「美しい国へ」②
「美しい国へ」(安倍晋三著、文春新書)より
“行使できない権利”集団的自衛権
日米同盟の軍事同盟としての意味についてだが、安保条約の第五条にはこうある。
「各締結国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであるあることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」
しかしわが国の自衛隊は、専守防衛を基本にしている。したがって、たとえば他国から日本に対してミサイルが一発打ち込まれたとき、二発目の飛来を避ける、あるいは阻止するためには、日本ではなく、米軍の戦闘機がそのミサイル基地を攻撃することになる。いいかえればそれは、米国の若者が、日本を守るために命をかけるということなのである。
だが、条約にそう規定されているからといって、わたしたちは、自動的に、そうするものだ、そうなるのだ、と構えてはならない。なぜなら命をかける兵士、兵士の家族、兵士を送り出すアメリカ国民が、なによりそのことに納得していなければならないからだ。そのためには、両国間に信頼関係が構築されていなければならない。
キッシンジャー元国務長官は、「同盟は『紙』ではなく『連帯感』である」といった。信頼に裏打ちされた連帯感。それがない条約は、ただの紙切れにすぎないという意味である。
現在の政府の憲法解釈では、米軍は集団的自衛権を行使して日本を防衛するが、日本は集団的自衛権を行使することはできない。
このことが何を意味するかというと、たとえば、日本の周辺国有事のさいに出動した米軍の兵士が、公海上で遭難し、自衛隊がかれらの救助にあたっているとき、敵から攻撃を受けたら、自衛隊はその場から立ち去らなければならないのである。たとえその米兵が邦人救助の任務にあたっていたとしても、である。
双務性を高めることは、信頼の絆を強め、より対等な関係をつくりあげることにつながる。そしてそれは、日本をより安全にし、結果として、自衛力も、また集団的自衛権も行使しなくてすむことにつながるのではないだろうか。
権利があっても行使できない--それは、財産に権利はあるが、自分の自由にはならない、というかつての“禁治産者”の規定に似ている。
日本は1956年に国連に加盟したが、その国連憲章51条には、「国連加盟国には個別的かつ集団的自衛権がある」ことが明記されている。集団的自衛権は、個別的自衛権と同じく、世界では国家がもつ自然の権利だと理解されているからだ。
いまの日本国憲法は、この国連憲章ができたあとにつくられた。日本も自然権としての集団的自衛権を有していると考えるのは当然であろう。権利を有していれば行使できると考える国際社会の通念のなかで、権利はあるが行使できない、とする論理が、はたしていつまで通用するのだろうか。
行使できるということは、行使しなければならないということではない。それはひとえに政策判断であり、めったに行使されるものではない。ちなみに1949年、国連憲章にもとづいて発足したアメリカとヨーロッパ諸国による北大西洋条約機構では、集団防衛機構であるにもかかわらず、集団的自衛権は50年間一度も行使されたことがなかった。行使されたのは、9・11米国同時多発テロのあとのアフガン攻撃がはじめてである。
>>「集団的自衛権」を行使するかどうか政策判断によって選択できる枠組みを構築しておくことが大切だ