奥の細道むすびの地
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『奥の細道』について
『奥の細道』
『奥の細道』は、江戸中期の俳諧紀行です。元禄2年(1689)3月、松尾芭蕉が門人の曽良と江戸深川(現・東京都江東区)を出発、奥州・北陸の名所・旧跡を巡り、8月に大垣に至るまでの紀行を、発句をまじえて記したものです。
元禄2年3月27日に江戸深川を出立した芭蕉は、門人の曽良をともない、東北・北陸地方をめぐり、8月21日に大垣に到着しました。およそ150日、5か月間にわたる旅の道のりは、2,400キロにもおよび、1日に30キロから40キロほど歩く日もありました。
芭蕉にとって『奥の細道』の旅は、歌枕(平安時代や鎌倉時代に和歌が詠まれた名所)をめぐりながら古人と心を重ね合わせ、俳諧を和歌や連歌と同等の格調高い文芸に位置づけてみたいという意識を強く持った旅でした。また、東北・北陸地方の人々や未知の俳人たちとの出会いにも大きな期待を寄せていた旅であり、実際に各地の人々と交流し、その中から数多くの名句が生まれてきました。
【奥の細道の旅程と各地で詠まれた俳句】
松尾芭蕉 (寛永21年~元禄7年[1644~1694])
鈴木其一筆 「蓬莱の」 句芭蕉像
芭蕉の生涯
和暦 | 西暦 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|---|
寛永21 | 1644 | 1 | 伊賀上野(現・三重県伊賀市)の松尾与左衛門の次男として誕生 |
寛文2 | 1662 | 19 | この頃、士大将藤堂新七郎家に奉公し、嫡男の良忠(俳号は蝉吟、北村季吟門下)と俳諧に親しむ |
寛文4 | 1664 | 21 | 重頼編『佐夜中山集』に宗房号で入集し、俳壇に登場 |
寛文6 | 1666 | 23 | 主人の良忠が死去 |
寛文12 | 1672 | 29 | 江戸へ移住 |
延宝5 | 1677 | 34 | この頃、俳諧宗匠として独立 |
延宝8 | 1680 | 37 | 日本橋から深川へ移住 |
貞享元 | 1684 | 41 | 8月末、『野ざらし紀行』の旅に出る(~翌年4月下旬) 東海・近畿地方を9か月かけてめぐる |
貞享4 | 1687 | 44 | 8月、『鹿島紀行』の旅に出る 10月下旬、『笈の小文』の旅に出る(~翌年4月) 東海・近畿地方を7か月かけてめぐる |
貞享5 | 1688 | 45 | 4月、『笈の小文』の旅を終え、中山道を経て江戸に帰る(~8月、『更科紀行』の旅) |
元禄2 | 1689 | 46 | 3月末、『奥の細道』の旅に出る 東北・北陸地方を5か月かけてめぐり、8月下旬、大垣で『奥の細道』の旅を終える 旅後、約2年間は上方(京・大坂)で過ごし、のちに「俳諧の古今集」と称される『猿蓑』を完成させる |
元禄6 | 1693 | 50 | 『奥の細道』の執筆を開始 |
元禄7 | 1694 | 51 | 4月、『奥の細道』を完成させる 『奥の細道』完成後、江戸から西日本をめぐる旅に出る 途中、大坂で病床につき、10月12日に没す |