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「承認」の哲学④



「承認」の哲学 他者に認められるとはどういうことか(藤野寛著、青土社)より


 第2章 体系 承認の三つの型、そして寛容

 人間が社会的存在である、とは、人間が他者との関係の中で相互の承認を求めて闘い続ける存在である、ということだ――ホネットの承認理論を一言に圧縮すれば、そうなる。その上で、承認は三つの型に分類される。愛・人権尊重・業績評価である。

 まず、愛が、相手から認められようとするいじらしくも苦しい相互の闘いであることは、見やすい消息だろう。片思いにとどまることを潔しとしない者は、避け難く、この闘いの渦中に身を投じることになる。

 次いで、人権尊重とは、人として認める/認められる、ということだ。私を、あなたと同じ対等の人間として認めよ、と求めること。人類の歴史とは、同じ人間として対等の処遇を求める闘い、言い換えれば、差別を廃することをめざす闘いの連続だった。

 最後に、業績評価とは、業績を公正に評価する/される、という形の承認だ。この第三の型の承認を、ホネットは「連帯」という言葉で解釈しようとするのだが、必ずしも直ちに腑に落ちるとは言い難い――実際、ホネット自身、この文脈に「連帯」の語を投入することには概して慎重であるようにも見受けられる。しかし、同じ価値評価基準が社会によって共有されているとき、その社会の内には連帯が実現している、と言い表わすことは不可能ではない。ある社会が、その業績評価において二重基準がまかり通りことを良しとしないという意思を表明するならば、その社会の中には一定の連帯が実現しているのである。

  *

 ここで、三つの承認の型について、その相違と相互関係について整理しておこう。

 愛は、限られた相手・対象に向けられる承認である。すべての人を愛する、ということはありえない。普遍・特殊・個別というカテゴリー・セットで言えば、愛は一人の個人のみを対象とし、つまりは、個別に関わる。もちろん、子の親に対する、あるいは逆に親の子に対する愛のように、相手が複数となり、そのように愛の対象が拡張されることは大いにありうるが、だからといって、その拡張が融通無碍、無際限ということはない。とにかく、愛は人を選ぶ(差別する)のである。

 それに対して、第二の承認の型である人権尊重は、普遍性志向を特徴とする。人を人として尊重(承認)する、とは、人であるという点以外の際は無視する、ということであり、愛が究極の依怙贔屓であるのとは対照的に、こちらは――もちろん、ヒューマニズム8人間主義)の範囲内ではあるが―― 一切の差別を峻別する。 
 
 普遍性へのこの関係は、第三の承認の型である業績評価にも認められるものだ。それは、評価基準の普遍性を前提する。つまり、公平で偏りのない基準に則る評価でなければならない、ということだ。その上で、この承認は、結果においては差をつける。立派な業績は高く評価し、見劣りする業績はそれ相応に厳しく評価する。そうでなければ、公正な業績評価が成り立っているとは言えない。だれにも同じ点数をつけることで差別を回避するのでは、評価(という承認)に関しては怠惰であると言わざるをえない。

 この点で、業績評価という承認と愛という承認の違いは歴然としている。親は、わが子が優れた能力・資質を具えるから愛するのではない。その意味で、親の偏愛は許されると思うが、教師が愛をもってクラスの生徒に接することは認められない。すべての生徒を平等に愛すればよいではないか、と言われるかもしれないが、それは、もはや第一の承認としての愛ではなく、むしろ、第二の承認としての尊重であろう。その上で、教師は、第三の承認としてのフェアな成績評価を下すのでなければなるまい。

 これを、同一性/差異性というカテゴリー・セットに即して言えば、第一の承認が徹底して差異性の承認である(「あなただけを一途に愛す」)のに対して、第二の承認は同一性の承認であり(「あなたも私も同じ人間」)、第三の承認は、同一性を基準としつつ結果として差異を志向するものだ、と整理できるだろう。


>>人間は他者との関係の中で相互の承認--愛・人権尊重・業績評価--を求めて闘い続ける存在である

「承認」の哲学③



「承認」の哲学 他者に認められるとはどういうことか(藤野寛著、青土社)より


 3 承認を拒まれるという経験

  否定性から考える


 われわれが生きてゆく上で、自分にとって大切な人から認められる、という経験が、どれほど重要な意味を持つか。例えば、親に愛され大切に育てられるという経験、あるいは、自分が好きな人に「私もあなたが好き」と応えられるという出来事、あるいはまた尊敬する指導教官から自らの論文を褒められたり高く評価されたりすること――そういったことを思い返すことのできる人は幸せだ。そういう経験が、どれほどわれわれを励まし、支えてくれることか。けれども、承認をめぐる思考へと人を動機づけるのは、そういう幸せな経験であるよりは、むしろ逆に、苦しい、否定的な経験なのではないか。承認を拒まれる、という経験だ。軽視される(軽んじられる)こと、さらには無視されること、またあるいは差別されること。


  「承認が拒まれる」という経験

 論じられるのは、他の人間を、生命ある自然の世界を、さらには自己自身をも相手とするような姿勢としての「承認」であり、そのような承認を拒む行為こそが「物象化」という行為だ、と捉える。「他の主体を、その人間的資質にふさわしい仕方でではなく、感覚を持たない死せる対象、つまりは「モノ」として、あるいは「商品」として扱う」ことだ。

 その議論が全面展開される著作『物象化』においては、人が人を――人の一部である身体を含め――物のように扱うことが、「承認の拒絶」現象の一事例として分析に付される。自分自身の身体をも、モノとして扱い、言い換えれば、ヒトとして扱わないということ。臓器売買にせよ、整形手術にせよ、さらには売春行為にせよ、共通して見られるのは、自他の身体を物のように扱う態度であって、それは「人を人として認め、処遇する」という姿勢が欠落しているからこそ可能になる行為なのではないか、と問われる。「代理母として自らの身体を供すること、愛という関係の商品化、あるいは、性産業の爆発的増殖」――そういった現象の背後にも、ホネットは物象化の進展を見るのである。「承認が拒まれるという経験」の第三の事例である。


 第2章 基礎的考察 「社会性」をめぐる考察へ

  社会生活とは「承認をめぐる闘いだ」


 承認と聞くと、会議で行われる堅苦しい儀式のことが話題になってでもいるかのような印象が生じかねないのだが、もちろん、そうではない。人から認められること、相手にされること、きちんと評価されること、褒められること、愛されること――まとめて言えば、自分の価値をきちんと肯定的に評価され、存在を受け入れられることだ。そういう経験の全体をカヴァーして、「承認」と言われている。

 ここでは、人間が生きてゆく上で、人から認められるという経験がどれほど重要なものであるかが、確認されている。具体的に考えてみよう。親から愛されることは、あまりに当然のことで、それと気づきにくいかもしれないが、教師から褒められたり、異性から好きだと言われたりすることが、どれほどわれわれに自身(自尊の感情)を与えることか。逆に、周りの人から――親や、兄弟や、友だちや、先生や、好きになった相手から――お前はダメだ、あなたなんてダメだ、と言われ続ける人生が、どれほどつらいものになることか。もっとつらいのは、ダメだとすら言われないこと、全く無視されることかもしれない。

 自信をもつためには、達成感というものも重要だろう。自分で目標を立て、それを達成した自分自身への満足感、という形での自己評価だ。

 ホネットは、社会生活というのは、承認をめぐる闘いだ、という。われわれが社会の中で生きるとは、「結びつき・つながり・きずな」を求めて生きる、ということなのだが、それは、認められることを求めての「闘い」であるわけだ。

 闘いであるからには、勝ちたいと思うのは人情だ。

 認められるというのは、受け身の経験だ。認められるためにはどうすればよいか、などと考えるのは、いかにもいやらしい。自分を磨け、とか、ありきたりの道徳的説教に陥りかねない。そうではなく、むしろ逆に、認める姿勢、さらには、認める能力、というようなものがあるのではないか。これは――村上春樹についての議論でも見たように――相手の発する言葉に注意深く耳を傾ける、という姿勢を含む。

 人を認める、という行為は、自己中心性(ナルシシズムだ!)に対するブレーキとして現象するのではないか。自分の利益のために利用すべく人を認める、ということもあるから、すべてがそうだとは言わないが、しかし、人を認める能力を持つ人というのは、概して、自己中心的でなく、その意味で好感度が高いのではないか。


>>社会生活というのは、自分の価値をきちんと肯定的に評価され、存在を受け入れられるという「承認」をめぐる闘いである

「承認」の哲学②



「承認」の哲学 他者に認められるとはどういうことか(藤野寛著、青土社)より


  第1章 導入 他者に認められること/他者を認めること

 1 ありのままの自分を生きること/人目を気にして生きること

  「真の自己」、「内発性」という思想


 自発性・内発性というこの理念は、自由・自立・主体といった理念とも親戚関係にあり、西洋思想の流れの中で中核的な位置を占めてきたものだ。自らの欲求の充足・実現が外部の障壁によって妨げられるとき、人は自分が不自由だと感じる。さらに、必ずしも外部から妨害されていなくても自分で自分の欲求をコントロールすることがうまくゆかない、という場合があり、すると、どうにかしてそれを――自分自身を――律することが「自立」の理念のもとに追求される。さらに、他者や社会によって動かされるのではなく、逆に、他者や社会を動かす立場に身を置くことが、自由の理念のもとに追求されることにもなる。他者に左右されるのではなく、自分が自分の人生の「主」、「主人公」となることがめざされるのであり、その思いが「主体」という言葉に託される。総じて、他者に影響され左右されることは、内発、自立、自律といった理念に反するのであり、内発性の思想というものは、「自己」や「主体」といった近代の理念と深く関わっている。


  「真の自己」は自分の中には見つからない

 「自己」なるものは――「真の自己」であるか否かはともかく――外部との、他者との関係の中でこそ作り出され、作り上げられてゆくものなのではないか。そう考えるとき、「真の自己」にとって「他者」とはどういう存在なのか、という問いが浮上してくる。他者(の目)とは、「真の自己」にとっては邪魔者、障害物のようなものなのか。「真の自己」になるためには、他者との関係は、まずは切り捨てることこそ必要なのか。いや、むしろ逆ではないか。他者とは「自己」にとって、構成成分のようなものである、とこそ言わねばならないのではないか。


  「自己実現」を問い直す

 欲求は、社会的に――外部との関係の中で、外部から――受け入れられ、育て(上げ)られるもの以外ではありえない。そう考えると、これはもはや「自己実現」とは呼ばれえないものだ。実際、自己実現ということが、個人に定位して考えられるのであれば、個人の数だけ様々な自己実現の形があってもよさそうなものだが、しかし、現実に見出される「実現が願われる自己」なるものは、どれも似たりよったりというしかないのではないか。スポーツ選手だの、芸術家だの、芸能人だの、そこに多様性などおよそ認められない。それほどにも、実現されるべき自己のイメージというものは、自己の外にあるのであって、自己の内部に――ポテンシャルとして――埋もれていたりなどはしないのである。


  自己自身との関係、他者による承認

 承認論は、あるタイプの理想やきれいごとに疑問を突きつける思考だ。例えば、「真の自己」「ありのままの自分を生きる」「内発性」「自己実現」。それに対して、むしろ、人と人の関係、社会性を重視し、その中で生きてゆくことこそ人間として生きることであると考える。人目を気にすることを奨励するわけではないが、人に認められる経験の幸いを軽んじない。そうであればこそ、人に正当に認められる経験が阻まれているような社会のあり方を批判する。


 2 「認める」という行為、あるいは村上春樹の出現について

  アンチテーゼとしての「承認」


 もっとも、私にとっては、ホネットに先立って、村上春樹という存在があった。今だからわかることでもあるのだが、彼が『風の歌を聴け』で現れたときの新鮮な印象は、68/69年の思想の倒錯的否定主義へのアンチテーゼという風に解釈できるものだった。否定あるいは批判へのアンチテーゼとしての、承認という姿勢。「わかるよ」という台詞、「そういうものだ」という口癖に表現されているものだ。

 この小説が発表された当時(1979年)、なぜ、自分が村上春樹に直ちに魅了されたのかが、承認について考える過程で少しずつわかってきた。しかし、それだけではない。なぜ、彼の書くものが、1969年の運動との苦渋を伴う自己批判的対決の試みであると感じられたのか、についてもそうだった。つまり、あの運動には、「承認」が不在だったのだ。みんな、「否定」ばかりしていた。もちろん、その「否定」とはまずは「自己否定」であり、自己自身に向けられるものではあったのだが、しかし、人は、同じ激しさ・執拗さで、社会を、世界を、そして結局は他者をも否定していたのではないか。そこに、村上春樹は「承認」の姿勢を提示し、定着させた。そうすることで、「1969年的」な世界に対するアンチテーゼを差し出したのだ。

 つけ加えて言えば、「そういうものだ」という――同じく村上作品の中で反復される――感慨もまた、承認の表現である、と言えるだろう。こちらは、苦い思いの混じる諦念の表明、つまり、渋々の甘受なのではあるけれども、しかし、ここでも「否定」はされないのである。


  「全体の思想」という病理

 当時、「オルグ」という言葉があった。「オルガナイゼイション(organazation)」の短縮形である。人を組織すること、自らの属する集団の一員となるよう説得することだ。そのために、なぜその集団の一員になることが正しい決断であるのかが、熱く語られた。まさにそのような時代、誰もが「熱心に語って」いた時代の後に、村上春樹は、ただ耳を傾け、うなずく人間を対置したのだった。

 「なるほど。」二秒ほど置いてから僕は相槌を打った。そのころまでに僕は三百種類ばかりの実に様々な相槌の打ち方を体得していた。

 相槌は、自分の言葉が相手によって真剣に受け止められている、その意味で自分が(語る人間として)認められているという印象を語り手に与えうる。「僕」は「三百種類」の承認の手振りを体得していたことになる。承認理論を学ぶはるか以前に、私は、村上の小説の中で承認実践の達人に出会っていたようだ。


>>「1969年的」な「否定」に対するアンチテーゼとして、村上春樹の「承認」が差し出された

「承認」の哲学①



「承認」の哲学 他者に認められるとはどういうことか(藤野寛著、青土社)より
2016年7月7日 第1刷発行


  はしがき

 人が、自らの存在・知識・経験について反省的に考え始めるとき、哲学という実践は始まる。その際、「自らの」と言うわけだが、その「自己」とは必ずしも「個人」としての自己を意味するものではない。人間という類的存在の一人としての自己を意味することもあれば、何らかの集団(民族、性とか)の一構成員としての自己を意味することもある。

 現代ドイツの社会哲学者アクセル・ホネット(1949-)の承認論は、私にとって、何よりもまず哲学的反省の試みだった。

 愛されるとは、ある他者によって特別に大切な存在として認められるという経験である。それは、受け身の経験だ。愛するだけでは駄目なのであり、愛されねばならない。われわれは、愛されようとして「闘う」のだ。相手の言葉、振舞いの一つ一つに細心の注意をはらい、正しく反応しようとする。相手に魅力的な存在として認められようとする。相手にどう見られるかと一喜一憂することは、少しも恥ずかしいことではない。どこにも咎め立てられる筋合いはない。

 そして、自分にとって大切な他者によって認められる経験を通してこそ、われわれは自信を得、自己自身との良好な関係を築き上げることも可能になるのではないか。逆に言うと、他者から認められる経験をもたずに自己自身との良好な関係を築くことは容易でないだろう。

 差異が肯定的に評価されることが「承認」と呼ばれ、否定的に処遇されると「差別」されることになる。そして、差別してはいるのだが、「廣い心」で許容する姿勢が「寛容」だ。その際、肯定的に評価される、と言うわけだが、それもまた一筋縄ではゆかない消息だ。「世界にただ一人の人」として認められる「愛」のようなケースがあれば、「すべての人と同じ人間」として尊重されるという形の承認(人間尊重)があり、自分がそこに属する集合が見える性質(集合的属性)が評価されることもある(「日本文化はクールだ」と言われるとか。)

 「承認」という言葉によってカヴァーされる問題の広がりと奥行きを明らかにすること、そうすることで、現代社会に生きるという経験の一つの側面を浮き彫りにすること、それが、本書のめざすところである。


  第1章 導入 他者に認められること/他者を認めること

 1 ありのままの自分を生きること/人目を気にして生きること

  「真の自己」、「内発性」という思想


 自発性・内発性というこの理念は、自由・自立・主体といった理念とも親戚関係にあり、西洋思想の流れの中で中核的な位置を占めてきたものだ。自らの欲求の充足・実現が外部の障壁によって妨げられるとき、人は自分が不自由だと感じる。さらに、必ずしも外部から妨害されていなくても自分で自分の欲求をコントロールすることがうまくゆかない、という場合があり、すると、どうにかしてそれを――自分自身を――律することが「自立」の理念のもとに追求される。さらに、他者や社会によって動かされるのではなく、逆に、他者や社会を動かす立場に身を置くことが、自由の理念のもとに追求されることにもなる。他者に左右されるのではなく、自分が自分の人生の「主」、「主人公」となることがめざされるのであり、その思いが「主体」という言葉に託される。総じて、他者に影響され左右されることは、内発、自立、自律といった理念に反するのであり、内発性の思想というものは、「自己」や「主体」といった近代の理念と深く関わっている。


  「真の自己」は自分の中には見つからない

 「自己」なるものは――「真の自己」であるか否かはともかく――外部との、他者との関係の中でこそ作り出され、作り上げられてゆくものなのではないか。そう考えるとき、「真の自己」にとって「他者」とはどういう存在なのか、という問いが浮上してくる。他者(の目)とは、「真の自己」にとっては邪魔者、障害物のようなものなのか。「真の自己」になるためには、他者との関係は、まずは切り捨てることこそ必要なのか。いや、むしろ逆ではないか。他者とは「自己」にとって、構成成分のようなものである、とこそ言わねばならないのではないか。


  「自己実現」を問い直す

 欲求は、社会的に――外部との関係の中で、外部から――受け入れられ、育て(上げ)られるもの以外ではありえない。そう考えると、これはもはや「自己実現」とは呼ばれえないものだ。実際、自己実現ということが、個人に定位して考えられるのであれば、個人の数だけ様々な自己実現の形があってもよさそうなものだが、しかし、現実に見出される「実現が願われる自己」なるものは、どれも似たりよったりというしかないのではないか。スポーツ選手だの、芸術家だの、芸能人だの、そこに多様性などおよそ認められない。それほどにも、実現されるべき自己のイメージというものは、自己の外にあるのであって、自己の内部に――ポテンシャルとして――埋もれていたりなどはしないのである。


  自己自身との関係、他者による承認

 承認論は、あるタイプの理想やきれいごとに疑問を突きつける思考だ。例えば、「真の自己」「ありのままの自分を生きる」「内発性」「自己実現」。それに対して、むしろ、人と人の関係、社会性を重視し、その中で生きてゆくことこそ人間として生きることであると考える。人目を気にすることを奨励するわけではないが、人に認められる経験の幸いを軽んじない。そうであればこそ、人に正当に認められる経験が阻まれているような社会のあり方を批判する。


>>他者から肯定的に承認される経験を通じて、自己自身との良好な関係を築き上げられる

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