何日かで1知識 堤清二
FC2ブログ

「わが記憶、わが記録」



「わが記憶、わが記録」(堤清二・辻井喬オーラルヒストリー、御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一編、中央公論社)より


  第一回 戦争の記憶、学校の記憶

 国立学園小学校は、もともと東京商科大学(現・一橋大学)の教職員の子どものために、あたしの父・康次郎が1926年に谷保村(現・東京都国立市)につくった学校です。親父は国立学園という学園町をつくる上で、どうしても中心になる大学に来てほしかった。そこで東京商大の佐野善作先生(1920~35、初代学長を務めた)に移転してくれるように頼んだ。そのとき職員が反対する。では小学校もつくりましょう、ということだったと思います。

 この小学校に、玉川学園、自由学園といった自由主義教育の流れを汲んだ山本丑蔵という校長先生がいた(在任1926~70年)。その人が校風をつくったと言えるでしょう。

 そのころ私は「青山」という母の姓を名乗っていましたが、「青山君はお妾さんの子どもですよ」ということが、子どもたちのあいだで知られていく。子どもはよくわからないから、無邪気に本人に聞いてくる。聞かれたほうはわからないなりにコンプレックスを持つ。ですから、心に弾力性を持った小学校時代を過ごしてきたと思います。

 実は、私が生まれる前に二人の子どもをつくっている。けれど本妻さんには子どもがなかった。今、別の必要があって調べているのですが、滋賀県に姉と兄とが一人ずついた。二人とも別の女性とのあいだの子です。だから、三鷹の家の子のできがよければ、という期待があったのかもしれません。後年こんなにグレるとは思わなかったでしょう(笑)。都立[府中十中(いまの都立西高)]は悪い学校ではないですから、お祝いをくれたのかもしれません。


 親父の籍に入ったわけです。母親は入っていません。なぜなら親父は離婚していないので入れられない。本妻さんに子どもがなかったので、子どもは親父がわけを話して入れたんでしょう。本妻さんに謝ったのだろうと思います。

 これは何かに書いたと思いますが、小学生のときに、母親から「姓を変えることに同意してくれるか」という話がありました。私が六年のときで、妹の邦子が五年のときです。私はピンと来なくて、「名前なんてどっちでもいいや」と言った。ただ名前が変わると、母と離れ離れになるかもしれない。それが不安で尋ねた。「それは変わらない」と母親が言うので同意しました。そのことは覚えています。


>>衆議院議長も務めた堤康次郎の跡取りである異母兄弟の堤清二と堤義明の関係や如何

FC2プロフ
プロフィール
最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
CEO (4)
夢 (8)
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR