関東大震災 学ぶべき教訓:朝日新聞デジタル

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11月15日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

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  • 【災害大国】あすへの備え

    関東大震災 学ぶべき教訓

     日本の地震災害で最多の犠牲者を出した1923年(大正12年)の関東大震災。90年後の今も未曽有の災害から学ぶべきことは多い。10万5千人余の犠牲者の9割近くの原因となった火災は、ちょうど日本海側にいた台風による強風で拡大し、逃げ場を奪った。揺れや大津波、山崩れ、地盤の液状化による被害も大きい、複合災害だった。関東大震災で何が起きたかを知り、現代ならどんな被害が出るかを考え、いずれ見舞われる都市直下の大地震の備えにしたい。

【1】複合被害 各地に爪痕

れんが造りの工場、倒壊相次ぐ
倒壊した東京・浅草の「十二階」凌雲閣=東京・浅草
 「十二階」とも呼ばれ、当時、東京で最も高かった浅草の凌雲閣(りょううんかく)。50メートル余の高さで、電動エレベーターも備えていたが、揺れで8階より上が崩落した。壁面の一部がぶら下がって残り、危険なため、爆破して解体された。
 地盤の弱い隅田川の東岸などで建物の倒壊率が高かった。中心部の赤坂から日比谷、丸の内、大手町や神保町、水道橋へと続く帯状の地域も震度6強~7相当と推定される強い揺れに見舞われた。
 丸の内に建設されたばかりのビルも被害を受け、建設中だった内外ビルディングが倒壊して多数の作業員が圧死した。当時の基幹産業だった紡績工場も、れんが造りの建物が倒壊し、神奈川県を中心に工場で約2200人が犠牲になった。富士瓦斯(がす)紡績の保土ケ谷工場では、れんがの壁が倒壊して女子従業員ら450人余が死亡した。
 当時の東京府で約2万4千棟の住宅が揺れで全壊。3500人余が犠牲になった。揺れが強かった神奈川県では6万3千棟余が全壊、約5800人が犠牲になった。
空き地に避難者密集、逃げ場失う
震災による周辺の火災で、白煙におおわれた皇居=霞ケ浦海軍航空隊撮影
 隅田川の近くの陸軍被服廠跡の空き地には、火災から逃れた約4万人の避難者が集まり、荷車に載せた家財道具も持ち込まれて身動きが取れない状態だった。そこに火災が起き、家財道具に引火。炎の竜巻とも呼ばれる火災旋風も起き、四方を火災に囲まれた人々は逃げ場を失った。ここで関東大震災の犠牲者の3分の1を超える約3万8千人、周辺も含めると約4万4千人が命を落とした。
 当時の東京市では134カ所から出火、市域の4割の34.7平方キロが焼け、16万6千棟余が焼失、約6万6千人が犠牲に。
 横浜市では289件の出火があり、市街地の宅地面積の8割、13平方キロが焼けた。2万5千棟が焼失、犠牲者は2万4千人余。石油会社の貯蔵所も焼け、火災が10日以上続き、石炭貯蔵場は地震から40~50日経ってもまだ燃えていた。約6万人が避難した横浜公園の死者は53人にとどまった。
 周囲の延焼が速く家財を持ち込む余裕がなく、樹木が火の粉を防ぎ、水道管の破裂で大きな水たまりができていたためとされる。
 横須賀市(神奈川県)では海軍の石油タンクから油が海に流出、引火して火の海になり、軍艦が港外に避難した。
静岡沿岸に最大12メートル、集落が流出
大津波で市街地まで打ち上げられた漁船=静岡・伊東
 伊豆半島の伊東(静岡県)には最大9メートルの津波が押し寄せた。街の中心部を流れる松川より南側の海岸沿いの集落はほとんどが流失した。海岸から200メートルさかのぼった大川橋まで押し流された漁船もあった。旧伊東町では全2400戸の半数近くが地震や津波の被害を受け、79人が死亡した。熱海(同)では高さ最大12メートル。湾の南側を中心に海岸から200メートル程度まで浸水、162戸が流失し、71人が犠牲になった。
 鎌倉(神奈川県)の光明寺付近には5~6メートルの津波が襲来し、海岸通りの家屋や旅館が全滅、滑川をさかのぼった津波は橋を破壊し、付近の田畑は浸水し、30戸が流失、59人が犠牲になった。旧鎌倉町がまとめた資料によると、当時の鎌倉町にあった4200戸のうち、震災の被害が小さかったのは600戸程度だった。
 房総半島では、三浦半島や伊豆半島に比べると津波は大きくなく、多くのところで高さ2メートル以下で津波による被害は少なかった。東京湾では津波による大きな被害はなかった。
地滑り・崩落、内陸部でも液状化
山崩れで倒壊した「宮之下青年会倶楽部」の建物=神奈川・箱根
 小田原(神奈川県)の国鉄熱海線(現東海道線)根府川駅では本震直後、近くの斜面で地すべりが起き、駅舎と乗客をのせた列車が海中に転落、200人が命を落とした。根府川集落は本震の数分後にあった余震の直後、厚さ30メートル以上の土砂で埋没した。近くの海岸では、遊泳していた児童約20人が海からの津波と、陸側の崩落に伴う山津波に挟まれ、ほとんど行方不明になった。
 箱根(同)でも斜面で無数の崩落があり、旅館や鉄道が倒壊。当時の東海道線(現御殿場線)谷峨駅では大規模な地すべりで酒匂(さかわ)川がせき止められ、約6時間後に決壊した。東海道線の復旧に1カ月を要した。
 地震の2週間後の台風による豪雨で、地震で崩壊した斜面で土石流が多発。伊勢原(同)では170棟が押し流された。
 関東平野や甲府盆地の800カ所以上で液状化も発生した。最も激しかったのは、震源域から離れた埼玉県の春日部、越谷の中川低地。宅地や田畑で砂水が噴出し、地割れや陥没で家が壊れた。
 東京湾沿岸部の芝浦や品川、月島などでも地割れや泥水の噴出があった。

90年経ても通じる教訓

 【編集委員・黒沢大陸】9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、マグニチュード(M)7・9の巨大地震だった。震源域は神奈川県から房総沖に及ぶ、長さ130キロ、幅70キロの範囲におよんだ。
 大きな余震が相次いだ。発生から5分で東京湾北部と山梨県東部でM7級の余震が起きた。東京・上野で地震に遭った物理学者の寺田寅彦は「最初にも増した烈(はげ)しい波が来て、二度目にびっくりさせられた」と書き残している。
 M7級の余震は2日までに計5回。その後も、翌年1月の丹沢地震(M7・3)など、阪神大震災級の余震が6回。気象庁のまとめでは、1年間でM6以上の余震は29回に達した。関東大震災の研究を続けてきた武村雅之・名古屋大学教授は「本震は一級、余震は超一級だった」と表現する。
 東京の中心部でも現在の震度6~7に相当する地域があった。住宅の倒壊による死者は全体で1万1086人、阪神大震災の犠牲者の2倍だった。
 大震災が起きたとき、台風が新潟県付近にいた。台風に吹き込む形で、関東地方には強い南風が吹いていた。今の大手町では秒速10メートルを超えた。さらに、深夜には20メートル以上の風が観測された。炎が起こす風が加わったとみられる。台風の移動とともに風向は変わり、延焼につながった。全体の犠牲者10万5385人のうち、火災が9万1781人を占めた。
 震源域は陸上にも及ぶ直下型地震だったが、本来は相模トラフ沿いで起きる海溝型地震だった。震源域が海底にあるため津波が発生、伊豆半島東岸や神奈川県の相模湾岸、房総半島を大津波が襲った。山崩れや地盤の液状化も広範囲で起きた。多様な地震被害が同時に起きた複合災害だった。
 学ぶべき教訓も多い。
 都心部で大きく揺れたのは元禄地震(1703年)や安政地震(1855年)と同じ場所。次の地震でも大きく揺れる恐れがある。今は、企業の本社や官庁など災害時に司令塔となる施設が密集している。土地の開発で、揺れやすい場所はさらに増えている。
 当時の東京市での134件の火災のうち、初期に消し止められたのは57件。都心部の大地震では消防力を超える火災が起きる恐れがあり、延焼の危険が大きい木造住宅の密集地域の対策が急がれる。
 避難場所となった軍服工場である被服廠(ひふくしょう)跡地では荷車で持ち込まれた家財道具が火災で燃え、人々は身動きできなかった。東日本大震災では、大津波から逃げようとした自動車による渋滞が発生した。社会の変化と災害の起き方を踏まえ、避難のあり方や避難場所の安全性を改めて確認する必要がある。
 横浜や横須賀であった石油タンクなどの火災は、現代では社会を支える湾岸部のコンビナートのリスクを示している。
 神奈川県の大山では地震から2週間後に降った雨で土石流が発生した。直接被害だけでなく、大地震では土砂崩れや治水施設の損壊が多発する恐れがあり、復旧が進む前の台風や豪雨を想定する必要がある。大きな余震も含め、地震後も相当期間は警戒を怠れない。

【2】想像力働かせて対策を

明治大・中林一樹(なかばやし いつき)特任教授

■中林一樹・明治大特任教授(都市防災)
 この90年間で、関東地方は大きく変わった。当時の日本の人口は約6千万人、東京圏には600万人足らずだったが、今は1億2千万人のうち南関東地方に3500万人が暮らす。
 関東大震災の後、郊外の田んぼや畑に復興事業で区画整理された都心部から多くの人が移り住んだ。農道に長屋が建ち、消防車が動き回れる道路もないまま木造密集市街地が広がっていった。
 首都直下地震が起これば、木造密集市街地で火災の被害が大きくなる。内閣府は2004年、揺れなどによる全壊は20万棟、火災での焼失は65万棟と試算している。
 当時はラジオもなく、災害情報を出す機関もなかった。震災で人々は右往左往し、デマが流れ、朝鮮人が虐殺されるという不幸なことが起こった。人が人の命を奪った災害でもあった。
 今は情報時代なので、うまく情報を活用することで混乱は避けられるはずだ。ラジオや携帯電話のワンセグ機能がある。電話は不通でも、メールなど文字情報は見られるかもしれない。落ち着いてどう活用するか、どういう心構えを持つかが大切だ。
 大都市では地下に空間が広がり、高層ビルや地下鉄、高速道路もある。高層階の火災など当時とは違う被害も考えられる。生活が全て電気によって維持され、ライフラインが途絶えると思わぬ支障も起こりうる。大切なのは阪神大震災や東日本大震災などを振り返り、災害をイメージしてみることだ。想像することで我が家の対策がとれる。市民が過去の災害から学ぶことで、災害に強い街になっていく。
 被災後の復興を事前に考えておくことも必要だ。当時は人口増加を前提に都市を近代化させたが、人口が減る時代に質の高い生活が可能な都市やまちを造ることが求められる。被害想定を前提に、迅速に復興するため、今から復興計画にも取り組む「事前復興」が大事になっている。(聞き手・合田禄)

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著者:朝日新聞社 価格: ¥1,680

 朝日新聞のシリーズ企画「災害大国 迫る危機」が本になりました。活断層、津波、地盤、斜面災害、インフラ、火山のリスクを地域ごとに示した大型グラフィックや対策の現状などを収録。書籍化のために各地域の災害史を書き下ろしました。いつ見舞われるか分からない災害の備えとして役立ちます。B4判変型(縦240ミリ、横260ミリ)でオールカラー、120ページ。

日本列島ハザードマップ 災害大国・迫る危機

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