ほぼ日刊イトイ新聞
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2024-11-25

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・人に「なにかをあげる」って、
 大人になるほどむつかしくなる。
 どんなものをあげるかを考えすぎると、
 なんだか「考え」をあげてるみたいになるじゃない。
 あと「あの人になにかあげるってむつかしいなぁ」って
 思われている人がいるけれど、
 そう思われるのは、あんまりいいことじゃない。
 その人がわるいわけじゃないんだけど、
 人になにかを「むつかしくさせちゃう」ってのは、
 いいことじゃないとも思うんだよね。
 これは、人に「怖がられる」のとも似ているかもしれない。
 ぼくは、昔から「あげる」はむつかしいと思ってて、
 「考えなし」にあげるようにしていた気がする。
 とにかく「あれこれ考えてない」がいちばん大事だった。
 これはぼくだけの考えかもしれないから、
 あんまり人には言わないことだった。
 だいたい、こんなこと言っちゃったら、
 ぼくになにかもらった人が気分よくないかもしれない。
 いや、言い訳をするけど、「考えなし」にはするけれど、
 「思い」はあるんですよ、ほんとほんと。
 いやまてよ、「思い」もないかもしれないな。
 ここらへん、とてもむつかしい問題のような気もする。
 根本的に、あげるのももらうのも「好き」なんだけどね。

・「照れる」っていうのも、むつかしい問題なのだ。
 基本、ぼく自身が「照れ性」だとわかっている。
 じぶんも「照れる」人間だからなのか、
 やっぱり「照れる」人が好きだという気持ちもある。 
 しかし、根本が「照れ性」であっても、
 大人になったら「照れてちゃいけない」と強く思っている。
 「おまえが照れてる場合か!」と、叱ってやりたい。
 「恥ずかしい」という気持ち「照れる」感覚は、
 心の底のほうに、どっしり存在するよいものだと思う。
 しかし、それはそのまま大事にとっておけばいいので、
 大人だったら、「照れてるんじゃねぇよ!」なのである。
 正直、ぼくは、じぶんにそう言ってきたつもりだ。
 じぶん自身の「照れ」なんかを大事にしてたら、
 いっしょにいるみんなだって困っちゃうからだ。
 かといってね、「照れのない」人は苦手なのだ。
 このあたりのことも、ずっとわからないままである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
じぶんがあいまいにしていることを考えるのもおもしろい。


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