「成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男――マクドナルド創業者」(レイ・クロック、ロバート・アンダーソン著、プレジデント社)より
レイ・クロックの金言、私はこう読む 「事業の造り方」「市場の捉え方」法則7 柳井正
一、成功者の発想法――商売の真髄はbe daring, be first, be different
レイ・クロックは私にとって恩人といえる・・・・・・。彼が残した「be daring(勇気を持って), be first(誰よりも先に), be different(人と違ったことをする)」という言葉は商売の真髄を表すものだと思いました。初めて読んだとき、手帳に書いて、何度も何度も眺めたくらい。
さらに、レイ・クロックが始めた「いつでもどこでも誰でも食べられる」というファストフードのコンセプトに触発されて、私も「いつでもどこでも誰でも着られる」チェーンをつくろうと思いたちました。ファーストリテイリングの「ファースト」はファストフードから取ったものなんです。以後も、マクドナルドのシステムはずいぶんと研究しました。
「完全なシステムを初めから考えつく人もいるが、私はそのような全体構想パターンでは考えず、まず細部を十分に検討し、完成させてから全体像に取り掛かった。私にとってはこちらのほうがはるかに柔軟性に富んだアプローチだったのだ」
「私は細部を重視する。事業の成功を目指すならば、ビジネスにおけるすべての基本を遂行しなくてはいけない」
二、失敗を乗り越える力――原理原則を「知る」ことと「わかる」ことは違う
「リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もないのだ。我々が進歩するためには個人でもチームでも、パイオニア精神で前進するしかない。企業システムの中にあるリスクを取らなければならない。これが経済的自由への唯一の道だ。ほかに道はない」
僕のこれまでを考えると失敗の連続です。連戦連敗といってもいい。ただし、致命的な失敗はしていない。「ここまでの失敗なら耐えられる」と自分の力が及ぶ範囲で挑戦してきたので、どうにかやってこられたのです。そして、失敗とわかった後は素早く撤収しました。失敗のまま事業を継続したら、働いている従業員を将来性のないものに縛ることになる。彼らの人生を無駄にはできない。私たちは限られた資源や条件の中で事業をしています。成長しない事業に人材を投入する余裕はない。失敗とわかった後はすぐに切り上げること。
「『仕事ばかりして遊ばなければ人間駄目になる』という格言があるが、私はこれには同意しない。なぜなら私にとっては、仕事が遊びそのものだったからだ」
レイ・クロックにせよ、藤田さん、孫さん、そして僕も仕事がいちばんの趣味です。
僕は座右の名を教えてくれと頼まれたとき、こんなことを書きます。
<<店は客のためにあり、店員とともに栄える。店主とともに滅ぶ。>>
店は客のためにあるという部分はよく知られている。しかし、それだけじゃ足りない。客は大切にして店員と心を合わせれば店は大きくなる。しかし、店主がエゴを持ち出して、店を私物化した途端に滅びてしまう。・・・会社が駄目になるのは経営者の心がけです。
三、リーダーシップ――お客様に配ったアンパンと牛乳への想い
レイ・ロックはこの本の中で「未熟でいるうちは成長できる。成熟した途端、腐敗が始まる」と言っています。会社は常に未熟で、しかも成熟へ向かっているときが会社にとって健康な状態なんですよ。
「リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もないのだ」
リーダーシップとは決してあきらめないことでしょう。困難に突き当たっても経営者はあきらめてはいけない。あきらめることイコール会社が潰れることです。
真剣に企業経営している人は「ひょっとしたらオレの会社は駄目になるかもしれない」という危機感を持ちつつやっています。
>>心に沁み入る言葉
「be daring, be first, be different」、「リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もないのだ」、<<店は客のためにあり、店員とともに栄える。店主とともに滅ぶ。>>
「成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男――マクドナルド創業者」(レイ・クロック、ロバート・アンダーソン著、プレジデント社)より
おわりに 「おまえたち、金儲けに精を出せ!」
この本を読み返してあらためて感じたことがあります。それはレイ・クロックのベンチャー魂と、そしてアメリカ社会の持つ自由な精神です。
もし、いまも藤田さんが生きていて、私たちの対談を読んだとしたら、「おい、今度はオレもいれろ。おまえたちにカツを入れてやる」というでしょうか。それとも「おまえたち、くだらん話などしないで金儲けに精を出せ!」と言うでしょうか。
この本を今は亡きレイ・クロックさん、藤田田さんに捧げたいと思います。
そして、心から尊敬する経営者仲間の柳井正さん、最後まで読んでいただいた読者の皆さんには心から感謝いたします。ありがとうございました。 2007年 孫正義
特別対談 「心に焼き付けた起業魂とアメリカの夢」 孫正義 VS 柳井正
孫 柳井さんは役員会で私が案件を説明すると、たいてい反対する(笑)。投資としては高すぎるからやめておけとか、持ってる資産を早く売れとか・・・・・・。ただ、ボーダーフォンを買収すると発議したときは真っ先に賛成してくれた。早く買うべきだと発言された。
柳井 そうです、僕はあの案件には賛成しました。あれは今後のソフトバンクにとって絶対に必要なものです。買わないことのリスクのほうが高いと判断しました。だって、ソフトバンクはすでに通信の闘いのなかにいる。これからせめていかなきゃならないのに、武器を買うか買わないかなんて話をしていたら闘いにならない。
まあ、話を戻すと意見を自由に言える社風は大切です。僕はいつも言うのだけれど、社長の指示した通りに現場の社員が実行するような会社は間違いなくつぶれます。現場の人間が「社長、それは違います」と言えるような会社にしておかないと知らず知らずのうちに誤った方向に進んでしまう。ただし、現場の社員は社長が本質的に何を指示しているのかを理解しておくこと。それを現場の判断で組み替えていくのが仕事なんです。
孫 役員会や社内会議でよくありがちなのは肩書が上の人の意見が通ってしまうこと。ある意見に対して、正しい、間違っているという判断でなく、「これは社長の意見だから、あれば部長が言ったことだから」と通してしまうと、誰も意見を言わなくなる。新入社員の発言でも、それが正しいことならば会議を通るという体質にしておかないと、会社は成長していきません。
孫 私は経営者として柳井さんと共通しているのは危機感だと思う。・・・私は自分の人生は波乱万丈ではあるけれど、やってる本人にしてみれば面白くて仕方がない人為だと思っている。何度でも孫正義の人生をやりたい。たとえ無鉄砲だと言われても・・・・・・。
柳井 もうひとつの共通点は孫さんと僕だけでなく、レイ・クロックも藤田さんもアウトサイダーから出てきた人間です。レイ・クロックはセールスマンだったし、藤田さんはダイヤモンドやハンドバッグの輸入商でしょう。どちらもハンバーガーの玄人じゃない。僕だって銀座や青山でファッションビジネスを始めたわけじゃない。山口県の宇部なんて炭鉱があるだけで、とてもファッションの中心とは呼べない。孫さんだって徒手空拳でIT業界に乗り込んだ。みんなアウトサイダーから出発し、常にアウトサイダーとして既存の業界に挑戦している。だから、常にリスクのある挑戦をせざるをえない。逆にインサイダーの内側からベンチャーが出てくるのは難しいかもしれない。
>>お二人の言葉が身に沁みる
「現場の社員は社長が本質的に何を指示しているのかを理解し、それを現場の判断で組み替えていきながら、 現場の人間が『社長、それは違います』と言えるような会社にしておく」
「新入社員の発言でも、それが正しいことならば会議を通るという体質にしておかないと、会社は成長していかない」
「成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男――マクドナルド創業者」(レイ・クロック、ロバート・アンダーソン著、プレジデント社)より
第五章 ストレスに打ち勝つ!
「あきらめずに頑張り通せば、夢は必ず叶う」
1976年3月、私はこの台詞をダートマス大学の卒業生に向かって言っていた。
起業家になる心得について講演を依頼されたのだ。
「もちろん、努力もせずに手に入るものではない。好き勝手にやればいいというわけでもない。リスクへの覚悟も必要だ。ちょっとしたら一文無しになるかもしれない。けれども、一度決めたことは、絶対にあきらめてはならない。成功にリスクは必ずつきまとう。しかし、それこそ醍醐味である」
売り商品を持たないセールスマンほど無価値なものはない。
第十章 キャッシュフロー
私はエセルと離婚するため、マクドナルドの株以外、私が所有していたものすべてを彼女に譲った。家、車、すべての保険、そして年三万ドルという一生不自由なく暮らせる財産をエセルは手に入れたのだ。しかし、私にとり、慰謝料を払うことは喜びだった。エセルは尊敬に値する人間で、愛らしく、素晴らしい主婦であり、彼女の生活の安定は守りたかった。問題は、弁護士に支払う費用で、私の分2万5000ドルと、彼女の分4万ドルの工面である。
第十六章 やり遂げろ!
私が言いたいのは、私は自分の金を有効に使うことを信念として掲げているということだ。ドン・ルービンが財団を医療調査のために役立てようと提案して、ようやく私は聞く耳を持ったのだった。
ギフトや慈善活動は、私の人生のハイライトとも呼べる。これまでに数々の賞を受けた。
マクドナルドにおいての個人の成功物語とは、決して教育ではない。信念だ。これは私のお気に入りの説教へと続く。
やり遂げろ――この世界で継続ほど価値のあるものはない。才能は違う――才能があっても失敗している人はたくさんいる。天才も違う――恵まれなかった天才はことわざになるほどこの世にいる。教育も違う――世界には教育を受けた落伍者があふれている。信念と継続だけが全能である。
幸せを手に入れるためには失敗やリスクを超えていかなければならない。床の上に置かれたロープの上を渡っても、それでは決して得られない。リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もないのだ。我々が進歩するためには、個人でもチームでも、パイオニア精神で前進するしかない。企業システムの中にあるリスクを取らなければならない。
これが経済的自由への唯一の道だ。ほかに道はない。
あとがき
クロックの本当の貢献はアメリカ人の味覚を標準化したことではなく、マクドナルドのフランチャイズシステムをつくり上げたことである。彼の最も素晴らしい手腕は、天性のリーダーとして、質とサービスの高い基準を創り出し、起業家たちを独立した経営者として自由に運営させる仕組みづくりに参加させたことである。これらのフランチャイズ加盟店においては、経営者と食料と備品の様々な納入業者が組み、1978年までに2000の独立した会社を代表した。マクドナルド・システムはビジネスにはずみをつけ、レイ・クロック時代に大きく発展し、彼の亡き後も成長し続けた。 ――ロバート・アンダーソン
>>一度決めたことは絶対にあきらめない。やり遂げろ、信念と継続だけが全能である。リスクのないところには成功はなく、したがって幸福もない。心に沁み入る言葉が並ぶ
「成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝 世界一、億万長者を生んだ男――マクドナルド創業者」(レイ・クロック、ロバート・アンダーソン著、プレジデント社)より
はじめに
「これが僕の人生のバイブル!」
レイ・クロックはマクドナルドを世界的チェーンにした人です。1954年、52歳だったレイ・クロックはミルクセーキ用のミキサーを売るために全米を旅していました。そんな彼がロサンゼルス東部のサンバーナーディノで出合ったのがマクドナルド兄弟のハンバーガー・レストランだったのです。
清潔な店内、シンプルなメニュー構成、標準化された調理手順、セルフサービスによる効率化などに感心したクロックはチェーン化したいという望みを抱きます。
それが始まりでした。以後、クロックはマクドナルドを大きくするために事業に取り組み、現在のような全世界的なチェーンをつくり上げたのです。52歳からの遅いスタートでしたが、彼は大きな成功を収めることができました。
私がレイ・クロックと彼の仕事のやり方を知ったのは故郷に戻り、父親のつくった衣料品で働いている頃でした。中年を過ぎてから起業に挑んだクロックこそアメリカのベンチャー経営者だと感心し、以後、マクドナルドのチェーン化戦略を研究したことを思い出します。
そしてレイ・クロックだけでなく、日本マクドナルド創業者、藤田田さんも私の憧れの経営者です。藤田さんの著作はほとんど読んでいます。後には縁もあり、お目にかかることができました。私は藤田さんからも多くのことを学べたと感謝しています。
この本は単にベンチャー起業家としてのレイ・クロックを追ったものではありません。儲けた仕事が手につかなくなってしまう人間レイ・クロックの姿もちゃんと描かれています。ベンチャーとは何か、商売とは何かを知ることができ、またエンタテインメントの評伝としても楽しめる本になっています。
末巻には孫正義さんと私の対談も付けました。なぜなら、私たち二人にとってレイ・クロック伝はバイブルともいえるものですし、ふたりとも藤田田さんを尊敬しているからです。孫さんと語った一時間は、とても刺激的な時間でした。そして貴重なひとときでした。 2007年 冬 柳井正
第一章 チャンスを逃すな
人は誰でも、幸福になる資格があり、幸福をつかむかどうかは自分次第、これが私の信条だ。シンプルな哲学である。そう考えるのは、私が誇り高きボヘミアの血を引いていることに加え、何よりこの考え方が現実的だからだ。・・・巨万の富を気づいたのも、「チャンスを逃すな」を信条にして、これまで生きてきた結果といえる。
私はその死語を続けながら、次なるビジネスチャンスを逃さないよう注意を払っていた。
「未熟でいるうちは成長できる。成熟した途端、腐敗が始まる」
これは私の座右の銘だ。
>>日本を代表する柳井さんと孫さんのお二人が敬愛する藤田田さん、バイブルとするレイ・クロック伝。レイ・クロックの座右の銘は 「未熟でいるうちは成長できる。成熟した途端、腐敗が始まる」。興味深い物語がスタートした
「ビートたけしは財テクの天才だった!」(大村大次郎著、あっぷる出版社)より
深作欣二の降板。
たけしが映画を撮り始めた偶然
1989年、たけしは、「灼熱」という深作欣二監督、野沢尚脚本の映画に出演する予定だった。
しかし60日以上スケジュールが空けられないたけしに深作監督が難色を示し、監督を降りてしまった。
別の監督で撮るということも検討されたが、深作監督ほどのインパクトのある人はいない。
そうこうしているときにたけしが「俺が監督やったら撮れるんじゃないの」と言った。
ビートたけし監督、主演ということであれば、話題にもなり興行的にもいいのじゃないか、ということでトントン拍子に北野映画の第1作が製作されたのだ。
北野映画第1作目である「この男、凶暴につき」は、興行的にも成功し、日本の映画賞もいくつかとった。
たけしは映画が、自分を表現する面白いスキルになることを知り、新たな欲が芽生えたのだろう。
2作目以降は失敗続き。
酷評され続けた北野映画
「HANA-BI」は、第7作目なので、たけしやオフィス北野は金にならない映画を5作品も作り続けたことになる。
興行成績は二の次。
“文化の担い手”にこだわる映画製作
興行的にもっとも成功したのは、初の娯楽作品でリメイク作でもある『座頭市』(03年)で、国内観客動員数200万人を突破し、興行収入は28.5億円である。
次に成功といえるのは1作目の『その男、凶暴につき』の10億円。
3位がハリウッド初進出となった『BROTHER』(01年)で、国内の興行収入9億円である。
製作費や興行成績はほとんど明らかにされていないが、それでも知りうる資料に目を通すと、『BROTHER』が製作費1200万ドル(1ドル=130円換算で約15億6000万円)。世界に「北野」の名を知らしめた『ソナチネ』(93年)は、製作費5億円をかけて国内興行収入が8000万円である。
日本アカデミー賞を総なめにした『HANABI』(98年)は興行収入1億2000万円、『DOLLS』(02年)は興行収入6億3000万円、『TAKESHI`S』(05年)は興行収入3億円である。
映画進出のきっかけは
漫才の行き詰まりから?
たけしは60歳を超える今でも、テレビ界の中心近くにいるが、35歳くらいのときに、お笑い芸人としての限界を感じたと語っている。
「高田文夫とラジオやってて、あ、忘れた、あ、忘れたって、二、三回続いたから、あ、おれの頭の回転終ったという感じがあった」
「だから、アドリブができないんだよね。自分でもう終わったと思う。すごいショックだったよね」(「コマネチ!」北野武編・新潮文庫)
北野映画を特集したケーブルテレビのインタビューでも、「記憶力が悪くなったときに、いつまでもお笑いでやっていくのは難しいと感じて、映画に乗り出した」ということを語っていた。
バイク事故を起こしたとき、たけしは自暴自棄的になっており「消極的自殺だった」などといわれることもある。これも、テレビの仕事や私生活の行き詰まりではなく、映画の行き詰まりが要因だったらしい。
今のたけしは、もしかすると人生のうちで精神的にもっとも余裕のある時期かも知れない。 2008年1月
>>記憶力の低下やアドリブができないことに真剣に向き合ったことが北野武を造ったとも言える
「ビートたけしは財テクの天才だった!」(大村大次郎著、あっぷる出版社)より
さんまや紳助は吉本のまま。
なぜたけしは独立できたのか
たけしの場合、なぜ太田プロが独立を許したのかというと、次の三点が挙げられるのではないか。
一点目は、たけしが太田プロにある程度の利権を残しておいたということ。具体的にいえば、出版権である。
たけしは、当時からベストセラーを何冊も出している「流行作家」だった。太田プロは、太田出版という出版社も抱えており、たけしは本を出版するときは太田出版で、という約束をしていったのではないか、ということである。
二点目は、たけしがテレビ界でそれなりの存在感を持っており、・・・
「芸人たけし」と「監督北野武」を
明確に区分する戦略
89年、たけし主演の映画「灼熱」が、深作欣二監督の降板によって流れたとき、たけしの人気を目当てに数多くの監督依頼が殺到した。
しかしディレクター時代から、たけしの映像感覚に非凡さを感じていた森氏は、たけしが思わずもらした「おれが監督すれば撮れるんじゃないか」という言葉に、すぐさま反応した。そして「芸人ビートたけし」と「監督北野武」を明確に区分することを考えた。
月刊ビジネス誌のインタビュー(05年)では「ツービートの漫才は、極めて映像的でした。もともと映像的な世界を言語化してきた人。お笑い芸人というのはタイミングひとつで勝負する。笑いは間の取り方が必須条件。ストーリーを語るリズム感にも優れています」
というような発言をしている。その可能性にかけて、それを実現するために、自社での映画製作・配給を始めた。
バイク事故の後、「キッズ・リターン」(96年)を撮ることにしたのも、森氏の考えによるものだという。バイク事故の後、たけしに何かモチベーションを持たせる仕事をしたい、それには映画が一番だ、と考えたのだ。
たけしは、常に10個くらいの映画のアイディアを持っていたが、その中から「キッズ・リターン」を選んだ。なぜ「キッズ・リターン」だったのかというと、たけしが主演ではないので、たけしの負担が軽くて済むからだ。
森氏の狙いが当たったのか、たけしは徐々に心身ともに回復していき、映画への情熱も高まっていった。
それは1998年「HANA-BI」のベネチア映画祭金獅子賞として実を結ぶことになる。
>>森氏の「芸人ビートたけし」と「監督北野武」を明確に分ける戦略、これが国際的に認められた一因とも言える
「50代にしておきたい17のこと」(本田健著、大和書房)より
はじめに 50代という「希望」
人生80年の時代――50代という年代に差しかかったいま、あなたは自分の人生に対して、どのように感じているのでしょうか?
あなたの未来は、あなたが選択することができます。その可能性を、この本で感じていただけたらと思います。
1 残りの人生でやりたいことを決める
2 不義理をする
3 消去法で決める
4 昔の友人に連絡をとる
5 故郷を訪ねる
6 愛を育む
7 家族との軋轢を解消する
8 ロマンスを取り戻す
自分が魅力的でありたいと思う気持ちは、いくつになっても、あなたを人間的に成長させ、人生を輝かせてくれるのです。
60代になったときに、イキイキとした自分でいるのか、それとも枯れた老人のようになってしまうのか。そのカギを握るのは、50代のいまのうちに、何かに心奪われる体験をしておくということなのです。
9 お金の計算をしておく
10 趣味をライフワークに進化させる
11 健康と向き合う
12 時間=命と考える
13 自分は何をのこせるか考える
14 羽目をはずしてみる
15 20代の友人をもつ
16 本音で生きる
17 とことん楽しむ
あなたが、最期を迎えるとき、「最高の人生だった」と心から言えますように。
おわりに 50代から最高の人生を生きるには?
50代は、人生でもっとも充実した年代です。いままでやってきたことをさらに進化させて、そして多くの人たちに喜ばれながら、家族とつながり、友人を大事にし、最高の思い出をつくる時間でもあります。
この10年を上手に乗りきるには、感情とうまくつき合うことです。
ネガティブなこともポジティブなことも、すべて人生だと思って、それらをしっかりと受け取って前に進むのか、あるいはネガティブなことはできるだけ見ないようにするのかでは、その後の人生はぜんぜん違ってきます。
そういうときに、「どんなときも、とことん楽しむ」というメンタリティでいくと、うまくいくと思います。
悲しいことやつらいことも、それも含めて人生なのだから、ドーンと受けとめていこうというふうに心がけてみてください。
>>最期を迎えるとき、「最高の人生だった」と心から言えるよう、どんなときも、とことん楽しんで行きたい
「好き嫌い」と経営(楠木建編著、東洋経済新報社)より
Profile #14 大前研一 経営コンサルタント
「実質を伴わないもの」が嫌い
仕事をやっている自分と、死の直前の自分と、その間の15年か20年の自分。この3つの自分について、どう生きたいかをちゃんと考えるといいと思います。戦後の日本人に欠落している部分ですよね。最期の瞬間に「ああ、いい人生だった」と言って死ぬには、「あなたはどういう人生を生きたいですか」という質問に対してちゃんと考えて答えられないと。そういう計画なり、そういう時間の配分なりをして、生き方や友達について考える方法を私の授業でもやっているのですが、みんな導入してくれたらなと思いますね。 (取材日:2013年4月27日)
Profile #15 楠木建 一橋大学院 国際企業戦略研究科 教授
なぜ「好き嫌い」なのか?
違いのつくり方は「ポジショニング」と「組織能力」という2つに大別できます。このうち、後者の組織能力に企業の文化や価値観といった好き嫌いの問題は深く関連しています。
ある企業が他の会社が真似できない「何か」を保有しているとすれば、それは持続的な違いになり、競争優位の源泉になり、長期利益の源泉になる。ものすごくかいつまんでいいますと、これが組織能力(ケイパビリティ)です。ケイパビリティの研究にはいろいろあるのですが、その多くが共通していっているのは、「他の会社が真似できない組織能力の中核には、そこで共有されている文化がある」ということです。
一方のポジショニング戦略では、無限に広がっている競争空間のなかで、自分の企業をどこに位置づけるかが問題となります。異なった位置取りが競合他社との違いをつくるという論理です。ポジショニングを決めるとき、起点となる重要な意思決定に「ターゲット顧客」「ターゲット市場」の選択があります。たとえば、ユニクロであればベーシックな洋服ですから、「年齢性別を問わず快適な生活をしたいと思っている生活者」がターゲットになる。これに対して、ZARAのターゲットは「変化していくファッションに敏感な、主として女性」ということになりますね。
このように、ポジショニングとは市場という外に向かって違いをつくる発想ですが、組織能力は会社が保有する独自の経営資源という内に向かう発想です。ポジショニングの戦略でいう「ターゲット顧客」と同じぐらい、僕は「ターゲット社員」が組織能力の構築にとって重要だと考えます。「うちの会社でターゲットとするべき社員とはどんな人なのか」という問いが大切なのです。
クオリティ企業というのは、要するにコンセプト勝負なのです。経済が成熟段階に移行するにつれて、利益の源泉が外部環境の収益機会から企業内部の価値創造とそのための独自の戦略ストーリーにシフトするということは、日本のような成熟期にある企業ほど、経営における事業コンセプトの占める割合が大きくなります。この「コンセプトづくり」、言い換えれば本質的な顧客への提供価値の定義、これこそ経営者の仕事です。
本質的な顧客価値といっても、何も難しく考える必要はありません。要するに「自分の商売を一言で言うと何か」という話です。「何をやるのか」「何をしたいのか」を顧客価値の視点で凝縮したものがコンセプトにほかなりません。
2014年6月 楠木建
>>我社は「何をやるのか」、「何をしたいのか」をしっかり考えて行きたい
「好き嫌い」と経営(楠木建編著、東洋経済新報社)より
Profile #10 石黒不二代 ネットイヤーグループ代表取締役社長兼CEO
「理系のギーク」が好き (取材日:2013年4月23日)
Profile #11 江幡哲也 オールアバウト代表取締役社長兼CEO
「図面を引く」のが好き (取材日:2013年10月8日)
Profile #12 前澤友作 スタートトゥデイ代表取締役
「人との競争」が嫌い
お客様だけではなく、すべてのステークホルダーに対して、常に驚きを提供したいという気持ちですね。株主総会でも面白いことをやってみたり、決算説明会で着ぐるみを着てみたり、いろいろやるのですが。そういうのも「ちょっと驚いてもらおう、喜んでもらおう」という気持ちからです。ビジネス上ではリスクが大きいことも多いのですが、驚かせたいと思ったら、やりますね。 (取材日:2014年3月18日)
Profile #13 星野佳路星野リゾート代表
「スキーと目標設定」が好き
1つひとつの旅館やリゾートが、その地域でしっかりとしたシェアをとって利益を出すことが大切です。私たちはリゾートの運営会社ですから、オーナーに「投資してよかったな」と思ってもらい、働いているスタッフとその家族の生活を安定させたい。単に軒数を増やしていくというより、1つひとつをしっかりと安定させ、未来に向かって安心できる体制にすることが、最大の目標だと思っています。同時に「いろんな場所に行ってみたい」というお客様のニーズに応えようと思っています。その意味では、有名観光地に私たちの運営拠点がないのは課題であると考えています。
「会社のとるべき選択はどちらか?」ということに関して、自信がないのです。経営はいろんな要素が絡み合っていて、やってみないとわからないところがありますから。失敗を少なくするために、私は理論に頼るのだと思います。過去のケースを深く研究している研究者たちの「これが法則だ」というものを常に求めています。
考える段階においてはフラットに議論する仲間がいればいるほど助かる。これと同じ状態を各旅館やリゾートでつくってほしいと思っています。意思決定するまでの間のフラットな議論こそ、意思決定者に正しい判断をさせる上で何よりも大切な文化ですから。
日本の旅館のおもてなしは千利休の文化的な思想から来ていて、顧客は私たちスタッフにある程度の文化度を期待しています。自分から具体的な要望はせず、「今日はどういうもてなしがあるんだろう」と楽しみに来ているのですから、かなり主客が対等ですよね。
スタッフによく話すのは「朝顔の茶会」です。利休の庭の朝顔が見事だと聞いた豊臣秀吉が訪ねてくるのですが、利休は花を全部切り落としてしまう。そして茶室の床の間に1輪だけ生け、朝顔の素晴らしさや可憐さを味わってもらうというおもてなしです。はっきりしたメッセージ性がありますね。そういう文化度を私たちは持たなきゃいけないし、利休のこだわりを伝えていくところに、おもてなしと西洋のホテルのサービスの差があると私は思っています。その意味では主客がフラットであるということは大切だし、世界のホテル業界も最ビルの「要望型」から「文化度への期待型」に変わってきていると、何となく感じています。
だからこそ、日本のおもてなしが世界のニーズに応えていける時代になりうる。顧客が喜ぶような文化度を持つには、スタッフ自身が変革しなければなりません。 (取材日:2013年11月13日)
>>フラットな議論をした上で意思決定できるような組織にして行きたい
「好き嫌い」と経営(楠木建編著、東洋経済新報社)より
Profile #08 重松理 ユナイテッドアローズ名誉会長
「一番好きなことを最初にやる」のが好き
私が考えている商売の醍醐味というのは、3つあるのです。1つは、それまで日本になかったものを海外から持ってきて紹介すること。
2つ目は、今までよりも高いパフォーマンスが発揮できるもの、つまり、もっとカッコいいと思えるものを自分たちが作って提供することです。これはオリジナル企画商品になります。3つ目は、そうしたオリジナル企画商品のなかから、デザインも何も変えずに、ずっと作り続けて量を拡大することができる商品を生み出すこと。これが好きなんです。
自分はどういう人間かというと、とにかく好奇心が強くて新しいもの好き、「慢性新鮮病」ですね。よく、一番好きなものは残しておけ、とか一番好きなことは仕事にすべきではないとか言うけれど、全然そうは思いませんね。自分は一番好きなことを最初にするタイプなのです。 (取材日:2013年5月15日)
Profile #09 出口治明 ライフネット生命保険代表取締役会長CEO
「活字と歴史」が好き
この世界を理解し、どこを変えたいと思うのか。それは世界を経営するということです。でも世界は広いので、自分はその一部分を受け持つしかない。それがサブシステムです。置かれた状況のなかで常に世界を理解し、何を変えたいと思い、何をして生きるのかということ。つまり、世界経営計画のサブシステムを生きることが、人間にとって一番大事だと思い、言い続けています。
歴史を見たら答えは明らかです。人間の一生ってほとんどが偶然ですよね。どういう会社に入り、あるいはどういうパートナーを見つけるかもすべて偶然です。最初の分岐点は二股くらいだけれど、先へ進むにつれてどんどん枝分かれしていくので、ものすごく隔たってしまう。でも、その最初の分岐点で右に行くか左に行くかは、ちょっとした偶然です。人生は偶然の要素が大きいと思いますね。
歴史の事実を見ると、人間の望んだことは99%失敗して実現しない。でも、やらなければ新しいことは100%起こらない。その1%に懸けてチャレンジした人が社会を良くし、世界の歴史を動かしてきた。そういう淡々とした事実がわかったら、安心してチャレンジができる。みんな失敗するんだから、失敗しても何も怖くない。成功したら儲けもの、という認識がわかったら、気軽にチャレンジできるようになります。
仕事に費やす時間なんて3分の1くらいです。3割くらいのものなんていうのは、全体を10としたらどうでもいいことなんです。人間にとって大事なのは、良いパートナーを見つけて楽しい生活を送ることで、仕事なんて価値がない。価値がないものだったら、何でそんなもののために上司にごまをするとか、人からどう思われるとか、そんなしょうもないことを考えるんだと。どうでもいいことだったら好きにやればいいじゃないか。思うとおりやって、チャレンジして、イヤだったらチェンジすればいい。
仕事で落ち込んだり悩んだりしている人は、人生における仕事の位置づけが間違っている。人間と人間が社会に対する洞察力が欠けている。小説を読んだり、たくさんの人と飲んだり、遊んだり、世界を旅したりすれば、仕事なんかどうでもいいということがよくわかると思います。
あすかアセットマネジメント社長の谷家衛さんにであったからです。「僕の友達が、保険のことを知りたがっているから、ちょっとレクチャーしてやってもらえませんか?」と言われたのがすべての始まりです。
好き嫌いはいっぱいありますよ。たとえば、好きな映画の男優とか女優はたくさんいます。たとえば男優であれば、アカデミー賞を取った『イングリッシュ・ペイシェント』に出演したレイフ・ファインズ。めちゃめちゃセクシーですよ。彼みたいにカッコよかったら、とうらやましくなったり、あるいは『恋に落ちたシェイクスピア』のグウィネス・パルトロウはとてもチャーミングでした。あるいはちょっと古い映画だと『ルートヴィヒ』のロミー・シュナイダー。ルートヴィヒを訪ねてきて、夜の庭園で白い馬に乗ってにっこりほほ笑むシーンとか。そういうのを見ると、「こんな彼女とデートできたら死んでもいい」と思ったりしますよね。あるいは、大学に入って初めてみた『突然炎のごとく』のジャンヌ・モローとか。
一番憧れるのは自由な人、素直な人ですね。どんな事象に対しても、まったく同じ態度で、素直に受け入れることができる。人間の能力のなかでは素直であることが一番高い能力であると思いますね。
僕の一番好きな本は20年くらい前から変わっていないのですが、マルグリット・ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』なんですよ。死んだとき一緒に焼いてほしい本です。このなかにハドリアヌスの独白としてこんな言葉が出てきます。「自分はあることでは誰それに勝てないし、別のあることでは誰それに負ける。だから、自分には何も優れたところはないけれど、自分が皇帝になったのは、今挙げた有能な誰々よりも、自分が素直になれるからである」。そこは本当に人生の真実を言っているところだと思いますね。
もう1冊挙げるとしたら、『クアトロ・ラガッツィ--天正少年使節と世界帝国』ですね。
リンカーンの言葉だったと思いますが、「少数の人をずっと欺き続けることはできる。多数の人を少しの間欺くことはできる。しかし、多数の人をずっと欺き続けることはできない」。だから民主主義が機能するし、社会を信じることができる。僕もそう思います。
チャーチルが言っています。時々「ろくな政治家がいないから、投票なんか、もうバカバカしくて行けません」と言う人がいますが、そういう人には言うのです。「それは根本から考えが間違っている。政治家は立派な人である、というありえない前提を勝手に信じ込んでいる。チャーチルが言ったことを思い出してごらん。『政治家はみんなろくでもないやつばっかりだ。選挙というのは、そのろくでもないやつのなかから、今の時代にあって税金を分けるのに相対的にマシな人を選ぶ忍耐を選挙というんだ』と」。 (取材日:2012年5月14日)
>>失敗することが当たり前なのだから、1%に懸けてチャレンジしてみたい
「好き嫌い」と経営(楠木建編著、東洋経済新報社)より
Profile #4 新浪剛史 ローソン取締役会長
「嫌いなやつに嫌われる」のが好き (取材日:2013年3月1日)
Profile #5 佐山展生 インテグラル代表取締役パートナナー
「偉そうにする」のが嫌い
人生というのは「自作自演のドラマ」です。自演というのは変えられませんが、自作の部分、シナリオは自分で変えられます。人生が面白くないなら自分でシナリオを面白く作り替えればいい。また、落ち込んだときや出口が見えなくなって「もう駄目だ」と思うことがあるかもしれないけど、地図の縮尺を変えるようにぐっと大きな視点で見てみると、その悩みは案外ちっぽけなものでしかないことがわかることや、また今ある世界がすべてではないことなどという話をしたりします。
人生でどちらの道にいくか、いかないか」で決める人がいますし、たぶん、それが大半でしょう。私はそこがはっきりと違っていて、「もしもうまくいったら、面白いかどうか」で決めています。 (取材日:2013年12月24日)
Profile #06 松本大 マネックス証券代表取締役社長CEO
「小トルク・高回転」が好き (取材日:2012年2月9日)
Profile #07 藤田晋 サイバーエージェント代表取締役社長
「今に見てろよ!」が好き
やはり自分で考えて、自分で決めて、自分で責任を持たなければ駄目だという考え方なのです。おそらく僕にとって仕事というのは、作品づくりの途中みたいな要素があるのでしょうね。いずれにせよ組織というのは、リーダーが責任を負わなければいけないと思っています。 (取材日:2013年8月8日)
>>「面白いかどうか」で人生のシナリオを自分で考えて、責任を持って、決めて行きたい
「好き嫌い」と経営(楠木建編著、東洋経済新報社)より
Profile #3 原田泳幸 日本マクドナルドホールディングス取締役会長
「雷と大雨とクライシス」が好き
半分冗談、半分本気で言うのですが、私には嫌いな男の条件のようなものがあります。スパゲティを食べるのにフォークとスプーンを使って食べる男。ソムリエでもないのにワインにくわしい男。それから1mgのメンソールのたばこを吸う男。こういう男が嫌いです。もう、はきりしろと。男だったらスパゲティは片手で食べる。ワインなんか理屈じゃない、おいしければいいだろうと。たばこもどうせ吸うなら、きついのを吸う。吸わないなら断固として吸わない。1mgのメンソールみたいな、どっちつかずのものはイヤですね。
仕事であれば、まず嫌いなのは企画を立てるのに理屈から入ること。
リサーチというのは顧客の体験や過去の検証であて、将来を予見するインサイトではありません。お客様がまだ自覚しておらず、言葉にならないところにビジネスチャンスがあるわけです。自分が信じるものを企画して提供し、実際のところ信じたように動いているかどうかを検証するためにリサーチはある。リサーチはあくまでナビゲーションの道具の1つにすぎません。リサーチにナビゲートそのものを委ね、リサーチで企画を建てるようでは駄目ですよ。
複雑なことを簡単に理解させる。これで初めて相手が行動するわけです。常に簡単に考える。非常にシンプルに考える。これはアップル時代にスティーブ・ジョブズさんから学んだことです。iPhoneのシンプルなオペレーションの裏には、ものすごく高度で複雑なロジックがある。その部分をお客様に見せずに、ごくシンプルなソリューションを出す。彼は一貫して、複雑なことをシンプルにする人でした。
彼の直感というのは、最初の段階では空想物語のような気がします。しかし、ものすごいこだわりで深く考えることによって、可能性がない空想物語がビジョンとなり、やがてビジネスとして具現化される。空想物語からビジネスまでのプロセスをつなげる力が強い人ですね。ですから、しつこさはすごいですよ、100人いたら100人を納得させて動かす。そこがジョブズさんの強さではないでしょうか。
親父は養鶏場をやっていますが、まだ事業拡大するつもりのようです。私が「何でだよ?」と聞いたら、まじめな顔で「老後のため」と答えました(笑)。性格的には親父のほうがお人よしですが、仕事熱心なところは似ていますね。たぶん、長寿も似ていると思いますよ。 (取材日:2012年4月9日)
>>自分が信じる(複雑な)ものを(シンプルに簡単に)企画して提供し続けたい
「好き嫌い」と経営(楠木建編著、東洋経済新報社)より
すべては「好き嫌い」から始まる!
企業の戦略ストーリーの創造は、
経営者の直感やセンスに大きく依存している。
その根底には、
その人を内部から突き動かす「好き嫌い」がある。
14人の経営者との「好き嫌い」についての対話を通じて、
経営や戦略の淵源に迫る。
Profile #1 永守重信 日本電産代表取締役社長
「何でも一番」が好き
京都の良さというのは、昔から「始末」と「いけず」です。始末というのは、必要じゃないところにはいっさいお金を使わないということ。僕らは母親に「始末せえ、始末せえ」と言われて育つのです。始末はケチじゃない。ケチだったら必要なものにすらお金を使わないけれど、始末は必要なところには徹底的に使うわけですよ。
子どもでも弟子でも部下でも、厳しく育てるというのが京都の「いけず」です。・・・「京都の人は『いけず』や」というのは、褒め言葉です。ベンチャーが京都で成功するには、おそらく余分なところにお金を使っては駄目ですね。「始末」と「いけず」の文化ですから、間違ったカネ遣いをすれば必ず白い目で見られます。
映画のなかの話ですが、家族からも社会からも見放された人を集めて、ちゃんと礼儀作法を教えるヤクザ組織というのはすごいですよ、「親分のためなら死んでもいい」とまで部下に言わせる人心掌握術にも憧れました。 (取材日:2013年11月27日)
Profile #2 柳井正 ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長
「デカい商売」が好き
永守重信さんと孫正義さん。このお二人だけが、今の日本の起業家として尊敬している人です。
永守さんは実業です。孫さんは、本人はどう言うか知りませんが、実業が半分、投資が半分。実業としての投資という意味ですが。
ご自身はばくち打ちと言っていますけど(笑)。いや、あの度胸の良さには参りますね。永守さんも孫さんも、何事も徹底的にやっている。行き着くところまでやる。それは尊敬に値すると思います。
一番嫌いなのは偽善者でしょうね。口で言うこととやることが違う人。最後までやり抜かない人。自分のためだけにビジネスをやる人。そういうのは嫌いですね。
事業活動とCSR活動は車の両輪です。特に海外で大規模ビジネスをしようと思ったら、慈善という意識がないとうまくいかないと思っています。
外国に行くと、「あなたは自分のビジネスあるいはチャリティによって、この国のために何をしてくれますか?」と聞かれます。その国のためになるいいことができなければ、成功しても尊敬はされないと思っていますよ。 (取材日:2012年11月7日)
>>口で言うこととやることを同じくし、最後までやり抜くことを心掛けたい
「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT
Afterwords by the Translator 訳者あとがき
本書で特に強調されている、ジョンに認められたいというポールの願い。うっすらと気づいてはいたけれど、これだけ本人の言動を通じてその証拠を挙げられると、もはやポールが音楽をやっている動機は、それしかないような気がしてくる。ちなみにリンダとの関係も、本書を読めば、当初はジョンに対する意趣返しでしかなかったことが確信できるはずだ(それにしてもヨーコとリンダは実によく似ている。たとえばどちらもブルジョア家庭の出であること、アメリカからやって来たこと、年上で娘がいること、ぱっと見にはわかりにくい美しさがあること・・・・・・)。
最後に本書の大きなテーマである「金」。本文にはポールの「ぼくからすると古いビートルズ音源の出し直しは全部、ちょっと搾取のにおいがする」という発言が引用されているが、その言葉を知ってか知らずか、近年、「音源の出し直し」には拍車がかかっている。
>>ポールのレノンに対する思い、「なるほどね~」と思う
「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT
Chapter 4
レノンが脱退しておよそ半年が過ぎたこの時期になっても、ビートルズは相変わらす稼働中のユニットを装っていた。実情は異なるのではないかという懸念も、間近に迫った映画『レット・イット・ビー』の公開と、四人はまもなく一緒に仕事をするというスターキーとハリスンの発言によって鎮められた。
1970年の2月26日にアメリカでアルバム<<ヘイ・ジュード>>がリリースされたのにつづき、映画『レット・イット・ビー』は4月28日にニューヨーク、そしてその一週間後にはロンドンでのプレミア公開が決まっていた。3月6日にはシングルの<レット・イット・ビー>が臨時発売されるが、なにかを物語るかのように、全英チャートでは首位獲得を逃している。にもかかわらずマッカートニーのエレガントでゴスペル色が濃いナンバーは、いまだに未完成だったサウンドトラック・アルバムに対する期待を、全世界的にかき立てた。
過去五年間、作者の承認抜きで、ビートルズの曲に新たな要素がつけ加えられたことは一度もなかった。そして今、レノン、マッカートニー、ハリスンの曲に大きく手が入れられているおいうのに、その三人はだれひとり、現場に顔を見せていなかった。
中でもマッカートニーの< The Long and Winding Road >にリチャード・ヒューソンがほどこしたアレンジは、ほかをはるかに圧っして過激で物議をかもすものだった。オリジナルのレコーディングは自意識過剰の感傷的な仕上がりで、あまりにも女々しかった。だが無調性をひと足ししてこのムードを覆す代わりに、ヒューソンは大胆にも、それを強調することにした。
確かにレノンはすでにグループを脱退していたが、その決断を公表せず、それによって妥協の余地を残していた。マッカートニーは四人のビートルズの中で、最後にグループを脱けたメンバーだった。だが彼はグループの解散を、自分の手柄にする--あるいは自分の責任にすることにしたのである。
>>解散に関する、レノンとマッカートニーの真逆の行動が全てを物語る
「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT
Chapter 3
アップルは誇らしげに、1969年1月の不快なセッションでレコーディングされたアルバムが、もうじきリリースされると発表した。タイトルは<< Get Back >>。ジャケット写真は彼らのデビュー・アルバム<< Please Please Me >>をなぞったものだが、かなり健全なルックスだった前作に大使、今回のビートルズは四人中三人が髭を生やしていた。
たびかさなる予告にもかかわらず、<<ゲット・バック>>というアルバムは、ついにリリースされなかった。
7月9日に復帰した彼は、一瞬、ひとりで姿をあらわしたに見えた。だがその数秒後には、ヨーコ・オノがよたよたとした足取りでスタジオに入り、つづいてハロッズ百貨店から派遣された四人のポーターが、ガラガラとベッドを運びこんだ。
それからの四週間、グループはささいないさかいをわきにやり、集合体としてのアイデンティティを取り戻すことに成功する。おかげでレノン作品の< Because >では、彼とマッカートニーとハリスンがほぼ12時間を費やし、そのキャリア史上もっとも完璧な、聖歌隊風のハーモニーをレコーディングすることができた。
しかしこの一体感はうわべだけのもので、グループの中心的なメンバーふたりの方向性は、完全に異なっていた。マッカトニーが常人離れしたメロディ作りの才を発揮しつづけたのに対し、レノンは感情をありのままに表現した音楽にしか関心がなかった。その違いを端的にあらわしているが、技巧が鼻につく、なんとも軽々しいマッカトニーの<マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー>と、容赦ないほど直接的なレノンのラヴ・ソング< I Want You >だろう。
一方でこのふたりは、開花しつつあったジョージ・ハリスンの才能を意図的に過小評価していたが、彼のもっとも優れた作品は--たとえばこのアルバムに提供した<サムシング>と<ヒア・カムズ・ザ・サン>の二曲のように--年上の同僚ふたりのもっとも魅力的な資質を合体させていた。
さいわい、彼はアヴァンギャルドに対する情熱を、<<アビイ・ロード>>と題されるこの最後のアルバムが完成するまで隠し通すことができた。
1969年8月8日の朝、彼らはスタジオの外の横断歩道を行きつ戻りつし、それだけで史上もっとも有名なアルバム・ジャケットのひとつを生み出してしまう。
ビートルズが足並みをそろえていられるのは、せいぜいシャッターが一度切られるあいだぐらいだった。
1969年8月22日、レノン夫妻は誇らしげに、ほかのビートルズたちをこの邸宅に招いた。カメラマンのモンティ・フレスコがその模様を撮影し、これが結局、グループ最後のフォト・セッションとなる。当然のようにオノも、しばしばフレームの中に収まっていた。これが歴史的な出来事になることを察知していたのか、パティ・ボイドは以後二度と、こうしたかたちで人前に出ることがなかった四人のミュージシャンの姿を、サイレントのフィルムで撮影した。
イーストマンは9月15日に到着し、その翌日か二日後には、四人のビートルズ全員が議決権や自社株購入権に関する仰々しい抗議を拝聴していた。そのうちにハリスンが将来的なビートルズのレコードには自分の曲も平等に収録してほしいと言いだし、それをめぐって彼とレノンが、とりとめのない口論をはじめるひと幕もあった。当時はだれも気づかなかったものの、これは歴史的な瞬間だった。レノン、マッカートニー、ハリスン、スターキーがひとつの部屋で同席するのは、この時が最後となったのだ。ロックンロールに対する情熱的な思い入れとともにはじまった物語は、その情熱の後始末をめぐる、生気を吸い取られそうな議論とともに幕を閉じたのである。
1970年1月3日の午後、ビートルズはアビイ・ロードのスタジオ2という、おなじみの場所に集まった。・・・7月に上々の首尾を上げた三人組のグループだった。
レノン抜きのビートルズは、ハリスンの< I Me Mine >をレコーディングした。映画『レット・イット・ビー』の劇中で披露される曲だったため、クラインがどうしてもサウンドトラック・アルバムに収録したいと言い張ったのである。翌日、このトリオはマッカートニーの<レット・イット・ビー>にさまざまなオーヴァーダビングを加え、リンダ・マッカートニーも彼に説得されて、ナイーヴな歌声をバッキング・ヴォーカルにつけ加えた。レノンがはじめてオノをビートルズのセッションに招いてから18か月、マッカートニーはようやくむなしい復讐を遂げることができた。
>>いよいよ解散に向けたクライマックスへ
「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT
Chapter 2
ぼくらのビジネスの主軸はエンターテインメント--コミュニケーションだ、アップルは主として、楽しさを追求している・・・・・・ぼくらはすべてのエネルギーを、レコード、映画、そしてエレクトロニクスの冒険に注入したい。ぼくらが本気で楽しめることに照準を合わせるべきだと思ったし、ぼくらは生きていること、そしてビートルズでいることを楽しんでいる。
--ポール・マッカートニー 1968年7月
話せない・・・・・・下手なことを言いたくないんだ。
--ポール・マッカートニー 1969年1月
確かにアニメーション映画の『イエロー・サブマリン』は、広く批判を浴びたかもしれない(イギリスのある新聞は、「露出過多の四人組」による「失敗作」と酷評していた)。だが、<ヘイ・ジュード>のリリースは、グループが音楽とおたがいに対して、かつてなく本気になっていることを示唆していた。次第に盛り上がるコーラスをフィーチャーしたマッカトニーの曲は、西洋の若者たちのあいだで広まりつつあった、政治的敗北にも自分たちの団結はゆるがないという信念をみごとにとらえきっていた。
彼らの関係は、マッカトニーがうたう< Get Back >のコーラスを、レノンがヨーコ・オノへのあてこすりではないかと邪推するほど悪化していた。ビートルズがレノンの作品< Accross the Universe >にトライしたあと、マッカトニーが音楽について語っているふりをしながら、「無用な東洋からの影響がある」とコメントしたこともあった。
和解をうたったマッカートニーのバラード<レット・イット・ビー>をレコーディングした翌日、アップルに戻ったビートルズは、アレン・クラインおよびジョン・イーストマンとともに、グループの将来を話し合った。
より実際的なマッカートニーは、自分のフラストレーションを < You Never Give Me Your Money >と題するメロディアスな曲に注ぎこんだ。彼は1996年にこの曲は「バンドのほかのメンバー」に向けたものではないと説明している。
「本気であの三人が悪いと思ってたわけじゃないからね。ある意味、全員が同じ船に乗ってたわけだし、ぼくらが本気で敵対して、それぞれに弁護士とかを雇いはじめたのは、アレン・クラインがあらわれてからのことだ。あいつにバラバラにされたせいさ。基本的にはあいつがぼくらをバラバラにしたんだ」。
1969年5月にはまだ、ビートルズには四人のメンバーがいた--たった四人のメンバーが。だが過去10年間にわたって彼らを結びつけてきた絆は、永久に消え去っていた。
>>解散に向けた下地が整いつつある
「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT
「アヴァンギャルド・シーンにいたわたしはロック・ミュージックにあまり共感できず、興味もさほどありませんでした。むしろ、その正反対だったんです。ロック・シーンの一員にならないことが、大きな誇りにもなっていました。あまりに商業的すぎたからです。フルクサスはあの当時、群を抜いて実験的なグループでしたし、一方でロックはただの・・・・・・」。彼女はお話にならないというように手をふった。
ひとたび関係ができると、オノとレノンは流動的だが中身の濃いつきあいをつづけた。彼女はシンプルでパワフルなところがとりわけ魅力的なプランやマニフェストやコンセプトを次々に彼に吹きこみ、レノンも熱烈に反応した。ビートルズがインド遠征の準備を勧めていた1968年2月、レノンは自分の妻だけでなく、ヨーコのことも知的な伴侶と見なすようになっていた。
「これで決まりだ。オレが一生待っていたのはこれだった。なにもかもクソくらえだ。ビートルズもクソくらえ。金もクソくらえ。なんならクソったれなテントで彼女と暮らしてもいい」。詩的な誇張を勘定に入れても、オノとの関係が彼の人生における、大きな節目になったことは間違いない。オノにはエロティックな魅力(現に彼が翌年書く曲は、
からまで、性的なイメージに満ちふれていた)だけでなく、レノンの創造性を解き放つ力もあった。
自分の気持ちを言葉遊びやシュールレアリスムで覆い隠すたびに(意図的に愚かさを装った< I Am the Walrus >のように)、彼は本能的に罪悪感を覚えた。
・・・自分とオノの関係をシンシアに表明することだった。彼はケンウッドのキッチンでオノと一緒にいる姿を、彼女にもしっかり目撃させた。その後の数日間、彼はシンシアとの直接対決を避け、ふたりの結婚にはまだ救いがあるふりをしていた。そして外国に旅行して、気分をリフレッシュするように勧めたあと、オノを同伴して、自分の本を戯曲化した舞台のオープニングに出席した。
オノは既婚男性とつきあう既婚女性だっただけでなく、一般の人々には「ヌード」を連想させる存在で、イギリス的な美の基準には合致せず、しかも最悪なことに「日本人」だった。それはそのままほんの20年あまり前に、戦場で捕虜たちが受けたむごい仕打ちを意味していた。自分は寛容だと考えるイギリス人の多くが、日本人だけは例外扱いし、細い目をした情け容赦のないサディストだと決めつけていたのである。
両親に捨てられたレノンにとって、ミミ伯母さんは安定の象徴だったが、十代に入った彼が反逆的なロックンローラー、そして風刺的なアーティストとなっていくにつれ、拒絶すべき存在になっていった。対照的にオノは方向性を彼に与え、彼の言い分を聞き入れた。そしてレノンは、奇跡的に家への帰り道をみつけたかのように反応したのである。
レノンとマッカトニーのパートナーシップを支えていたのは、もっとも広い意味での兄弟愛だった。確かにこの二人のうち、レノンはより攻撃的で皮肉っぽく、マッカトニーはより如才がなかったかもしれない。だがこのパートナーシップが保たれている限り、ビートルズは存続可能だった。そんな1968年5月30日、グループはアビイ・ロード・スタジオに再集結し、最終的には半年にわたる、混沌と創造のプロセスをスタートさせた。
その結果生まれた二枚組アルバム<< The Beatles >>(通称『ホワイト・アルバム』)は、彼らのもっとも多様な、そしておそらくはもっとも聞き応えのある作品だった。ヴォードヴィルからアヴァンギャルドまで、20世紀のポピュラー音楽史としても機能する、無鉄砲な折衷主義の万華鏡的なコラージュ。だが聞く限りにおいてはとても熱意にあふれ、アナーキーなエネルギーすら感じさせる音楽は、実のところ、ビートルズから集団としてのアイデンティティをすべて搾り取ってしまうほど陰々滅々としたセッションの産物だった。
1968年5月以降は、15か月後におこなわれるビートルズの最後のセッションまで毎回スタジオに入りつづけたのも、オノによるとレノンが決めたことだった。
アップルの第一弾リリースには、ビートルズ最大のベストセラーとなる<ヘイ・ジュード>が含まれていた。グループの内外で不安と怒りが燃え盛っていた夏を経て登場した、マッカートニーによる、楽天主義で輝かんばかりのアンセム的なナンバーである。
>>『アビイ・ロード』の裏側では様々なドラマが繰り広げられていたことを初めて知った
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「ザ・ビートルズ 解散の真実」(ピーター・ドゲット著、奥田祐士訳)イースト・プレス)より
You Never Give Me Your Money The Battler for the Soul of THE BEATLES PETER DOGGETT
Cover photo by Photofest/AFLO
1969年8月22日 ジョン・レノンの邸宅、ティッティンハースト・パークでのザ・ビートルズ最後のフォト・セッション
脱退を最初に口にしたのは、誰だったのか--。
レコーディング・スタジオにいつづけるヨーコ。
マネージャーの死を機に巨額の利権のみを求めて群がってきた人々の争い、
そこにポールの義理の父と兄が参戦したことにより生じた他の三人とポールの溝・・・・・・。
ビートルズの四人にできた亀裂は、いつしか修復不可能になる。
それでも解散後も一部のメンバーは共にレコーディングやセッションをし、
ジョンとポールのコラボレーションもありえるかに思えた。
それが遺えたのはなぜだったのか。そして、ポールがジョンに求めつづけたものは・・・・・・。
天文学的な数字が飛び交う訴訟につぐ訴訟、メンバーのふところ事情など
これまで書かれなかった金銭問題も含め、
解散の真実と、解散後の四人の活動と葛藤と交流を徹底的に描く!
Prologue 1980年12月8日 「信じがたい悲劇」
Chapter 1
ビートルズはとことん芸術家肌で、自分たちの芸術的な自我を貫くためなら、どんなことでも許されるというスタンスを取っていた。だからこそグループを維持できたんだよ。つまり、おたがいに厳しいことを言ったり、やったりしてもよかったからね。曲にどこか陳腐なところがあったら、それじゃ駄目だとはねつけて、最後には極上のかたちに仕上げていた。そうやっておたがいの弱点を補い、強味だけを表に出していたんだ。 --デレク・テイラー(アップルの広報担当)
1966年8月におこなわれた最後のライヴ公演につづく九か月の休止期間中に、ビートルズの人生は人知れず大きく様変わりしていた。
ビートルズが思い描いていたのは、破天荒なファンタジーだった--もしかすると四人のポップ・ミュージシャンに、資本主義体制を刷新する力があるのではないか。
1967年夏のビートルズは、ポップ・カルチャーの寵児だった。6月にリリースされた<<サージェント・ペパーズ>>は、あの時代をミニチュア化して提示した--けばけばしくて大げさで、退廃的だが遊び心にあふれ、ひとりよがりだが生き生きとした時代を。彼らの夢のテクニカラー的なページに陰影を与えていたのは、威嚇的なオーケストラのクレッシェンドがシュールなパラノイアの雰囲気を漂わせる、<A Day in the Life>の最後の一分間だけだった。
もはやコンサートのステージで観ることがかなわなくなったビートルズは今や、イメージの中だけに存在していた。たとえばシングルの
とのプロモーション・フィルム、<<サージェント・ペパー>>の極彩色のジャケット、の世界同時中継、そしてレコーディング・スタジオに到着する彼らの姿、ギリシャにジェット機で旅発つ彼らの姿、あるいはバンガーでマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーとともに啓示を求める彼らの姿をとらえたニュース映像・・・・・・。だが伝説的な四人組を生身で目にする機会は、少なくなるばかりだった。
マッカトニーのライフスタイルを真似てみたいと考えたレノンは、共通の友人だった画廊のオーナー、ロバート・フレイザーの手引きでロンドンのアヴァンギャルド・シーンを視察した。1966年11月7日、彼はインディカ・ギャラリーに案内された。そこでは実験的なアート集団、フルクサスの日本人メンバーが、『未完成の絵画とオブジェ』と題する自作展の準備をしていた。のちに神話的な様相を帯びることになるその出会いで、彼はくだんのアーティスト-33歳のヨーコ・オノと短い会話を交わし、それなりに意気投合した。
「ぼくらのアイドル」
この映画は自分たちのほんとうの気持ちを表現することができない、イメージと富の機械に囚われた人々の苦境を描いた作品だ。 --1967年の「ガーディアン」紙に掲載された『Magical Mystery Tour』のレヴュー
「彼のほうが年上だったし、すごくリーダーらしかった。いちばん機転が利いたし、いちばん頭が切れるのも彼だった。だからぼくらのうちのだれかを褒めてくれたとしたら、それはもう最高の称賛だったんだ。めったにそういうことはなかったから。ほんのおこぼれをもらえただけで、ありがたく思ってしまうというか」
マッカートニーのコメントは、創造力の極みにあってもなお、彼がレノンにやりこめられていた可能性を示唆するものだ。彼は一般大衆の認知を、年長のパートナー以上に必要としていたが、そうした報酬もレノンに認めてもらえない限り、空虚なものでしかなかった。彼をして「二番手でいることを、ぼくは大いに楽しんでいた・・・・・・だってそれはナンバー1と一緒だってことだし、そのナンバー1が、ぼくを仲間として必要としてるんだからね」と言わしめる人間は、レノン以外にいなかった。
それ以外の局面ではつねに、マッカートニーは一番手として認められることを求めた--恋人たちからも、雇人たちからも、そしてその存在抜きでは、みずからの人生が無意味なものと化してしまう聴衆からも。それでもレノンへの従属は、ほかからは得られない充足感を彼にもたらしたのである。
>>マッカートニーがレノンをナンバー1と見ていた複雑な思いを初めて知った
「スローセックス実践入門 真実の愛を育むために」(アダム徳永著、講談社)より
“Gスポット”の場所の探し方からお教えしましょう。
1 女性が仰向けになって、男性が手のひらを上に向けて人差し指と中指をまっすぐに揃え、膣にゆっくりと挿入する。
2 根本まで指を入れ、指の第二関節を曲げ、指腹を恥骨に押し当てる。
この時、指先が当たっている部分が、正しい“Gスポット”の位置です。恥骨方向に指を折り曲げなければGスポットには当たりません。
挿入して折り曲げた日本の指の第二関節を支点にして、三~四センチ幅で指先を前後に振動させるのです。指の動きは、指を折り曲げて伸ばす、折り曲げて伸ばすの繰り返しになります。このように、Gスポットを指先(第一関節)の指腹で圧してから離す、そしてまた圧して離すという「オンオフ運動」を小刻みにくり返すことで、恥骨にバイブレーションを発生させます。この振動がGスポットにはもっとも有効的なのです。
“Tスポット”は、私が発見した膣内の性感帯です。
さっそく、性感帯の場所と愛撫法をご指南しましょう。
位置は、子宮と恥骨の間にある“膣前壁”と呼ばれる部分です。具体的には、女性を横向きに寝かせた体勢で、左足を90度に折り曲げます。指を恥骨と平行に滑らせながら膣の奥に挿入させ、指先が当たる膣壁部分がTスポットです。
使用する指は人差し指と中指の二本。この二本を揃えてまっすぐに伸ばした形、いわゆるピストル型が、手の基本形となります。
愛撫の方法ですが、指を挿入したら、ピストル型の指、手の甲、前腕が一直線になっていることを確認して、指先をTスポットに押し当てたまま、膣壁を内側から外側(女性の腹部の方向)に向けて突くようなイメージで前後に動かして振動を発生させます。ピストン運動ではありません。スキンとスキンの摩擦ではなく、指先をTスポットに密着させたままで、指を超小刻みに動かして、振動を与えるのです。
私がアダムの頭文字をとって、“Aスポット”と命名した性感帯です。場所は、ペニスを挿入したとき、亀頭の戦端に当たる部分です。
では、愛撫法を説明しましょう。
ペニスを根本まで深々と挿入すれば、ペニスの先端は自動的にAスポットにあたります。そのままの体勢で、つまり女性と男性の下腹部を密着させたまま、ペニスでAスポットに圧迫を加えます。そして、可能な限り腰を小刻みに動かし、振動をペニスの先端からAスポットに与えるのです。注意すべきは、抜き差しによるピストン(摩擦)ではなくバイブレーションということだけです。Aスポットは、“快感の震源地”とでも呼ぶ好感度はツボで、的確な振動によって爆発的なインパクトが期待できます。
>>知らないことが多すぎることを反省する
「スローセックス実践入門 真実の愛を育むために」(アダム徳永著、講談社)より
基本的な愛撫法は四つに大別できます。順に示します。
1 手先でのバイブレーション
手の平を水平にし、中指と薬指を折り曲げ、垂直に立てます。そして、指先を部位に当てて、リズミカルに振動させます。ポイントは表面に振動をかけるのではなく、手の重みを利用して指先を表皮から一センチ程度押し込むようにして、カラダの中心に振動を与えるようなイメージで行うこと。乳房、下腹部、臀部、会陰など、比較的柔らかい部分を刺激するのに適しています。
特に、乳房に対しては有効です。一般的にあまり知られてはいませんが、乳首と脇を結ぶ直線上の左右五センチ幅のゾーンにある胸筋は、「隠れた名店」的な優れた性感帯です。トントントンとリズミカルに愛撫していきます。“揉む”という愛撫法ではリアクションの薄かった乳房も、この愛撫法によってA級性感帯に生まれ変わります。
2 手のひらでのバイブレーション
手のひらの手根の肉厚部分を部位に圧し当て、小さなバイバイをするように指先を左右に振って振動を与えます。恥骨や尾骶骨など、マスオーガズム帯全域に適しています。
3 指腹でのバイブレーション
人差し指と中指の日本の指の第一関節の腹で、膣内の性感帯を小刻みに振動させます。これは、後述するGスポットに効果的な愛撫法です。くれぐれも、指で膣内のスキンを前後に掻くのではなく、ポイントに指腹を当てがい振動させるということに留意して行ってください。
4 ペニスでのバイブレーション
ペニスを挿入してピストンするのではなく、膣に深く挿入して、膣口と男性の下腹部が密着した状態をキープしながら、亀頭を膣壁に当てて圧迫し、腰を前後させて膣に振動を与えます。ピストン運動とはまったく違った深い官能に導くことができます。後述するAスポット愛撫に最適なテクニックです。
振動が大切であるという本当の意味は、摩擦と振動を複合させることで、快感のレベルが、1+1=2ではなく、3にも4にも強化されることにあるのです。
>>真実の愛を育むためには、努力が必要なようだ
「妻を愛する技術 スローセックスから日常の会話まで」(アダム徳永著、講談社)より
何のために夫婦でいるのか
大前提となる当たり前の話をします。それが、
“人間は幸せになるために生きている”
ということです。
幸福とは何でしょう。それは欲望の実現です。では欲望とは何でしょうか。金銭欲、出世欲、名誉欲・・・・・・、性欲も欲望の一つですし、個人によって欲望はさまざまあるでしょう。けれども、あなたも含めてほとんどの日本人は、どんなにお金持ちになってもお金だけでは幸せになれないことを、どんなに立派な社会的地位を手に入れてもそれだけでは幸せになれないことを、なんとなくではあっても感じ取っています。それは、すべての人間に共通する幸福の本質は、たった一つしかないことを潜在意識レベルではちゃんと知っているからです。
幸福の本質とは何でしょうか。それは、
“愛し愛されること”
です。心から愛する人がいて、自分を心から愛してくれる人がいる。人生の中でこの本質が欠けていたら、それ以外の欲望のすべてが叶ったとしても、その人の心は決して幸せで満たされることはありません。
夫がとるべきリーダーシップとは
幸せな夫婦になるために、夫がとるべきリーダーシップとは、妻に対して自分が考える幸せのビジョンを提示することです。それは完全なものでなくてもかまいません。完成形でなくてもいいから、持てる知恵を絞って、愛する妻と家族のために、全力で、幸せについて考えることが何より重要です。それを基に、夫婦で一緒に考えて、幸せのビジョンを構築していけばいいのです。もちろん、途中の軌道修正があってもいいでしょう。ある程度でも夫婦にとっての幸せの未来予想図が見えていれば、思わぬ苦に遭遇した時も、そこを目指していけます。羅針盤のようなものだと考えてください。
>>自分が考える幸せのビジョンを提示することには様々なハードルがありそうだ
「赤塚不二夫のおコトバ」(マンガ人生50周年記念出版、二見書房)より
悪友とは自分の秩序ある日常生活を
ぶちこわりにやってくる友のことだ。
『赤塚不二夫の天才バカ本』(昭和52年/徳間書店)
「Aクラスの男」の条件とはね・・・・・・。
一、男に好かれる
一、巾の広い視野、すなわち教養
一、下品じゃない
一、女にも好かれる
一、偉ぶらない
一、教養をひけらかさない
一、バカなふりもしない
一、わきまえている
一、調子に乗らない
赤塚眞知子(妻)--赤塚家にて/平成7年頃
赤塚が「いい男ってね」と前置きして、指を折りながらこの九つの条件をあげて、「新宿でいろんな人と飲むようになっ
て、40歳過ぎからだんだん解るようになってきたよ」と付け足した。
最後に辻褄があってりゃ、
何やってもいいんだよ。
赤塚りえ子(娘・アーティスト)--赤塚家の居間にて/平成12年頃
酔っぱらいの戯言のように、何かひとりでブツブツ言っていた。たまたま隣に座っていたわたしが「何?」と聞きただすと、うなずいてこう言った。けっこう哲学的なことをいったので、ビックリした。
自分がいつも一番下だと思っていればいいの。
そうすれば、人の言うことが
よく頭に入ってくるの。
杉田淳子(編集者)--赤塚家の居間にて/平成12年頃
お酒をいただきながら、リラックスして先生の経歴を伺っていたときのこと。「漫画を描くには、さまざまな知識が必要ですよね?」と尋ねると、自分は学校に行けなかったので、人より知らないことが多い。だから漫画家になってからも、ものすごく勉強したんだよ。とおっしゃって、続けてこのおコトバを。
大ヒットを飛ばしても、なお謙虚にされている姿勢に驚きました。そしてこの言葉は、NHK「美と出会う」でもおっしゃって、視聴者から大きな反響があったそうです。
人生は、なるようにしかならない。
『ギャグよりステキな商売はない』(昭和52年/廣済堂出版刊)
人間はね、メシ食って、酒飲んで、
暮らしていけるだけの金があればいいいんだよ。
残したって仕方がないんだよ。
高平哲郎(放送作家)--新宿のスナック「竹馬」にて/昭和48年9月
雑誌『宝島』のインタビューで、飲みながら赤塚先生はしみじみとこう言った。
人に自分が何をやっているか
言う必要はないの。
ただ、やればいいんだよ。
赤塚りえ子(娘・アーティスト)--順天堂医院のICUにて/平成11年
食道ガンの手術からやっと一ヶ月が経過し、まだ声もろくに出ない頃、見舞いに行って近況報告をしていた。そのときに、出ない声をふりしぼって父はこう言った。黙って面白いもの、良いものを作ってれば、なにも宣伝しなくなって分かってもらえるよ、と。
日の当たった人は、まだ日の当たらぬ人を住まわせ、食べさせる。居候は勉強し、自身を鍛え、世に出ることで恩返しをする。その文化を大事にしたい。
竹内政明(読売新聞 論説委員)
この赤塚さんの言葉を「編集手帳」(05年6月8日)に書いた。私は御本人には一度もお目にかかったことがないが、書かれたエッセイで読んだこの言葉は忘れられない。
かつて日本には「書生」というものがあった。志をもつ青年を自宅に置いて面倒をみるという、いわば年上のものが年下に施すボランティアとでもいおうか、無償の行為である。「居候文化」、滅びつつあるこの美しい日本の文化を、赤塚さんはしかと継承されている。それは、本書を見れば明らかである。
もっと、真面目にふざけなさいよ。
多くの人の証言
ギャグやふざけたことこそ、大真面目にやらないと面白くない、という赤塚ギャグの神髄。「バカを真面目にやれ」、「冗談は本気でやらなきゃダメ」などもある。
理屈っぽい人に頭のいい奴はめったにいない。自分のことを何か言いたいヤツがいる。そういう奴が理屈を言う。理屈を言うヤツは自分が頭がいいと思ってる。変な自信を持っている。そういうのって、いっちゃ悪いけどろくでもない、自分は頭がいいと思ってるけど、世間からみたら頭が悪い。バカほど理屈を言う、それが自分が利口と思える手段らしい。
「理由がなくて、面白いこと」を探求していた赤塚らしい痛烈な理屈論
・・・・・・・・・・・・。
赤塚りえ子(娘・アーティスト)--父が運転する車の中で/昭和45年頃
わたしがまだ五歳の頃、父は仕事も遊びも絶好調で、家に帰らないこともしばしばだった。その日、たまたま家にいた父が、わたしを車で幼稚園まで送ってくれることになった。その途中、「パパ、新宿の女、好きでしょ?」ときくと、ショックのあまり声も出なかったことを、今もよく覚えている。
>>理屈を言わない、いい男になりたいものだ
「政府は必ず嘘をつく」(堤未果著、角川マガジンズ)より
第3章 真実の情報にたどりつく方法
「資本主義が犯した最大の罪は、人間性を破壊したことです」--アルバート・アインシュタイン
顔のない消費者ではなく、人間らしく生きる
元外務省の孫崎享氏は、点のニュースに騙されないために最も大事なことは、歴史をしっかりと見ることだと言う。
「人間がやることには、それほどバリエーションはありません。過去に目を向け、それまでの経緯を時系列で理解すれば、原因と結果が見えてくる。そして、世界を広い範囲でとらえることも大切です。日米関係だけではく、アジアや中東、アフリカや南米といった複数の関係性をつなげてゆく。特に外交に関しては、決まったいくつかのパターンがあるものですから」
「ひとつ望むとすれば、GDP信仰からの自由です。私たちはモノじゃない、人間らしく生きたいのです」
<アメリカ型独裁資本主義>の最大の功罪は、国民を市民ではなく消費者にしてしまったことだろう。顔があり名前があり、生きる選択肢を持つことを根底に置いた市民と、単に生涯を支える数として位置づけられることは、天地ほどに違う。今、世界中で起きている社会現象は、全てこれに対するアンチテーゼなのだ。
<TPP>にFTA、格差と貧困の拡大に、商品化した医療と教育。情報の統制に<原子力村>、切り捨てられる被災地。未来に希望が持てない若者と高齢者、そして<革命>という言葉の裏に別な力が見え隠れする<アラブの春>。それらの点と点をつなぎ、一本の線を描いた時、浮かんでくるのはズコッティ公園の入り口に座りこんだ一人の男子学生だ。彼が掲げていた1枚のバナーには、国境を超えて世界を飲み込むこのシステムに対する99%側の問いかけが記されている。
「Who makes Democracy?(誰が民主主義を作るのか?)」
それは市場の見えざる手ではなく、私たちのようなごく普通の人々の手によって作られるべきだろう。単なる計算方式だったはずなのに、いつの間にか幸福を測るものさしにすり替わったGDP信仰を手放し、幸福とは何か、子供たちに手渡したいのはどんな社会だろうかと、ひとりひとりが本気で考えることで。
顔のない消費者から、名前や生きてきた歴史、将来の夢や健やかな暮らしを手にする権利を持つ「市民」になると決めること。失望した政治を見捨てる代わりに、誰もが人間として尊厳を持って生きられる参加型民主主義の枠組みを作るために自分の行動に責任を持つこと。
人間が太古からの歴史の中で繰り返し生み出してきた、数字で測れない価値を持つ数々の宝を守ることは、私たちがより人間らしく生きられる社会を作ることと同義だ。
もうひとつのグローバリゼーションは国境を超え、このシステムの中、さまざまな形でバラバラにされた私たちを、再びつなげる力になるだろう。
エピローグ 「3・11から未来へ」
原発も放射能汚染も、<TPP>も金融危機も、医療も教育も第一次産業も、さまざまな立場からの声が上がるだろう。大切なのはひとつの情報を鵜呑みにせず、多角的に集めて比較し、過去を紐解き、自分自身で結論を出すことだ。
震災をきっかけに多くの人にもたらされた、大切なものの優先順位や<自分にとって本当の幸せとは何か>という問いの答えが、生き延びるための情報を選り分ける、自分だけのものさしになるだろう。溢れかえる情報の中から、そうやって見つけ出した<真実>を手にした時、私たちはモノではなく人間になる。
おわりに
東日本大震災と福島第一原発事故が起きた日の夜、海外に住む友人たちから次々に連絡がきた時のことを。
サンフランシスコに住む友人の一人は、私に警告した。
「気をつけて。これから日本で、大規模な情報の隠ぺい、操作、統制が起こるよ。旧ソ連やアメリカでそうだったように」
震災から10か月の間に出会った、真実を伝えようとする多くの人々。原発と放射能が一向に安定しない一方でますます情報統制を強めてくるこの国の政府。
それでも、人間を壊すこの価値観に飲み込まれそうな世界の中で、未来をあきらめない大人なちの存在が、子供たちの勇気になると信じたい。
世界が変わるのを待っていないで、それを見る私たち自身の目を変えるのだ。
2012年1月26日 堤未果
>>情報を多角的に集めて比較し、<自分にとって本当の幸せとは何か>を見つけ出したい
「政府は必ず嘘をつく」(堤未果著、角川マガジンズ)より
第2章 「違和感」という直感を見逃すな
「私の国であれだけ政府に都合がいい報道をさせようとしたら、ジャーナリストを拷問することになるでしょう。いったい日本政府は、どんは方法を使っているのですか?」 --ジプロー・トーブ(ロシア人ジャーナリスト)
従順な人間を作る教育ファシズム
「アメリカの<失われた10年>で元も打撃を受けたのは、何と言っても<公教育>です」
「9・11以降、政府がすすめてきた教育改革は、強力に規格化された点数至上主義と厳罰化による教育現場の締め付けでした。<恐怖>は国民を萎縮させ、統制するのに有効なツールです。テストでいい点数を取れなければ、生徒は学校から切り捨てられ、教師は無能だとして処罰される。効果はあったようです。その結果、皆が怖がってモノを言わなくなってきましたから」
「現場をまるで理解していない政府は、<国際的に通用する人材>と<落ちこぼれ>の二極化が、インセンティブを生むという。ですが、学力を全て数値化する点数至上主義は、教育から多様性を奪うのです。生徒の好奇心や批判的思考、物事の根拠を追求する姿勢や正当性のない権威に抗議するような姿勢を圧殺することにつながる」
「子供たちは自分の頭でものを考えなくなる。<改革>というと何か希望をもたらす印象を受けますが、実態は新しいタイプのファシズムです。これは生徒だけではなく教員も同じです。私たちは地域の人々や親たちではなく、政府が管理する共通テストだけで評価されるようになった。点数を上げるノウハウを除いて、教師にとって授業内容を深める工夫をしたり、学校の教育方針に意見を言ったりする自由はなくなりました。私が高校生だった頃のように、もっと本を読むように勧めてくれる教師は激減してしまったのです」
「サッチャー首相が、やはり市場原理ベースの教育改革をやって失敗しています。イギリスの教育現場は荒廃し、学力は伸びなかった。<落ちこぼれゼロ法>はサッチャー改革の失敗から学ぶどころか、むしろさらに内容を過激にしたのです」
大阪府の<教育基本条例>の内容を伝えると、ポールは驚いたように言った。
「教育を“商品”に、子供たちや保護者を“消費者”にし、テストの点数というサービスを提供できない教師は処分され、結果が出せない学校は売り上げの悪い店舗のようにつぶされてゆく。これは今まさに、アメリカのあらゆる分野で行われていることと同じです」
大阪の橋下視聴を「ファシストだ」と批判する声も少なくない。だが、本当にそうだろうか。人間の歴史を振り返れば、ファシズムを産み育てるのはいつだって大衆の無知と無関心だ。
日本でも2010年の尖閣諸島問題をきっかけに、外交、防衛、治安の幅広い分野で、安全保障に関わる情報を「特別秘密」とし、公務員等による漏えいに厳罰を科す「秘密保全法案」が持ち上がっている。民主党政府が2012年の通常国会に提出する予定の同法案が通過すれば、国民の知る権利や取材の自由は大きく規制されることになる。
「言論の自由の統制は、もはや全体国家だけで起こるものではありません。グローバル経済が拡大するほどに、効率化を阻む多様性を抑圧する動きは、ますます世界で同時進行してゆくでしょう。それを理解するために、海の向うで起きている点と点をつなぐのです。政府は言論と表現の自由の最後の砦であるインターネットを検閲できるように、管理下に置こうとしている。そしてその背後には、99%である私たちと逆側の人々がいます」
アメリカの<愛国者法>は他人事ではないのだ。この10年でアメリカ国内に起きたことの数々は、違和感という直感を見逃し続けたことの積み重ねだった。それらの例は、政府によってこっそりおかしな監視法案が通されないよう、決して政治から目を離さないことの大切さを私たちに警告していくれている。
>>無知と無関心に陥ることなく、また違和感という直感を見逃さないようにしたい
「政府は必ず嘘をつく」(堤未果著、角川マガジンズ)より
マックスは、すました笑みを浮かべながら言う。
「政府が嘘をついたり、マスコミが偏向報道をするのは今に始まったことではありません。グローバル企業が巨大規模になるほどに、本当に必要な情報は国民から隠されてゆく。当然、そのほうが効率がいいからです。
9・11以降のアメリカの10年を見れば、大衆がいかにたやすくコントロールされるものかが、よくわかります。国民がテロへの恐怖で思考停止している間に戦争は拡大し、自由の国は“警察国家”になってしまった。そこで気づけばよかったのに、今度は『チェンジ』というスローガンに酔って、再び政治から目を離したのです。その結果、貧困率は過去最大になり、1%が支配する社会が完成した。ウォール街デモをしている連中は政府や富裕層を責めますが、繰り返される嘘や捻じ曲げられた報道を鵜呑みにしたのは、彼ら自身なのです」
「この10年、それが顕著だったと?」
「そうです。米国民はこの10年、巨大権力による理不尽な暴力や腐敗、嘘や強欲、無責任といったものを嫌というほど見てきたはずだ。でも、高速で流れてくる大量の情報や皮膚感覚的なニュースの中で、だんだん物事を深く追求するのをやめてしまったのです。
たった10年の間に起きたたくさんのことの責任が、いったい誰にあるのか。どの法律を通過させてはいけなかったのか。知らされなかった本当の重要情報は何だったのか。大半の国民は企業でいうマーケティング戦略に、いともたやすく引っかかり、もう自分の頭で考えられなくなっているのです」
マックスの指摘は、私たちの国にもそのまま当てはまる。
問題の本質は、TPP参加の是非だけだろうか。アメリカ政府はすでに長い間、日本に対して数々の規制緩和やその他、いろいろな要求をし続けてきた。グローバル経済が国境を消してゆく中、世界市場を拡大しようとする業界の思惑は当然、予測できる流れだろう。
1%が力を持つ世界で、彼らの息のかかった政府やマスコミの動きを想定し、自らの頭と体で集めた情報を検証してゆく。政府は憲法に沿った私たちの権利や暮らし、コミュニティを全力で守ろうとしているか。検証に値する情報が政府から出され、選択肢を提供すべきマスコミによって、ちゃんと国のすみずみにまで届けられているか。そうしたことを機能させなければ、<TPP>に参加しようがしまいが、寄せては返す波のようにやってくる外圧から国民を守ることは難しい。
歴史学者のハワード・ジンがイラク戦争真っ只中の学生たちに繰り返し伝えた「政府や権力者は嘘をつくものです」という言葉。それは単なる政府批判ではなく、未来を創る際の選択肢を他人任せにするなという、力強いメッセージだ。
<原子力村>を肥大化させ、無責任な政府や選択肢を提供しないマスコミを野放しにしてきたものの存在が、アメリカの<失われた10年>を通して私たちを揺さぶってくる。
問われているのは、私たち自身なのだと。
>>政府やマスコミの動きを想定して、自分の頭で検証して行きたい
「政府は必ず嘘をつく」(堤未果著、角川マガジンズ)より
第1章 「政府や権力は嘘をつくものです」
「政府は嘘をつくものです。ですから歴史は、偽りを理解し、政府が言うことを鵜呑みにせず判断するためにあるのです」 --ハワード・シン(歴史学者)
「復興特区」の名の下に市場化されつくしたニューオーリーンズ
かつて、“新自由主義の父”である経済学者のミルトン・フリードマンはこう言った。
「真の改革は、危機的状況下でのみ実施される」
「教育改革とはつまり、ブッシュ政権が勧めていた新自由主義ベースのものですか?」
「その通りだ。アメリカは9・11直後から急激に市場原理主義をベースにした教育改革を勧めているが、州や地域によっては教職員組合などの反対でなかなか進まない。そこで政府は、まず権力を1か所に集中させた。地元の教師や親たちの抵抗を抑え込んで、効率よく進めるためにね。そして、ルイジアナ州が全米で4番目に貧しく全校学力テストの成績も下位だったことを理由に、いきなりしないの学校の9割を“成績不振校”として教育委員会の管理下においたんだ」
2002年にブッシュ政権が導入した<落ちこぼれゼロ法>では、学力テストの点数が低いのは教師の能力が低いからだと見なされる。ハワードを含めて7000人いた教員は解雇され、組合は解体された。
融資元を大手金融機関やマイクロソフトなどのグローバル企業が占める営利学校は、市場原理ベースで運営されるため、テストの点数が低い子供たちは切り捨てられてします。
「ショック・ドクトリンの実施には、マスコミの関与が大きいのですね」
「まさにそうだ。だから、東北のことが他人事に思えない。被災地復興で一番優先されるべきは、大資本に市場を提供することじゃない。そこに住む人間の暮らしと、地域産業の再生なんだ。<被災地を応援する>という美しい言葉を、情緒的なスローガンで終わらせないでほしい。そして、被災地に同情する人々にはぜひ知ってもらいたい。可哀相だと言うだけではダメだってこと、政治の動きをしっかりチェックすることこそが、本当に被災地を救うカギになるってことを」
ハワードの懸念は、現実になった。
2011年10月28日。日本政府は東日本大震災の被災地を「復興特区」に認定、被災地の農地や漁業権、住宅などを、外資を含む大資本に開放し、金融、財政、税制など全分野にわたる規制緩和の特別措置を入れた法案を閣議決定した。15項目にわたる規制緩和の内容には、漁業権を漁協だけでなく、地元漁民を7割または7人以上含む民間企業にも与える許可や、国の認可を取った被災市町村の「復興推進計画」に建築禁止の建築物でも建てられること、条例によって法律を自由に変えられる被災自治体の裁量権などが盛り込まれている。
「マスコミも政府側についていた」というハワード。
被災地の復興特区構想についてマスコミの見出しは、「従来の規制や制度にとらわれていては復旧も復興も進まない」「オールクリアで復興を」「現在の漁業法を見直さない限り、民間資金を集めることもできない」など、煽り文句のオンパレードだった。
TPPでも政府は嘘をつく
日本の新聞業界は、独占禁止法の特殊指定によって、価格競争や新規参入といった自由競争から手厚く守られてきた。TPP施工後にもしグローバル企業が、こうした保護が自分たちの利益拡大の障害になると見なされれば、彼らはいつでも日本政府を訴えられる。裁判は米国の支配力が最も強い、世界銀行傘下の国際投資紛争解決センターで行われ、採血の基準は「国民の知る権利」や「新聞社によっての利益」ではなく、「投資家にとって実害があるかどうか」だ。
韓国では学者をはじめ多くの知識人が、韓米FTAを推進してきました。彼らの言い分はこうです。
「<韓米FTAで、途方もない量の雇用が創出される><国際社会に乗り遅れるな><韓国がFTAで巨大な米国市場に接近するチャンスを逃せば、ライバルの日本を安堵させる><韓米FTA反対者は親日だ>」
「韓国社会は二極化が加速していますね」
「IMF管理下に入ってから急速に新自由主義政策に舵を切り始めたのが原因です。韓米FTAもその流れです」
「アメリカにとって最大の輸出品はモノではなく<著作権>です。今後、韓国では米国企業による著作権の民事訴訟が急増するでしょう。私たちのような弁護士には、嬉しい悲鳴が止まらないといったところですが」
>>政府やマスコミが言うことを鵜呑みにせず、自分で判断できる人間でいたい
「赤塚不二夫120%」(赤塚不二夫、小学館文庫)より
第6章 死んでる場合じゃないのだ!
現代は殺伐としてる。人間関係、乾いてきてるんだね。だから、しっとりしたものがない。それが現実なんだから。現実は現実として、しかたがないけどさ。
しかしやっぱり僕は、そういう世の中はあまり好きではないのだ。『もーれつア太郎』を描いた理由の、ひとつにはそれがある。
この作品で僕はワザと、恵まれない孤児の少年を主人公にした。親に死なれたア太郎が家業の八百屋を継いで、友達のデコッ八がそれを手伝うという、いわば浪花節の世界だ。もちろん僕のことだから、お涙頂戴のマンガにはしない。ブタ松親分だのココロのボスだのニャロメだの、ヘンテコなヤツらが登場して、ドタバタ喜劇が繰り広げられる。
作品中一貫として流れているのは、ア太郎のケナゲな生き方と、デコッ八の友情。このマンガを描き始めたのは昭和42年だけど、あまりにも現代っ子化した子供たちにある種の反発を感じていたから、こういう設定を考えたんですね。なーんてことを書くと、なんか正義ぶってるみたいで、ちょっと恥ずかしいのだ。
僕は、この世の中に「いい人」だけの人なんて、いないと思っている。同じように、「悪い人」だけの人もいない。世の中って、正しいことも悪いことも、美しいことも汚いことも、恵まれている人もハンディを背負ってる人も、金持ちも貧乏人も、おバカも利口も、賛成も反対も、糞も味噌も、ぜーんぶごちゃ混ぜになってるのだ。それが世の中ってぇものだからね。それでいいのだ!!
昨今の親はみんな自分の子供に「いい子」を強要するし、「利口」にしようとする。小さい頃から鋳型にはめて、気をつけて危ない目に遭わせないようにして、結局、精神がひ弱で脆い子供にしてしまう。それから世の中全体で、負のものには蓋をしようとする。蓋をしたって負のものはあるのに、無理やり封印するから、よけいおかしなことになってしまうのだ。
わたくし赤塚不二夫。死ぬ瞬間まで、人を笑わせていたのだ!!
どういう訳か紫綬褒章なんていう勲章をもらうことになった。この原稿を書き終えたのが98年11月1日。文化庁の、多分、僕のファンだと思う担当者に、「どうしてか?」って聞いたら「当然ですよ」と笑うだけで多くは語らなかった。そこで僕は皇居に行く11月12日に、天皇陛下にお聞きしてみようかと考えている。
「陛下、私めに勲章など、なぜですか?」
と、陛下は、
「これでいいのだ・・・・・・」とおっしゃたりして・・・・・・。 <本文構成・篠藤ゆり>
>>もし将来自分に子供が出来たとしたら、「いい子」を強要したり、「利口」にしようとは決してしないようにしたい
「赤塚不二夫120%」(赤塚不二夫、小学館文庫)より
アカツカフジオ離婚す
仕事のことしか考えていなかった。自分勝手と言えば、これほど自分勝手なことはない。編集者を大事にする100分の1でも、女房を大事にしろって。そう言われても、しかたがない。
そしたらついに女房が怒っちゃった。「私だって生身の人間よ」って。
「私と仕事とどっちが大事?」
「ちょっとそれは、次元が違うんじゃないかぁ」
そう言ったよ。だって、違うんだもの。普通の人は、おまえのほうが大事と言うのかもしれないけど、どうしても言えなかった。
あの大きな家で、女房は毎日、たった一人でいたんだ。2階に広い仕事部屋があって、1階にも広い部屋があって、そんなところで一人でポツンといてごらん? そりゃあ、寂しいよ。たまらないよ。娘がいるけど、あの時はまだ3歳くらいだったから、あんまり相手にもならないわけだし。やっぱり好き合って一緒になったんだから。寂しいのは当たり前なのだ。
ある日、弁護士が二人やって来た。
「奥さんが、そろそろ別れたほうがいいと言ってますよ」
「ああ、そうですか。わかりました」
その時は仕事に夢中だったし、女房が弁護士を寄こして来たんだから、しかたないなって思ったんだ。34~35歳の頃。一番仕事がノッてる時だもの。『おそ松くん』がヒットして、『ひみつのアッコちゃん』が同時進行で、どちらもうまくいって、次に『天才バカボン』が始まって、並行して『もーれつア太郎』が始まった。昭和47年には文春のマンガ賞をもらって、翌年からは週刊文春の『ギャグゲリラ』の連載も始まった。これも当たったんだ。もうそこまで来ると止まらない。仕事が面白いから編集者とのつきあいもどんどこ増えるし、新宿で面白い連中には出会うし、うちなんかに帰ってる暇はなかったよ。
「別れてくれ」と言われた時、僕は仕事のほうを選んだのだ。
僕は、弁護士さんにこう言った。毎月生活費として、40万円支払います。それと当時自宅にベンツがあったんだけど、それを新車に買い替えてください。テレビもいちばーん大きいのに取り替えて、家のなかのものをぜーんぶ新しいものに取り替えてくださいって。だって喧嘩別れしたわけじゃないもの。僕は彼女のこと、嫌いになったわけじゃないし、たぶん彼女だって、僕のこと嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、もう僕とは一緒にやっていけないってこと。だからできるだけのこと、したいじゃない。
これがおかしいんだけど、弁護士さんが帰る時、「これにサインしてください」って色紙を出すの。普通は話しているうちに、喧嘩腰になるわけだよ。でも、まったくそういう感じにならなかった。それでサインしてくれって。ホント、笑っちゃうよ。
>>実際は、奥さんのほうから「別れてくれ」と言ったのではないらしい
「赤塚不二夫120%」(赤塚不二夫、小学館文庫)より
口上
僕は、面白いことを描けば誰かが喜んでくれると思って、
ずーと描いてきたわけだ。
いろいろなマンガを描いたよ。
気がついたら、おまえ、有名だゾって。
エッ!?ほんとかよって。だって、面白いものを描けばいい。
喜んでもらえばいいって、ただそれだけを考えていたんだから。
いまだって、自分が有名だなんて思わないよ。
そう言われてるけど、自分が有名だなんて思わないよ。
だって、面白いものを一生懸命やってきましたって、それだけだもの。
ただのアホ。バカ。
でもまだまだ、
もっと別の面白いものがあるんじゃないかと思っている。
もっと新しい面白さが、どこかにあるんじゃないかって。
それを見つけたいし、創りたいし、描きたいのだ。
第5章 おんな流転記 これでいいいのだ!!
アカツカフジオ結婚す
『おそ松くん』が始まるちょっと前頃で、月刊誌を8本くらいやっていたんだけど、いくら月刊誌とはいえ、一人ではこなせない。そこで「りぼん」の編集者に「誰かアシスタントはいないかね」って頼むことにした。
やって来たのは、20歳の女性だった。編集者の話だとどこかの社長令嬢だと言う。大変だ! これは丁寧に扱わなくては。僕は緊張したのだった。後から聞いたら、ペンキ屋さんの娘かなんかだけどね。
このお嬢さん、うちに来る時にケーキなんか買ってくるのだ。僕たち、そんのもの食べたことないもの。それで3時になると、紅茶をいれるんだ。「お茶の時間にしましょう」って。おぉ、やっぱり社長の娘は違うなと思ったよ。だって、そんな習慣ないんだもの。
どんどん忙しくなって、ある日、これは徹夜しかないっていう時、彼女はこう言った。
「私、泊まっていってもいいです」
というわけで、お嬢さんと僕とは、男女の関係になったのだった。
それからつきあいが始まって、僕が26歳の時だったかな。まだ『おそ松くん』が始まってない頃のことだ。彼女が「結婚しましょう」と言った。
僕はまだ、本当にマンガ家になれるのかどうか、自分でまだ不安だった。仕事は確かにきているけど、いつダメになるかわからないから。やっぱり大ヒットを飛ばさないと、自信がつかない。
「ちょっとまだ自分の作品ができていないし、まだ結婚できないよ」
「大丈夫よ」
「大丈夫って・・・・・・」
「一人では食べられなくても、二人なら食べられるって、昔から言うじゃない。私がちゃんとするから大丈夫」
ある時、「家へ来てください」って言うから彼女の家を訪ねると、お母さんがこう言った。
「10月24日が、お日柄がよろしいようで」
結局、10月24日に、東京大飯店で結婚の儀をとり行うことになった。新郎26歳、新譜登茂子21歳。出席者は僕ら二人と向こうのご両親、僕のカアチャンの5人。会食して1枚写真を撮っただけのシンプルな結婚式だった。
>>どこかにある、もっと新しい面白さを見つけ続けて行きたい