あの日から重ねた5年

あの震災から重ねた5年。それぞれの歩みを、写真でつなぎます

バスケに勉強に、励む日々宮城県石巻市・大森双葉さん

  • 宮城県石巻市・大森双葉さん

    2016年2月21日

  • 宮城県石巻市・大森双葉さん

    2011年3月30日

  • あの日、全壊した宮城県石巻市の沿岸部の自宅からノートや文房具を捜し出した大森双葉さん(13)。中学1年生になり、今はバスケットボールに夢中だ。

    3年以上を仮設住宅で暮らし、2014年末、仮設近くの内陸部に新築した家に移った。「寒かった」と振り返る仮設と違い、暖かい我が家には、待望の自分の部屋もできた。バスケ大会で入賞したときの賞状や写真が並んでいる。

    震災で、通っていた門脇小学校の校舎は焼けてしまった。でも、双葉さんの教室は奇跡的に無事で、取り戻したランドセルには、卒業時に親友が寄せ書きをしてくれた。震災前と今をつなぐ宝物になった。

    強豪校に進むために、勉強も頑張っているという。(飯塚晋一)

母の思い出を胸に岩手県山田町・佐々木颯くん

  • 岩手県山田町・佐々木颯くん

    2016年2月12日

  • 岩手県山田町・佐々木颯くん

    2011年8月16日

  • シングルマザーだった母親の加奈子さん(当時33)の祭壇の前で、「ママの写真を見ると悲しくなるから嫌なんだよね」と話していた岩手県山田町の佐々木颯(そら)くん(11)。

    祖父母との3人暮らし。外遊びが好きで、暗くなるまで友達とボールを追いかける。

    家では「ふざけてよく笑わせてくれる」と祖母の悦子さんは話す。颯くんの「明るさ」が娘を亡くした悦子さんの悲しみを和らげる。

    以前ほどママのことは話さなくなった。「でも時々、一人で昔のアルバムを見ていることもある」という。

    ある時、アルバムを見ている颯くんに悦子さんがそっと近づいた。気づいた颯くんが照れくさそうに自分の写真を指さし、聞いたという。

    「この赤ちゃん、だれ?」

    「もう私、笑っちゃって」。悦子さんが笑みを浮かべて話してくれた。(葛谷晋吾)

母と兄、「今、何をしているかな」岩手県釜石市・菊池風音ちゃん

  • 岩手県釜石市・菊池風音ちゃん

    2016年2月11日

  • 岩手県釜石市・菊池風音ちゃん

    2011年9月11日

  • 母の琴美さん(当時34)と兄の涼斗(すずと)くん(当時6)が津波で犠牲となった岩手県釜石市の鵜住居地区防災センターの祭壇で、線香に火をともしていた菊池風音(かざね)ちゃん(8)。震災直後、家に帰って来ない母と兄を心配して「お母さんとお兄ちゃん、遅いね」と周りに話していた。

    「涼斗くんが大切にしていたかぶと虫を風音ちゃんが触ろうとしてけんか、琴美さんが止めに入る――」

    風音ちゃんが繰り返し見ているビデオだ。震災当時は3歳。「ビデオが記憶をつなぎとめているのでしょうか」と祖母の国子さん(65)は話す。最近、ふとした時に「お母さんとお兄ちゃん今、何してるかな」と問いかけるという。

    昨夏、子犬を飼い始めた。父親の辰弥さん(39)は「弟だと思って大切にしてね」と約束した。「チップが来てよかった」。風音ちゃんは子犬を抱きかかえてほほ笑んだ。将来の夢を尋ねると「動物園の飼育員」と答えてくれた。(葛谷晋吾)

妹ができ、近く弟も岩手県山田町・坂本美紗ちゃん

  • 岩手県山田町・坂本美紗ちゃん

    2016年2月18日

  • 岩手県山田町・坂本美紗ちゃん

    2011年3月19日

  • 岩手県山田町の県立山田高校の避難所で、たらいのお風呂に入っていた当時0歳だった坂本美紗ちゃん。震災後、誰もお風呂に入っていなかったが「せめて赤ちゃんだけでも」と大人たちが沸かしてくれたお風呂に笑顔を見せていた。

    町では今も復興に向けた工事が続く。「あまり子どもが遊べるところがなくて」と母の法子さん(33)。

    妹の結希ちゃん(3)と保育所から戻ると、両親が営む理髪店で夜まで過ごすことが多い。

    おもちゃの取り合いになると妹に譲ってあげるなど、すっかりお姉ちゃんらしくなった。震災から5年の3月11日ごろには弟も産まれる予定だ。優しいお姉ちゃんのいま一番の願いは「おとうさんに(家族みんなで乗れる)あたらしいくるまをかってあげてほしい」。(樫山晃生)

「避難所」だった旅館を再開岩手県釜石市・岩崎昭子さん

  • 岩手県釜石市・岩崎昭子さん

    2016年2月7日

  • 岩手県釜石市・岩崎昭子さん

    2011年3月22日

  • 津波に襲われた直後、孤立状態となった岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町。同町根浜地区の旅館「宝来館」のおかみ、岩崎昭子さん(59)は壊滅した集落を見つめていた。宿は浸水したが上層階を開放し、約2週間にわたり、逃げ場を失った人たちの「避難所」となった。

    岩崎さんはいったんは津波にのまれたが一命を取り留め、常に周囲の人々を励ましていた。「町を再生するには、皆が集う里が必要。もしもここを離れても、必ず戻って場をつくる」。震災直後からそう話し、言葉通りに翌年1月、同じ場所で宿を再開させた。

    町づくりに積極的に関わる。2019年に開催されるラグビーW杯の釜石招致の立役者でもある。「訪れた誰もが、また来たいと思うような場所にしたい。どうすればより良くなるだろう、って頭の中はそればかり」。おかみの笑顔に人が集う。心を尽くして宿泊客をもてなす日々だ。(川村直子)

今も続ける消防団仙台市・佐藤賢一さん

  • 仙台市・佐藤賢一さん

    2016年2月21日

  • 仙台市・佐藤賢一さん

    2011年4月9日

  • 仙台市太白消防団員の佐藤賢一さん(53)は、職場の同僚が亡くなった若林区で、行方不明者の捜索活動をした。がれきの中で見つかった泥だらけの写真を見つけるたびに、「元気に避難していてくれ」と願うしかなかった。「言葉では何とも言えない1カ月間だった」

    本業のタクシー運転手をしながら、28歳で入った消防団を今も続けている。仕事中にも消防の応援要請はある。「できる限りの協力をしたい。助け合うことが大切」と言う。分団の班長として、後輩たちを引っ張っている。

    団員の勧誘に苦労してきたが、震災後には「消防団の活躍を見たから」と、30~40代の3人が志願して仲間に加わった。「心強かったし、胸が熱くなった。これからも震災の教訓を団員に引き継ぎ、後世に伝えていきたい」(長島一浩)

仮設からもうすぐ自宅へ宮城県南三陸町・畠山煌世くん

  • 宮城県南三陸町・畠山煌世くん

    2016年2月23日

  • 宮城県南三陸町・畠山煌世くん

    2011年3月17日

  • 避難所となった宮城県南三陸町の歌津中学校体育館で、母親の畠山寿美さん(41)とおにぎりを食べていた煌世(こうせい)くん(9)。その後、仮設住宅に移り、親子3人で暮らしてきた。

    今は、伊里前小学校の3年生。毎日スクールバスで通学している。仮設住宅は4畳半2部屋で、下校後はリビング兼子ども部屋で寝る前まで過ごしている。

    造成中の高台の土地が4月に引き渡され、家を建てる予定だ。

    寿美さんは「ようやくという感じです。早ければ10月ごろには移れそう」と笑顔を見せる。煌世くんは「自分の部屋ができるので楽しみ。1年生の冬から始めたピアノの練習を頑張りたいです」。(西畑志朗)

語り部として、亡き娘の命を生かしたい宮城県石巻市・佐藤美香さん

  • 宮城県石巻市・佐藤美香さん

    2016年2月13日

  • 宮城県石巻市・佐藤美香さん

    2011年3月14日

  • 娘の愛梨(あいり)さん(当時6)は、乗っていた幼稚園バスが津波にのまれて亡くなった。その現場近くで、大好きだったお菓子をまいて供養していた宮城県石巻市の佐藤美香さん(41)。

    今も朝起きてすぐに仏壇の前に座り、「愛梨、おはよう。今日も一日、愛梨らしく元気で楽しく過ごしてね。ママも頑張ります」と、あいさつをする。

    「明るくて、やさしくて、天真らんまんという言葉がぴったりの娘でした」

    3歳下の妹・珠莉(じゅり)さん(8)があの日の姉の年齢を超え、成長した姿に、5年の歳月を感じている。

    愛梨さんが見つかった場所は今、工事で立ち入り禁止となっている。復興も大事だけど手を合わせる場所が、今後どうなっていくのか気になる。

    昨年夏、フェイスブックを通じて「語り部」を始めた。震災のことを伝え、いざというときの行動を考えてもらう。「娘の命を生かしてあげたい」(日吉健吾)

逝った一人息子に思いはせる福島県南相馬市・浜名紀雄さん、シゲ子さん

  • 福島県南相馬市・浜名紀雄さん、シゲ子さん

    2016年2月24日

  • 福島県南相馬市・浜名紀雄さん、シゲ子さん

    2011年4月2日

  • 消防団員だった一人息子の淳一さん(当時42)を津波で失った福島県南相馬市鹿島区の浜名紀雄さん(72)と妻シゲ子さん(70)。震災発生から約3週間後の4月上旬、自宅周辺を歩き、息子との思い出の品を探していた。

    あれから5年。再会した紀雄さんは「子どもの死はいつまで経っても受け入れられない」と話す。

    2人で毎朝、淳一さんの仏前にご飯と水、夜は缶ビールを供え続けている。紀雄さんは「淳一、今日は天気がいいみたいだ」などと遺影に語りかけ、一日が始まる。夜は食事のあとに遺影をじっと見つめる。

    「毎日淳一の表情が違って見えるんです。仕事をがんばった時は褒められ、仕事がうまくいかないときは怒っているように見えるんです。写真を見てやることぐらいしかできないですから」。

    シゲ子さんも淳一さんを思わない日はない。コーラスで童話を歌っても、スーパーで買い物中に淳一さんに似ている人を見ても涙が出る。「なぜ私は生きているのかと思うことがあります。お父さんと一緒に思い出すことが何よりの供養だと思います」。(小川智)

ガソリンスタンド経営から整体師に転身宮城県南三陸町・三浦文一さん

  • 宮城県南三陸町・三浦文一さん

    2016年2月22日

  • 宮城県南三陸町・三浦文一さん

    2011年3月28日

  • 宮城県南三陸町歌津の三浦文一さん(62)は震災直後、両親の消息さえ不明な状況で、経営するガソリンスタンドに立っていた。無事だった地下タンクから、緊急用の手動ポンプで燃料を吸い上げ、途切れることのないお客さんの車列に応えた。

    「父の代からお世話になった地域への恩返しだ」

    しかし3年後、防災対策で拡幅される河川工事の予定地と重なり、店を閉めた。

    三浦さんはいま、整体師として町内外の人たちの体を診ている。津波で亡くなった両親の自宅跡に治療院を開き、「うつ病アドバイザー」の資格も取った。身近な人たちが震災後に孤立したり、すさんだ生活を送ったりする姿を見ていられなかった。

    「好きなんだなあ、俺はこの街が。前の仕事とは畑違いだけど、こういうさだめだったんだろう。ささやかでも仕事で恩返しをしなさいと。この体でよければ、いっつでも!」。おなかをバンとたたき、豪快に笑った。(越田省吾)

すずり作りの伝統、つないでいきたい宮城県石巻市・遠藤市雄さん

  • 宮城県石巻市・遠藤市雄さん

    2016年2月5日

  • 宮城県石巻市・遠藤市雄さん

    2011年4月4日

  • 宮城県石巻市雄勝町の仮設商店街前のプレハブ工房に、ノミですずり石を削る音が響き渡る。

    家業を継ぎ、60年近く、すずりを作ってきた遠藤市雄さん(74)は、元々、工房のあった雄勝町に、市内の避難先から通う。

    津波で自宅が流された後は、家財を探そうと自宅周辺で毎日がれきをのぞきこんだ。母親の位牌(いはい)と長女の振り袖などは見つかったが、大小七つのノミなどの道具は見つからなかった。

    それでも、半年後には避難先で仕事を再開した。

    雄勝すずりは、室町時代が起源とも言われる。町で採れる原石は表面の凹凸が細かく均等で、どんな墨もよく擦れてなじむ。「柔らか過ぎず硬過ぎず、加工するには雄勝の石は最高です」と遠藤さんはいう。

    震災前は10人いた職人は、津波の後、引退が相次いだ。現在、町に常駐する職人は遠藤さんら2人だけとなった。

    2年前に膵臓(すいぞう)ガンを患い、今も病院に通う。それでもすずりを雄勝から消したくないと毎日工房に立ち、3人の職人志望の若者を指導する。「倒れるまで続けますよ」と笑った。(小川智)

亡き夫おもいながら菓子店を再開岩手県大槌町・大坂十萬里さん

  • 岩手県大槌町・大坂十萬里さん

    2016年2月10日

  • 岩手県大槌町・大坂十萬里さん

    2012年1月11日

  • 岩手県大槌町の大坂十萬里(とまり)さん(66)は、津波で亡くなった夫の武さん(当時67)と営んでいた菓子店跡で手を合わせていた。このときは、仮設商店街に店を再開したばかり。「見守っていてね」と武さんに語りかけていた。

    震災直後、被害を受けなかった倉庫は混乱の中、一人きりになれる数少ない場所だった。残された道具や菓子箱を見るたびに武さんを思い出し、涙がこぼれた。

    倉庫の片隅に、震災直前に武さんが焼いた「いかせんべい」が残されていた。「不思議なの、いつ焼いたのかなって」。年度末で多忙だった武さんの姿が思い浮かんだ。武さんの安否を気遣い、訪ねてくる人たちせんべいを配った。

    昨年、手元に残ったせんべいを味見しながら長男の尚さん(39)と再現した。武さんの味を覚えている人たちにも協力してもらい、何度も試作を繰り返した。

    復活した「いかせんべい」は好評だ。「少しはお父さんの味に近づけたかな」。

    「一歩ずつ前に進むうち、泣いてもいられなくなりました」。何度も涙に暮れた倉庫で、笑顔を見せた。(葛谷晋吾)

元教師、教訓伝えつづける宮城県石巻市・徳水博志さん

  • 宮城県石巻市・徳水博志さん

    2016年2月6日

  • 宮城県石巻市・徳水博志さん

    2011年4月5日

  • 津波で甚大な被害を受けた宮城県石巻市雄勝町の雄勝小学校。2011年4月5日、当時4年生の担任だった同市の徳水博志さん(62)は、教室で、児童の絵や学級通信などを見つめていた。

    地震発生直後、保護者への引き渡し後に残った児童が校庭にいた。「頼むから山さ逃がして」。保護者の呼びかけで裏山に逃げた。津波が襲ったのは避難完了から約8分後だった。

    あの避難から学んだ教訓を伝えなくてはならない。徳水さんはソーラーパネルが敷かれた雄勝小学校跡地で大学生や現職の教員らに震災直後に児童が避難した道を走ってもらい、津波が町内を襲う様子を記録した動画を見せ、防災・復興教育を続けている。

    2月上旬、千葉県から来た大学生に徳水さんは津波で止まった教室の時計と被災直後の教室の写真を手に、教訓を伝えていた。

    「雄勝小学校では、校庭にいた児童を住民の声掛けで裏山に避難させることができた。それは教員、子ども、保護者が避難マニュアルを共有していたからだ。教員だけでは子どもの命は守れない。地域をよく知る住民との連携が欠かせない」と徳水さんは話した。(小川智)

避難解除の町で、日常とりもどす福島県楢葉町・遠藤正衣さん

  • 福島県楢葉町・遠藤正衣さん

    2016年1月9日

  • 福島県楢葉町・遠藤正衣さん

    2011年11月(提供)

  • 福島県楢葉町の小学校教諭、遠藤正衣さん(51)は2011年11月、避難指示が出されていた町内に家族と入り、自宅を訪れた。胸には線量計、足にはカバーという姿で、記録のために写真を撮った。

    昨年5月、避難指示解除前の準備で町内での宿泊が可能になると、夫と共に町に戻った。震災前は一緒に住んでいた大学院生の長男(23)と社会人の次男(21)は、東京で暮らす。

    週末には、趣味のランニングを楽しむ。「走っている姿を見た人が、『生活している人がいるんだ』と思ってくれるかも」との思いもあるという。

    原発事故時に7300人以上いた町民のうち、戻ってきたのは6%の440人(2016年2月4日現在)。自宅周辺も、夜にはまだポツポツとしか明かりがともらない。

    「でも、走っていて民家に干された洗濯物や、犬と散歩する人を見るようになり、少しずつ日常が戻ってきている」と感じている。

    除染廃棄物の仮置き場など、町内には震災前にはなかった非日常の風景が残る。これからも走りながら、町の変化を見続けるつもりだ。(福留庸友)

  • 制作・白井政行