2010年6月29日。
南アフリカ、プレトリア。ワールドカップ(W杯)南ア大会決勝トーナメント1回戦。日本とパラグアイの我慢比べは120分間に及んでいた。負けたら終わり。失点だけは避けたい。試合運びは慎重に傾いたまま、0―0でPK戦。
日本の3人目、駒野友一。シュートがバーをたたいた。鈍い金属音に、耳をつんざくブブゼラのノイズが一瞬、止まった。
パラグアイは5人が決めきった。肩を組んで見守っていた日本の選手たちの腕がほどける。駒野が涙をためて天を仰ぎ、本田圭佑はピッチに額をうずめた。監督の岡田武史が無表情のまま、彼らの肩を抱いた。
開幕前の不振。志した果敢な攻守が空転し、引いて守りを固めた。導かれたのはW杯4試合で2失点の堅守。だが、手つかずだった攻め手不足という課題を結末は象徴してもいた。
もっと、攻撃的に。ブラジルへと続く歩みの原点が、そこにあった。
2010年8月31日。
報道陣がひしめく東京都内のホテルの会議場に、濃紺のスーツを着こなした小柄なイタリア人が姿を現した。第一声は「ボンジョルノ(こんにちは)」。就任記者会見に臨んだ新監督の顔が、無数のフラッシュを浴びて赤らんでいく。振り返れば、いまより若干、ふくよかに見える。
アルベルト・ザッケローニ。この時、57歳。プロ選手の経験なく指導者のキャリアを積み上げた、たたき上げ。
W杯優勝4度を誇る母国で「攻撃好きな戦術家」として名が通る。1997~98年シーズンにはセリエA(イタリア1部リーグ)でACミランを優勝に導いた。近年は成功に乏しく「過去の名将」と揶揄もされたが、人選にあたった日本サッカー協会技術委員長の原博実は力説した。「(ザッケローニが得意な)ピッチを広く使った大胆なサッカーをしてくれれば、もう1ランク、日本は上に行ける」
「勇気とバランス」。堅守でたぐり寄せたW杯南アフリカ大会のベスト16から、その先へ。パラグアイを攻めきれなかった課題克服のため、保守的なサッカーを尊ぶイタリアにおいて攻撃的であり続けた指揮官にバトンは託された。
就任時からザッケローニが強調する哲学だ。大胆かつ細心に、といったニュアンスか。積極性を貫きたいからこそ、選手の一挙手一投足に神経を注ぐ指導。例えば、最初の合宿のテーマは「体の向き」だった。守備時に2人で「逆ハの字」を描くように半身となり、相手を囲い込む。一瞬でも半身の姿勢が解かれれば、練習は中断され、レクチャーが始まった。
初陣は10月8日の親善試合アルゼンチン戦だった。この時、もう一つの指針が明確となる。直前のミーティングまで、約束事を選手たちに詰め込んだザッケローニ。しかし最後、こう語りかけた。「色々と伝えたが、すべてをやろうとする必要はない。まず、君たちが培ってきたベースを見せてくれ」
選んだ道は、変化より継続。ピッチにはW杯南ア大会の経験者が並んだ。息の合った連係でアルゼンチンの攻撃をしのぎ、逆襲から岡崎慎司がゴール。南米の強豪から、7度目の対戦で初白星をもぎ取った。
「完全に日本人の気持ちにならなければいけない。
そして(4年間の)冒険を終えた時、『ザッケローニのサムライたちはとてもいいプレーを見せた』との思い出を残したい」。就任会見で、ザッケローニが力を込めた言葉だ。戦術に細やかな一方、柔和な笑顔が象徴する対話、融和の路線。南アフリカで一つの自信をつかんだ選手たちと、その姿勢は絶妙にマッチする。そして年明けのアジアカップで、チームはさらなる自信を手にすることになる。_
2011年1月29日。
中東の大都市ドーハは、真冬でも気温20度に達する蒸し暑さに覆われていた。
アジアカップ決勝。日本はオーストラリアに押し込まれていた。日本が最も苦手なフィジカル勝負を、オーストラリアは最も得意とする。高さと力の攻撃を紙一重でしのぎながら、0―0のまま迎えた延長後半。
左から長友佑都が仕掛けた。加速、クロス。ゴール前で李忠成が待っていた。左足のボレーシュート。GKは一歩も反応できない。決勝点になった。
劇的な試合の積み重ねが、優勝の喜びを増幅させた。ヨルダン戦で終了間際に吉田麻也が決めた同点ゴール。10人で開催国カタールを逆転し、韓国とのシーソーゲームはPK戦にもつれ込んだ。困難を糧にたくましくなったチーム。「土台を築けた」。監督のアルベルト・ザッケローニも手応えを深めた。
立ち止まらない選手たちは、戦いの場をJリーグから欧州へと移していく。
先頭を行くのは長友だった。W杯南アフリカ大会後、FC東京からチェゼーナ(イタリア)へ。アジアカップを終えると名門インテル・ミラノに移籍を遂げた。公言する夢は「世界一のサイドバックになる」。持ち前の向上心と運動量で地位を築いた。
長友のインテルを、このシーズンの欧州チャンピオンズリーグ(CL)準々決勝で破ったシャルケ(ドイツ)には、鹿島から移籍した内田篤人がいた。南ア大会で1秒もピッチに立てなかった若者は、気配りの利いた攻守で昨季も今季もシャルケのCL決勝トーナメント進出を支えている。世界最高峰のレベルと評される大会を、こう言いきれる度量が、いつしか備わっていた。「『欧州のチャンピオンを決めようぜ』という単純明快な発想が格好いい。大好きな戦い」
個々が上質な経験を蓄え、代表チームに還元する好循環。W杯ブラジル大会アジア3次予選を日本は順当に突破した。そして、12年6月に最終予選が幕を開ける頃、さらに大きなニュースが飛び込んでくる。
マンチェスター・ユナイテッド(マンU、イングランド)、香川真司を獲得――。
W杯南ア大会後にセ大阪からドルトムント(ドイツ)に移籍した香川は、主力としてブンデスリーガ(同国1部リーグ)を2連覇。すでに欧州で存在を認知されていた。「大きなチャンス」。自信を胸にビッグクラブの輪に入り、プレミアリーグ(イングランド1部リーグ)で独特の光を放った。真っ向勝負を好む大男たちの間を、小刻みなステップワークを駆使してすり抜ける。負傷を抱えながら20試合に出場して6得点。移籍元年にポテンシャルは証明されていた。
列強のビッグネームが仲間にも相手にもひしめく境遇を、気がつけば「日常」と感じていた選手たち。だから、W杯アジア予選は勝ち抜いて当たり前。そんな空気が、そこはかとなく見る者を包んでいた。
しかし、5度目のW杯切符を目前に、落とし穴は待っていた。