何のために生きるのか・・・ 存在
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現在という瞬間は2種類に分けられる


現在は、もうすでに今起こってしまった過去に近い現在と、これから変えられる未来に近い現在の二種類がある。

前者については、楽観的に「良かった」とか「これでいいんだ」とか思わないようにするべきだ。でないと、良かったと思っていることが悪くなっていく危険性が出てくる。後者については、自分の選択がろくに悩み考え抜いてないにもかかわらず勝手に楽観的な見通しをしてしまい、やはり悪い方向に行ってしまう危険性がある。

ちなみに、もうこれ以上変わりようがないもしくは変えられない過去については「やるべきことはやったんだ」と開き直るしかない。
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実体・自分・記憶

よく仏教では、物事に実体はない、実体がないものは存在しているとは言えない。自分というのものも存在しないという。

ここで仏教が言っている「実体」とは、持続的に存在する物の本質のことであろう。

無常を主張する仏教からしたら、すべての事物は変化するものなのだから、持続的に存在するものはなく、したがって実体はないと言うのは当然であるけれど、だからといって、存在していると言えないと言うのは、愚かな結論に僕には思える。


確かに、事物も自分というものも、時々刻々変化してしまうけれど、だからと言って存在しないというわけではない。

実体がない(持続して存在していない)存在の仕方もあるわけだし、全てのものが変化しながら存在を維持しているともいえる。





ここからが本題だ


自分という存在は変化している。とくに記憶は蓄積するし忘却もある。考えは変わり性格も丸くなる。幼かった頃の自分は今とは違った人格のようにも思えることも一部あるだろう。
しかし、根本的に変わらないものがあるはずだ。少なくとも自分を意識する自分は変わらない。。。

記憶が一番重要だ。

(まだ結論はない。これから考えていきたい・・・)


人生の意味

何のために生きるか


記憶というのも特殊な能力だが、そもそも・・・


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現実に実際に存在しなくても、想像上あり得ると想像できれば、それは空と言えるのではないだろうか?

たとえば、何もない世界を想像するとする。
一番安定した状態だ。
しかし、そんな無の世界などあり得るのだろうか?
もしかしたら、どっかにそういう世界が存在するかもしれない。私たちの住むこの世界とは別次元に。私たちが決して行くことのできない所に。

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大森荘蔵


大森荘蔵の「時間と存在」を読んだ。
中でも色即是空の実在論に期待したのだが・・・

まったく期待外れだった。
(まず、大森荘蔵の本は冗長かつ上辺だけな気がする。欧米の作家と同様いろんな言葉を駆使し自分の知っている知識を大量に散りばめれば他人からの評価が高まると思っているのであろう。Amazonのレビューで「わかりやすかった」と短いコメントを残しているけれど、そんなことはない。きっと桜であろう。桜でなくても何かレビューのコメントを残したいだけの野次馬だろう。と愚痴ばかり言ってしまったが、、、本題に移ろう)


大森や仏教系の日本の哲学者は、自分なんて存在しないと主張することで欧米に対抗しようとしている。

自分なんて単なる思い込み、ただの「エゴ」「我」に過ぎない、と主張したいんだろう。

コギトエルゴスムを知っている欧米哲学者は自分なんて存在しないという主張に半信半疑で興味を持つ。

仏教の「空」という概念に興味を持つ。「空」は「無」でもなくもちろん「有」でもない。こんな変な概念を悟ることが仏教の教えなのであろうが、もちろん、賢明な人はそんな詐欺にひっかかる必要はない。まるでねずみ講のように理論的にも現実的にもあり得ないのだから。


でも、、、もしかしたら、「空」というものがあり得るのかもしれないという夢はいつも心の片隅に置いておきたい。。。



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問う時、疑う時

僕は、断定する人が嫌いだ。


神はいないとか、

人生の中で善とは幸せとか、

意識は脳の随伴現象に過ぎないとか、、、




何でそんなに自信をもって断定するのだろうか?

1+1=2 ということくらいになら断定してもまだ許せるが、この数式すら僕は疑っている。そう、コギトエルゴスムのように。独我論者のように。


しかし、そんな僕自身、
日々、自分という意識とか、人生の意味とか、幸せとは何かとか、考えている、この自分の態度にも、おかしいところがあるように思えてきた。



何故、人生の意味を問うのか?

問うことくらいは僕の勝手かもしれないが・・・



断定する文章には、疑問を呈することは構わないのだが、
問うときの前提の自分の思い込みは勘違いではないだろうか?


全てを疑う懐疑論者の疑う、問うときの前提、これはもしかしたら、、、
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うーたんとみゅう

Author:うーたんとみゅう
人生の意味を探り自分の生まれてきた理由・使命をただ純粋に知りたいだけ・・・

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