地方私鉄 1960年代の回想

案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2025年3月3日月曜日

淡路の魅力

時代が経つにつれ、淡路の失われた時代の魅力が益々強くなって来る。
淡路で最も印象深かったことを書いた記事の3回目。

過去記事より。
「淡路交通 昭和40年の洲本(3)」    公開日 2015.2.13
 
❼大衆旅館
バスが洲本駅に到着すると直ぐに宿さがしで駅前をぶらついた。どうやら駅前にある旅館は観光客向けではなくどれも素泊まりだと600円の割烹旅館であった。割烹旅館はちょっと小奇麗で我々向けではないので、さらに探すと大衆旅館というのが目にとまった。おそらく洲本では最低の部類と思われる佇まいで旅館の感じは全くなく周りの民家と同じようであった。交渉すると二食付き650円(素泊まり350円)である。宿はここに決めて荷物を預けたが、おかみさんの大声が何を言っているのかどうも方言でよくわからない。

一日、真夏の沿線撮影をして夕方宿に戻ると2階の一室に通された。ひどい部屋で置物もなければ掃除もろくにしていないようなただ寝るだけの物置のような部屋。二部屋あって一部屋に電球がないのには驚いた。もう一部屋だけに薄暗い裸電球が燈っていた。

夕食付であったが、なんと近所の食堂からの取り寄せであった。こんな宿は初めてでどうやらフロもないらしい。外から配達された夕食は山盛りのチャーハンであったが空腹にもかかわらずノドを通らなかった。
夕食後、宿の前にある銭湯に入ったがこれがまた独特の雰囲気。せせこましい銭湯で電気も薄暗く浴場が汚らしく見える。それでもきたない旅館の浴場よりはマシだったかもしれない。銭湯に来る地元の客はみな真っ黒に日焼けし、わが身がばかに白くて弱々しく見えたものだった。
当時の淡路の観光客は大抵「ホテル淡交」1500~3500円のような観光ホテルに泊ったことでしょう。鉄ちゃんが泊まる宿として観光ホテルは対象外で、この時の大衆旅館は汚さも度が過ぎたがむしろ洲本の懐かしい思い出となった。

島の電車の洲本駅近くの旅館に一泊した時の写真がなく、ストリートビューで今の洲本を巡ってみました。道路が広くなり町並みがすっかり綺麗になり、昔のあのすごい光景は全て建替えかと思ったところ、意外や昔をしのぶ建物も僅かに残っているようです。すごい宿や銭湯があったところには今マンションが建っているようです。

Googleストリートビュー 今の洲本

淡路の魅力

 時代が経つにつれ、淡路の失われた時代の魅力が益々強くなって来る。
淡路で最も印象深かったことを書いた記事の1回目。

過去記事より。
「淡路交通 昭和40年の洲本(1)」 公開日 2015.2.6 

島の電車で断片的に淡路島のことを取り上げてきましたが、今回は洲本の街に限定してこれまでの写真を再調整して整理してみます。

明石港~岩屋港経由して急行バスで遠路はるばる到着した洲本の街(昭和40年)の印象は、予想外に開けていたが大都市とは明らかに違っていてゴチャゴチャした街の風情に堪らない魅力があった。今では全国至るところ統一化されて殺風景になってしまったが、洲本の訪問記録を読み返してみるとこの時代ならではの凄い光景があった。一種独特の雰囲気、こんな風景を写真に記録してなかったことが惜しまれる。

❶三熊山山頂から見た洲本の街全景 1965年8月
淡路交通の電車が出ている洲本。街並みの向こう船着場から関西汽船や南海汽船の航路が神戸や深日と洲本を結んでいる。

❷洲本の漁港の光景 三熊山をのぞむ. 

❸洲本港 洲本~和歌山深日や洲本~大阪・神戸間を結んでいた.
和歌山経由で来た観光客をここで島めぐりバスが迎える.

❹観光客向相手の大通りで大浜公園、三熊山方面へ向う.



右に向かうと洲本駅電車のりばに出る.大通りには大衆食堂、酒場、喫茶、みやげ物店が軒を連ねている.ちょうど淡路島まつりで8月3日は盆踊り大会、どこからか盆踊りの音楽が賑やかに響いていた.
❺淡路交通電車バスのりば
洲本観光会館について。洲本の交通センターにあり一階喫茶室、二階特別食堂、大食堂、売店などで三階屋上には観光座があって島情緒豊かな淡路人形芝居を上演している(淡路交通パンフレットより)
この会館は殆どバス客向けに作られたようなもので電車の駅については何も触れていない。駅は立派な会館の一階の一遇を借りているに過ぎない感じであった。

➏洲本駅
➏洲本駅

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2025年2月26日水曜日

オリンパスペンから落穂拾い(7)

仙北鉄道 登米(とよま)駅.

落穂拾いではなく、落穂ひろいのネガで隣にあったコマを再スキャンしたものです。

登米駅は既に写真集などで使用したことがある画像です。


撮影:1964.8.4

軽便らしからぬ大陸的でゆったりとした終着駅.
画像を右クリック→新しいタブで開くクリック→新タブをクリックで横2000pix大の画像になります。



廃線後も使われた駅舎.


のひのびとした駐泊所


雄大な構内にポツンと気動車が1両.
(これのみ35mm判カメラで撮影)


2025年2月24日月曜日

オリンパスペンから落穂拾い(6)

松尾鉱業鉄道 東八幡平.

初めてスキャンした1枚に構内の機関区~貨物施設全体が写っています。

左手にホッパー、奥に跨線橋がありその脇に機関区、その右脇にあった廃車体が見える。


東八幡平の構内.


盛んに活躍していたED252.


上 ナハフ8、 下 ハニフ4 ?

2025年2月23日日曜日

オリンパスペンから落穂拾い(5)

仙北鉄道の佐沼駅 1966.3.1

35mm判の写真を使って紹介済みの佐沼駅の風景。
見慣れた風景だがハーフ判ネガの未キャンが見つかり初めてスキャンしてみました。 


佐沼駅の貨物列車 佐沼
トラック輸送幕開け直前の象徴的な軽便貨物輸送。軽便の小さな貨車が国鉄駅まで運び、そこから国鉄貨車へ積替えて各地に輸送していた時代。

佐沼駅


ト61 肥料を積んでいるのか


ワ621

ワ64



瀬峰駅

以下は瀬峰の貨物施設






脈絡のない栗原の電車.
仙北の次に向かった栗原電鉄.


2025年2月20日木曜日

SLが走った市電 3

川崎市電の過去記事より.公開日2016年4月8日

川崎駅前を出て京浜急行と並走する区間。

現在の川崎から想像もできない風景です。

撮影 田辺多知夫 1963.12.12
京急川崎駅からしばらく並走する川崎市電の専用軌道.


京浜急行との並走区間は工場地帯.

左に曲がり140号道路の併用軌道に入る.

京浜急行大師線デハ269と277 1963.12.12

特急あさかぜ 1963.12.12

2025年2月18日火曜日

松岡車両の小さな機関車

私は70~80年代にトロッコを追い求めた世代ではないので、60年代に工事現場で産業用機関車を見ても趣味の対象外と思って感心もなかった。

そして2015年に那珂川保存鉄道で尾小屋のDCレストアを見た時も、隣にいた小さな産業用機関車に目が行かなかった。後日、それが川島駅の先の鬼怒川土手近くで見た機関車と同メーカ同クラスであったことを知り、この小さな機関車に俄然関心が湧いてきた。

時代は不明(1970年頃か?)だが私はある時、川島駅の先で何かに収まった産業用機関車を見たが惜しいことに関心がなくて写真も撮らなかった。後になって幻想的に頭に浮かぶあの正体不明の機関車のことを知りたくなりいろいろ調べたが分からなかった。分かったのは松岡車両製の機関車らしいという事だけだった。

川島の松岡車両製機関車はトロッコファンの間でよく知られた存在だったのかも知れません。先日、コメント戴いた方のブログに詳細な記事があり読ませてもらいましたが、それは幻想的な光景でした。

 


尾小屋の小さな機関車DC122の脇に更に小さな赤とクリームの機関車、よく見ると松岡車両製で3~4tクラス程と思われる。川島にいた松岡製ではなかった。


小さな機関車. MATSUOKA RAIL & CO  KUWANA


これも小さな機関車.足尾トロッコ館.2020.11.21
米川鉄工所製3tガソリン機関車(動態保存) 元花巻市建設会社からの寄贈。
最も気になったフリクションドライブの小さな機関車。

SLが走った市電 2

埋もれている過去記事を再編集してアップします。

川崎市電の過去記事より.公開日2016年4月1日

前回に続き今回は田辺さんが同じ頃に撮った川崎市電をアップしてみます。


【前回の記事】
川崎駅前から塩浜まで川崎の工場地帯を市電が走っていた。日本鋼管前~塩浜間は1435mm軌間に1067mm軌間が入った3線式区間で、国鉄のSL貨物列車が市電の線路を走る珍しい光景が見られた。
 訪問した翌年1964年3月に池上新田~塩浜間が休止になり、さらに1969年3月には全線廃止となって消えてしまった。日本鋼管浜川崎などこの一帯は工場構内・専用線のSLの宝庫であり、こうしたSLに較べ川崎市電は目立たない存在であったようだ。


撮影 田辺多知夫
川崎市電 1963.12.12



 川崎市電

三線式を走る国鉄C11

以下は前回アップしたもの.
市電とすれ違って3線式区間をやって来た国鉄のC11.   桜橋
2両目特殊貨車の拡大

2025年2月15日土曜日

SLが走った市電 1

今年は川崎市市制100周年で60年前の川崎を更に続けてみます。
川崎市電の過去記事より.公開日2011.8.14

川崎駅前から塩浜まで川崎の工場地帯を市電が走っていた。
日本鋼管前~塩浜間は1435mm軌間に1067mm軌間が入った3線式区間で、国鉄のSL貨物列車が市電の線路を走る珍しい光景が見られた。
 訪問した翌年1964年3月に池上新田~塩浜間が休止になり、さらに1969年3月には全線廃止となって消えてしまった。日本鋼管浜川崎などこの一帯は工場構内・専用線のSLの宝庫であり、鉄道ファンにとってはこうしたSLに較べ川崎市電は目立たない存在であったようだ。


桜橋の風景  1963年6月


市電とすれ違って3線式区間をやって来た国鉄のC11.   桜橋


工場地帯を走る市電


専用軌道で3線式区間でないのは上並木~川崎駅前となる。日本鋼管前

以下は撮影:田辺多知夫氏
  3線区間を行く国鉄蒸機と川崎市電。 

川崎市電/国鉄の3線区間のポイント。

参考文献: 鉄道ピクトリアル 私鉄車両めぐり第3分冊

2025年2月14日金曜日

川崎・鶴見界隈の専用線蒸機4

日本鋼管の過去記事より.公開日2011.8.24

鶴見線の駅で見た日本鋼管鶴見の蒸機は、前回のボールドウィン古典機10号と有名な珍品古典機クラウス12号、そして協三工業製18号であった。撮影場所が不明確であったが訪問記を見つけ鶴見線浅野と弁天橋で撮ったことが判った。

訪問記より。
扇町の三井埠頭を引きあげて鶴見線浅野に向かった。この辺はクモの巣ごとくレールが敷かれさっぱり分からない。駅のそばに置いてあった産業用SL(日本鋼管18号機)を撮り、弁天橋へ向かった。鶴見線と工場専用線が並行して走るので駅は絶好の撮影場所であった。弁天橋で電車を降りたとたん遠くにカン高いホイッスルの音が聞こえ怪しげなSLがこっちにやって来た! 目を開けてよく見るとあの1Bのクラウスであるのには驚いた。そしておまけにもう1両やってきたのはあのボールドウィンであった。
どんよりとした天気が不満であったがこの幸運に大満足して引きあげた。

弁天橋に現れたクラウス12号機。この珍品中の珍品は、クラウス1907(明治40)年製で青梅鉄道が改軌に備えた1B形タンク4両の1両が日本鋼管鶴見製鉄造船12号機となった。煙突より後ろの位置に先輪があり、シリンダーがさらに後方にずれ缶だけが先走った姿をしていた。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図2の記述より)

カン高いホイッスルを鳴らし現れたクラウス12号機

日本鋼管 12号機  弁天橋  1964.12.25


引き続き熔銑車2両を牽いて現れたのはボールドウィンCタンクで10号機であることが写真で判る。このボールドウィンは9号と10号があり同タイプのようで明治村へ行ったのが9号機らしい?
日本鋼管鶴見の内部に入って調査された田辺幸男様のサイトに9号機の銘板(ボールドウィン製番)の写真があり9号機の製番37944は明確になっている。
元は富士身延鉄道1~3号で、その2号と3号が日本鋼管鶴見の10号と9号になったらしい。

 
熔銑車を2両牽いてやってきたボールドウィン10号機
 
日本鋼管 10号機  弁天橋  1964.12.25



浅野で見た産業用機関車は協三工業製28トン機で、日本鋼管鶴見製鉄所の18、19号機として1951(昭和26)年に製造された。協三で製造した最大(重量)の機関車である。
(臼井茂信著: 機関車の系譜図3による)
 
日本鋼管 18号機 浅野 1964.12.25