「一生モノの受験活用術――仕事に効く知識とノウハウ」(鎌田浩毅著、祥伝社)より
「好きなことより、できること」
日本で暮らしていると、われわれはつい完璧主義になりがちですが、大学の進路指導では完璧主義をやめて、とりあえず入学できる大学に入るというフレキシブルな考え方でいいと思います。
大学に入れば、本当は、どうにかなります。途中で専攻を変えてもいいし、今は学部が文系でも、大学院で理系に進む学生も多い。専攻はいくらでも選び治せるし、もっと言えば、人生そのものが、いくらでも選び直せるのです。
したがって、最初に決めた目標にこだわる必要はまったくないのです。
私はいつも「人生は偶然に満ちている。その偶然を楽しめるかどうかがポイントだ」と言います。実際、これは地球科学に関連した話でもあります。
人生も偶然を楽しむことができるかどうかが一番大事であることも理解できるでしょう。出会った先生や、出会った授業が面白いと感じたら、迷わずそちらに進んだほうが良いのです。
偶然をプラスに捉える
京大生は国家から良い教育を与えられているので、社会に出てから人々に還元する義務があります。実は、京大生に限らず、すべての高校生にも同じことが言えます。この世で命を授かり、無事に高校に通っているだけで、ノーブル(高貴)な存在と言えるからです。
社会に還元すること自体が、人生で最も楽しいことなのです。このことを高校生や大学生をはじめとして若者にはぜひ伝えたいですし、この本を読んでおられるビジネスパーソンには、改めて、実感していただき、後輩たちに伝えてほしいと思います。
合格に必要なのはビジネスマインド
受験の目的を明確にしたうえで、その後の試験勉強は、徹底的に効率主義で取り組むことが肝心です。たかが試験とはいっても、いったん受けるとなると膨大な時間とお金とエネルギーを費やすことになるからです。
そして、採点する側が求めることに対して、ピンポイントで的確に答える。そのための準備を負担からコツコツとする。英語なら、まんべんなく単語を覚えるのではなくて、「出題される単語」から優先して覚える。このように試験勉強は、とてもシンプルな原理で成り立っているのです。
自分を「プロデュース」する
受験勉強は自分を「プロデュース」する壮大な実験です。こういう機会は長い人生でもそうあるものではありません。そして大学受験という経験が人間を大きく成長させるのは本当です。
日本人は受験勉強について誤解をしているから、すぐ「いったい何に役立つのか」などと疑うのです。しかし、チャレンジしないで一生を過ごすのはどうかと思います。私自身は正面から受験に向きあい、真剣に勉強したおかげで、今、とても面白い人生を歩んでいます。
受験勉強に対して誠実に取り組んでみれば、将来ためになることが必ずあります。これだけは間違いありません。
>>顧客が求めることに対して、ピンポイントで的確に答えられれば、ビジネスでも成功するに違いない
「一生モノの受験活用術――仕事に効く知識とノウハウ」(鎌田浩毅著、祥伝社)より
あとがき――なぜ勉強をするのか
京都大学の講義で学生たちにいつも言っていることですが、一番大切なことは、「活きた時間」を過ごすことです。すなわち、何事を行うにも、自分の過ごしている時間がつまらない時間ではなく、活き活きとした有意義な時間であってほしい、ということです。
大切なことは、「時間というのは自分で決められる」ということです。すなわち24時間の使い方を自分が決める権利があり、常にイニシアチブを取ることができる、という人生の原理です。
そう思ってみると、自分の持ち時間を「死んだ時間」から「活きた時間」に変えることが可能になります。
重要なことは、「勉強が良い人生を形成する」という事実です。勉強が楽しくなった人には、大きな幸せが訪れます。英国の哲学者フランシス・ベーコンの説くように「知識は力なり」だからです。
人生の成功とは何か
私自身、日常の生活の中で、「人生の成功とは何か」、ということをずっと考えてきました。
それは三つあるのではないかと思います。一つ目は仕事についてです。高校生にとっては、勉強となるでしょう。二つ目は人づきあいです。いい人間関係の中で生きていくことができれば、人生はかなり成功とみなしてもよいでしょう。
三番目が趣味。趣味とは、好きなこと、楽しいことをすることです。本を読むのでもいいし、映画を観ることでもいい。美味しい食事をするのでもいい。旅行するのでもいい。それは、仕事とも人間関係とも違ったものですが、大切な人生のパーツです。
仕事、人間関係、趣味が満たされるというのが、成功の三つの要素ではないかと私はつねづね考えています。しかも、この三つの要素すべてが、実は受験勉強にも関係しているです。「コンテンツ」と「ノウハウ」の両者が、これらの三つを導くためにとても重要だからです。よって、受験で得られることは、人生の成功にもしっかりとつながります。
まとめると、その①まず成功のイメージを持つこと、その②必ず実行してみること、となります。
>>成功のイメージを持って、実行して、死んだ時間を活きた時間に変えてゆきたい
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
第6章 「自己本位」主義のすすめ
自己防衛としての「自己本位」主義
大学院を卒業して後、漱石は松山、そして熊本へと赴任。それからロンドンへと留学しますが、悩みや不安は益々深まるばかりでした。
ロンドンに住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり。(『文学論』)
このとき私は始めて文学とはどんあものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のない藻のように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。(『私の個人主義』)
ここで「他人本位」という言葉が出てきます。
やたらとカタカナを並べたがる人が多いのは現在でもあまり変わっていません。
そういう風潮に漱石は不安を覚えました。借り物ではなく、自分の手で、自分の頭脳で心理を追求しなければ、どこまで行っても安心することはできないのだ、と。
私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新しく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。(中略)
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自己本位の四字なのであります。
自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして(中略)西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。(同前)
挫折をバネにして不屈の精神を創る
ところで漱石は、この講演に先立つこと八年、明治39年(1906)年に、こんなエッセイを書いていました。百年前とは思えない、耳の痛い話です。
現代の青年に理想なし。過去に理想なく、現在に理想なし。家庭にあつては父母を理想とする能わず。学校にあつては教師を理想とする能わず。社会にあつては紳士を理想とする能わず。事実上彼らは理想なきなり。父母を軽蔑し、教師を軽蔑し、先輩を軽蔑し、紳士を軽蔑す。これらを軽蔑し得るは立派なことなり。但し軽蔑し得る者には自己に自己の理想なかるべからず。自己に何らの理想なくしてこれらを軽蔑するは、堕落なり。現代の青年は滔滔として日に堕落しつつあるなり。
英国風を鼓吹する者なり。気の毒なことなり。己れに何らの理想なきを示すなり。英国人は如何なる点において模範とすべきや。愚もここに至つて極まる。
四十年の今日までに模範となるべきものは一人もなし。(断片「漱石文明論集」所収)
これが、ロンドンから帰国して数年後の、朝日新聞社への大転身を前にした漱石の本音ですね。ここに書かれた、理想なき「現代の青年」の「堕落」は、それから百年経った今どうなっているでしょうか。現代社会に青年が抱くべき理想があるとはとても思えませんね。しかし、それは百年前も、そしてこれからも変わらないことなのだ。そして若者に限らず、大きな顔をしている大人たちもまた同様である、と漱石は断じています。
漱石はそんな諦観を胸に抱きつつも、若者たちにはこう語りかけました。
もし途中で霧かもやのために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。もしどこかにこだわりがあるなら、それをふみつぶすまで進まなければ駄目ですよ。腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような、なまこのような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。(「私の個人主義」)
老婆心ながら、と言いつつ漱石は本当に若者たちの将来を心配しています。それはとりもなおさず日本の将来への危惧と重ね合わせた発言でしょう。なまこのようにボンヤリしていないで、若いうちに真剣に自分の道を考えなさい、と。
そして、自己本位とは周りを見る前に、真剣に自分を見つめて自己を把握することでもあります。
あなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけるべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ一生の不幸である。(同前)
姜尚中さんは著書『続・悩む力』で、「漱石が描いた五つの「悩みのタネ」とは」と、わざわざ一章を割いて述べています。
その五つとは「お金」「愛」「家族」「自我の突出」「世界への絶望」です。「自我の突出」は自分とは何か? という自問自答のこと。「世界への絶望」は自分と世界、社会との関係が切断されているという空虚のことだと言います。漱石が百年前に描いたこれらの「悩みのタネ」が、現在も全く変わっていないというのが、姜さんの指摘です。
「人格のある立派な人間」になってほしい、という漱石の言葉は、つきなみではありますが、漱石が生涯をかけてこの国の国民に希求した思いだったと言えます。それこそが、漱石が「国民的作家」として愛され、今なお僕たちを引きつけて離さない漱石の「人間愛」に他ならないのです。
「とりあえずの自分」を超えて
たとえば国家というのはとても大きな存在であると思いがちですが、自分自身にとってみれば、それは自分の観念全体の、ほんの一部を占めているものに過ぎません。家族も学校も会社も同様です。一番大きな存在は自分自身なのです。そう考えると、問題は自分とその他の全ての存在との関係の仕方や距離の取り方ということになります。つまり、その関係や距離は「自己本位」に調整していけばいいのです。
ただし、それは漱石が行ったとおり、他社の「自己」を疎外することのない、平等のものでなければならないことは言うまでもありません。「自己本位」とは、自分を冷静に見つめるとともに、自分の周りの人たちの優しく慈愛に満ちた眼差しを見過ごすことなく、大切にそして素直な気持ちでみつめ返すことなんだ、と僕は思います。
そして、人生というのは、営々と「とりあえずの自分」を超え続けることなのではないだおうか、と。
人は誰でも「ストレイ・シープ(迷える羊)」なのですから。
>>周りを見る前に、真剣に自分を見つめて自己を把握する「自己本位」を身につけてゆきたい
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
第5章 漱石の「還元的感化」論
デザインによる「感化価値」とは何か
漱石が行ったいくつかの講演のなかでも、僕が最も興味をもったのが「文芸の哲学的基礎」という講演です。そのなかで漱石が語ったのが「還元的感化」についての考察です。
じつはこれは漱石が朝日新聞社に入社した時に行った最初の講演でした。明治40(1907)年4つき20日、場所は東京美術学校(現東京芸術大学)で、会場は現在もキャンパス内に移築保存されている「泰楽堂」だったそうです。
一口に言うと我々は生きたいという傾向をもっている。(意識には連続的傾向があるという方が明確かも知れぬが)この傾向からして選択が出る。この選択から理想が出る。すると今まではただ生きればいいという傾向が発展して、ある特別の意義を有する命が欲しくなる。すなわちいかなる順序に意識を連続させようか、またいかなる意識の内容を選ぼうか、理想はこの二つになって漸漸と発展する。(「文芸の哲学的基礎」)
「知・情・意」に大別される創造的意識
漱石はここで、人間の意識すなわち精神作用の主な要素として「知・情・意」をあげました。つまり、人間の意識すなわち自我と物との関係において、物に向かって「知」を働かす人と、物に向かって「情」を働かす人と、それから物に向かって「意」を働かす人、この三つの関係が成立する、と。むろんそれらは互いに重複し混然としているものではあるけれど、大きな傾向として分けることができる、と。
漱石の言い方によれば、「知」を働かす人とは、物の関係を明らかにしていく人で、たとえば哲学者や科学者などを言います。「情」を働かす人とは、物の関係を味わう人で、たとえば文学者や芸術家を指します。そして「意」を働かす人とは、物の関係を改造する人で、たとえば軍人や政治家や商人や職人などを指しています。
かく人間の理想を三大別したところで、我々、すなわち今日この席で講演の栄誉を有している私と、その講演を御聴き下さる諸君の理想は何であるかというと、いうまでもなく第二に属するものであります。情を働かして生活したい、知、意を働かせたくないと言うのではないが、情を離れて活きていたくないというのが我々の理想であります。(同前)
文芸とデザインにおける「理想」とは
概括すると、一が感覚物そのものに対する情緒。(その代表は美的理想)二が感覚物を通じて知、情、意の三作用が働く場合でこれを分って、(い)知の働く場合(代表は真に対する理想)(ろ)情の働く場合(代表は愛に対する理想および道義に対する理想)(は)意志の働く場合(代表は荘厳に対する理想)となります。(同前)
つまり、文芸における理想の要点は、美、真、愛と道義、荘厳、の四種類に大別できる、ということになります。そして漱石は、この四つの理想を、現状(百年前の)分析します。
現代文芸の理想は何でありましょう。美? 美ではない。画の方、彫刻の方でもおそらく、単純な美ではないかも知れないが、それは不案内だから、諸君の御一考を煩わすとして、文学について申すとけっして美ではない。美というものを唯一の生命にしてかいたものは、短詩のほかにはないだろうと思います。小説には無論ありますまい。脚本はもとよりです。詳しくいうと、暇がかかるから、このくらいで御免蒙って先へ進みます。現代の理想が美でなければ、善であろうか、愛であろうか。この種の理想は無論幾多の作物中に経となり緯となりて織り込まれているには相違ないが、これが現代の理想だというには、はるかに微弱すぎると思います。それでは荘厳だろうか。荘厳が現代の理想ならばいささかたのもしい気持もするが、実際はかえって反対である。現代の世ほどheroismに欠乏した世はなく、また現代の文学ほどheroismを発揚しない文学は少なかろうと思います。現代の世に荘厳の感を起す悲劇は一つもでないのでも分ります。現代文芸の理想が美にもあらず、善にもあらずまた荘厳にもあらざる以上は、その理想は真の一字にあるに相違ない。(同前)
そして漱石は最後に「その理想は真の一字にあるに相違ない」と言いました。
この四種の理想は文芸家の理想ではあるが、ある意味からいうと一般人間の理想でありますからして、この四面にわたってもっとも高き理想を有している文芸家は同時に人間としてももっとも高くかつもっとも広き理想を有した人であります。人間としてもっとも広くかつ高き理想を有した人で始めて他を感化する事ができるのでありますから、文芸は単なる技術ではありません。人格のない作家の作物は、卑近なる理想、もしくは、理想なき内容を与うるのみだからして、感化力を及ぼす力もきわめて薄弱であります。(同前)
百年後をデザインする君へ
偉大なる人格を発揮するためにある技術を使ってこれを他の頭上に浴せかけた時、始めて文芸の効果は炳焉として末代までも輝き渡るのであります。輝き渡るとは何も作家の名前が伝わるとか、世間からわいわい騒がれるという意味でいうのではありません。作家の偉大なる人格が、読者、観者もしくは聴者の心に浸み渡って、その血となり肉となって彼らの子々孫々まで伝わるという意味であります。文芸に従事するものはこの意味で後世に伝わらなくては、伝わる甲斐がないのであります。(同前)
発達した理想と、完全な技巧と合したときに、文芸は極致に達します。(それだから、文芸の極致は、時代によって推移するものと解釈するのが、もっとも論理的なのであります)文芸が極致に達したときに、これに接するものはもしこれに接し得るだけの機縁が熟していれば、還元的感化を受けます。この還元的感化は文芸が我々に与え得る至大至高の感化であります。機縁が熟すという意味は、この極致文芸のうちにあらわれたる理想と、自己の理想とが契合する場合か、もしくはこれに引きつけられたる自己の理想が、新しき点において、深き点において、もしくは広き点において、啓発を受くる刹那に大悟する場合をいうのであります。(中略)
そうして百人に一人でも千人に一人でも、この作物に対して、ある程度以上に意識の連続において一致するならば、一歩進んで全然その作物の奥より閃めき出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙堺に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命をまっとうしたるものであります。(同前)
そして漱石は、百年後になっても人々に感化を与えることのできる作品を書くのが自分の使命だ、とも断言しています。それが今、実現していることは周知の通りですね。弟子たちへの手紙にはこうも書いています。
功業は百歳の後に価値が定まる。・・・・・・百年の後、百の博士は土と化し千の教授も泥と変ずる。余はわが文をもって百代の後に伝えんと欲する野心家なり。(森田草平あて/「漱石書簡集」)
どのくらい人が自分の感化を受けて、どのくらい自分が社会的分子となって、未来の青年の肉や血となって生存し得るかをためしてみたい。(狩野享吉あて/「漱石書簡集」)
そこで改めて思うのは、漱石がとことん人間に優しかったことと、そのために自らを極限まで孤独に追いつめ、それと闘い続けたことです。
>>没後100年の今日にまで作品を通じて感化を与え続けている漱石は自己の使命を全うできて羨ましい
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
職業の専門家と細分化の弊害
ところで、また少し話がそれますが、漱石はこの講演の数カ月前に「文学博士号辞退」という事件を起こしていました。また「御上」にたてついたのです。政府が文学博士号を漱石に与えるからありがたく受け取れと言われて、それを漱石が断ったというものです。結局は「受け取れ」「要らない」の平行線で終わった話ですが、漱石は事の経緯を朝日新聞紙上に完結に書きました。そこで漱石は当時の文部大臣に対し、次のように言いました。
小生目下わが国おける学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑑みて、現今の博士制度の功少なくして弊多き事を信じる一人なる事をここに言明致します。(「博士問題の成行」前出『漱石文明論集』所収)
博士制度は学問症例の手段としては有効だが、博士になるために学問をしたり、博士でなければ学者でないとうような風潮を促すのは弊害が多い、と。なにもそこまで意固地にならなくてもとも言えそうですが、漱石は妥協しません。
余の博士を辞退したいのは徹頭徹尾主義の問題である。(同前)
と言い切っています。相手が誰であれ、国家の制度であれ、自分の意見ははっきり言うという漱石の「自己本位」主義を象徴する事件でした。こうした国家や権威と自分との関係を冷ややかに、かつ厳格に考える姿勢は、後の芸術院会員を辞退した大岡昇平や、文化勲章を辞退した大江健三郎さんを思い起こさせます。
道楽は個人の想像力の源泉
道楽とは、自ら進んで強いられざるに、自分の活力を消耗して嬉しがる方であります。なお進んではこの精神が文学にもなり科学にもなりまたは哲学にもなるので、ちょっと見るとはなはだむずかしげなものも皆道楽の発現に過ぎないのであります。(「現代日本の開化」)
道楽という言葉は、一見いい加減な、自堕落で反社会的な印象を与える言葉ですが、漱石はこの言葉に創造性の基本的なモチベーションを見出していると言えます。ただしそれは、若年期には大人たちから見ると単なる能天気にしか見えないことが多いものだ、と。
さて、講演「道楽と職業」でも重要なのは「自己本位」という漱石の生き方の概念です。
科学者哲学者もしくは芸術家のたぐいが職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位ででなければとうてい成功しないことだけは明らかなようであります。なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱け殻同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神がこもるはずがない。全てが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。(「道楽と職業」)
何の強制も義務もなく、自分の作りたいモノだけを作る、自分の書きたいものだけを書く、それが芸術であり、言い替えれば道楽です。
あくまで自分のために書いたものが偶然人のためになって、その気に入られた分だけが報酬として返ってくる。そしてそれを生活費にして食っている。食うために自分を曲げるくらいなら文学を辞めなければならないが、偶然今まではなんとかやってきている、と。
芸術家はわがままでなければやっていけないし成功もしない。つまり「自己本位」でなければならない。だから、芸術家にとっては道楽すなわち本職である。
「自己を本位にする」というと「自己中心的」とか「エゴイズム」というふうに誤解されそうな響きがありますが、漱石の意味するところは全く違います。それは、自らが貫くべき「主義」や「信念」のことです。それは漱石にとっては「孤独」と表裏一体の言葉でもありました。
漱石は徹頭徹尾孤独な人だったと思います。むしろ、その孤独から身を守るために、また自らを懸命に鼓舞するために身にまとったのが「自己本位」という鎧だったと言っても良いでしょう。未成熟で不安定な、明治維新以降の新しい国家づくりの真っただなかで、自らの信念を守り抜くためには、たとえ相手が国家や大臣や新興資本家であろうとも、自分の信念に反するものは断固として認めないという主義です。
>>借り物でない、魂の宿った「自己本位」という「主義」「信念」を身に付けてゆきたい
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
第4章 職業としての作家とデザイナー
転職に賭けた漱石の悲壮な決意
27歳で帝国大学文科大学英文科を卒業し大学院に進んだ漱石は、すぐに東京高等師範学校(現筑波大学)の英語教師になります。その二年後の明治28年(1895)年、漱石は横浜にあった英字新聞「ジャパン・メール」の記者を志望しましたが、結果は不採用になりました。その12年後には、結果的に朝日新聞の社員となった漱石が、もしその時に新聞記者になっていたら、と想像したくなります。そしてその二カ月ほど後、漱石は突然、松山の愛媛県尋常中学校に嘱託教員として赴任しました。その時の体験が後に『坊つちゃん』となったことはご存知の通りです。
松山で一年勤め、次は熊本の第五高等学校に転任、30歳でした。翌年、中根鏡子と結婚。そして、34歳から二年半ほど、ロンドンに留学します。この留学も大義名分は英語教師になるためでした。そしてそのことが漱石を大いに苦しめることになります。明治36(1903)年1月に東京に戻ると、ラフカディオ・ハーンの後任として東京帝大文科大学講師、同時に第一高等学校英語嘱託の任につきます。その後、明治大学の講師も兼務しますが、それはこの頃はとにかく食べていくために必死だったからだと漱石は後に語っています。
そして四年後、漱石は朝日新聞社に入社。40歳でした。それまでに『吾輩は猫である』『坊つちゃん』他を発表していた漱石は、すでに新進の人気作家となっていました。そして、本格的作家として生きていくということを真剣に考え抜いていました。その悲壮なまでの覚悟を、朝日新聞社入社の半年ほど前に鈴木三重吉に充てた手紙に見ることができます。
いやしくも文学をもって生命とするものならば、単に美というだけでは満足ができない。ちょうど維新の当士勤王家が困苦をなめたような了見にならなくては駄目だろうと思う。間違ったら神経衰弱でも気遣いでも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思う。(中略)
死ぬか生きるか、命のやりとりするような維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい。それでないと何だか難をすてて易きにつき劇を厭うて閑に走るいわゆる腰抜け文学者のような気がしてならん。(『漱石書簡集』三好行雄編所収)
漱石がまさに明治維新の年に生を受けたことを改めて想起させる文面です。維新の志士たちの壮絶な生き様は、漱石にとっては決して遠い過去のことではなかったのですね。
そして、朝日新聞入社は、漱石のみずからの生き方にとって最大の決断となりました。それはロンドン以来、漱石が悩み続けた最大の問題への結論でした。つまり、自分は英語教師になるか、文学研究者となるのか、それとも作家となるのか、という問題です。結果的に漱石は作家への道を選びます。その結論を別の言葉で言うとすれば、それは単なる英語の教育者、あるいは英文学の研究者という「技術価値」の提供者から、作家という「感化価値」の追求者への転身、という決断であったとも言えると思います。
漱石の「権威主義」嫌いは徹底していました。この記事から半年後、漱石はちょっとした事件を起こします。時の総理大臣、西園寺公望が著名な文学者たちを集めて懇親会を催した時に、執筆の多忙を理由に漱石が断ったという話です。断りのハガキに、まわりの心配をよそに漱石は一句添えました。
「ホトトギス 厠半ばに 出かねたり」
トイレの途中だから、というのは冗談で、仕事が忙しいから出席いたしかねます、という意味ですが、大胆不敵ですね。
朝日新聞社入社は、漱石40歳の大転身でした。しかし、その後の漱石に与えられた時間がわずか十年しかなかったことが惜しまれてなりません。そして、その十年の間に漱石は持てる知力と体力をまさに振り絞るように駆け抜けたのでした。結果として、この大転身が漱石自身にとっても、日本の文学や文化にとっても、きわめて重大な英断であったことは言うまでもありません。
>>「権威主義」嫌いの漱石の朝日新聞社入社-「技術価値」の提供者から、「感化価値」の追求者へ-の大英断には頭が下がる
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
デザインの「技術価値」と「感化価値」
二度と見たくもないし行きたくもない街や風景があふれてしまっているのはなぜか。おそらくそれは、漱石の言う「外圧による開化」と、経済効率一辺倒の生産や建設、そして商品を売るためなら街の景観なんかどんなに醜くなってもかまわないのだ、という民度の劣化、また美意識の退化に疑問を持たなかった日本人(だけではありませんが)の意識構造によるものだと思われます。つまり、そうしたデザインの本当の作者は、デザイナーや建築家たちではなく、それらの意識に作用している時代や経済という幻想なのだと思います。いわば「現代」という名の巨大なデザイナーです。そこでは性善説は通用しないようですね。
ただし、時代は変わりつつあります。依然内閣府が行った、日本人の「モノの豊かさ志向」と「心の豊かさ志向」に関する調査では、昭和55(1980)年を境にして「モノ志向」が「心志向」へと逆転したという結果が出ています。そしてその後は差が広がる一方だそうです。つまり、日本人の意識は30年ほど前から「心の豊かさ」への志向を強め続けていることになります。
意識としては、物欲よりも精神的な豊かさを求めているにもかかわらず、社会システムや産業構造は依然として大量消費の幻想を捨てきれないところに、モノと精神の大きな齟齬とひずみが拡大してきていると言えるでしょう。
そして、21世紀も十年余を過ぎた現在、政治や経済や古い社会制度があちことで賞味期限を過ぎて、ボロボロと崩れはじめているように見えます。現代という巨大な幻想が自己崩壊を始めているのです。経済の発展という美名のもとに僕たちの真の心の豊かさへの希求を抑圧して来た古い制度が限界に達して崩壊を始め、新しい制度を必要とし始めています。
そしてデザインもまた、これまでとは全く新しい発想が登場する大きなチャンスをむかえていると、僕には思えるのです。
第3章 模倣とオリジナリティー
モノへの夢が覚め、人間中心のデザインへ
コミュニケーション技術をはじめとする技術の急速な発展は、僕たちが都市に居なければならないとう必然性をどんどん失わせつつあるとも言えます。創造の場は、もはや都市よりも、地域の方が無限の可能性を持っているように見えます。都市にせよ地方にせよ、もはやかつての威圧的な資本中心の社会の支配構造は崩壊しつつあると言っていいでしょう。古臭い「資本」や「権力」の仕組みと「自分」との距離や関係を客観的に見つめて、みずからの生き方を熟慮する世代が、これからの百年をデザインしていくことになるのだと思います。
デザインの技術価値と感化価値とのバランスがとれた、百年後の本当の意味での豊かなデザインを準備するために、そして、自分自身のオリジナルでインディペンデントな生きがいをデザインによって実現するために、皆さんも時には街を飛び出して、感動探しの旅に出かけてみるのもいいかもしれませんね。もしかしたら、いやきっとそこで、あなたにしか出来ない新しいデザインの種が見つかるにちがいない、と僕は思います。
>>「心の豊かさ」を志向しながら、新しい発想で自分をデザインしてゆきたい
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
第2章 漱石のデザイン論
「文明としてのデザイン」の時代、そして「デザイナー」の誕生
大まかに言えば、この国のデザイン教育の源流は、ともに殖産興業と貿易振興という目的のもとに、一つは大学における高度な技術教育の移入という流れと、もう一つは新しいシステムで伝統技術を継承しようとした工芸教育という二つの流れを出発点としていたと言えるでしょう。
漱石の文明開化に対する批判的視線
開化を体験する国民は、非常に空虚であり、どこかに不満と不安を抱くはずだ、と漱石は言いました。それは虚偽であり、軽薄でもある、と。そんな開花が進歩したとしても、国民が受ける安心の度合いなどはごく微弱なもので、いらぬ競争でイライラしたりすることを考えれば、国民の幸福は野蛮時代とたいして変わらない。それでも無理をして踏ん張って神経衰弱になってしまうようなら、日本人は気の毒と言うか憐れというか、言語道断の窮状に落ちいてしまったものだ、と。
これは百年前のことではなくて、今現在のことでは?という錯覚に陥りそうになります。つまり、物質面はともかくとして、精神面においては現在はまだ文明開化の延長線上にあるのかもしれませんね。漱石は続けます。
現代日本の開化は皮相上滑りの開花であるという事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激な言葉は慎まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくらうぬぼれてみても上滑りと表するより致し方がない。しかしそれが悪いからおよしなさいというのではない。事実やむをえない、涙をのんで上滑りに滑って行かなければならないのです。(「現代日本の開化」『漱石文明論集』三好行雄編所収)
日露戦争に勝って一等国になったなどという高慢な考えは捨てて、できるだけ神経衰弱にかからないように、「内発的に変化して行く」べきである、と漱石は言いました。作家の丸谷才一さんは、その画期的な漱石論である『闊歩する漱石』のなかでこう書いています。
「鎖国からいきなり開国して帝国主義の時代に身を処してゆかねばならない幼い日本が、漱石にはいとほしくてならなかったのである。(中略)その憐れみの対象はもちろん近代日本の青年子女であり、東京であり、さらには近代日本そのものである。漱石は日本をかはいそうだと思っていた。それが彼の愛国であった。」(『闊歩する漱石』丸谷才一)
そして、もし漱石が百年後の今、不安に苛まれながら希望を見出せずに喘いでいる現在の日本を見たなら、やはり、いとおしい、かわいそうだと思うでしょうね。もっと「内発的に」この国独自の社会を創っていって欲しいと、きっと繰り返し語るにちがいないと思います。
漱石もそうだったと思いますが、僕も外圧的な文明のすべてを否定するつもりは毛頭ありません。これまでの日本は、その恩恵を咀嚼し他をリードしながら発展させてきたことは世界の認めるところです。ただし今はそれもかなり翳りを見せてはいますが。ただ、西欧と肩を並べる先進国といわれるその根底には、百年前に自国の文化をなりふりかまわず投げ捨てたという「遺伝子の異変」が記憶され続けていることを、僕たちはもう少し意識化すべきではないかと思うのです。そして、「内発的」という漱石の言葉を、今こそ真剣に考え抜くべきではないでしょうか。それが、この国のデザインを新たな地平へと導く大きな鍵になるに違いないと僕は確信しています。
>>今日の日本こそ、特に精神面で「内発的」に変化し続けてゆかねばならぬように思う
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
漱石と辰野金吾の不思議な縁
漱石は、大正5(1916)年の12月9日になくなりました。じつはその二週間ほど前、漱石は築地(今の銀座)の精養軒で行われたある結婚披露宴に出席します。新郎の辰野隆は辰野金吾の長男です。隆は一高時代、直接漱石の授業を受ける機会はなかったものの、何度も漱石の講演を聴きに行ったほどの漱石ファンでした。つまり、辰野金吾は息子の敬愛する漱石を、新郎の父という立場で出迎えたわけです。ただし、漱石を招いたのは隆ではなく、漱石の弟子であった山田繁子です。繁子は新婦である妹久子の披露宴に恩師漱石を招いたのです。そして、この祝宴への出席が間接的に漱石の死を早める結果となりました。辰野隆は後にこう述懐しています。
「かねて胃を病んでいた漱石は、その席上につまみものとしてならべてあった落花生を少量ならべつにさわりも無かろうと、うっかり食べたのが悪かった。(中略)この落花生が漱石最後の病の近因となった、という事を僕は後から知ったのであった。」(『明暗』文献抄、角川文庫所収)
隆によれば、この披露宴の日の午前に漱石は『明暗』の最後のページを書いたと言います。隆は漱石の死後、その津田と清子の会話を読みながら、こう思ったそうです。
「漱石自ら「あの世から迎えが来れば今日にでもいかなくちゃならないよ」と冗談のように言っているところを想像して、この文豪の死に僕が多少の因を科したのを寂然として考えざるを得なかった。」(同前)
漱石が公の場に姿を見せたのは、この辰野家の披露宴が最後になりました。ちなみに隆の父辰野金吾は、この二年前に「中央停車場=東京駅」を完成させ、この年建築学会会長に就任し、まさに日本を代表する建築家として絶頂期にありました。よもや辰野金吾は、この文豪・夏目漱石が、もしかしたら自分を追い落とすような建築家になっていたかもしれない(?)とは夢にも考えていなかったでしょうが。
漱石の住まいと言えば、あの『吾輩は猫である』や『坊つちゃん』を執筆し、「猫の家」と呼ばれていた千駄木の家が知られていますね。この家はかつては森鴎外が住んだことがあった家で、現在は「明治村」に移築保存されています。その千駄木の家を家主の都合で引き払うことになり、とりあえず妻の鏡子が本郷の借家を見つけますが、漱石はあまり気に入らなかったようです。一年も経たずに、漱石が散歩がてらに見つけてきたのが、漱石の生地である新宿喜久井町にほど近い早稲田南町七番地の家、すなわち「漱石山房」でした。ちなみに、この家は昭和20(1945)年の空襲で消失し、現在は「漱石公園」として新宿区が整備・管理しています。浴衣姿でベランダ回廊の椅子でくつろぐ漱石の写真がありますが、その回廊を含む家の外観の一部が復元されていて、庭には「猫塚」も保存されています。
漱石は、住まいには意外に無頓着だったようですね。家を建てる夢は少しはあったものの、結局は生涯借家住まいでした。家を建てるには、時間がなさ過ぎたと言うべきでしょうか。それよりも、かつて若き漱石が夢見ていたのは、もっと大規模な壮大な建築だったのでは、と改めて思います。しかし、この「暗くてきたない家」は、日本の近代文学の新しい大きな潮流を生み出す大舞台だったわけですよね。
漱石は、千駄木に居た頃から、とくに「猫」が有名になってからは、毎日来客が絶えないため、面会は週に一日、木曜日の午後だけと決めました。弟子たちはそれを「木曜会」と呼んで、早稲田に移ってからも漱石の晩年まで続けられました。
常連は高浜虚子、寺田寅彦、森田草平、鈴木三重吉、阿部次郎、少し後に安倍能成、松根東洋城、野上豊一郎、内田百閒、岩波茂雄など。漱石が他界する一年ほど前から、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、松岡譲なども参加しました。蒼々たる「漱石山脈」ですね。
そしてこの晩年の九年間を過ごした漱石山房で、漱石はその五十年の生涯を閉じたのでした。ちなみに、漱石氏後は月命日にちなんで、「九日会」と名称を変えて月一回の漱石を偲ぶ食事会が続けられたそうです。
>>漱石との縁を勝手に感じながら、現在、たまたま漱石の生地近くの原町に住んでいる
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
幻と消えた「建築家・夏目漱石」
建築を志したのは、自己の事業が比較的永久にのこるものだから。
と、漱石は後に弟子の森田草平にもらしています。(『漱石研究』森田草平)
漱石がそんな夢をふくらませていたある日、高等学校の同級生だった親友の米山保三郎が訪ねて来ました。漱石に言わせれば、この男こそ「真性変物」で、口を開けばいろんな哲学者の名前を連ねて宇宙論やら人生論をとうとうと語る男で、漱石はこの米山に一目も二目も置いていました。
この時漱石は、米山に「君は何になるつもりだ」と聞かれて、「建築家だ」というと、米山は言下に「そんなものはやめとけ!」と一蹴してしまいます。そして、いつもどおりの大局論を展開します。この国でどんなに頑張ったところで、あのセント・ポール大寺院のような建築を構成に残せるはずもないじゃないか、それよりも文学の方がはるかにましだぜ、と大演説を吐きます。
漱石は、確実に食べていかなければならないしなあ、などと思っていましたが、食うことなどまるで眼中にない米山の人生観に圧倒され、なんとなく敬服してしまいました。後に漱石はこう回想しています。
文学士で死んだ米山という男が居った。之は非常な秀才で哲学科に居たが、大分懇意にして居たので僕の建築科に居るのを見てしきりに忠告してくれた。
僕はその頃ピラミッドでも建てる様な心づもりで居たのであるが、米山は中々盛んなことを言うて、君は建築をやると言うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代にのこるなどということはとても不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝えるべき大作も出来るじゃないか。と米山はこう言うのである。僕の建築科を択んだのは自分一身の利害から打算したのであるが、米山の論は天下を標準として居るのだ。
こう言われて見るとなるほどそうだと思われるので、又決心をしなおして、僕は文学をやることに定めたのであるが、国文や漢文なら別に研究する必要もない様な気がしたから、そこで英文学を専攻することにした。その後は変化もなく今日迄やって来て居るが、やってみれば余り面白くもないので、此頃は又、商売替えしたいと思うけれど、今じゃもう仕方がない。初めは随分突飛なことを考えて居たもので、英文学を研究して英文で大文学を加工などと考えて居たんだったが・・・・・・。(「落第」)
この「落第」というエッセイが雑誌に出たのは「中学文芸」誌で、明治39(1906)年9月15日。この年は、4月に雑誌「ホトトギス」に『吾輩は猫である』の第10章と同時に『坊つちゃん』を一括して発表し、また7月には京都帝国大学からの教職の誘いを断った頃。つまり、この談話が語られたのは、「商売替え」の迷い、すなわち英文学者か作家かの選択を考え始めていた頃のものです。そして、年が明けて2月に朝日新聞社から招聘の話が持ち上がり、4月には入社を決めることになるという、漱石にとって最大の転機の時期に語られた回想でした。ところで、米山の忠告がなければ漱石は建築科になっていたのでしょうか。その人生の決断について漱石は淡々と語っています。
そう言われてみるとなるほど又そうでもあると、その晩即席に自説を撤回して、又文学者になる事に一決した。随分のんきなものである。(「処女作述懐談」)
米山は私よりは大変えらいような気がした。二人くらべると私がいかにもちっぽけなように思われたので、今までの考えをやめてしまったのです。そして文学者になりました。その結果は――分かりません。恐らく死ぬまで分からないでしょう。(「無題」)
この米山保三郎と漱石の関係について、作家の半藤一利さんはこう書いています。
「この米山が、『吾輩は猫である』にも、天然居士として登場しているのはご存知のとおり。名を曽呂崎といい、「卒業して大学院に這入って空間論と云う題目で研究していたが、余り勉強し過ぎて腹膜炎で死んで仕舞った。曽呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」と、主人公の苦沙弥が天然居士について迷亭に説明している。事実、米山は大学院で哲学を学び空間論を研究していたが、明治30(1897)年5月29日に、享年29で不運にも腹膜炎で亡くなっている。当時、漱石は熊本の五高で教師をしていた時である。訃報を聞いたあとの漱石の手紙が残っている。
「米山の不幸返す返す気の毒のいたりに存じ候。文科の一英才を失い候事痛恨の極みに御座候。同人如きは文科大学あってより文科大学閉ずるまでまたとあるまじき大怪物に御座候。蟄龍未だ雲雨を起こさずして逝く。・・・・・・」
それくらいあたりの塵をはらう怪物と、漱石の目にも映っていた。それで死後8年もたってもなお忘れがたく、さっそく小説の中で追悼の文字を書きつけたのである。」 (『漱石先生お久しぶりです』半藤一利)
こうして、残念ながらここで「建築家・夏目漱石」は幻と消えてしまいました。
ちょっと残念な気もしますが、考えてみればそのおかげで僕たちは「大文豪・夏目漱石」を失わずに済んだわけで、建築物の寿命をはるかに超えた、大きな文学的恩恵を受け続けることができているということになりますね。
>>高等学校の同級生だった親友の米山保三郎に出会っていなかったら、「大文豪・夏目漱石」は生まれなかったかもしれない。「人間万事 塞翁が馬」
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
第1章 建築家を志した漱石
漱石が建築家になりたかった理由
「そうだ、建築家になろう!」
そう夏目金之助(漱石、当時は塩原姓)が心に決めたのは、23歳(明治23/1890年)の時でした。一高予備門を卒業して、いよいよ自分の一生の進路を考えようとした時です。
漱石は、明治維新の年(明治元年/1868年)に、生まれてすぐに何もわからないまま里子に出されます。いったんは連れ戻されたものの2歳の時に、また塩原家という家に養子に出され、その後も一時生家に戻ったりという不安定な暮らしは、漱石が10歳になるまで続きました。自分は一体何者なのか? 何のためにこの世に生を受けたのか? どこが自分の居るべき場所なのか? 大人のエゴや世間の都合に翻弄されたこの幼児期の体験は、幼い漱石の心に「家族」について、あるいは「愛情」についての複雑な心象風景として刻み込まれたにちがいありません。
自ら「変物」と考えていたのは、そうした精神の形成期に受けた心の傷からくる屈折を自覚していたからだと思います。それは漱石に「早く自立して生活できるようにならなければ」という強い意思を植え付けました。おそらく、安らかな会いに包まれた暮らしへの飢餓状態のなかで、誰の世話にもならずに、誰にも迷惑をかけないで、一人で生きていかなければ、という子どもなりの悲壮感を胸に秘めて・・・・・・。
しかし、どうも自分は変わり者だ。そんな自分でも「何かおのれを曲げず」に、しかも「趣味を持った、世の中に欠くべからざる仕事」があるはずだ。世の中に必要とされること、それは「必要とされない生まれ方をした」というトラウマの裏返しだったのではないでしょうか。
そんなことをなんとなく考えている時に「ふと建築のことに思い当たった」と漱石は言います。
自分は変わり者で、いわゆる協調精神に欠けるところがある。周りに気を遣ってうまくやっていくのが苦手である。かといって、自分のやりたいことは貫きたい。それに、何か社会に役に立つことがしたい。しかも自分の芸術趣味にも合った仕事・・・・・・。ずいぶんわがままな夢ですが、若者らしい自由な進取の精神が偲ばれて、微笑ましくも思えます。少なくとも「自分」というものに対する意識は、ずいぶん強かったようですね。
ここで一つ重要なのは、「実用と共に建築を美術的にしてみようと思った」という点です。 西洋の建築に較べると、当時の日本の建築物は「実用」的ではあるけれど「美術」的ではない、と漱石は感じていた。日本の建築を「美」によって人々に感動を与えることが出来るようなものにしたい、と漱石は考えたのでしょう。
しかし、そんな夢を見ながら現実の厳しさも若き漱石は忘れてはいませんでした。
>>大人のエゴや世間の都合に翻弄された幼児期の体験なかりせば、建築家を志したり、名著が生まれなかったかもしれない。「人間万事 塞翁が馬」
「漱石のデザイン論」(川床優著、六耀社)より
発行2012年12月3日第1刷
あの夏目漱石が建築家を志していた!
東大本科進学目前の二十三歳の時、漱石は建築家になることを決心していた。
しかし、その夢は、あっさりと友人に打ち砕かれてしまうのだが、建築、美術、デザインなど、日本文化への、厳しくも深い愛を、その後も漱石は持ち続けていた。
「皮相上滑り」という言葉に代表されるように、文明開化を期に大きく変容した日本文化を危惧し、晩年、学生たちに向かって、お節介とも思われるほど、熱く語り続けた漱石・・・・・・。
『デザイン』という言葉がまだ日本にない時代、漱石の語った内容は、まさに『デザイン』そのものだった。
長年、編集者として、デザインの最前線を見続けてきた著者が読み解く、漱石先生の『デザイン論』!
はじめに
あの夏目漱石が、文学の道に進む前にじつは建築家を志していた!
僕にとって夏目漱石とは、近代国家として産声を上げ、よちよち歩きを始めたこの国と、この国民をとても愛していたし本当に心配していた、近代を代表する日本人であり、真の愛国者であったと思います。できれば道を間違うことなく平和で、幸福な国民になっていって欲しい、そして自分は文学によって少しでもそれに役に立ちたい、と漱石は思っていたはずです。そんな漱石の想いを、僕なりに文学とデザインを重ね合わせながら考え直してみたいと思ったのです。
漱石が作家活動をしたのはちょうど百年前のことです。しかもそれは、明治38(1905)年1月の『吾輩は猫である』の発表から、大正5(1916)年12月の『明暗』の中途絶筆までの、正味でたった12年間にすぎません。もちろん、当時はまだ「デザイン」というカタカナは一般には使われていない時代です。漱石は『文学論』のなかで「design」という言葉は使っていますが、作品のなかに「デザイン」の文字は見当たりません。当時使われていたのは「意匠」や「図案」という言葉で、漱石も作品のなかで時折それを使っています。
言うまでもありませんが、人は小説家であったりデザイナーであったり、さまざまな専門家であったりする以前に、まずは人間という存在です。職業を選ぶ以前に、人生をどう生きるか、それは全ての人に共通する最大のテーマですね。人は何のためにモノを創り、何のために物語を書くのか? デザインに関わることと創造的な生き方との関係とは? そして、クリエイターと呼ばれる人間の行為は、同時代の人々や歴史に対して何を提供し残すことができるのだろうか?
そんな基本的で素朴な疑問を、漱石先生の言葉を聞きながら、そして夏目漱石という生き方に想いを馳せながら、探ってみたいと思います。そこから、これからのデザインのあるべき姿を考えるために。
>>漱石が作家活動をしたのはちょうど百年前の正味12年間(1905年1月の『吾輩は猫である』~1916年12月の『明暗』の中途絶筆)。なぜ、建築家を志したなど、愛国者漱石の想いを知ってゆきたい
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
第四章 旅立った家族に手紙を書くということ
私への手紙――最後は一人
家族と呼べるのは、つれあいだけになりました。
「お子さんがいらっしゃらなくてお淋しいですね」という人がいますが、今あるものがなくなったら淋しいでしょうが、最初からなかったものへの感情はありません。
なぜ私は、家族を自分から拒絶しようとしたのか。家族というよけては通れぬものの中にある哀しみに気付いてしまったからに違いありません。身を寄せ合ってお互いを保護し、甘やかな感情に浸ることでなぐさめを見出すことのごまかしを、見て見ぬふりが出来なかったからです。
子供を産んで、母とそっくりに愛情に引きずりまわされる自分を見たくなかったのでしょう。
ごく自然な営みの中で親になり、それが人間としての成長だという人もいますが、私は成長などしたくはなかったのでしょう。
連綿として続いていく自然のつながり、春になると冬枯れの地の中から続々と芽吹いてくるもの、冬の間もまっている多くの命があるのです。その果てしなく続く連鎖が気味悪くも思え、私は私でいたかったに違いありません。
しかし私一人が抵抗出来るわけもなく、大きな流れに押し流されざるを得ないと考えると、一本のわらにもすがっていたい・・・・・・。
つれあいという家族がいなくなったら・・・・・・私はその時のために、一人でいることに慣れようと準備を始めています。私がこの世に生を得て、長い長い暗い道を一人歩いてきた時のように、最後は一人なのだと自分に言いきかせているのです。
>>もし、下重さんにお子さんがいたら、どのような親になっていたのだろうか
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
結婚はしなくとも他人と暮らすことは大事
家族を固定観念でとらえる必要なない。家とはこういうものという決まりもない。そこに生きる、自分達が快く生きられる方法をつくり上げていくしかない。
問題を抱え、ストレスのもとになる家族よりは、心から通い合える人がそばにいるかどうかが大切なのだ。
私の家族は今のところつれあい一人。そのつれあいと心が通じ合っているかといえば、それはわからない。少なくとも価値観は共通しているし、金や地位やこの世の泡のようなものにとらわれない淡々としたところは気に入っている。
男友達をながめても、なかなかそういう男はいない。私もさりげなくがモットーだが、つれあいに比べればまだしも現世的な欲は強いかもしれない。
つれあい、すなわちパートナーがいることは私にとってはありがたいことだ。
家族というもたれ合いは好きではないが、共に暮らす相手がいるのは、よかったと思っている。
血がつながらない、他人と一緒に暮らしてみることは、大事だと思うようになった。
特に私のように、両親に反発して自分勝手に生きてきた人間にとっては、他人と暮らすことは様々なことを教えてくれた。
今まで全く知らなかった人と一緒にいることで、一人の時のように好き勝手には出来ない。相手のその日の気分や外で何があったかなどを考え、思いやらざるを得ない。私にも相手のことを想像する余裕が出来たことはよかったと思っている。
家族ほとしんどいものはない
家族に期待していなかったために、向こうから期待されることは負担だった。彼等が期待するような学校への進学や成績をとることはなんとかなったが、父や母のためにがんばったつもりはない。
この先自分の好きな道へ進み、自分で生きていかねばならぬと思ったからだ。特に、経済的自立は必須だった。それがなければ何も始まらない。
自分の考えと生活をはっきり自覚することが出来るようになって、母とも対峙出来るようになった。彼女の育ち方や考え方を許容出来るようになった。
孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。
独りを楽しむことが出来なければ、家族がいても、孤独を楽しむことは出来ないだろう。
独りを知り、孤独感を味わうことではじめて相手の気持ちを推しはかることが出来る。
なぜなら家族は社会の縮図だからである。
>>社会の縮図である家族を固定観念ではなく、新しい価値観で捉えることが望まれる
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
夫のことを「主人」と呼ぶ、おかしな文化
パートナーは結婚した相手でなくともいい。暮らしを共にしている人、特別の間柄の人、異性とは限らない。同性同士でもいい。お互い一番信頼出来る人ならばいい。
籍などという枠にとらわれず、「パートナー」という言い方は自由でいい。
パートナーでいられれば十分だ。欧米では当たり前のことになっていて、戸籍上の妻の他にパートナーがいる例がいくらでもある。私が声楽を習っていたオペラ歌手の日本人女性は、六十歳になってドイツ人の七十歳になるパートナーを見つけた。彼は学者として世界的に有名な人でパーティや学会に出る時はパートナー同伴である。彼女は戸籍上の妻ではない。
フランスの歴代の大統領、ミッテランも先代のサルコジも今のオランドも、みなパートナーがいる。公の場でも堂々としていて気持ちがいい。
家族という閉ざされた関係ではなく、外に向かって開かれた家族でありたい。
「子供のために離婚しない」は正義か
既婚者の交際など、大谷崎(潤一郎)であるとはいえ、なかなか認められはしなかっただろう。
厳しい時代にあって自分達の愛をつらぬき通した意志とエネルギーに感服する。
多少のことには目をつぶって家族を守ることが美徳とされていた時代である。忍耐やがまんがまかり通っていた。家族のために犠牲になることは、奨励されることはあっても非難の対象にはならない。
家族のために犠牲になることは、美しいことと受け取られ、今でも「えらいわネ」「とてもまねが出来ないわ」などと賞賛の的になる。
敢然と愛をつらぬくためには、二人の情熱がなければ出来ない。強さが必要である。自分の家庭だけでなく、親きょうだいにも迷惑がかかる。諦めてしまうケースも少なくはなかった。女性の側はもっとダメージが大きかったろう。
子供が大きくなるまで、学校を卒業するまでは、離婚したくてもしない。そんな夫婦を子供達はどんな目で見ているだろう。
無理をしているのは決して子供のためにはならない。もっと正直に自分の意志で決めるべきなのだ。
日本では子供のために離婚しないという夫婦が多いのだそうだ。親が不仲で、がまんして生活していると、子供はすぐ感じとってしまうものだが。
女は子供を産むべきか
女性に子供を産んで欲しいと言うわりには、産みやすい環境の整備は後手後手にまわっている。保育所や保育園は不足しているのが常態化し、子供を預けられない。子供がいても仕事を一人前にすれば昇進の道は開けているといわれたところで、絵にかいたモチではないか。
女性を登用し、しかも女性に子供を産んで欲しいと思うなら、社会環境を整えることが急務だ。
スウェーデンでは女性の社会進出と共に一時出生率が下がったが、今は元に戻ったという。
女性が子供を安心して産み、社会復帰をはたし、その力を存分に発揮出来る社会の仕組みが万全だからである。
子供が欲しくても出来ない女性に「子供を産め」は過酷
国は女性の生き方について口をはざむ前に、社会環境を整えるだけで十分だ。女性は自分の生き方は自分で考える。今の女性は賢明だし、男よりも真剣に自分の生き方を考えている。
女の選択にまかせるべきだ。
なぜ日本人はDNAにこだわるのか。自分と血のつながった子をこの世に残したいという本能的欲求が先祖から累々と続いているからだろうか。それが血のつながり、イコール家族という考えに結びついていく。
血などつながらなくとも、思いでつながっていれば十分ではないか。思いがつながらないから血に頼るしかないのでは、と皮肉の一つも言いたくなる。
子供を産む、産まないは親の意思に任されているからこそ責任は重大だ。
>>籍という枠にとらわれず、「パートナー」という選択が認められる時代が望まれる
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
遺産を残してもいいことは一つもない
親の財産は親一代で使い切るのが一番いい。子に余分な期待を持たせてはいけない。子供が何人かいる場合には、遺産をめぐる醜い争いが繰り広げられないためにも。
せっかく仲の良かったきょうだいが、そのために憎み合う間柄になるという例は枚挙にいとまがない。
それは突然降ってわいた災難となってのしかかってくる。
お金が絡むと家族関係はむき出しになる
遺言がない場合には、よくもめ事が起きる。
友人の家では父親が亡くなって母親と子供で相続する際に、子供達から文句が出た。
「きょうだい仲よく」が父親のいつも言っていたことだが、その争いは裁判にまでもつれ込んだ。結局民法の定める通りになったが、きょうだいの間にしこりが残り、母親が亡くなってからは、きょうだいのつき合いすらなくなった。こんな例は枚挙にいとまがない。お金が絡むと醜い家族関係がむき出しになる。
夫婦でも理解し合えることはない
一組の男女がいて夫婦か恋人かを見分けるコツは、会話のあるなしだという。会話をしないではいられないのが恋人。お互い何も言わないのが夫婦だという。恋人の間は、少しでも相手のことを知りたいと思うから、話がはずむ。
夫婦になると、わかったつもりで、話題がなくなる。
そして片方がいなくなってはじめて何も知ろうとはしなかった、もっとわかっておくべきだったと慌てふためく。
そのときは後の祭りで、相手はいない。最後まですれ違いで、お互いに理解などしていない。
第二章 家族という病
家族の話はしょせん自慢か愚痴
家族の話のどこがつまらないかというと、自慢話か愚痴か不満であり、発展性がない。堂々巡りをして傷のなめ合いが始まるとか、一方的にきかさるれるか。いずれにしても、あまり愉快なものではない。
この病、どこが困るかといえば、一度かかるとだんだんエスカレートしていく点だ。
年をとると、話題が限られてゆく。興味の範囲がせばまっていくからだろう。病気や健康についての話、次が家族の話と相場が決まっている。
他人の家族との比較が諸悪の根源
家族の話のどこが問題かといえば、自分の家族にしか目が向かないことである。それ以外のことに興味がない、家族エゴ、自分達さえよければいい。
自分達だけよければ他人はどうでもいいという家族エゴ、自分の住んでいるところさえよければという地域エゴ、自分の国さえよければという国家のエゴ、全て争いのもとになる。
家族エゴはどうして起きるのか、家族が個人である前に役割を演じているからではなかろうか。
>>家族が個人である前に役割を演じているという指摘、言い得て妙である
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
第一章 家族は、むずかしい
大人にとってのいい子はろくな人間にならない
私は、子は親の価値観に反発することで成長すると信じている。
大人にとってのいい子など、ろくなものではないと思っている。最近、反抗期のない子が増えているというが、こんなに気持ち悪いことがあるだろうか。
親の権威や大人の価値観に支配されたまま、言いなりになっていることは、人としての成長のない証拠である。
あとから生まれたものが、先に生まれたものの言葉をまねて覚えるのだから、子が親にそっくりになるのも不思議はない。
言葉だけではない。そばにいて、考え方や発想を見ているうちに影響を受けないわけはない。その意味で親は子に絶大な責任を負っている。
親父の背中という言葉があるが、おふくろの背中も同じ。親は自分の生き方を見られているのだ。
親の背中を見て学んでいるのだ。
多くの子供達は、小さい時から保育園、幼稚園、学校で他人と触れることで、いやなことも嬉しいことも学んできた。
いじめなど問題もなくはないが、子供は同じ年頃の子供と触れ合うことによって、コミュニケーションの手段を覚えていく。違う価値観ともまれることによって育っていくものがあるはずだ。
教育とは親が与えるものではなく、子供が自分の世界で切磋琢磨してつかみとっていくものではないか。
家族の期待は最悪のプレッシャー
失敗や挫折こそが人を強くする。人はそこで悩んだり考えたりと、自分で出口を模索するからだ。
順風満帆で来た人ほど、社会に出た後、組織の中でうまくいかないと自殺をはかる。ウツになる。結果、不幸な人生を送った例をいくつも見ている。
両親がエリートの場合は始末が悪い。自分達と同じように成績がいいのが当たり前で、小さい時から塾だ、家庭教師だと遊ぶひまもない。ゆとりのないこましゃくれた小さな大人が増えている。テレビのインタビューでの受け答えを見ていると、ぞっとすることがある。
両親や先生に気に入られるミニ大人が増え、思考はその範囲にとどまって、羽ばたくことを知らない。
親や家族の期待は子供をスポイルしている。
過度な期待などしていはいけない。血がつながっているとはいえ、違った一個の人格なのだ。個性を伸ばすためには、期待で、がんじがらめにしてはいけない。
自分以外の個に期待してはならない。他の個への期待は落胆や愚痴と裏腹なのだ。
期待は自分にこそすべきものなのだ。自分にならいくら期待してもかまわない。うまくいかなくとも、自分のせいであり、自分に戻ってくる。だから次は別の方法で挑む。挫折も落胆も次へのエネルギーになる。テニスの錦織圭選手やフィギュアスケートの羽生結弦選手も失敗した時のくやしさは自分へ向けられている。自分への期待をふくらませ実現し、次へと向かっていく。
くやしさこそ明日へのエネルギーだ。失敗は大きな肥やしになる。
>>失敗や挫折しながら、くやしさを自分のエネルギーに変えてゆきたい
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
2015年3月25日第1刷発行
序章 ほんとうはみな家族のことを知らない
家族とは何なのか
子供は親に心の中を見られまいとするし、心配をかけたくないという思いがある。親は子供がどこか変だと気づいても、問いただすことをはばかる。幼い頃は別として、小学校から中学校へと進み、体も心も大人になりつつある段階にあっては、子供は親に心の内を素直に見せなくなる。反抗期は親という身近な権威を乗り越えようとする時期だけに、自分の思いとは正反対のことすらしてみせる。
私は長い間、もっとも近い存在である家族とは、人間にとって、私にとって何なのかという疑問を持ち続けてきた。
なぜ私は家族を避けてきたのか
主治医から「なぜ見舞いに来ないのか」と手紙が来た時も、「あなたに私と父の確執がわかるか」と腹を立てた。父の本心がどこにあったのか聞こうともせず、わかり合えなかったことに今は内心忸怩たる思いがある。
一方で、安手のホームドラマのように、最後にわかり合えたような場面で終わらなかったことに多少の満足もある。父も私も突っ張っていた。それだけに情感の面ではよく似ていた。実は一番よくわかっていたのかもしれないと思う。
母が亡くなって二十年以上経った三年前、軽井沢の山荘で私が知らなかった母の一面を知ることになった。
二人共再婚だったが、父には三歳の男の子があり、母はその子供を理解するために自分の子(なぜか女の子)が欲しいと手紙の中でも訴えていた。私はその母の強い意志の下に生まれたのだ。
兄は、大学生になるまでその事実を知らずに育った。戦後父との折り合いが悪く、東京の祖父母の下で育ったので、私は正面から兄と話をした記憶がない。いずれと思っているうちに一年間の闘病後、ガンで亡くなった。
結局私は、父、母、兄の三人の家族と、わかり合う前に分かれてしまった。
私だけではない。
多くの人達が、家族を知らないうちに、両親やきょうだいが何を考え感じていたのか確かめぬうちに、別れてしまうのではないかという気がするのだ。
私達は、その枠の中で家族を演じてみせる。父・母・子供という役割を。家族団欒の名の下に、お互いが、よく知ったふりをし、愛し合っていると思い込む。何でも許せる美しい空間・・・・・・。そこでは個は埋没し、家族という巨大な生き物と化す。
家族団欒という幻想ではなく、一人ひとりの個人をとり戻すことが、本当の家族を知る近道ではないのか。
>>個を埋没させることなく、また、家族を演じることのないことなど果たして可能なのだろうか
「『危ない』民事信託の見分け方」(高橋倫彦・石脇俊司著、日本法令)より
財産承継において信託を活用する場合の受益権譲渡
受益者は、信託契約において受益権の譲渡について制限がない場合、受益権の譲渡が可能です(信託法第93場)。
信託受益権の譲渡が第三者に対抗できない可能性が生じる
受益権の譲渡は、譲渡人が受託者に通知し、または受託者が承諾しなければ、受託者その他の第三者に対抗することができません。また、この通知および承諾は、確定日付のある証書によってしなければ、受託者以外の第三者に対抗することができません(信託法第94条)。
譲渡の手続きに不備があれば、第三者への対抗が必要な事態が生じた場合、受益権の譲渡をめぐって争いが生じる可能性があります。そのような問題を生じさせるような事務では、受託者の義務を果たしているとはいえませんので、注意が必要です。
相続対策の一環として取り組む信託の受益権贈与
贈与は、贈与者が財産を無償で相手に与える意思を表示し、受贈者がそれを受諾することにより効力が生じます(民法第549条)。
受託者は、信託事務において、贈与者と受贈者の両者の意思を確認し、受益権を贈与者から受贈者のものとする手続きを行わなければ、受益権が贈与されたこととはなりません。
>>民事信託による受益権の譲渡や贈与を暦年で実施することで、将来の相続税の節税が可能となる
「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気(牧村康正・山田哲久著、講談社)より
第二章 芝居とジャズと歌謡ショー
「親父が大嫌い」
西崎が死ぬ前に描いた手紙には「親父が大嫌いだ」との一節がある。西崎家の当主である父・正は常に敵だった。とはいえ西崎は名家の出身であることを十分意識していたし、父親のキャリアを否定することはなかった。心ならずも父親を認めた上で、終生コンプレックスを抱き続けたといっていいだろう。
軌道定まらず
弘文少年は家で事件から3年後の昭和25(1950)年、私立の名門・武蔵高校に入学した。記録を追うと、前年に新設された武蔵中学に3年生で編入し、そのまま高校へ進んだ可能性もある。
弘文の東大進学問題は、父との間で依然として尾を引いていた。弘文は父の強い意向に逆らえず、東大を二度受けたようである。
弘文は結局、高校卒業後4年間の浪人生活を過ごし、昭和32(1957)年、日本大学芸術学部(日芸)演劇学科に入学した。日芸は映画、放送、音楽分野にも多くの著名人を輩出している。この選択は弘文の指向を示すとともに、父の影響下から脱け出そうとする強い意志が感じ取れる。だが、以降しばらく地に足のつかない生活を送る。
ショービジネスに馴染む
昭和32(1957)年、大学入学直前に文学座を辞め、昭和34(1959)年8月、大学も中退した弘文は、ボーイ、バーテン、クラブやジャズ喫茶の司会者などで小銭を稼ぎ、その日暮らしの生活を始めていた。当時のニックネームはザキまたはザーキ。司会者名として義展の名前を使い始めた。声や見栄えの良さ、豊富な音楽知識が買われ、司会者として重宝されたと本人は述懐している。また、生の音楽と本格的に触れ合い、後に戦友となる作曲家・宮川泰と知り合ったのもこの頃である。
後年、西崎はこの原盤製作方式を踏襲して西崎音楽出版を設立。歌手、オーケストラ、指揮者などのギャランティーを含めて制作費を全額自己出資した。そして「ヤマト」の楽曲すべての原盤権を確保して莫大な収入につなげる。制作費負担のリスクよりも権利優先の考え方は、プロデューサーとして西崎の一貫した姿勢だった。
終章 さらば、ニシザキ
海千山千の老獪なプロデューサーがなぜ悪人ではなくて悪童だったのかといえば、「ヤマト」という作品への無邪気なまでの一途さを死ぬまで失わなかったからである。その一点で西崎の人生には明るさが灯っている。
みずからの劇的な人生を75年にわたって製作総指揮した西崎義展は、ようやくその仕事を終え、エマヌエル西崎弘文として帰天した。
小笠原の海で意識を失う瞬間、西崎の脳裏にはどんあシーンが映し出されたのだろうか。海底に横たわる大和とともに深く静かな眠りにつく自分の姿だろうか。それとも出撃準備を整えたヤマトに乗って海面を飛び立ち、再び14万8000光年の彼方を目指す自分の姿だろうか。
稀代のプロデューサー・西崎義展が最後に思い描いたクライマックスシーンは、誰にも語られることはない。
>>身内に感じるコンプレックスは生涯消えることはないのだろうか
「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気(牧村康正・山田哲久著、講談社)より
2015年9月8日第1刷発行
序章 いつ消されてもおかしくない男
「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー・西崎義展が、遊泳のため訪れていた小笠原・父島で船上から海へ転落。午後2時58分、死亡が確認された――。
西崎義展の名を日本アニメ史に刻み込んだ「宇宙戦艦ヤマト」とはいかなる作品であったのか。
――西暦2199年、地球は大マゼラン星雲にある異星人国家ガミラスの侵略を受けていた。遊星爆弾による放射能汚染で地上生物は死滅。海は蒸発し、地球は赤茶けた姿に変貌している。人類が立てこもる地下都市の汚染も進行し、人類滅亡まであと一年と迫っていた。
ガミラス軍の攻撃で地球防衛艦隊が壊滅した直後、謎の宇宙船が火星に不時着。回収されたカプセルには、放射能除去装置コスモクリーナーDを地球に提供するというイスカンダル星からのメッセージが納められていた。さらにイスカンダルまで14万8000光年の航海に必要な波動エンジンの設計図も添えられていた。
地球防衛軍は250年前の大戦で沈められた戦艦大和を極秘裏に改造して波動エンジンを搭載、宇宙戦艦ヤマトとして甦らせる。
人類救済のためにはイスカンダルでコスモクリーナーを受け取り、1年以内に地球へ帰還しなければならない。艦長・沖田十三、若き指揮官・古代進らはガミラス帝国と戦い、宇宙空間の障害を乗り越えながら、遥かなるイスカンダルを目指す――。
以上が、ファンの間ではあまりにも有名な「宇宙戦艦ヤマト」(テレビ版第1作)の基本ストーリーである。
昭和48(1973)年、西崎を中心にまとめられた企画書冒頭の一文(企画意図)を紹介しておこう。「ヤマト」に対する西崎の意気込みと願望がここに集約されている。
「今年、『ポセイドン・アドベンチュア』というアメリカ映画が大ヒットした。転覆した豪華客船の中から、僅か数人の男女が、奇跡的に脱出、生還する物語である。ヒットの理由は、転覆した船という時代の週末を象徴する状況から、人間が脱出できる可能性を示したことにあると思われる。
私たち人間が今一番持たなければならない認識と夢を、大人はもとより、特に子供に語りかけたいと考えて、私たちは、『宇宙戦艦ヤマト』を企画した。
この作品は、二千XX年、地球上の全人類が滅亡しようという時に、決然と立った少年少女の活躍を物語る、SF冒険アクションのドラマである。そして、彼らの行動を通して私たちが描きたいのは、人間とは『愛』だという、このひとことなのだ」
当時38歳になっていた西崎の思い入れは、気恥ずかしいほど熱く、純粋である。しかし、この業界人らしからぬ一途さが、「ヤマト」の革新的な製作方針に結びついた。漫画原作に頼らないオリジナル企画の立案、現場を支える一流のスタッフの結集、徹底討論による緻密なシナリオ構成、金と時間を惜しまない大胆な画づくり、作品と連動する版権ビジネスの拡大、ストーリーを盛り上げる音楽性の高さ――西崎はそれまでのアニメ製作に類例のない手法を取り入れた。そして子供向けアニメからの脱却を目指し、「ヤマト」を本格的なSF長編作品に作り上げて中高生の心をつかんだ。ヤマト世代と呼ばれるそのファン層からは、後に日本のアニメ界を支える傑出したクリエイターたちが続々と輩出された。
西崎は作家気質のプロデューサーだっただけでなく、勝負勘に秀でた興行師でもある。初の映画公開では、捨て身の一発勝負にもひるまない大胆さを発揮した。映画には素人同然の個人プロデューサーが一流スタッフ陣を束ね、悪戦苦闘してつくり上げた未知のオリジナル作品を世に問う。――このチャレンジストーリーには、それだけで時代を越えた痛快さがある。しかも西崎は製作費を全額自己出資するという大リスクを負っていた。映画が当たれば利益は総取り、外せば身の破滅という大博打である。はたから見れば、これほど面白いドラマはない。
本書は共著作品である。読者の混乱を避けるため、あらかじめ筆者の立場を明らかにしておきたい。この企画は制作助手を6年間にわたってつとめた山田哲久が発案し、出版メディアから「ヤマト」を見続けてきた牧村康正が構成・執筆を担当した。取材は共同で行い、記述は基本的に牧村の視点でなされた。山田は西崎の動向をリアルタイムで知る立場にあったため、本文中では証言者として随時登場する。
>>気恥ずかしいほど熱く、純粋な一途さを持ち続けられたら幸せであるに違いない
「子育て中のお母さん・お父さんに贈る 子育てのヒント」(外山滋比古著、新学社)より
第3章 自ら学ぶ力――よい生活習慣がよい心を育てる――
空気の教育
家庭にも学校にも、校則に当たるものがなくてはいけません。家則ということもできるでしょう。はっきりことばにはなっていなくても、両親の考えと生活を反映したルールがあります。多くの場合、はっきりした形をとらず、意識されることもすくないのです。
かつては、それを家風と呼びました。こどもの育ち方はこの家風によって大きく異なります。家風三代ということばもあります。一朝一夕にできるものではありません。長い間、家族が生きてきて、自然につくり上げる目に見えない文化です。その中で生活していると、ごく自然に、あることはするが、別のことはしない、といった習性を身につけるようになります。ものの考え方、感じ方さえもそれによって決定づけられることもすくなくありません。
家庭という学校の先生は、まず、りっぱな家風をつくらなくてはいけません。こどものために、努力して、よい生き方をするように心がける必要があります。こどものために、親はよりよき人間になることにつとめるのです。
家庭という学校は、家風によって薫陶の教育を行うのです。口先だけで教えるのとはわけが違います。いわゆる学校はごくわずかしか薫陶の実を上げることはできませんが、家庭という学校は家風という濃密な空気がある限り、こどもを人間としてりっぱに薫陶することができます。
お父さん先生、お母さん先生に期待されるものはまことに大きく、名誉あるその責任はきわめて重大です。
生活習慣
同じことを、規則正しく、くりかえし、くりかえしつづけていますと、やがて慣れてきて習慣になります。かりに、朝早く起きることにきめたとします。始めのうちは、つらいかもしれません。しかし、毎日、同じ時間に起きるようにしていれば、そのうち、何でもなくなります。たまに、遅く起きると、かえって気持ちが悪いかもしれません。そうなったら、習慣になったのです。
規則正しく反復していれば、たいていのことが習慣になります。習慣ができればとくに努力しなくても、ものごとをすることができるようになります。よい習慣をつけることがよい生活をすることになります。よくない習慣をつければ、健康面では生活習慣病をはじめ、おもしろくない障害を起こす危険があります。
よい生活習慣をつける――これが家庭という学校のもっとも大きな役目です。そして、これはこどもの年齢が低ければ低いほど効果があります。幼いときに何もしないでおいて、悪い生活が身についてしまった思春期になってから、急に生活改善をしようと試みてもすでに手遅れです。“鉄は熱いうちに打て”とかつての人たちは言いました。
勉強
「勉強しなさい、とは言われますが、ことばづかいを注意されたことはありません」
こういうこどもが日本では実に多いと言って、フランスの先生がおどろいたという話があります。
家庭という学校における勉強はどのようにすればよいのか。それを先生である親がよくわかっていないので、ただ勉強、勉強とさわいでいることがすくなくありません。たしかに勉強は大切ですが、やみくもに勉強すればいいというものではありません。家庭という学校の勉強はどうでなくてはならないか、よく考えられていないことが多いのです。
生活習慣として勉強するのです。毎日しなければ習慣になりません。学校は土曜と日曜を休みますが、家庭という学校は年中、無休です。
勉強好きになると、こどもは、長く勉強しようとするかもしれませんが、親は、長くならないように、きまった時間勉強したら、やめるように指導します。短時間、集中して勉強。これがよいのです。
どういう勉強をするのかというと、自分で学ぶのです。教えてもらうのではありません。学校では先生が新しいことを教えてくれますが、それだけでは、わからないところが残ります。うちに帰って、その日に教わったことを復讐するのです。これなら、ひとりでできます。教室でよく聴いていれば、ほんのわずかな時間“おさらい”復讐するだけで学力は確実につきます。学校の授業だけでは学力をつけることはなかなか困難です。家庭という学校で、それをもう一度見なおしてやって、はじめてわかるようになります。一度でわからなければ、二度、三度復讐します。それでわからないことなどまずありません。
最活習慣は同じことを規則正しく反復、繰り返してつづけていてつくものであると言いましたが、勉強も生活習慣としてするようにすれば、たいへん大きな成果を上げることができるようになります。よく復讐したことは、かんたんに忘れたりしません。応用もできますから本当の学力になるのです。家庭における勉強は一にも二にも復讐です。自分で復習することで、のちのちたいへん大きな働きをする“自ら学ぶ力”がおのずからつくようになります。規則的に、くりかえし、練習する。すべてのことは、これによって、上達、進歩します。一度だけでわかることはすくないものです。難しいことでも、反復練習すれば、かならずできるようになります。そう信じて、復習させるのが家庭という学校です。
心の道
こどもはともすれば、自分中心で、まわりの人のことを考えません。他人の迷惑になるようなことはしないようにしつけます。たとえば、人中で大声を出してわめくようなことがあったら、静かにしないと、ほかの人にうるさいと思われる、いけないことだと教えます。一度だけでは改まらないでしょうから、何度でも注意します。すると、わけもなく大声を上げるのはよくないこと、ほかの人の迷惑になるのはいけないということが感覚として、心でわかるようになります。
乱暴なことをしてはいけない。弱いものいじめをしてはいけない、ほかの人にやさしい気持ちを持つ、というような人の道も、折にふれて教え、くりかえして、習慣化します。よい心がそれだけ大きくなります。
一般に、家庭の生活環境が理想的であることはまれです。よい生活慣習は、親の背中を見ているだけでは充分でないのが普通です。
そういう欠点を補うために、美しい絵を見たり、音楽を聴いたり、話を聴いたりする情操教育が必要になります。よいもの、美しいものになるべく多く、なるべくしばしばふれることで、心は豊かになります。
たのしい勉強
これまでは、悪いところを直し改めさせる方法でしたが、これからは、よいところを認めて、それを伸ばしてやるようにするのです。
たとえば、こどもが悪いことがを使ってこまるとします。親がいくら、使ってはいけないと言っても、こどもは平気で使うでしょう。そういう場合、親はこともが悪いことばを使っても、知らん顔をするのです。叱ったりしません。無視するのです。こどもがよくないことばを使うのは大人の反応がおもしろいからです。まるで無視されたのでは、張り合いがありません。つまらなくなります。
そして、何かの拍子で、よいことばを使うときがあったら、その場で、すぐ、ほめてやります。ほめられてうれしくない子はいません。最高の反応はよいことばを使ったときに見られるとわかれば、こどもは好き好んで悪いことばを使わなくなります。しかし、一般に、上手にほめることは、叱るよりはるかに難しいものです。
同じようなこどものグループを二つこしらえて、一報にはただテストの採点した答案を返すだけ、他方のグループのこどもには答案を見せないで、ただ、「テストはよくできた」とだけ告げます。こういうことを何度かくりかえしたあとで、両グループの学力を比べてみると、わけもなくほめられていたグループの学力を比べてみると、わけもなくほめられていたグループのほうがはっきり成績がよくなっています。こういうことを「ピグマリオン効果」といいます。
家庭という学校では「ピグマリオン効果」を上げる子育てが望まれます。人言の力を伸ばすにはこうするのだという名言があります。
シテミセテ
イッテキカセテ
サセテミテ
ホメテヤラネバ
ヒトハウゴカジ
これにひとこと、付け加えるとすれば、
ホメレバブタガキニノボル
となります。
家庭教育はほめることで、不可能に近いと思われることをなしとげることができます。
>>家風によって薫陶の教育を行う家庭という学校の責任はきわめて重大であるのは間違いない
「子育て中のお母さん・お父さんに贈る 子育てのヒント」(外山滋比古著、新学社)より
第2章 家庭という学校――毎日のくりかえしがよい生活習慣をつくる――
家庭は学校
教育は学校でするもの、と考えている人がすくなくありませんが、たいへんな考え違いです。 もっともたいせうなことを学ぶのは、家庭という学校です。生まれるとすぐ入学し、十五、六年は在学する。最初で、最長の学校です。
学校ですから、先生がいます。必要です。お母さん先生とお父さん先生です。お父さんは非常勤、パートの先生であることが多く、家庭という学校はお母さん中心になります。ところが、この両先生には先生の自覚がなく、心構えもないことがすくなくありません。これでは、こどもは生きていくのに身につけなくてはならないことを学ぶことができなくなります。
とにかく、こどもは家庭という学校で人間としてのはじめての歩みを始めます。むかしの人の言った、“三つ児の魂”も、ここではぐくまれるのです。
現代の教育において最大の問題は、崩壊しかけた家庭という学校がふえてきたことです。手をこまねいて見ていられない事態と言うべきでしょう。
“すりこみ”
人間の子は未熟児で生まれてきますから、“すりこみ”をしようにも、新生児はそれに応じることができません。目はよく見えず、手足も思うように動かすことができません。インプリンティングは、当分の間、おあずけにならざるをえません。その間はただ、身体的発育、成長につとめることになりますが、そうしている間に、“すりこみ”のことが忘れられかねません。育児の落とし穴です。
”あかちゃんことば”
生まれたばかりの子に文字を教えるのは論外です。身のまわりのことをくりかえしくりかえし、言って聞かせるのです。そのときは“赤ちゃんことば”を使います。赤ちゃんに向かっては、大人同士で話すときより、すこし調子を高くし、抑揚を大きく、同じことをくりかえすようにします。意識しなくても、お母さんはこどもに向かえば、自然にそういう話し方をするものです(もっとも、このごろは、この赤ちゃんことばの使えないお母さんがふえているようです)。
ものを学び、知識を身につける学習は、まず、学ぶ、つまり、まねることから始まります。そして、ならう、つまり、学んだことをくりかえし練習します。どんなに難しいことでも、まねて、くりかえしていれば、覚えることができるものです。
家庭という学校で教えるもっとも大切なことは、ことばです。母親の“すりこみ”によって覚えたことば、母(国)語は一生の間、消えることがありません。また、母親おほうでも、こどもに話しかけているうちにお母さんらしい心がはぐくまれて、子育てを通してお母さんは、人間的にもひとまわりふたまわり大きくなります。
生活
一例ですが、食事のしかたができていません。ちゃんと箸が使えないこどもが多くて、学校給食は先われスプーンで食べることになります。学校の生活科では、箸の使い方まで教わりません。箸が持てない子は鉛筆もしっかり持つことができず、いい加減な握り方をしている子が半分以上もあるということです。万事、この調子です。生活の教育はもっと家庭で充実させないと、人間らしい人間に育ちません。
生活を学ぶのも、やはり、まねて、くりかえすという方法によります。ことばの習得がそうでしたが、一度や二度やってみただけでできるようにはなりません。大切なことは、反復。くりかえしくりかえして、身につけます。こうして覚えたことは一生、忘れることがありません。
このように、生活を学ぶというこのは、習慣をつくることです。毎日くりかえしていることが生活習慣になります。うっかりすると、よくない生活習慣がついてしまいます。健康面から言うと、よくない生活習慣は、やがては生活習慣病の原因になります。
くりかえし・つづける
ならう、というのは、教わって知習う“習う”“ことのほかに、何度もくりかえして、“慣れる”という意味を持っています。
人間がものを学ぶ第一の原則は、この“くりかえし”“反復(練習)”であります。どんなに難しいことでも反復、練習していれば、いずれはできるようになります。
広い意味での教育は、この反復によって勧められます。勉強なども、ひと通り習っただけでは、よくわからないのです。同じことをくりかえして復讐をすることではじめて、実力、学力になります。反復は実りです。
むかしから、「継続は力なり」、と言われますが、反復も継続によって、どんどん高度の習熟にたっすることができるようになります。勉強でいえば、復讐を毎日怠らずに継続して行えば、学力という“力”になります。やはり、継続は力なり、です。
このふたつ、継続と反復が結び合わさりますと、習慣になります。どんなことでも、同じことを長い間、くりかえし、くりかえし、していると、習慣になってしまいます。とくに努力しなくてもすることができますし、また、しないと気持ちが悪くなります。たいていの習慣は本人が自覚しなくなっているものです。
「習い性となる」と、言われます。習い、つまり習慣は、その人の性、つまり、人柄、性質をつくり上げる重要なものとです。ヨーロッパでは、“習慣は第二の天性なり”ということばがあります。習慣によって、人間の性格がつくられることを認めているのです。
つまり、反復は実り、です。
継続は力なり、です。
さらに、反復、継続は習慣なり、であります。
それによって人間は個性をつくり上げます。よい習慣をつけた人はすぐれたりっぱな人間です。よくない習慣を身につけるのは価値のすくない人間、ということになります。
“心”をはぐくむ
よい生活をしていれば、よい生活習慣ができ、それによって自然に健全で豊かな心がはぐくまれるというわけです。学校という学校――小学校、中学校は時間がすくないこともあって、生活習慣をつけるまで手がまわりません。家庭でするしかないのです。学校でつけることのできる習慣は学習の習慣ですが、これでさえ、学校だけではおぼつかないのです。家で勉強の復讐をする、その習慣ができてはじめて学力がしっかり身につくのです。
>>最初で、最長の家庭という学校で“心”をはぐくむことが一番大事であるに違いない
「子育て中のお母さん・お父さんに贈る 子育てのヒント」(外山滋比古著、新学社)より
2011年10月31日第1刷発行
第1章 頭のいい子は耳がいい
――聞き取るチカラが子どもを伸ばす――
はじめのはじめ
こどもを育てる、というのは、こどもがもって生まれた力をひき伸ばし、生きていくのに必要なことを身につけさせることです。教えることです。
それは、小学校はもちろん、幼稚園までも待っているわけにはいきません。早ければ早いほどよろしい。生まれた直後から始めるのが理想的です。そのことを知らずに、ぼんやり、のんきに子育てをするお母さんがすくなくありませんが、それでは、こどもがかわいそうです。
はじめのことば
未熟児として生まれてくる赤ちゃんは、目もみよく見えませんし、手足を思うように動かすこともかないませんが、耳だけは、充分に発達しています。それどころか、胎内にいるときすでに、お母さんの見ているテレビの音に反応すると言われるくらいです。
もうひとつのことば
母乳後などという名前はどうでもよいのですが、生まれてから三十カ月くらいの“すりこみ”のことばは、こどもの成長にたいへん大切なものです。これが不十分ですと、こどもはことばができないばかりでなく、精神的発達が悪く、知能も遅れてしまいます。
母乳語は、こどもの身のまわりの、見たり、さわったりするモノやコトについてのことばです。具体的です。
母乳語はこどもの身のまわりのこと、当面のことを話し聞かせていればよいのですが、見たり、さわったりできないことについてのことば、抽象的なことばを教えるには、生活の中のことばでは間に合いません。いまここにない、むかしの、あるいは、遠いところの物事、を表していることば、つまり、お話が離乳語だというわけです。
もうひとつのことば、離乳語の教育は、むかし話、おとぎ話、外国の童話などを“話して聞かせる”ことで進められます。
話を聞かせる、といっても、いい加減な話し方ではいけません。こどもが飛びまわっているような昼間に、「むかし、むかし、あるところに・・・・・・」などとやるのは賢明ではありません。いちばんよいのは、夜、寝る前に、寝物語として話してやることです。これならおとなしく聴くことができます。
この離乳語もやはり、くりかえしが大事です。同じ話を、何日もくりかえします。こどもは知っている話をくりかえし聞くことをいやがりません。それどころか、むしろ喜ぶものです。同じ話では“あきる”などというのは、大人の言うことです。
くりかえし、そして、つづけます。十日や二十日では離乳語教育は完了しません。すくなくとも一年や一年半はかかると覚悟する必要があるでしょう。
耳をよくする
こどもや若い人に限らず、日本人はだいたい、話をしっかり聴く能力が、ヨーロッパ、アメリカの人に比べて劣っています。幼児のときに耳の教育、話をよく聴くしつけを受けなかったためだと思われます。
耳をよくする教育は欠かすことはできません。
家庭では、毎日、できれば毎夜、夜が無理なら、朝起きて間もなくのところで、話、おとぎ話を、聞かせます。十分間くらいで充分です。いくら忙しいお母さんでもこともの寝る前の十分間、話を聞かせることくらいはできないはずはありません。
聡明、ということばがあります。理解力、判断力に優れるという意味です。賢いことです。文字を見ますと、聡は、耳がよく聞こえることを指しますから、耳編がついています。明は、目がよく見えることです。その明の目よりも、聡の耳のほうが先になっているのはいかにも象徴的です。こどもは、まず、耳で聞いて知能を高め、そのあと、目で読んで知識を学んで賢くなるのです。幼児はまず、耳を育てなくてはなりません。そのつもりになれば、こどもはだれでも聡明になることができます。
こともの耳をよくするために話を聞かせましょう。こどもは1章、それをありがたいと思うようになるに違いありません。
頭のいい子は耳がいい
学校の成績がいいのは記憶力がすぐれているからです。頭のよい子は記憶力がよいのです。その記憶力も、持って生まれたものではありません。生まれてから生活経験の中で芽生え、だんだんつよくはぐくまれるのが記憶力です。どんなにおも覚えのいい子でも、生まれて二年くらいの間のことはほとんど覚えていないのです。その間は、記憶力がまだ発達していないからだと考えられます。
記憶力は先天的なものではありません。すくなくとも、その大部分は、そうではなく、幼児のうちに、発達するものだと考えられます。もの覚えのよい子、つまり、記憶力のよい子は、優秀な成績を上げます。社会へ出てからも大きな成果をおさめることができます。人間の知性の中核をなすのは記憶力だと言っても過言ではないでしょう。
なるべく早くこどもに、大人の話をよく聴く生活習慣をつけることです。それが記憶力をつよくし、すぐれた頭脳をはぐくみます。
そのように考えますと、幼いこどもの教育でもっとも大切なしつけは、話をよく聴く耳を育てることであるということになります。
頭のいい子は耳がいい。
>>胎内にいるときから耳を育てるとみんな頭のいい子になるのだろうか
「Hot Pepper ミラクル・ストーリー リクルート式「新しい事業」のつくり方」(平尾勇司著、東洋経済新報社)より
リーダーに必要な技術
最初から明確になっていたわけではなく、リーダーを育てることに格闘していくなかでリーダーが見につけなかればならない技術を発見していった。
まず第1に、高い志を掲げる技術である。それは無謀な志でもなく、ただ堅実なだけの手堅い目標を申請する技術でもない。なぜなら、実現できなければリーダーとして信頼を失ってしまう。メンバーのストレッチの限界を理解しながら、実現を目指せる見通しをもった高い志である。
第2に事業を設計する技術である。ビジネスプロセスを理解し、全体像のなかで統合性のある戦略を立てる技術である。企画坊やでも営業バカでもなく、事業化として画を描ける技術だ。
第3は組織をつくる技術である。事業の目的を実現するために必要な機能を定義し、その資質を持った人間を配置する技術である。それは個の把握はもちろん個と個の関わりでとらえ組み合わせをつくる技術だ。
第4は、伝える技術である。どれだけ多くの人に、いかに短時間で、同時にいっせいに、自分の描くシナリオをわかりやすく伝えることができるかだ。この伝える技術がなければ組織力は絶対に生まれない。
第5は、実行する技術である。自分自身が誰よりも早く率先し行動しやってのける技術である。臆面もなく失敗を恐れず、できなくてもまず行動してみせる技術である。
第6は育てる技術である。組織力強化のために個々の人間のチカラを最大化する。スキル、知識、態度、スタンス、そして人間性を高めるために教え、育む技術である。
第7は評価する技術である。メンバーに要望したことを確実に数値化して、評価に反映する技術である。メンバーがその判定に納得感をもち、要望されたことを必ずみていてくれるという信頼を獲得する技術である。
そして、最後に愛される技術である。愛されれば、驚くほぼどそのメッセージは組織に浸透する。浸透し、ともにあることが可能になる。
決めるチカラ
組織を率いるリーダー育成の最大のポイントは「決めるチカラ」を付けることだ。決めるチカラを必要とするのはリーダー特有の要件である。
さまざまの面から考え、深く思いを巡らし、解決の複数のプランを巧みにつくり、その各々のメリット・デメリットをじつに論理的に説明する頭脳明晰で優秀な人間がいる。しかし、最後に自分でひとつの答えを出せない人間はリーダーになれない。
自分がすべての責任を負ってひとつの答えを決めるのがリーダーである。なぜなら、決めなければ覚悟も定まらない。リーダーが、覚悟が定まらずに迷っているのに、その部下が覚悟が定まるはずがない。迷っている間は何もしていいないか、実行していたとしても中途半端になっている。それは組織ぐるみで中途半端になっている。
組織を率いて、個のアウトプットの最大化と個と個を結んで組織としてのアウトプットの最大化をするのがリーダーの役割である。しかるに、リーダーが決められず迷っているため組織全体がさまよって組織力の阻害をするのでは、もはや組織を率いるリーダーではない。だから、決めるチカラが重要なのだ。
企業トップが「うちはリーダーが育っていないので困っている」と発言するケースの場合、往々にして、そのトップ自身がすべてのことを自分で決めてしまっている。つまり、トップ一人が決めているのだから、他の人は決められない、決めてはいけないのである。だからリーダーが育たない。決めるチカラが訓練されないのだからリーダーが育つわけではない。育っていないのではなく育ててないのである。企業トップ自身がリーダー育成を妨害しているのだ。
リーダーを育成するとは決めるチカラを付けさせることである。
おわりに――申し訳なく、残念です
この事業の成功は一人ひとりの想いと、地道な毎日の行動と、それが結ばれて生まれるチームワークによってのみ実現できたのは明らかな事実です。
一人ひとりがその役割をチームのなかで果たして実現できた事業です。
その事実に敬意を表して、この事業の立ち上げにかかわったすべての人の名前を紹介したいと考えましたが、個人情報の関係もあり紹介できませんでした。本当に申し訳なく、残念でたまりません。
2008年4月 平尾勇司
>>自分がすべての責任を負ってひとつの答えを決めるチカラを身に付けてゆきたい
「Hot Pepper ミラクル・ストーリー リクルート式「新しい事業」のつくり方」(平尾勇司著、東洋経済新報社)より
SCENE 24 女に嫌われる男の5つの条件
「女性に嫌われる男にならないことだよね。女性に嫌われる男の5つの条件がある。
それは、『汚い、せこい、弱い、おもしろくない、可愛くない』だよ。汚いは論外だけど、ケチくさい奴はだめだよね、そして、強いDNAを求めている女性は弱い男を遺伝子的に拒否する。おもしろいというのは吉本的なお笑いのおもしろさとワル的なわくわくどきどきの2種類のおもしろさがある。そして、最後の可愛さは女性の母性本能に響く可愛さだよね」
「女性をマネジメントするって難しいですね。ということは訓練ではなく素質になっちゃいます」
「いや訓練だよ。だって、世の中は男と女が半分ずつだろ、女性をマネジメントできない奴は組織の半分をマネジメントできないことになる。しかも、マーケットの半分を理解できないやつにリーダーは務まらない」
「だから、訓練してでも、女性に嫌われない男にならないとだめなんだ」
仕事を定義する
事業がリーダーの仕事を具体的に定義しているだろうか? じつは定義できていない。事業は要望する数値は明確にしているが、リーダーが何を仕事とするのかを具体的に定義していない。それは、ゴールは確認しているがやり方は放置しているのに等しい。意外にその仕事は曖昧であるために、事業はやっているはずだと思い込み、リーダーは本来そのリーダーが果たす仕事を他の人に押し付けたり、そもそも、その仕事が自分の仕事であると気づいていないことも少なくない。リーダーの仕事は具体的に定義されて明らかにしなければならない。
『ホットペッパー』では次のように版元長の仕事を定義した。
「版事業戦略の立案→どんな顧客にどんな商品・サービスでどこと競合して何を競争優位性に戦うのか」「マーケティング→どこにどんなお店、街はどんな商圏、誰がキーマンか知る街の達人になる」「商品設計→どんなメニューで台割構成表を組めば最大売上げ・件数を上げられるのか?」「組織づくり→採用、組織ミッション、目標設定と評価、教育」「営業戦術立案→どこへ? 何を? どんな武器(ツール)を持って、どのように?」「営業力強化教育→主体性・責任感・参加意欲・営業スキルの高い集団づくり」「営業活動→商品、教育、オペレーション、戦略立案のベースとするために自らがトップ営業マンになる」「業績管理→どんな指標に集中するのか? 集中させるために何をするのか?」「広報宣伝→影響力のある地域メディアにする」「流通設計→無駄を排除しつつもっとクライアント効果を出す」「顧客満足把握→完全に把握する」「入金管理→お金の計画(資金繰り)、正しい約束、今日の入金、即解決、早期決着」「版事業計画→自分の財布からお金を出ながら商売をする、事業として早く大きくする」
それは、役割というよりも具体的な業務である。営業マンが営業に専念し、制作マンが制作に専念するようにリーダーが専念する業務を明示することが重要になる。明示することによって必要な能力・資質が明らかになる。リーダー自身が自分の仕事の範囲を理解し、自分自身ができていることとできていないことが明らかになると同時に、視界が広がり、自分自身の能力開発の課題も明らかになる。事業もまたリーダーの教育テーマが明確になる。
事業はリーダーの職務を定義しなければならない。
>>女性に嫌われることなく、また、各人の具体的な職務を定義・明示しながら、リーダーたる役割を担ってゆきたい
「Hot Pepper ミラクル・ストーリー リクルート式「新しい事業」のつくり方」(平尾勇司著、東洋経済新報社)より
第8章 マネジメント・リーダーの育成
リーダーとは物語を語る人
リーダーの役割とは、変革し、パッケージ・パターン化し、汎用化し、構造化し、安定化することだ。けれど、その安定化に形式化・形骸化を発見し、また変革することだ。
しかし、変革し続けるのがリーダーの役割だと考えるのは間違っている。本当に大切なのは組織構成員全員の想いを束ねて、「地道にコツコツと日々積み重ねていくこと」を組織文化として根付かせることだ。日々の積み重ねがどこにつながっていくのかをおもしろくわかりやすく納得感のあるように伝えることで、わくわくしたり、ドキドキしたり、キュンとしたり、ジーンとしたり、心から動かし、日々の行動を着実に行い、目的をともに実現する。ただ単に、どうやるかを伝えるだけでなくなぜやるかを伝え、彼らの心をマネジメントすることだ。
それは、物語を語ることになる。リーダーとは物語を語る人だ。その物語は「この事業は何か? 何を実現したいのか?」からはじまって、「実現した時の世の中、この組織、個人の姿」「その実現にむけて、一人ひとりの役割とチームの役割」そして「一人ひとりの仕事とその人の人間的成長」までがシンプルにつながっていく物語を語る。
その物語にはリーダーその人の夢と想いと覚悟と経験とスキル知識と人格が現れていく。
「ナンバー1になる」「金メダルは狙うからとれる」「1日20件飛び込み訪問営業が勝負を決める」「掲載件数で逆転勝利する費がくる」「ナンバー1しか生き残れない」「さあ、次の目標に向かおう」「2つ目の金メダルをとる」「超コアで30%をとり完全勝利する」「全員で勝つことに意味がある」「地道でコツコツと苦しい毎日、人生とはそういうものである」「ちっちゃな目標の積み重ねのもう後一歩は自分との戦いだ」「人と人との関わりのなかであなたは成長する」など、その時々で、その場に集まる人たちにとって大切で必要なことを示し向かうべき方向とその実現への行動を、彼らの納得感を高めながら伝える。
そして、その実現をもって、その役割を完全に遂行する。実現できなければもはやリーダーとして存在できない。だからと言って、物語を語らなかったり、実にちっぽけな物語であれば、その時点でリーダーとして存在していないことになる。
起こったことを上手に説明するのは誰でもできる。けれど、「これから何が起こるか? 何を起こすのか? どのようにして実現するのか?」を語れるのはリーダーしかいない。
コンセプター・デザイナー・プランナー・マネジャー・プレーヤー
リーダーは管理者であってはならない。管理者とは決められたやり方やルールをただ忠実にチェックする人に過ぎない。自分が画を描くわけでも、自分が率先垂範するわけでもない。
リーダーは目指す方向を指し示し、自らがその方向に立ち向かい、組織全体をその方向へ率いて導く人である。自分が動かないのは論外だ。自分だけ動いて組織が動かないのでは意味がない、組織の一部しか動かず、組織全体が動かなければ価値がない。組織が効率的・効果的に動く、組織がエネルギーを持って動いてこそリーダーの存在が許される。
つまり、リーダーは実現しようとすることや目指す方向とその方法を一言で表現するコンセプトを明示しなければならない。そして、その姿や状態を全員が理解して共有できる具体的な形をデザインしなければならない。そのデザインは目に見えて理解でき、人の心に働きかけるものかどうかを試される。
それでも、不十分で、実現の道筋をつくるためには、より具体的な行動をシンプルな型にしたプランを用意できななければならない。そのプランの正当性こそ成果を出せるかどうかのリーダーの真価が問われる。そして、そのプランの実行を日々マネジメントするのである。
そして、自らがそのプランの最高の行動者であり、自らが実現してみせることで周囲を納得させて巻き込んでいくのである。
コンセプターであり、デザイナーであり、プランナ―であり、マネジャーであり、プレーヤーであるとき、その人はリーダーとなる。
この考え方で、『ホットペッパー』ではリーダーを育てるために、2週間に1度のペースで全国版元会議を行い、リーダーの要請を徹底して行った。遠く遠隔地にあって孤立した組織を預かっても、誰にたすけられることなくその組織を動かせる人間になることが目標だった。ひとつのマーケットとひとつの商品とひとつの人組織を任せられ、事業を完成させていけるリーダーが必要だった。リーダーが着々と養成されることが全国への版展開を可能にする唯一の道だった。
この5つの役割をたった一人で果たせるリーダーがどれだけ存在するかが組織の強さとなる。この5つの役割を、専門家したり、階層化して分担しはじめるときこそ、リーダー不在がはじまり、それは組織崩壊のはじまりになる。
>>管理者になることなく、、「これから何が起こるか? 何を起こすのか? どのようにして実現するのか?」を語ることができるよう、努めてゆきたい
「Hot Pepper ミラクル・ストーリー リクルート式「新しい事業」のつくり方」(平尾勇司著、東洋経済新報社)より
第4章 事業立ち上げの仕組みづくり
「~すべき」が「~したい」に変わる瞬間
「やらねばならない」が「やりたい」に変われば、苦しくても乗り越えられる。できるようになる。「自分を磨くこと」を惜しまなくなる。会社のためにとか事業のためにとかでもない。ただ単に、自分のためにという利己的なものでもない。
人は自分が必要とされ、何かに役に立ちたいと思っている。そして、それが影響力の大きなもので素敵なものであればあるほど心躍る。物語はその人の眠っているエネルギーを引き出してくれる。
事業の目的を明らかにしたうえで、具体的な戦術はシンプルに説明する。「将来は街の生活情報誌になる、効果の出せるメディアにするためにまずは飲食だけやる、それ以外はやらない、誇りをもって定価で売る、ブランディング投資をしてメジャーにする、この事業を信じ、この計画に同意する人たちだけでやる」
どうやるか? なぜやるのか? 誰とやるのか? 新しい物語を語った。なぜこのように決めたのかを背景からていねいに語った。それは心震わせる企みだった。この新しい物語にあなたはもう名を連ねている。物語によって心が繋がる瞬間だった。
この事業は何か? が明快に語られなければ組織は心から動かない。
誰がバカなのかがわかる組織をつくる
「マーケットと商品と組織をひとつにする」ことだ。マーケットへの責任や商品への愛着、チームとしての責任と一体感は一揆通貫の組織構造でしか生まれない。これによって、組織に主体性が生まれる。セクショナリズムや官僚化が排除され、主体性とチームわ^くとスピードが実現できる。組織構造が内部調整型ではなくマーケットオリエンテッドで意思決定が正しく早くできる組織へ変革していくのだ。
第6章 顧客接点づくりの仕組み化
上質のコミュニケーションが生まれる
お客さまが営業マンに求めているのは2つ、「会話の満足」と「提案の満足」だ。媒体の説明でもなく、申し込みスケジュールの説明でもなく、料金の話でもない。
営業マンはこの顧客との関係とクリエイティブな仕事に誇りを持ち、成長していく。
顧客接点での営業マンの会話を課題解決を軸とした上質なコミュニケーションにするプチコンが商品と顧客接点と人を強くする。
>>「この事業は何か? どうやるか? なぜやるのか? 誰とやるのか?」新しい物語を、明快に語ることができるよう、努めてゆきたい
「Hot Pepper ミラクル・ストーリー リクルート式「新しい事業」のつくり方」(平尾勇司著、東洋経済新報社)より
第3章 失敗が教えてくれた11の警告
戦略とは捨てることだ
「360°」=全方位=超多角化となる。
戦略とは絞ることである。絞るとは捨てるということだ。選択と集中の重要さを『サンロクマル』は忘れていた。
目標はある、目的がない
目的とは、「目標を達成したときに実現される姿」である。だとすると、目的なき目標はノルマであり無理強いに過ぎなくなる。目的を明らかにした目標は自ら主体的に取り組み是が非でも実現したい姿への道しるべとなる。
ヤクルトを毎日届ける仕事をしている方々はヤクルトを届けているのではない。「健康」を届けている。ソニーのウォークマン開発者は携帯音楽プレーヤーを開発したのではない。「音楽と生活する世界」を開発してブームを創った。
世の中を変える、街を動かす、人を幸せにする。こんな壮大な目的であればあるほど、数字である目標は価値を持つようになる。
目的が事業のエネルギーになるのだ。目標はその道しるべに過ぎない。
事業は物語だ、勝つシナリオをつくれ
事業が成功するためにシナリオは是が非でもなくてはならない。考えて、考え抜いて、これでだめなら仕方ないと思えるまで練り込んだシナリオが必要なのだ。全体の流れはどのように流れていくのか? どのような順番になるのか? それはなぜか? それらもうよって、働く人たちの一挙手一投足が決まっていく。
事業は物語である。
筋書きなき物語など存在しない。
バブルがはじけて顧客ニーズが多様化・複雑化していったとき、多くの経営マネジメントは判断に迷い、顧客接点の重要性を叫び、第一線が戦略を考えるなどとうそぶいて、シナリオを描く役割を放棄し、現場に押し付けた。
本来、マネジメントはシナリオを描くために存在しているのだ。
じつは、実行していない
「戦略は正しいがどうしても結果が出ない。そして、戦略を練り直す」。そんなことを繰り返している事業は多い。特に経営企画室かの中に現場を知らない「企画坊や」がいると延々と戦略を練り直し続ける。けれどじつは、決めたことが実行されないから結果が出ないことに気づかない。考えるなら、どうすれば「決めたことをやり切れるか? やり続けるか?」を考え、行動レベルに落とし込むことを考えなければならない。
そんなバカな・・・・・・と思うかもしれないが、じつは「実行しない」ことこそ、事業が成功しない最大の原因である。
そのシナリオは、本当に伝わっているのか?
悔しい、嬉しい、おもしろい、楽しい、泣いて、怒って、笑って、哀しみ、喜ぶ。あらゆる感情が心のそこから湧き出す。そこまで、シナリオを伝え続けるのだ。
だが、戦略の大切さは理解され、手間暇やコストがかけられるのに、それを伝えるために手間暇がかけられることはほとんどない。
それは「伝える」意味と価値が十分に理解されていないからだ。伝われば組織メンバーの行動に意志と心が加わり、それが行動や態度に表れて、顧客や読者に伝わり、心をわしづかみにする。それこそが組織力になるのである。
伝える相手の目線に立ち、ていねいに、わかりやすく、繰り返し伝える。
「伝える」とは事業マネジメントの重要な責任であり、習得すべき技術である。
「必ず勝つ」風土がない
「個人の出世の勝ちにこだわらない」ことは許せるにしても、「マーケットに勝つ」「競合に勝つ」、「既成概念に勝つ」「自分に勝つ」という「もっと大きな勝ちにこだわる」組織でなければ事業の生存はあっても革新的な成長はない。
「必ず勝つ」という価値観が必要となる。
「必ず勝つ」が組織の合言葉に掲げられた。
>>筋書きのある勝つシナリオが作れているのかを常に問い続けてゆきたい
「Hot Pepper ミラクル・ストーリー リクルート式「新しい事業」のつくり方」(平尾勇司著、東洋経済新報社)より
第1章 『ホットペッパー』の本当のすごさ
忽然とそれは現れた
『ホットペッパー』が企画検討されたのは2000年である。そして、その翌年、2001年から事業成功のシナリオもないままにはじまった。「とりあえず出してみよう!」というスタートであった。成功するかどうかはやりながら考えるという、じつにリクルートらしい「いい加減さ」で事業はスタートを切った。
リクルートは当時1兆5000億の借金を抱え、毎年1000億近い返済をしていた最中で、それだけに、いい加減なスタートの割には「小さな投資で大きなリターンを早く!早く!」というむちゃくちゃな命題も与えられていた。経営陣からはおもしろがられ期待されていたが、あてにはされていなかった。
それから4年、『ホットペッパー』は売上300億、営業利益100億円というまさにオバケ事業に成長する。創刊から7年の現在、500億の規模となり、瞬く間にリクルートの基幹事業に成長した。
単品ど迫力で日本を席巻
『ホットペッパー』は全国主要な県庁所在地にあたる年のほとんどに展開している。その数は50版である。昨今では、中国やフランスなどの国際的な地域版展開まで行っている。
ひとつひとつのエリアの半径2~5キロのなかで人は「衣食住働遊」の行動を行っている。そして消費の8割をそこで行っている。その行動に必要な情報を必要な生活圏に限って提供するメディア、それが『ホットペッパー』である。
飲食情報誌にあらず
『ホットペッパー』は生活情報誌である。飲食情報誌ではない。
見えなかったのではない、見なかったのだ
領域でビジネス範囲を限定するケースは多いが、まず生活圏・行動圈というエリアで範囲を限定し、領域を拡大していくところが新しい発想であり困難性でもある。
『ホットペッパー』では、エリアを「日本」と言わず、「114の生活圏」と定義した。その瞬間に「114の生活圈×領域」のマーケットが現れ、そのマーケットの広さと深さが見えてきた――
原点は梅モデル
90年代初頭にバブルがはじけて、世の中はデフレとなっていった。こすと削減とリストラが叫ばれるようになり、低価格が企業戦略の主流となった。リクルートの必勝パターンはもはや世の中で通用しなくなっていた。世の中のナンバー1企業は、既得権シェアを死守するために、低価格・低減価・低経費・低人件費・高付加価値の実現へと舵を切っていった。
「梅モデル」とはケチくさい事業ではない。反対である。必要なお金を必要なだけ十分に使う。ただし、その範囲と期間を厳しく限定するモデルである。流通範囲とその期間、営業商圏範囲とその期間、ブランド投資範囲とその期間、人材人件費とその期間などなど――。範囲と期間を限定すれば集中的に経費やコスト投下ができる。
そして、梅モデルという名の高収益額、高収益率のビッグビジネスが生まれた。
社員でない集団がつくったオバケ事業
世の中でいう正社員でない人たちが大部分でこの事業は構成されていた。1500名になった今も、その85%は非正社員である。その人たちが事業を動かしている。
この事業は正社員だけでやっていたら絶対に成功しなかった事業である。それは、社員の人件費が高いというコスト構造悪化の意味ではない。その資質と想いとスピードの違いからくる差である。つまり、新規事業を立ち上げるときに正社員でないほうがすぐれていたということである。
その資質は何か。「冒険ができる」ことだ。正社員は守るべきものが多過ぎる。収入も地位もそうである。他方、非正社員は守るべきものはない。攻めあるのみだ。だから、新規事業という冒険に喜んで飛び込む。そして、正社員が自社内での評価を意識してやる・やらないの判断をするのに対し、彼らの判断基準は「お客さまにとって正しいか正しくないか」だけである。社員は長く安定的に業績を上げたいと考えるが、非正社員は時間が限られている。「その期間のなかで圧倒的な成果」を出したいと考える。
人と人との関わりをつくる「組織づくり」の技
事業を立ち上げ、成長させ、拡大させるなかで、『ホットペッパー』は組織づくりのコアスキルを開発していった。それは「人と人との関わり」を創り出すための技だった。
ホットペッパー事業とは「マーケットと商品・サービスと組織をひとつにする狭域ビジネスモデル」を原点としている。そこでもっとも中核となるのはじつは「組織のモデル」であった。それを手にいれさえすれば、どんな商材も事業として成功させることができる。
『ホットペッパー』の組織モデルを基本形にした「狭域ビジネスモデル」は、それまで不可能で実現できなかったリクルートの念願である地域展開を可能にした。
おもしろいチームをつくれば、仕事はおもしろくなる。チームの仲間に自分が必要とされていると実感するとき、人は嬉しくて楽しくなる。「あなたは人の成長のためにここにいる」「あなたが人を育て、人があなたを育てる」
>>私も、新規事業という冒険に喜んで飛び込んで、攻め続けてゆきたいと思う