「不機嫌な作詞家」②
「不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む」(三田完著、文藝春秋)より
第二章 青春はシネマの闇に
淡路島と阿久さんの距離が縮まった大きなきっかけが『瀬戸内少年野球団』だった。例の純白のスーツを着た講演会からほぼ半年後に上梓され、昭和54年度下半期の直木賞候補になった。さらに同作は、昭和59年(1984)に篠田正浩監督の手で映画化される。東京でヒットメーカーに上り詰めた阿久さんの胸が郷愁で疼くことは、それまでなかった。転校と同じで、別れても辛くない場所だった。だが、四十代になり、人生の折返し点を過ぎたとき、あえて淡路島を舞台にした小説を書いた。かつて転校1日目に用いたのと同じ、野球という小道具を盛り込んで。
高校時代から映画に耽っていた阿久さんにとって、自作が映画化されることはさぞかし胸躍ることであっただろう。『瀬戸内少年野球団』は敗戦直後の淡路島を舞台に、野球に夢中になっていく少年たちと戦争の影を引きずる大人たちの姿を描いた物語である。子供たちを野球へと導く駒子先生を夏目雅子が演じ、結果的に彼女の遺作となった。また、いまや世界的俳優となった渡辺謙の映画デビュー作でもある。
阿久さんの高校時代、洲本には三つの映画館があった。東宝、大映、新東宝系の「玉尾座」、松竹、東映系の「弁天座」、洋画専門の「オリオン」の三館である。いずれも人形浄瑠璃や大衆演劇を上演する劇場から映画館に転じた由緒を持つ小屋だった。歳月が流れ、最後まで残ったオリオンが平成25年(2013)秋に閉館。いま、淡路島に常設の映画館はひとつもない。
第六章 『スター誕生!』と山口百恵
『せんせい』(森昌子)のリリースは昭和47年(1972)のこと。その森昌子が決戦大会の初代グランドチャンピオンに輝いた日本テレビの『スター誕生!』がスタートしたのは昭和46年(1971)10月、日清カップヌードルの発売とほぼ同時期である。企画書を書いたのは放送作家の阿久悠であり、審査員席には作詞家の阿久悠がすわった。
山口百恵は森昌子と同じホリプロに入った。『せんせい』『同級生』『中学三年生』・・・・・・と、デビューから阿久さんの詩を唄いつづけた森昌子とは別の路線、別の作詞家でいくというのは、ホリプロとして自然な成り行きだろう。とはいえ、七年半の活動期間に百恵さんがリリースした32枚のシングル盤に阿久悠作品がひとつもないという事実には、なにかしらの意味を感じてしまう。
桜田淳子をずっと阿久さんがやっていたので、百恵さんのデビュー曲(『としごろ』)の詩は千家和也氏に依頼した。
昭和56年(1981)、日記を書きはじめた年、阿久さんはまだこの番組の審査員を努めていた。
この年いっぱいで阿久さんは審査員を辞した。番組がはじまってからちょうど十年、つぎつぎとアイドルスターが生まれたスポットライトの影で、そこかしこに制度疲労が起こっていたということだろうか。しかし、阿久さんが審査員席にいた最後の年、『スター誕生!』の舞台からは小泉今日子と中森明菜が巣立っている。卓越したアイドルがふたりも生まれているというのに、なぜ阿久さんの心は弾まなかったのだろうか。
ちょうどこのころ、松田聖子、田原俊彦、近藤真彦といった『スター誕生!』出身ではないアイドルたちが急速に人気を伸ばしていた。
同じ年の3月31日、ピンク・レディーがまだ屋根のなかった後楽園球場で解散コンサートを催した。阿久さんが生涯に売り上げたシングルレコード、CDの総売上枚数は約七千万。その1/6を占めるピンク・レディーの解散コンサートについて、日記にはなにも記述がない。
>>時代の変化に合わせて自らも変化してゆきたい