「家族という病」⑤
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
結婚はしなくとも他人と暮らすことは大事
家族を固定観念でとらえる必要なない。家とはこういうものという決まりもない。そこに生きる、自分達が快く生きられる方法をつくり上げていくしかない。
問題を抱え、ストレスのもとになる家族よりは、心から通い合える人がそばにいるかどうかが大切なのだ。
私の家族は今のところつれあい一人。そのつれあいと心が通じ合っているかといえば、それはわからない。少なくとも価値観は共通しているし、金や地位やこの世の泡のようなものにとらわれない淡々としたところは気に入っている。
男友達をながめても、なかなかそういう男はいない。私もさりげなくがモットーだが、つれあいに比べればまだしも現世的な欲は強いかもしれない。
つれあい、すなわちパートナーがいることは私にとってはありがたいことだ。
家族というもたれ合いは好きではないが、共に暮らす相手がいるのは、よかったと思っている。
血がつながらない、他人と一緒に暮らしてみることは、大事だと思うようになった。
特に私のように、両親に反発して自分勝手に生きてきた人間にとっては、他人と暮らすことは様々なことを教えてくれた。
今まで全く知らなかった人と一緒にいることで、一人の時のように好き勝手には出来ない。相手のその日の気分や外で何があったかなどを考え、思いやらざるを得ない。私にも相手のことを想像する余裕が出来たことはよかったと思っている。
家族ほとしんどいものはない
家族に期待していなかったために、向こうから期待されることは負担だった。彼等が期待するような学校への進学や成績をとることはなんとかなったが、父や母のためにがんばったつもりはない。
この先自分の好きな道へ進み、自分で生きていかねばならぬと思ったからだ。特に、経済的自立は必須だった。それがなければ何も始まらない。
自分の考えと生活をはっきり自覚することが出来るようになって、母とも対峙出来るようになった。彼女の育ち方や考え方を許容出来るようになった。
孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。
独りを楽しむことが出来なければ、家族がいても、孤独を楽しむことは出来ないだろう。
独りを知り、孤独感を味わうことではじめて相手の気持ちを推しはかることが出来る。
なぜなら家族は社会の縮図だからである。
>>社会の縮図である家族を固定観念ではなく、新しい価値観で捉えることが望まれる