何日かで1知識 坂本龍馬
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坂本龍馬は日本史に影響を与えなかった?

 

【 長崎の亀山社中 】

 


 2022/12/18、亀山社中記念館に行ってきた。
https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/1047

 

 昨晩の忘年会で、 1人の先輩が、私と同じポーズで刀を持った写メを見て思わず笑った。

 

 一方、これまで歴史の話を聞いたことがなかった別の先輩から、坂本龍馬は、司馬遼太郎が創作した坂本竜馬に美化され過ぎていて許せない的な話をしていた。

 

 以下は、『坂本龍馬の伝説はウソだらけ 「幕末に大活躍」は間違いだった』記事からの一部抜粋。
https://business.nikkei.com/atcl/plus/00031/031800006/?P=3

 


第三の道を目指した龍馬

 

 龍馬は、第三の勢力を結集するために、“力”が必要だと考えていました。そのために日本で最初の商社兼私設海軍とされる「亀山社中」(のちの「土佐海援隊」)を設立し、艦船を集めて、貿易による利益などを得て、力を蓄えようとしていたのではないでしょうか。

 

 龍馬は米国からペリーが来航したときに、現場で黒船を見ていました。たった4隻だけで、日本がひっくり返りそうになった。その黒船を自分が持ち、私設海軍をつくることによって、いわゆる決定権、発言権というのを握ろうと考えた。その黒船を持つためのお金を稼ぐ役割を担わせようとしたのが、亀山社中だったのでしょう。

 

 亀山社中にお金を出したのは、先ほど言及した薩摩の小松帯刀です。

 

 龍馬は勝海舟の門下生となって参画した神戸海軍操練所が1865年に解散してしまい、土佐藩からも背信を疑われるような状況でした。そのような中で、神戸海軍操練所時代から温めていたプランを支援してくれる人物が現れた。だから坂本龍馬は「小松は神様だ」とまで言っているのです。実際に龍馬がそう書いた手紙があります。

 

 当時の薩摩は、薩英戦争に敗れて艦船を失い、壊滅的な打撃を受けていました。そこで海軍力を再興させるまでの間は、外人部隊を雇っておくか、ということで、龍馬と亀山社中を支援しようと考えたのでしょう。

 

 ところが龍馬は、亀山社中を始めていったんもうかったと思うと、せっかく手に入れた自らの商売に欠かせない虎の子の船を、操船技術が未熟だったこともあり、沈没させてしまいます。

 

 しかも薩長同盟が整って、亀山社中が薩長との間の商売を取り持つ必要もなくなりました。実は薩長同盟が締結されて、一番損をしたのが龍馬です。薩摩と長州にとって、龍馬と亀山社中が不要になったからです。

 

 「これからどうしようか」と途方にくれていた龍馬。その時に支援に乗り出したのが土佐藩の後藤象二郎(しょうじろう)です。

 

 土佐藩は当時、将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)に近く、薩長が勝って体制がひっくり返ると大変なことになる。そこで土佐藩は(艦船を運用する亀山社中を率いる)龍馬を支援し、土佐海援隊ができました。それでも龍馬が目指したのは、あくまで私設海軍でした。しかしほかの藩と商売を広げ、私設海軍を整える前に、龍馬は暗殺されてしまうのです

 


龍馬はなぜ殺されたのか

 

 龍馬から学ぶべき点は、第三の道にこだわり続けて、あくまで戦争を回避して、話し合いで物事を解決しようということに一生懸命になっていたことです。龍馬がオリジナルで考えた世界がどういうもので、本当にその世界が成立したらどうだったのか。明治維新で何が起きる可能性があったのかを考えるべきだと思います。歴史に学ぶためには小説の世界ばかりを追いかけてはいけません。

 


<感想>
 司馬遼太郎は、歴史上の人物の「龍馬」と小説の「竜馬」を区別していた、という。
 日本史にほとんど影響を与えなかったというのが恐らく真実ではあろうが、亀山社中の坂本龍馬に思いを馳せる喜びを感じたことは事実である。

 

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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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「時代を変換した男たち」



「時代を変換した男たち」(監修:会田雄次、PHP研究所)より


 坂本龍馬
  

 龍馬の思想の変遷を語るに格好な逸話がある。あるとき龍馬は同士の檜垣清治に出会い、かれの長刀を冷ややかに眺めて言った。

 「無用の長物だ。それではいざというときに役に立つまい」

 そして自分の短刀を示した。

 檜垣もなるほどと思い、長刀を捨て短刀に替え、後日龍馬に見せると、彼はやにわにふところから短銃を取り出し、一発ぶっ放した。

 「これが西洋の武器というものだ」

 檜垣が苦心の末ピストルを手に入れ、三度めに会ったとき龍馬はこう語った。

 「将来は武力だけでは役に立たぬ。学問が大事だ。僕はいま『万国公法』を読んでいるが、これは非常におもしろう」と。



>>慶応3年(1867年)11月15日、奇しくも龍馬の33歳の誕生日に京都「近江屋」で絶命。若すぎる死を悼む


「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PHP研究所)より


龍馬とは何であったか(その2)


 幕末を彩る数多の人材のなかで、龍馬は特異な存在である。「幕府を倒して、新しい日本を作らなければならない」ということは、多くの志士たちの頭のなかにあったが、「新しい日本」がどういうものなか、彼らにははっきりと見えていなかった。だから、地面を這いまわる連中は「とにかく戦って幕府を潰そう」と躍起になった。そういうなかにあって、龍馬は「近代国家・日本」というものを見つめ、考えていた。世界全体を視野に入れ、大所高所から50年先、100年先の日本をいつも見ていたのは龍馬だけだった。

 龍馬が日本の未来像を描けたのは、「観念」に生きられた人物だからである。未来というものの実物を見ることができる人間はいない。したがって、的確な未来像を描くには「完全な観念像を描ける能力」が必要なのだ。この能力は、下を見て生きる米作農民、つまり普通の日本人にはない。あの当時、遠くを見て生きられた数少ない人物である龍馬だからこそできたことだった。

 では、龍馬だけがなぜ、そういう日本人としては特異ともいえる性質をもったのだろうか。一つには大海に面した土佐という土地に生まれ育ち、「海」というものを見ていたことが影響していたのかもしれない。龍馬の銅像が立っている桂浜に立つと、水平線がまっすぐではなく弧を描いていることに気づく。その広さ、開かれた雰囲気に接していると、わずかばかりの土地を耕し、維持していくことがバカバカしく思えてくる。


>>大海に面した土地に生まれ育ってみたかった


「歴史家の心眼」


「歴史家の心眼」(会田雄次著、PHP研究所)より


龍馬とは何であったか(その1)

 まず、武士としての気位と山内家および上士への反発心が根底にある。彼の場合は他の郷士のように貧しくはないから、その思いはそれほど強いものではなかったろうが、藩主に対する忠誠心など全くといってよいほどなく、藩というものの束縛からも自由な立場にあったと思われる。ということは、当時の武家の規範である朱子学の倫理観からも自由、それに対する反発からさえも自由であった。このことは、龍馬の性格を考える上で極めて重要である。他方、裕福な家に育ったことから、彼には小心翼々たるところがない。本家は商売で大をなしているものの、基本的には武家であり誇りをもってきびしく育てられたから、商人としての卑屈さもない。それでいて、単なる小売商ではなく酒類の卸など遠隔地商業の家に育ったのだから、カネの力などはもちろんのこと、カネとモノの動きとその働きをも全身的に把握していたはずである。

 こうした背景からは、小事にとらわれないで本質を見抜く自由でおおらかな精神と行動性が生まれるか、さもなければ逆に、どっちつかずの優柔不断で日和見的な精神が形成されるのか、のいずれかの可能性が強い。龍馬の場合は幸いにして前者であり、激しい時代の動きがそうした龍馬の内面を揺り動かさずにはおかなかったのであろう。そして、龍馬の持つ個人的資質が次第に発揮されることになる。
 

>>生まれ育ちは精神に影響する


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