ユダヤ→キリスト教になって神は頼りなくなったが、優しく愛に溢れるようになってきた
ユダヤ教の神は力があり厳しい存在だ。
しかし、キリスト教の父はあまり力がなく優しい存在だ。
イエスが裁判にかけられて惨めな仕打ちを受けたときにピラトに何か偉大な力を示せば、ピラトもそれに恐れおののいたことだろう、しかし、そんなことはなく、イエスは十字架につけられ、なぜお見捨てになったのですかと訴えながら死んだ。その後、弟子たちも殉死した。
よく、イエスは神に対して祈る時、「アバ父よ」と呼んでいた。アバとは「お父ちゃん」といった親しみのある呼び方のことだ。
イエスにとって神とは、あまり頼りにならないけど、優しく親しみのある存在だったんだろう。
今の日本でも、力はなくても子供に対して優しく思いやりのあるお父さんが少なくないこととおもう・・・
そういうお父さんは、頼りにならないのを自分でも知っているが、できるだけ、子供のために一緒に遊んであげたり、何かを教えてあげたり、一生懸命かわいがり、愛しているんだと思う。そして、子どももそれを知っている。親も哀しく困っていることも多いけど、自分のことを愛してくれていることを。だから、親を恨むこともないし、親の弱さを憐れみをもって許している・・・
そういうおさな子のような気持ちで、神を求めたい・・・・
にほんブログ村
にほんブログ村
"にほんブログ村 哲学・思想ブログへ" />
にほんブログ村
人気ブログランキングへ