「昭和史の真相200」
「昭和史の真相200」(保阪正康著、日文新書)より
松平容保の心境はいかに?会津出身の秩父宮妃 昭和3年11月8日
「陛下のお直々の皇弟として補佐の大任に当たらせららる闊達賢明の秩父宮殿下、スポーツの宮として国民の敬虔の的となっている殿下の御配偶として、節子嬢は、まことにふさわしい御方である」。
昭和3年1月18日号の『アサヒグラフ』は、秩父宮妃に松平節子嬢が決まったことを紹介している。このとき秩父宮は23歳である。松平節子嬢は、駐米大使松平恒雄の長女。恒雄が外務省二等書記官としてロンドンに滞在中、テームズ河畔のウォルトンで生まれた(明治42年)。その後、北京の幼稚園、天津の小学校、ワシントンのフレンドスクールで学んだという国際人。当時の新聞には、このような国際人でありながら、長唄、三味線などにも秀でたところがあるとまったく新しいタイプの女性が皇室に入ることに関心を寄せている。
秩父宮のこの結婚で、世間が注目したことがもうひとつある。松平恒雄が一平民であるといっても、松平恒雄は旧会津藩主松平容保の四男で、分家して平民になったのだから、厳密には相当格式のある家でもあった。また、維新の際に会津藩の置かれた状況を考えて、この結婚にある種の感慨をもつ者も多かった。松平節子嬢は、大正天皇妃の貞明皇后が節子という名前であったために、結婚の際には、勢津子と改め、平民出身の経歴をカバーすると称して、ある皇族の家に養女として入り、そこから嫁ぐことになった。昭和天皇の兄弟のなかでも、昭和維新運動に好意的であったという秩父宮には、あらゆる点でユニークなところが多かったのである。
>>会津の方にとっては大変喜ばしいことだったに違いない