「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
第四章 旅立った家族に手紙を書くということ
私への手紙――最後は一人
家族と呼べるのは、つれあいだけになりました。
「お子さんがいらっしゃらなくてお淋しいですね」という人がいますが、今あるものがなくなったら淋しいでしょうが、最初からなかったものへの感情はありません。
なぜ私は、家族を自分から拒絶しようとしたのか。家族というよけては通れぬものの中にある哀しみに気付いてしまったからに違いありません。身を寄せ合ってお互いを保護し、甘やかな感情に浸ることでなぐさめを見出すことのごまかしを、見て見ぬふりが出来なかったからです。
子供を産んで、母とそっくりに愛情に引きずりまわされる自分を見たくなかったのでしょう。
ごく自然な営みの中で親になり、それが人間としての成長だという人もいますが、私は成長などしたくはなかったのでしょう。
連綿として続いていく自然のつながり、春になると冬枯れの地の中から続々と芽吹いてくるもの、冬の間もまっている多くの命があるのです。その果てしなく続く連鎖が気味悪くも思え、私は私でいたかったに違いありません。
しかし私一人が抵抗出来るわけもなく、大きな流れに押し流されざるを得ないと考えると、一本のわらにもすがっていたい・・・・・・。
つれあいという家族がいなくなったら・・・・・・私はその時のために、一人でいることに慣れようと準備を始めています。私がこの世に生を得て、長い長い暗い道を一人歩いてきた時のように、最後は一人なのだと自分に言いきかせているのです。
>>もし、下重さんにお子さんがいたら、どのような親になっていたのだろうか
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
結婚はしなくとも他人と暮らすことは大事
家族を固定観念でとらえる必要なない。家とはこういうものという決まりもない。そこに生きる、自分達が快く生きられる方法をつくり上げていくしかない。
問題を抱え、ストレスのもとになる家族よりは、心から通い合える人がそばにいるかどうかが大切なのだ。
私の家族は今のところつれあい一人。そのつれあいと心が通じ合っているかといえば、それはわからない。少なくとも価値観は共通しているし、金や地位やこの世の泡のようなものにとらわれない淡々としたところは気に入っている。
男友達をながめても、なかなかそういう男はいない。私もさりげなくがモットーだが、つれあいに比べればまだしも現世的な欲は強いかもしれない。
つれあい、すなわちパートナーがいることは私にとってはありがたいことだ。
家族というもたれ合いは好きではないが、共に暮らす相手がいるのは、よかったと思っている。
血がつながらない、他人と一緒に暮らしてみることは、大事だと思うようになった。
特に私のように、両親に反発して自分勝手に生きてきた人間にとっては、他人と暮らすことは様々なことを教えてくれた。
今まで全く知らなかった人と一緒にいることで、一人の時のように好き勝手には出来ない。相手のその日の気分や外で何があったかなどを考え、思いやらざるを得ない。私にも相手のことを想像する余裕が出来たことはよかったと思っている。
家族ほとしんどいものはない
家族に期待していなかったために、向こうから期待されることは負担だった。彼等が期待するような学校への進学や成績をとることはなんとかなったが、父や母のためにがんばったつもりはない。
この先自分の好きな道へ進み、自分で生きていかねばならぬと思ったからだ。特に、経済的自立は必須だった。それがなければ何も始まらない。
自分の考えと生活をはっきり自覚することが出来るようになって、母とも対峙出来るようになった。彼女の育ち方や考え方を許容出来るようになった。
孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。
独りを楽しむことが出来なければ、家族がいても、孤独を楽しむことは出来ないだろう。
独りを知り、孤独感を味わうことではじめて相手の気持ちを推しはかることが出来る。
なぜなら家族は社会の縮図だからである。
>>社会の縮図である家族を固定観念ではなく、新しい価値観で捉えることが望まれる
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
夫のことを「主人」と呼ぶ、おかしな文化
パートナーは結婚した相手でなくともいい。暮らしを共にしている人、特別の間柄の人、異性とは限らない。同性同士でもいい。お互い一番信頼出来る人ならばいい。
籍などという枠にとらわれず、「パートナー」という言い方は自由でいい。
パートナーでいられれば十分だ。欧米では当たり前のことになっていて、戸籍上の妻の他にパートナーがいる例がいくらでもある。私が声楽を習っていたオペラ歌手の日本人女性は、六十歳になってドイツ人の七十歳になるパートナーを見つけた。彼は学者として世界的に有名な人でパーティや学会に出る時はパートナー同伴である。彼女は戸籍上の妻ではない。
フランスの歴代の大統領、ミッテランも先代のサルコジも今のオランドも、みなパートナーがいる。公の場でも堂々としていて気持ちがいい。
家族という閉ざされた関係ではなく、外に向かって開かれた家族でありたい。
「子供のために離婚しない」は正義か
既婚者の交際など、大谷崎(潤一郎)であるとはいえ、なかなか認められはしなかっただろう。
厳しい時代にあって自分達の愛をつらぬき通した意志とエネルギーに感服する。
多少のことには目をつぶって家族を守ることが美徳とされていた時代である。忍耐やがまんがまかり通っていた。家族のために犠牲になることは、奨励されることはあっても非難の対象にはならない。
家族のために犠牲になることは、美しいことと受け取られ、今でも「えらいわネ」「とてもまねが出来ないわ」などと賞賛の的になる。
敢然と愛をつらぬくためには、二人の情熱がなければ出来ない。強さが必要である。自分の家庭だけでなく、親きょうだいにも迷惑がかかる。諦めてしまうケースも少なくはなかった。女性の側はもっとダメージが大きかったろう。
子供が大きくなるまで、学校を卒業するまでは、離婚したくてもしない。そんな夫婦を子供達はどんな目で見ているだろう。
無理をしているのは決して子供のためにはならない。もっと正直に自分の意志で決めるべきなのだ。
日本では子供のために離婚しないという夫婦が多いのだそうだ。親が不仲で、がまんして生活していると、子供はすぐ感じとってしまうものだが。
女は子供を産むべきか
女性に子供を産んで欲しいと言うわりには、産みやすい環境の整備は後手後手にまわっている。保育所や保育園は不足しているのが常態化し、子供を預けられない。子供がいても仕事を一人前にすれば昇進の道は開けているといわれたところで、絵にかいたモチではないか。
女性を登用し、しかも女性に子供を産んで欲しいと思うなら、社会環境を整えることが急務だ。
スウェーデンでは女性の社会進出と共に一時出生率が下がったが、今は元に戻ったという。
女性が子供を安心して産み、社会復帰をはたし、その力を存分に発揮出来る社会の仕組みが万全だからである。
子供が欲しくても出来ない女性に「子供を産め」は過酷
国は女性の生き方について口をはざむ前に、社会環境を整えるだけで十分だ。女性は自分の生き方は自分で考える。今の女性は賢明だし、男よりも真剣に自分の生き方を考えている。
女の選択にまかせるべきだ。
なぜ日本人はDNAにこだわるのか。自分と血のつながった子をこの世に残したいという本能的欲求が先祖から累々と続いているからだろうか。それが血のつながり、イコール家族という考えに結びついていく。
血などつながらなくとも、思いでつながっていれば十分ではないか。思いがつながらないから血に頼るしかないのでは、と皮肉の一つも言いたくなる。
子供を産む、産まないは親の意思に任されているからこそ責任は重大だ。
>>籍という枠にとらわれず、「パートナー」という選択が認められる時代が望まれる
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
遺産を残してもいいことは一つもない
親の財産は親一代で使い切るのが一番いい。子に余分な期待を持たせてはいけない。子供が何人かいる場合には、遺産をめぐる醜い争いが繰り広げられないためにも。
せっかく仲の良かったきょうだいが、そのために憎み合う間柄になるという例は枚挙にいとまがない。
それは突然降ってわいた災難となってのしかかってくる。
お金が絡むと家族関係はむき出しになる
遺言がない場合には、よくもめ事が起きる。
友人の家では父親が亡くなって母親と子供で相続する際に、子供達から文句が出た。
「きょうだい仲よく」が父親のいつも言っていたことだが、その争いは裁判にまでもつれ込んだ。結局民法の定める通りになったが、きょうだいの間にしこりが残り、母親が亡くなってからは、きょうだいのつき合いすらなくなった。こんな例は枚挙にいとまがない。お金が絡むと醜い家族関係がむき出しになる。
夫婦でも理解し合えることはない
一組の男女がいて夫婦か恋人かを見分けるコツは、会話のあるなしだという。会話をしないではいられないのが恋人。お互い何も言わないのが夫婦だという。恋人の間は、少しでも相手のことを知りたいと思うから、話がはずむ。
夫婦になると、わかったつもりで、話題がなくなる。
そして片方がいなくなってはじめて何も知ろうとはしなかった、もっとわかっておくべきだったと慌てふためく。
そのときは後の祭りで、相手はいない。最後まですれ違いで、お互いに理解などしていない。
第二章 家族という病
家族の話はしょせん自慢か愚痴
家族の話のどこがつまらないかというと、自慢話か愚痴か不満であり、発展性がない。堂々巡りをして傷のなめ合いが始まるとか、一方的にきかさるれるか。いずれにしても、あまり愉快なものではない。
この病、どこが困るかといえば、一度かかるとだんだんエスカレートしていく点だ。
年をとると、話題が限られてゆく。興味の範囲がせばまっていくからだろう。病気や健康についての話、次が家族の話と相場が決まっている。
他人の家族との比較が諸悪の根源
家族の話のどこが問題かといえば、自分の家族にしか目が向かないことである。それ以外のことに興味がない、家族エゴ、自分達さえよければいい。
自分達だけよければ他人はどうでもいいという家族エゴ、自分の住んでいるところさえよければという地域エゴ、自分の国さえよければという国家のエゴ、全て争いのもとになる。
家族エゴはどうして起きるのか、家族が個人である前に役割を演じているからではなかろうか。
>>家族が個人である前に役割を演じているという指摘、言い得て妙である
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
第一章 家族は、むずかしい
大人にとってのいい子はろくな人間にならない
私は、子は親の価値観に反発することで成長すると信じている。
大人にとってのいい子など、ろくなものではないと思っている。最近、反抗期のない子が増えているというが、こんなに気持ち悪いことがあるだろうか。
親の権威や大人の価値観に支配されたまま、言いなりになっていることは、人としての成長のない証拠である。
あとから生まれたものが、先に生まれたものの言葉をまねて覚えるのだから、子が親にそっくりになるのも不思議はない。
言葉だけではない。そばにいて、考え方や発想を見ているうちに影響を受けないわけはない。その意味で親は子に絶大な責任を負っている。
親父の背中という言葉があるが、おふくろの背中も同じ。親は自分の生き方を見られているのだ。
親の背中を見て学んでいるのだ。
多くの子供達は、小さい時から保育園、幼稚園、学校で他人と触れることで、いやなことも嬉しいことも学んできた。
いじめなど問題もなくはないが、子供は同じ年頃の子供と触れ合うことによって、コミュニケーションの手段を覚えていく。違う価値観ともまれることによって育っていくものがあるはずだ。
教育とは親が与えるものではなく、子供が自分の世界で切磋琢磨してつかみとっていくものではないか。
家族の期待は最悪のプレッシャー
失敗や挫折こそが人を強くする。人はそこで悩んだり考えたりと、自分で出口を模索するからだ。
順風満帆で来た人ほど、社会に出た後、組織の中でうまくいかないと自殺をはかる。ウツになる。結果、不幸な人生を送った例をいくつも見ている。
両親がエリートの場合は始末が悪い。自分達と同じように成績がいいのが当たり前で、小さい時から塾だ、家庭教師だと遊ぶひまもない。ゆとりのないこましゃくれた小さな大人が増えている。テレビのインタビューでの受け答えを見ていると、ぞっとすることがある。
両親や先生に気に入られるミニ大人が増え、思考はその範囲にとどまって、羽ばたくことを知らない。
親や家族の期待は子供をスポイルしている。
過度な期待などしていはいけない。血がつながっているとはいえ、違った一個の人格なのだ。個性を伸ばすためには、期待で、がんじがらめにしてはいけない。
自分以外の個に期待してはならない。他の個への期待は落胆や愚痴と裏腹なのだ。
期待は自分にこそすべきものなのだ。自分にならいくら期待してもかまわない。うまくいかなくとも、自分のせいであり、自分に戻ってくる。だから次は別の方法で挑む。挫折も落胆も次へのエネルギーになる。テニスの錦織圭選手やフィギュアスケートの羽生結弦選手も失敗した時のくやしさは自分へ向けられている。自分への期待をふくらませ実現し、次へと向かっていく。
くやしさこそ明日へのエネルギーだ。失敗は大きな肥やしになる。
>>失敗や挫折しながら、くやしさを自分のエネルギーに変えてゆきたい