何日かで1知識 是枝裕和
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是枝裕和監督のプライベートな部分も影響?


【 是枝裕和監督:海よりもまだ深く.他 】


 最近、是枝裕和監督の作品(幻の光、歩いても歩いても、空気人形、奇跡、海よりもまだ深く)を観(返してみ)た。

 以下は、海よりもまだ深くに関する『【インタビュー】樹木希林が、是枝監督の想像を超えた瞬間! 「孫がいたからできたシーン」』からの一部抜粋。


『歩いても 歩いても』は、いしだあゆみのヒット曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」の一節を用いたタイトルだが、今回の最新作につけられた『海よりもまだ深く』というタイトルもまた昭和歌謡の名曲でテレサ・テンの「別れの予感」の歌詞に由来しており、阿部寛が息子役を演じているという点も同様! 作家崩れで探偵として暮らすダメ中年の良多とそんな息子をそれでも愛する母、良多に愛想をつかし彼の元を去った元妻と妻に引き取られた息子の4人が、台風の一夜をひとつ屋根の下で過ごすことになるが…。


樹木:女の人の生活力が上がるのは素晴らしいことだけど、その分、自由になるので、昔の「食べていけないので我慢する」ということの良い部分まで捨てているんだなとは感じますね。自分の意思通りに進むことで、逆に女の人が持つ忍耐強さが磨かれないままに終わってしまうところもある。それを含め、女性の地位が向上するというのは、良いことであり、一方で損している部分もあるのかもしれませんね。

是枝監督:ただ、映画はそれが正しいとか間違っているとかジャッジするわけじゃなくて、そういう育ち方をしてきた老いた母親は、おそらくいまの若い母親たちをそう見ているんだろうという描き方をしています。


是枝監督:この作品のノートを作り始めたのが2009年で『歩いても 歩いても』の公開のすぐ後なの。その段階で(キャストは)阿部さんと樹木さんだったんだけど、実際に、きちんと物語になったのは撮影の1年前くらい。その間に、僕も阿部さんも父親になったというのが、一番大きいと思います。『歩いても 歩いても』は息子から見た親の話で、原田芳雄さんが演じる父が生きてたけど、そこに父親から見た息子という視点を加えたのは、やはり僕が父親になったからでしょう。


是枝監督:そう(笑)。ただ、『海街diary』の脚本と並行してこの作品も書いていたので、向こうは原作があり、僕がそこにどうコミットするかという作業だったし、あっちは背筋を伸ばして生きようとする人たちの物語だから、自分の中のバランス感覚として、こっちは背中を丸めた人たちの話をやりたいというのはあった気がします。


是枝監督:ありますよ(笑)! 孫が「宝くじが当たったら、またみんなで一緒に暮らしたい」と言うところ。書くときはサラッと書いたけど、お芝居でそのひと言が出てきたら、自分で書いたセリフなのに、ウッときたんだよね。
(略)
樹木:あれは孫のいる女優じゃなきゃできなかったかもしれないわね…。


<感想>
 女性の地位が向上し、自分の意思通りに進むことで女の人の持つ忍耐強さが磨かれないままに終わってしまうことが良いことでもあり、一方で損している部分があるという樹木希林の言葉。
 父親になったことで息子から見た親の話に父親から見た息子という視点を加えたという是枝裕和監督の言葉。
 作品を見終わった後で、どちらの言葉も心に突き刺さった。

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是枝監督の「誰も知らない」はタイトルを3回変更?


【 是枝裕和監督作品:誰も知らない 】


 是枝裕和監督作品の「誰も知らない」を見た。 
 以下は、是枝裕和監督の言葉*。
*https://www.shinichiuchida.com/2004/08/dazed-japan.html?m=0


「このタイトルは自分でも気に入っている。15年前の脚本のタイトルは『素晴らしい日曜日』。7年前には『大人になったら、僕は』に変更した。それが今回『誰も知らない』になったのは、まず少年の主観的なモノローグの目線から1つ視点を浮かせたというのがある。僕自身が、事件当時の母親の年齢(40歳)を越えたことも、タイトルの視点が変わったことと関係があると思う」

「このタイトルには、本当に『誰も知らない』のか? 知らないフリをしてるだけではないか? という問いかけの意味もある。映画では、子供たちだけの部屋を偶然見てしまった大家の女性が、ふっと目を逸らす。長男が買い物に通っていた近所のコンビニの店長も、まったく彼のことを知ろうとしない。逆に映画後半に登場する少女は、少年を知ろうと努力している。誰かに知ってもらうこと、少しずつでも知ろうとしてあげること、その関係性は大事なことだと思う」


<感想>
 是枝監督の言う、「誰かに知ってもらうこと、少しでも知ろうとしてあげること、その関係性は大事なことだ」をしみじみと感じる今日この頃である。

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是枝監督のドキュメンタリーに対する思い?


【 是枝裕和監督:ドキュメンタリーをつくる時 】


 1992年の是枝裕和監督著「しかし…─ある福祉高級官僚 死への軌跡」(あけび書房)を読了した。
 以下は、同書からの一部抜粋。


P179
 しかし、果たして国は「行政指導を中心にできる限りの対応をした」だろうか。
果たしていつを指して「原因物質もあきらかになっていなかった」と言っているのだろうか。

 歴史的な事実からいって、国は通産省を中心に、明らかになっていた原因物質の隠蔽に奔走し、意図的に有機水銀説を山に葬ったのではなかったか。そのために御用学者を動員し、非水銀説をマスコミ等で大きく取り上げるよう、「できる限りの対応をした」のではなかったか。そこには行政指導を怠ったという消極的な責任ではなく、経済成長の代償として水俣病の発生に目をつぶり、患者の拡大をまねいたという、積極的、犯罪的責任があったのではなかっただろうか。

 少なくとも当時、厚生省に在籍して、水俣病原因究明の過程を目の当たりにした人間であれば、当時の通産省や経済企画庁が何をしたのか、そして厚生省は何ができなかったのか、理解していたはずである。公害課課長補佐を経験している山内はそのひとりだったと言えるだろう。

 この頃、仕事がうまくいかない、と山内は珍しく知子に愚痴をこぼしている。患者との交渉がうまくいかないのかと思って尋ねた知子に、
「やりにくいのは外部じゃなくて内部なんだよ」
と、山内はもらした。知子はそのひと言だけでは詳しい事情はわからず、山内もそれ以上は話そうとしなかった。


あとがき(P247)

 1991年1月10日午後5時。
 僕はテレビのドキュメンタリー番組の取材のため、町田駅からバスで薬師台へ向かっていた。訪問先は山内知子さん。彼女は1か月前に自殺というショッキングな出来事で夫を失ったばかりだった。

 ドキュメンタリーをつくる時に、弱者と強者、善と悪の色分けをあらかじめしてしまうと、制作者として楽である。
行政、官僚を悪と決めつけ、善良な市民の側から告発する、企業を悪と決めつけ、消費者の側に寄り添いながら描写する。
たとえ、それが真実であるとしても、このような「安直な図式」に社会をはめこむことで、ぎゃくに見えなくなるものがある。山内豊徳というひとりの官僚は、そのことを僕に気づかせてくれた。


<感想>
 本書は、是枝監督の1992年の著書。
 当時の経済成長推進派の通産省・経企庁 vs  厚生省の構図、自殺された山内局長の奥様との対話。
 今度はこのドキュメンタリー番組を見てみたい。

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是枝監督の変わらない考え?


【 是枝裕和監督:変わらない考え 】


 是枝裕和監督作品「万引き家族」が、第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門のパルムドールを受賞した。以下は、是枝裕和著「映画を撮りながら考えたこと」(2016/6、ミシマ社)からの一部抜粋。


P144
「殺意や戦争といった自分の思考の外にあるものについて、その番組を見た人間が自分の中に想像としてきちんと立ち上げていくこと。そこへ向かわせる力を持った表現が、きっとテレビには欠けているんだと思う。そういうものと出会う場所を確保することが、最終的には共同体自体を豊かにすると思うし、個人を豊かにすると思っている。それがパブリックであるテレビの果たすべき役割だと思う。」『論座』2005年4月号

 この考えは十年経ったいまも変わりません。


P176
『誰も知らない』はカンヌ国際映画祭で80近い取材を受けましたが、いちばん印象的だったのは、「あなたは映画の登場人物に道徳的なジャッジを下さない。子どもを捨てた母さえ断罪していない」という指摘でした。ぼくはこのように答えました。

 映画は人を裁くためにあるのではないし、監督は神でも裁判官でもない。悪者を用意することで物語(世界)はわかりやすくなるかもしれないけど、そうしないことで逆に観た人たちがこの映画を自分の問題として日常にまで引きずって帰ってもらえるのではないだろうかーー。

 その考えはいまも基本的に変わりません。映画を観た人が日常に帰っていったときに、その人の日常の見え方が変わったり、日常を批評的に見るためのきっかけになったりしてくれたら、といつも願っています。


<感想>
 オリジナルの原案、脚本、監督をこなす是枝監督。
 1992年の「しかし…─ある福祉高級官僚 死への軌跡」(あけび書房)を読書中であるが、テレビ、映画と同様の考え方が伺える。
 当面、是枝作品から目が離せなくなりそうだ。

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法廷って真実を明らかにする場所ではない?


【 三度目の殺人 】


 一昨日、是枝裕和監督の『三度目の殺人』を見た。

 以下は、是枝監督へのインタビュー記事(
http://crofune.com/4512/)からの一部抜粋。

『 実はね、今回映画を作るにあたり取材した弁護士さん達が「弁護士には、真実は分からないって。法廷というのは真実を明らかにする場所ではないと」明快に皆さん仰るんですよ。


 福山さんは、「真相が分からないと演じられないのではないかと」途中で仰ったんですよ。「僕(重盛)は分からない役なので分からないで良いんですけれども、『今日は寒いですね』っていう台詞の意味が本当に人を殺している人間とそうでない人間で全く違うんじゃ無いかと。演技として考えた時に。」

 役所さんは、少なくとも重盛に対しては「僕が言うことは、僕が全ての事を本当だと思って言っているように見えた方がいいと思うから、僕はその都度その都度本当の事を言っているように演じている。」と仰っていました。そこだけ決められて演じていると。

 すずは何も聞いてこなかったんです。すずに話したのは、「あなたの母親は被害者意識だけで自分を支えていて、そこにアイデンティティがあるし、守りたいものが明快にあって、守りたいものの為なら平気で嘘をつく人だっていう。で、あなたは逆に加害者意識がアイデンティティの中にあり、守りたいものがあっても、本当の事を優先する。そこが母親と娘の違い。そこから後は任せたと」という話をしたんです。


 映画の面白さって多分、観た後で世界が変わって見えるという事。


 この映画の中では、色んな登場人物が見て見ぬフリをするのね。で、それは裁かれない。色んな人が色んな場所で、もしかしたら見たいものしか観ていない。でも、その事は裁かれない。で、その辺りを引き寄せて考えた時に、事件から溢れてくるものがあるんじゃないかなという気がしています。』


 一方、以下は2017/9/8付日本経済新聞夕刊(
https://style.nikkei.com/article/DGXKZO20874040X00C17A9BE0P01/)からの一部抜粋。

『 『三度目の殺人』 心の奥深さ透かし見せる

 黒澤明の『羅生門』以来、真実の相対性というテーマを掲げる裁判ものの映画は少なくない。しかし、本作は、あくまで重盛という一人の人間の視点から殺人事件を見つめる。普通の人間には真実は簡単には見えない。にもかかわらず、裁判は神の視点に立って事件を裁こうとする。法廷を戦術の駆け引きの場と考えるニヒリストの重盛が、次第に裁判という制度そのものの矛盾に目覚めていく過程が説得力豊かに示される。
 推理小説のような明らかな謎解きは行われないが、それがまったくごまかしではなく、欲求不満を感じさせない。三隅と咲江だけが知る真実を示唆して、人間の心の奥深さを透かし見せる。役者たちの健闘、静謐(せいひつ)で力のこもった美術と映像の共同作業も素晴らしい。2時間4分。★★★★★(映画評論家 中条省平)』  


 また、「王様のブランチ」で、撮影の合間に、福山雅治が(セリフを完璧を覚えてきている)役所広司に、「ヤクショ」の呼び方(ヤクショ↓(ヤを強調) or ヤクショ↑(ショを強調))を尋ねた処、命名者の仲代達也は前者で呼んでいた(ので前者であろう)との回答であった。LiLicoも(私も)そうだったが、大半の人は後者だと思っていたのでは。


<感想>
 戦術を優先する(福山演じる)重盛が、裁判を通じて、それまでの姿勢とは真逆の心理を重んじるようになって行く。司法における真実の意味を考えさせられる秀作であった。

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