々を集め繋げる)のコンセプトと共にオープンしました。お年寄りやオシャレな若者、地元の人たちに海外からの旅行者などいろんな方に「条件なしに、人々が交流できる場」を提供するカフェです。
―ちょっと待ってください、2020年4月ってコロナが発生した1か月後ですよね?
そうなんですよ…。しかもお店のモットーは、“Don’t Let Anyone Go Home”(お客さんを家に帰らせない)でした(笑)。一杯のコーヒーをきっかけに、普段関わることのない人同士がコミュニケーションを図れる場所を作りたかったんです。緊急事態宣言が発令されて「ステイホーム」の要請が出たパンデミック発生中にオープンするには、まさに最悪なコンセプトでしたね(笑)。
―そんな厳しい状況の中、よくここまでお店を維持してこられましたね。
何とか生き残ってこられました。このお店に込めたコンセプトはもう一つあって、それは一度来店したら、何度も戻ってきたくなる場を作ることだったんです。実際MIA MIAのお客さんのほとんどがリピーターで、お客さん同士みんな顔なじみです。田舎の方では、お店の人とお客さんや、お客さん同士も名前で呼び合えるようなお店もあると思いますが、東京では珍しいことです。まだまだ課題は残っていますが、そういう場を作れていることは本当に嬉しく思います。
―すごいですね。世界規模のパンデミックの中、そんな無謀とも思えるコンセプトで飲食店をオープンされて、どのようにやり抜くことができたのですか?
それが不思議なのですが、とても自然な流れでできたんです。ただただ自分の想いを信じて、本物のコミュニケーションを取れる場を提供していただけなのですが、気が付いたら良い流れに乗っていました。雑誌「Monocle(モノクル)」の特集で、世界で活躍している創業者100人のうちの一人として取り上げてもらったり、「POPEYE」 の表紙にも載せてもらいました。それまでPOPEYEは創業以来、一度もコーヒーショップを表紙で取り上げたことがなかったのに。コロナ渦には不向きに思えた、「人々の交流を作る場を提供する」というコンセプトは、もしかしたらそういうコミュニケーションが取れない状況下だったからこそ、必要とされたのかもしれないですね。
―日本ではあまりそのように、お店などで知らない人とスモールトーク(雑談)はしないですが、そういう雰囲気じゃないからしないだけで、本当はみんなそれを望んでいるんですかね?
望んでいるけど、経験したことがなかったり、望んでいることに気付いていないのではないかと思います。これはとても重要なトピックだと思います。今、人と人との関わりがどんどん減少していますが、人間はみんな、本当は交流やお互いの存在が必要なんです。全ての関係性は、挨拶やお互いを知ろうとするところから始まるんですから。日本人は、エレベーターやスーパーのレジで会話を弾ませるということはないですが、お酒の席になるとオープンになってすごく楽しい空間を作り出すことができますよね。
―確かに。お酒の力を借りなくてもできるといいですね。ところで、メルボルンは世界で一番カフェが多い“コーヒーの街”として知られていますが、コーヒーカルチャーはどう始まったんですか?
元々は、戦後イタリアからたくさんの移民がエスプレッソマシンを持って来たことから始まりました。そこからたくさんのカフェが開かれて、今でもメルボルンには日本の居酒屋と同じくらい軒並みカフェがあります。カフェに行くことはメルボルンの人達にとって特別な事ではなく、日常の生活の一部なんですよ。イタリア人によって根付いた美味しいコーヒーを淹れる技術と、温かい家族のようなおもてなしが今でもそこにあります。だからあのスターバックスでさえ、メルボルンに店舗展開しようと試みましたが見事に失敗しました。100軒ほどオープンしたのが今では空港内などに5軒程残っているだけです。
―アメリカの大型チェーン店の入る余地がない程、メルボルンのカフェ文化は人々の生活に深く根付いているんですね。では、オーストラリア人の国民性を教えてください。
とても明るく楽天的で、いつも冗談ばかり言っています。たまに「ここはもうちょっとしっかりしようよ」と思う時もありますけどね(笑)。職場環境は日本と全く違って、人権が法律でしっかり守られているのでとても働きやすい場が保たれています。あと、環境に対して意識を高く持っていますね。持続可能性に関しても世間の目は厳しく、みんなで団結して環境を守っていこうと取り組んでいます。
―いいことですね。オーストラリアに行ったら是非行って欲しい、ヴォーンさんが大好きな場所はどこですか?
「Pallegrini’s Espresso Bar(ペリグリーニ・エスプレッソバー)」という伝説的なカフェです。イタリア人移民のペリグリーニ兄弟によって戦後まもなく開かれた老舗のコーヒーショップで、スイカ味のイタリアのかき氷「グラニータ」と、絶品パスタ、本格エスプレッソで有名なお店です。そこの二代目オーナーだったSisto Malaspina(シスト・マラスピナ)は本当に温かい人で、僕もとても慕っていました。彼は全ての人を受け入れることを大事にしていたので、お店はいつも有名な映画俳優や政治家からホームレスの人たちまで、あらゆる人々で入り混じってました。長いカウンターや、テーブルがいっぱいになると、キッチンにまでお客さんを招き入れて、まるで家族のようにみんなに接していて。シストは本当に多くの人達に愛されていたのですが、2018年のある日、お店のすぐ近くで起こったテロ事件に巻き込まれてしまったんです。車を爆発させたテロリスト自身に火が移ってしまい、慌てているところをたまたまシストが目撃して、犯罪者だとは思いもせず助けようと駆け寄った時、テロリストが持っていたナイフで刺され亡くなりました。
―そんな悲しい事件があったのですね。
生涯をかけて人を受け入れ、助けてきたシストの最後の行いは、やっぱり人を助けることだった。シストの葬儀はオーストラリアのビクトリア州政府によって開かれ、多くの人達に見送られました。今でもペリグリーニは家族によって営まれていて、シストが作り上げた温かい空間が引き継がれ、シストを愛する人たちが後を絶ちません。僕もそんな風に、この世を去った後、人々の心に残るような人生を送りたいと思います。それには、ただコーヒー豆の種類や淹れ方に拘っているだけではだめで、なにか人の心に届くことをしていかなくてはいけないと思うんです。
―もう既にやっていらっしゃるし、今度はヴォーンさんの行いに影響を受ける人がどんどん増えていくと信じています。それでは、日本で大好きな場所はどこですか?
やっぱりコーヒーショップなのですが、表参道にある「KOFFEE MAMEYA」と渋谷の老舗喫茶「茶亭 羽當(ちゃてい はとう)」です。僕がコーヒーショップを開くにあたって、影響を受けたお店が、その二軒とペリグリーニなんです。彼らが持つ、コーヒーやコーヒー業界、ホスピタリティーへの愛や情熱にはとても感銘を受けました。MAMEYAは、一人のお客さんに対して少なくとも20分をかけてカウンセリングをして、カルテを作り、その人にあったコーヒーを選んでいます。茶亭 羽當は1989年創業の老舗で、3人のコーヒーマスターのうち2人は創業当初から、残りの一人も15年以上羽當でコーヒーを淹れ続けているベテランです。彼らから、一人一人のお客さんとじっくり向き合って大切にする心、継続することの大切さを学びました。
茶亭 羽當にて Photo: TATSUYA YAMANAKA
―それでは、ヴォーンさんの英語で好きな言葉を教えてください。
「BIG LOVE」です。僕たちがやること全てにおいて、喜びや感謝の気持ちを口に出したり、感じることはとても大事だと思います。
―日本語で好きな言葉はありますか?
「Youは何しに日本へ?」です(笑)。 好きな言葉というより、出会う人にこれを聞くのが好きなんですよね。この一言で、あなたは誰で、何に興味を持っていて、どこから何をしたくてここにやってきたのかという全てを聞くことができると思います。
―ダジャレ好きなヴォーンさんですが、一番好きなダジャレは何ですか?
色々あるんですけど、どれもあまりウケないですね(笑)。ゴールデンウィーク中に、MIA MIAの3周年記念イベントをやるんですけど、そのイベント名もダジャレなんですよ。3周年のアニバーサリーなので「MIA MIA Aniverthree」(マイア マイア・アニバースリー)です。
―(笑)。どんなイベントになるんですか?
ゲストバリスタが淹れるスペシャルティコーヒーや、フードが楽しめて、フリーマーケットにポップアップショップも堪能できるイベントです。さらに期間中、7組のゲストミュージシャンによるライブミュージックも楽しめます。ちなみにそのゲストの半分は、今年のFuji Rock出演が決定しているアーティストなんです。
—そんな大物アーティストのライブが間近で観られるなんて、楽しみどころ満載ですね!では次に、ヴォーンさんが好きな日本の文化や特性はどういうところですか?
西洋の文化では、個性を大事にし、自分の意見を自由に言える事が重要視されているので、お互いのことを尊敬し、敬うことはそれほどできていないように感じます。対して日本人は、とても礼儀正しく、人に迷惑をかけないよう、常に意識しているところが素晴らしいと思います。
―逆に変化が必要だと思うところを教えてください。
日本はおもてなしの国と称されていますが、少し形式ばっていて、距離を置いたサービスだなと感じます。デパートやホテルでも、カウンターの向こうで待機して、来る人たちに求められた情報だけを与えています。とても礼儀正しく丁寧な対応ですが、温かみはあまり感じられません。多くのお客様は、自分が何を知りたいのか、どんな情報が欲しいのかわからない場合が多いです。本当のホスピタリティーは、ただお客様が質問してくるのを待って、マニュアル通りに答えることではないと思うんです。こちらから歩み寄って、お客様一人一人と接することでその人に合ったサービスを提供していく、家族のような温かみのあるおもてなしがあったらいいなと思いますね。
―社会で起こっていることで、気になることはありますか?
幸せな人生を生きていない人が多いことですね。7年程前なんですけど、帰宅途中、住んでいたアパートの隣のビルの屋上から人が飛び降りて、僕の目の前、ほんの2メートルくらい先に落下したんです。その光景は脳裏に焼き付いて離れませんでした。知らない人でしたが、どんなに辛いことがあったのか、いろいろ想像させられました。テレビや記事などから日本の自殺事情について知ってはいたものの、目撃したことで、もっと深く、毎日を幸せに生きることの大切さを考えるようになりました。
2年前にカフェの近所にオープンしたギャラリー「I AM」にて
―かなりショッキングな体験だったと思いますが、ヴォーンさんの使命のようなものに気付くきっかけとなったのかもしれないですね。これからやっていきたいことや夢はありますか?
もし僕が言うくだらないダジャレで少しでも人を笑わせられたり、リストラされた人に仕事をオファーしたり、気分が落ちている人が僕のお店に来ることで笑顔になったり笑ったり、前向きに考えることができたりしたら、少しでも世の中に貢献できているんじゃないかと思うんです。僕のお店では、お客さんが入って来た時に「いらっしゃいませ」とは言いません。そんなことを言っても返事は帰ってこないし、会話は始まらないので。一人一人のお客さんに心をオープンにして話をし、友達のように接すること、そしてお客さん同士を繋いで、コミュニケーションを図れる場をこれからも提供していきたいです。コミュニケーションが全てです。本物のコミュニケーションを取ることで人生さえ変えることができると思います。そしてそれは、一つのコーヒーショップから広げていくことができると思うんです。
―最後に、ヴォーンさんにとって、成功とは何ですか?
僕にとって成功とは、ハッピーでいること。そして自分がやりたいことを、好きな人たちとやれることです。
MIA MIA 3周年 ANNIVERTHREE!!
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