何日かで1知識 「ビルマ戦記 方面軍参謀 悲劇の回想」⑤
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「ビルマ戦記 方面軍参謀 悲劇の回想」⑤



「ビルマ戦記 方面軍参謀 悲劇の回想」(後勝著、光人社)より

 第十二章  ビルマ方面軍の再建

  敗軍の将

 いつの時代でも、勝てば官軍、負ければ賊軍であり、インパール作戦の失敗で、これに関係した幹部は、つぎつぎと左遷、更迭されていった。


 烈兵団はかねて予想していた通り、後方からの補給は全然なく、そのうえ第十五軍は、実行不可能な命令を乱発し、佐藤幸徳兵団長は、軍の指揮錯乱を黙視し得ず、6月1日、ついに無断退却を決行した。

 ついで佐藤兵団長は、7月5日、陣中で罷免され、23日、ラングーンに到着して、方面軍司令官に申告した。

 

 昭和50年ごろであったと記憶するが、東京で佐藤将軍を偲ぶ会が催され、私も案内を受けて出席した。会場には、ご遺族をはじめ、佐藤将軍ゆかりの方が数十名出席され、つぎつぎに将軍に関する思い出話を披露した。

 中でも作家の高木俊朗氏(『抗命』の著者)は、部下将兵の危急を救うため、将軍は一命をかけ、インパールの戦場から無断退却をしたが、その英断は、まさに昭和の軍神というべき名将であると絶賛した。ところが、その直後に私が指名をうけ、回想談を披露することになって当惑した。

 私は高木氏のような作家と違って武人である。旧軍人として無責任なことは言えない。そしていやしくも軍人たる者が、事の善し悪しは別として、戦場において故意に命令に違反し、統帥から離れて勝手な行動をとることに、賛意を表すわけにはいかなかった。とっさの思いつきで大楠公の話をすることにした。

 --私は日本の武将の中で、大楠公をもっとも尊敬し、私自身の修業練磨の鏡として参りました。その理由は、足利尊氏が、九州の大軍を率いて、京を目指して攻め上ったとき、軍議の席上で大楠公は、巧みに尊氏の鋭鋒を避けながら、これを京都におびき入れ、その糧道を断ち切って尊氏軍の戦力を消耗させ、そのうえで四方から急襲して尊氏を打ち取ることを進言した。そのとき軍事に関する知識もない公卿の反対にあい、ついに兵庫に行って尊氏軍を迎え討てと大命が下った。

 このとき大楠公は、敗戦必至を覚悟のうえで出陣し、湊川でついに討死を遂げられたが、軍令に殉じた大楠公こそ、私ども武人の鏡である。生死をかけた戦場において、軍令は絶対的なものであり、軍令を下す者には絶大な責任がある。またこれを受ける者には、絶対服従の軍律があってこそ、立派な軍といえるのではなかろうか。

 佐藤将軍ほどの武将が、これらの道理は百も承知の上で、無断退却を断行された事情があったと推察されるが、これを今日の平和な時代感覚で論ずるところに無理があると、話を結んだものであった。


>>無謀な死を強要する第十五軍の軍令に背かざるを得なかった第三十一師団長佐藤中将を悼む



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